◇私の生い立ち(父の死から思春期)◇
◇転機となった父の死
父の交通事故や死について書く前に、もう少し父のことについて書いておきたいと思い、 父のことを思い返しているのですが、困ったことに父がどういう人であるとか、特徴的なエピソードを書こうとしても、これだという事柄が出てきません。父とは相性が少し合わないところがあったのと、毎晩のように父が外出して擦れ違いも多く、関係が希薄になりやすかったのだと思います。
父は外面がいいと言いますか、家の中ではそれ程ではないのですが、外では人のお世話に奔走する等、人付き合いに熱心で、付き合いの広い人だったようです。亡くなる何年か前から最高道徳に入り、自宅に近所の人を集めて講演会を開く等、熱心に活動していました。最高道徳に入ったいきさつは不明ですが、祖母を中心とした家の中のゴタゴタなど、父なりに悩んでいたのかも知れません。
私が小学5年生の5月に、父が交通事故を起こしました。事故は、深夜にどこかの会合でお酒を呑んで車で帰っている途中で起きました。交差点での車同士の衝突でした。事故の詳細は省略しますが、その交差点の信号機が深夜のため点滅状態になっていて、父の方が赤の点滅、相手側が黄色の点滅ということで、赤の点滅だった父の方が悪いということでした。双方とも車は大破したのですが、相手側の方は軽傷で済んだようです。しかし、父の方は、事故により頸椎を損傷し、重度のむち打ち症になりました。
父は、5月に事故に遭ってから10月初旬頃まで入院していました。入院期間中、母は殆ど自宅に帰ることなく、病院で寝泊まりしながら父に付き添っていました。入院中の印象は、深刻なむち打ち症であるにもかかわらず、父と母が明るかったことです。今思えば、おそらく父も母も、祖母を中心とした家のゴタゴタがほとほと嫌になっていたのだと思います。それで、父と母にとって、入院生活が家のゴタゴタからの逃避地になっていたのだと思います。父の入院中、私はというと、母の不在で少し寂しさはありましたが、相変わらず自由気ままに過ごしていました。弟もそのようでした。母が殆ど帰宅しないので、私と弟が時々病院に泊まりに行っていました。
家の中の雰囲気が大きく変わったのは、あるいは変わったように感じたのは、父の退院後でした。父のむち打ち症はかなり深刻なもので、退院はしたものの首は器具で固定されたままで、手足に強い痺れが残り、ぎこちなく少しずつ歩くのがやっとの状態でした。しかも、状態は段々と悪くなっているようでした。母は父を支えようとして気丈に振舞っていましたが、父は段々と暗くなっていきました。
父が暗くなる原因は、自身のむち打ち症だけではなかったのだろうと思います。事故を起こす前は、夜は外に出歩くなど、嫌になれば好きに家を抜け出せていましたが、事故後は嫌でも家に居続けるしかなくなり、父は祖母の悪態に毎日付き合わされることになりましたから。今となっては詳細は不明ですが、祖母の口撃の矛先は、母や祖父から父に向けられることが多くなっていたのではないかと思います。祖母は、働けなくなった父と一緒に母とその子供たちを追い出し、叔父(父の弟)を家に入れたかったのではないかと思います。
父の様子は、10月初旬に病院を退院して1カ月が経過する頃には、声を掛けても反応が薄く、ふさぎ込むことが増えていたように思います。下を向き、痺れた手を歯痒そうに握ったり開いたりしている姿が印象に残っています。私も子供心にそんな父の様子が気になり、朝学校にいくときは「父ちゃん、行ってきます!」と声を掛け、帰ってきたら「父ちゃん、ただいま!」と声を掛けるようにしていました。
そんな中、その年の12月の初めに、父は家族の留守中に首を括って自死してしまいました。その日、私が学校から帰ると、家の中が少しバタバタしていて、どうしたのだろうと思っていると、母が「父ちゃんがおらんのよ」と言いました。私は直ぐに、父はどこかに死にに行ったんだ、そしてもう死んでいるだろうと直感しました。なぜか、直ぐにわかったのでした。そしてそれに伴い、私を取り巻く世界が大きく変わってしまうだろうことがなんとなくわかったのでした。
