私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

一切皆苦と存在苦

2024年10月11日 10時00分48秒 | 悟り
◇一切皆苦と存在苦◇


一切皆苦とは、一切が苦ということですが、わかりやすく言えばその中身の多くは存在苦です。
存在苦とは、存在していることそのものが苦、あるいは存在そのものが苦であるということです。

とは言っても、多くの方々はこの存在苦に意識が向くことはありません。
まだまだ経験したいことが沢山あり、経験すること、存在することへの執着が強いからです。
存在苦を感じるようになるのは、おそらく前世で一度あるいは何度か大悟を経験してからだろうと考えています。

なぜなら、小悟者の多くは何らかの絶対的あるいは恒久的なものに対する囚われがあり、そのことが存在への執着を物語っているからです。
また、大悟者についても、一度目の大悟では一切のことがらに対してフラットになり、楽になるだけなのだろうと思うのです。
存在苦を感じ始めるのは、おそらく、大悟後の営みにより虚無が身に染みてきてからのことだと思うのです。

例えば、幼少の頃から深い虚無を感じているような方は、ここで言う存在苦がわかるかも知れません。


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仏教における縁起をめぐる誤りについて

2024年10月05日 17時58分08秒 | 悟り

◇仏教における縁起をめぐる誤りについて◇


先日、釈迦が縁起をどう捉えていたかについて調べていたのですが、その過程で南伝系も大乗系も含めて仏教の大半というか、おそらくほぼ全ての系統において、縁起の捉え方を間違っていることがわかりました。
余りの状況に愕然とし、どうでもよくなり、仏教に言及する気も無くなったのですが、気を取り直して最後に、縁起をめぐる仏教が抱えている問題点について書いておこうと思います。

まずは、仏教の縁起に関する誤解について。
先日の記事「龍樹は縁起を誤解している」の中で書いた通り、私という存在は意識であり、その意識は、微細に見ると識が映画フィルムのコマのようにパッ、パッ、パッと連鎖的に連なって生滅することで展開しています。
識は、各瞬間における認識であり、五感に思考や感情を含めた六根を通じて起こってくる現象と、その現象を認識する認識作用が一体不可分に結合したものです。

縁起という言葉、あるいは概念は、おそらく釈迦よりも前からあったのだろうと私は考えています。
そして、先人たちは、連鎖的に生滅する識の連鎖を縁起と言っていたのではないかと私は考えています。
つまり、縁起の本来の意味は、因果関係のことではなく、識の連鎖のことだったのではないかと考えています。
この点について、釈迦が縁起をどう捉えていたかは、今となってはわからないようです。

しかし、釈迦の後に編纂された縁起に関する仏典の多くは、縁起を因果関係として捉えてしまっています。
ここに、大きな誤解があるのです。
しかも、それらの仏典はその誤解のある縁起という考え方を、無常や無我等と同等か、それ以上の扱いをしてしまっており、間違いを深めてしまっています。

なぜなら、因果関係という考え方は無我(一切に実体が無い)という悟りと整合せず、反しているからなのです。
これをどうしたらわかりやすく説明できるのかと、ここ数日考えていたのですが、上手い説明が思い付きません。
これを理解するためには、無我の悟りに伴う不可知(知の限界)を知るしかないのですが、少し試してみます。
因果関係とは、ものごとには原因と結果があるという考え方です。
しかし、ものごとの原因を追究することは、根本的に不可能であり、不可知なのです。
例えば、この世界(宇宙)はなぜ生じたのかや、私という存在はなぜ生じたのかは不可知なのです。
そのような大きなことだけではなく、もっと身近な様々なことについて、実のところはすべて不可知なのです。
例えば、1+1がなぜ2なのかも、海の色をなぜ青と言うのかも、根本的なところでは不可知なのです。

つまり、因果関係はそもそも根本的に不可知であり、悟りの対象にもなり得ないのです。

そして、因果関係という意味での縁起が真理となることもあり得ないのです。

 

<追記(20241110)>

上の文章の一番最後の一文を追加しました。

 



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龍樹は縁起を誤解している

2024年09月28日 08時26分16秒 | 悟り
◇龍樹は縁起を誤解している◇


この記事は、昨日の記事の補足です。
龍樹が縁起を間違って解釈しているので、そこを指摘しておこうと思い、書くことにしました。
この縁起の解釈を間違っているのは、龍樹だけでなく、ひょっとすると釈迦もそうなのかもしれないと考えています(しかし、私にはそこまで調べる程、興味がありません)。

私とは意識であり、世界そのものなのです。
その意識の展開を微細に見ると、映画フィルムのコマのように断続的に分かれており、その最小単位のコマがパッ、パッ、パッと連鎖的に連なり展開することで、意識の展開が起こっていることがわかります。
その意識の展開の最小単位のコマのことを、私は識と呼んでいます。
識と識の間の間隔は、私の体感で言いますと、短くて1000分の1秒から長くて10分の1秒程度です。
なお、識の展開は、意識の集中度を極限まで高めると、実際に体験することができます。