私の帰宅後間もなく、父の姿が見えないことが近所の方々にも伝わって、一緒に父を探してくれることになり、一気に緊迫感が高まっていきました。日が暮れて辺りがすっかり暗くなった頃、納屋の方から、母の「あー!」という叫び声とともに、「おったぞ!」、「首括っとるわ」と言う近所の人の声がしました。父は、納屋の二階で首を吊っており、それを母が見つけたのでした。
母の叫び声を聞いたとき、私はやっぱりそうだったんだと思うとともに、これからどうなるのかと思い、頭がクラクラしたのを憶えています。暫くして、父の遺体を母屋に運び込むことになり、私はその様子を見たくなくて、居間のコタツに潜り込みました。すると、そこには既に弟が潜り込んでいて、そのまま眠っていました。私も潜り込んで目を閉じているうちに眠ってしまいました。
夜更けに目が覚めると、奥の間からすすり泣く母の鳴き声が聞こえてきて、これは夢じゃなく現実なんだと思いました。奥の間には、首にロープの痕が付いた父の遺体が置かれていました。
亡くなった日の翌々日に葬儀が行われました。父が亡くなってから葬儀の前後にかけて、私の中で意識のチャンネルが子供から大人へ向けて急速に変わっていったように思います。まだ無邪気な子供でいたかったのに、子供をやるのはもう終わりなんだなとか、これからはしっかりとしなきゃなあなどと考えるようになっていきました。そしてそれ以後、わがままや無理を言って母を困らせることは大きく減りました。母の手伝いもするようになりましたし、母の話し相手もするようになりました。
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文字数は約9000字で、文庫本にして約15ページです。
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今回の記事では、小学5年生のときの父の死から大学入学前までの出来事について書いています。
次回は、大学入学後から27歳で就職するまでの出来事について書く予定です。
そして、最終的な悟りの前後までのことを何回かに分けて書いていく予定です。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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◇転機となった父の死
父の交通事故や死について書く前に、もう少し父のことについて書いておきたいと思い、 父のことを思い返しているのですが、困ったことに父がどういう人であるとか、特徴的なエピソードを書こうとしても、これだという事柄が出てきません。父とは相性が少し合わないところがあったのと、毎晩のように父が外出して擦れ違いも多く、関係が希薄になりやすかったのだと思います。
父は外面がいいと言いますか、家の中ではそれ程ではないのですが、外では人のお世話に奔走する等、人付き合いに熱心で、付き合いの広い人だったようです。亡くなる何年か前から最高道徳に入り、自宅に近所の人を集めて講演会を開く等、熱心に活動していました。最高道徳に入ったいきさつは不明ですが、祖母を中心とした家の中のゴタゴタなど、父なりに悩んでいたのかも知れません。
私が小学5年生の5月に、父が交通事故を起こしました。事故は、深夜にどこかの会合でお酒を呑んで車で帰っている途中で起きました。交差点での車同士の衝突でした。事故の詳細は省略しますが、その交差点の信号機が深夜のため点滅状態になっていて、父の方が赤の点滅、相手側が黄色の点滅ということで、赤の点滅だった父の方が悪いということでした。双方とも車は大破したのですが、相手側の方は軽傷で済んだようです。しかし、父の方は、事故により頸椎を損傷し、重度のむち打ち症になりました。
父は、5月に事故に遭ってから10月初旬頃まで入院していました。入院期間中、母は殆ど自宅に帰ることなく、病院で寝泊まりしながら父に付き添っていました。入院中の印象は、深刻なむち打ち症であるにもかかわらず、父と母が明るかったことです。今思えば、おそらく父も母も、祖母を中心とした家のゴタゴタがほとほと嫌になっていたのだと思います。それで、父と母にとって、入院生活が家のゴタゴタからの逃避地になっていたのだと思います。父の入院中、私はというと、母の不在で少し寂しさはありましたが、相変わらず自由気ままに過ごしていました。弟もそのようでした。母が殆ど帰宅しないので、私と弟が時々病院に泊まりに行っていました。
家の中の雰囲気が大きく変わったのは、あるいは変わったように感じたのは、父の退院後でした。父のむち打ち症はかなり深刻なもので、退院はしたものの首は器具で固定されたままで、手足に強い痺れが残り、ぎこちなく少しずつ歩くのがやっとの状態でした。しかも、状態は段々と悪くなっているようでした。母は父を支えようとして気丈に振舞っていましたが、父は段々と暗くなっていきました。
父が暗くなる原因は、自身のむち打ち症だけではなかったのだろうと思います。事故を起こす前は、夜は外に出歩くなど、嫌になれば好きに家を抜け出せていましたが、事故後は嫌でも家に居続けるしかなくなり、父は祖母の悪態に毎日付き合わされることになりましたから。今となっては詳細は不明ですが、祖母の口撃の矛先は、母や祖父から父に向けられることが多くなっていたのではないかと思います。祖母は、働けなくなった父と一緒に母とその子供たちを追い出し、叔父(父の弟)を家に入れたかったのではないかと思います。
父の様子は、10月初旬に病院を退院して1カ月が経過する頃には、声を掛けても反応が薄く、ふさぎ込むことが増えていたように思います。下を向き、痺れた手を歯痒そうに握ったり開いたりしている姿が印象に残っています。私も子供心にそんな父の様子が気になり、朝学校にいくときは「父ちゃん、行ってきます!」と声を掛け、帰ってきたら「父ちゃん、ただいま!」と声を掛けるようにしていました。
そんな中、その年の12月の初めに、父は家族の留守中に首を括って自死してしまいました。その日、私が学校から帰ると、家の中が少しバタバタしていて、どうしたのだろうと思っていると、母が「父ちゃんがおらんのよ」と言いました。私は直ぐに、父はどこかに死にに行ったんだ、そしてもう死んでいるだろうと直感しました。なぜか、直ぐにわかったのでした。そしてそれに伴い、私を取り巻く世界が大きく変わってしまうだろうことがなんとなくわかったのでした。
私の帰宅後間もなく、父の姿が見えないことが近所の方々にも伝わって、一緒に父を探してくれることになり、一気に緊迫感が高まっていきました。日が暮れて辺りがすっかり暗くなった頃、納屋の方から、母の「あー!」という叫び声とともに、「おったぞ!」、「首括っとるわ」と言う近所の人の声がしました。父は、納屋の二階で首を吊っており、それを母が見つけたのでした。
母の叫び声を聞いたとき、私はやっぱりそうだったんだと思うとともに、これからどうなるのかと思い、頭がクラクラしたのを憶えています。暫くして、父の遺体を母屋に運び込むことになり、私はその様子を見たくなくて、居間のコタツに潜り込みました。すると、そこには既に弟が潜り込んでいて、そのまま眠っていました。私も潜り込んで目を閉じているうちに眠ってしまいました。
夜更けに目が覚めると、奥の間からすすり泣く母の鳴き声が聞こえてきて、これは夢じゃなく現実なんだと思いました。奥の間には、首にロープの痕が付いた父の遺体が置かれていました。
亡くなった日の翌々日に葬儀が行われました。父が亡くなってから葬儀の前後にかけて、私の中で意識のチャンネルが子供から大人へ向けて急速に変わっていったように思います。まだ無邪気な子供でいたかったのに、子供をやるのはもう終わりなんだなとか、これからはしっかりとしなきゃなあなどと考えるようになっていきました。そしてそれ以後、わがままや無理を言って母を困らせることは大きく減りました。母の手伝いもするようになりましたし、母の話し相手もするようになりました。
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今回の記事では、小学5年生のときの父の死から大学入学前までの出来事について書いています。
次回は、大学入学後から27歳で就職するまでの出来事について書く予定です。
そして、最終的な悟りの前後までのことを何回かに分けて書いていく予定です。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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