次に、識と縁起の関係についてです。
識は、一つ前の識が契機となって次の識が起こるという具合に連鎖的に連なって起こることが多いです。
つまり、全部についてではないすが、一部の識の連なりについては、前後の識の間に何らかの因果関係を持ち込むことは可能です。
言い換えれば、識の連なりについて、全部ではないが、一部については前後の識の間から何らかの因果関係を推測することは可能なのです。
例えば、車の運転をしていて、焼き肉屋の看板が目に入ったのを契機に、食べたいという食欲がわき、空腹感が生じ(あるいは、空腹感に気づき)、食べようと考え、車を操作して焼き肉屋に入る等の展開がそうです。

このように、識の前後において因果関係のようなものを推測できることがあるため、先人たちは、識の展開について縁起と呼ぶようになったのだと、私は考えています。
しかし、この縁起という呼び方は非常に危うく、誤解を呼びやすいのです。
起こっているのは、幻のような識の展開だけなのです。
識はただ起こって、消えていっているだけなのです。
識は、因果関係に基づいて起こっているのではないのす。
因果関係は、人が後から持ち込んだものなのです。

その証拠に、識と識の間には取り立てて因果関係という程の明確な関係性は無いのです。
確かに、上述したように識の一連の連なりの中に前後の識の間にそれなりの因果関係を推測できるケースがありますが、その場合でも、前後の識の間の関係は一義的に定まったものではなく、かなり不確定な部分が含まれていて、一つ前の識に対して次の識がどう転ぶかはサイコロを振るようなランダムな部分があるのです。
さらに、一連の流れとして識の展開が起こっているときは、不確定ながらも前後の識の間にそれなりの因果関係を当てはめることが可能ですが、識の展開はそのような一続きの流れのようなものばかりではないのです。
途中で、突然流れが変わってしまい、そのまま全く違う流れになってしまったり、識の内容がランダムにあちこち、飛び飛びになりながら、展開していくということも多々あります。
むしろ、後者のケースの方が多いかもしれません。
そのように、識の展開の流れが突然変わってしまうときなどは、識の前後において因果関係など全く無いのです。
例えば、何かをしているときに、急に別のことを思い付いたときなどがそうです。

このように、連鎖する識と識の間に因果関係があるというのは、百歩譲っても言い過ぎであり、誤りなのです。
識の連鎖は、因果関係に基づいて起こっているのではなく、ただ起こっているだけなのです。
一部の識の連鎖において、前後の識の間に因果関係があるかのように見えるだけなのです。

龍樹は、縁起に基づいて、一切無自生、続いて一切空を論証したとされています。
しかし、縁起の認定のところで大間違いをしているため、この論証は成り立っていないのです。
龍樹は、連鎖する識に着目するのではなく、識と識の間の関係性の方に着目し、そこに縁起があると誤認してしまったのです。
さらには、識はただ起こってきているだけなのに、識は縁起により起こっていると誤認してしまったのです。
着目すべきは、連鎖的に起こる一つ一つの識なのです。
この誤認は、龍樹だけでなく、釈迦もそうだったのかもしれないと考えています。


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龍樹は空を悟っていない

2024年09月27日 21時41分31秒 | 悟り
◇龍樹は空を悟っていない◇


龍樹の悟りはどういうものなのかと、ネットで中論を拾い読みをした結果、彼が悟っていない、少なくとも空を悟っていないことがわかりましたので、ここに書いてしまうことにしました。
もちろん、こんなことをぶっきらぼうに書くと、いろいろご意見やご批判はあるだろうと思います。
どのようなご批判もお受けしますので、遠慮なくコメント欄等にどうぞです。


彼は、釈迦が説いた縁起に基づいて、一切無自性であることを論証し、さらに一切空であることを論証しています。
しかし、これでは論証になってないのです。
なぜなら、縁起、無自性、空、無我の概念は、ほぼ同義といいますか、同列のものですから、論点を空から縁起にすり替えただけなのです。
本当に空について論証するのなら、論理展開の出発点になっている縁起についてまず論証しておく必要があるのです。
彼がどこまでそのことを自覚していたかは不明ですが、縁起は論証の必要のない正しいものとして論理展開の前提に置いてしまっているのです。

そもそものところ、縁起、無自性、空、無我は、証明しようとしても不可能であり、証明や論証の対象となるものではなく、悟るものなのです。
それがわかっていない彼は、空も、無自性も、縁起も、無我も悟ってないのです。

彼はおそらく、覚者というより、哲学者だったのだろうと思います。



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アドヴァイタの悟りについて

2024年09月23日 18時12分09秒 | 悟り
◇アドヴァイタの悟りについて◇


今回は、アドヴァイタ(非二元)の悟りについて書いてみようと思います。
いつものように、肯定するのではなく、ここが違うよという批判記事なのですが、興味のある方はお読みください。

アドヴァイタの悟りは、二つの悟り階層があります。
一つ目の階層は、真我を悟る階層です。
真我とは、ただ観ている意識である観照意識で、気づきの意識と言ってもいいです。
観照意識は、良い悪い等の二元的な囚われが落ち、思考や感情が減ってくると、雲が晴れるようにして意識の表層部に現れてきます。
この観照意識に気づく、あるいはそれを捉えることで、真我の悟りとなります。

二つ目の階層は、梵我一如を悟る階層です。
我とは、私という個を構成する原理などという捉え方もあるようですが、簡単に言うと、私という自我であり、主体のことです。
梵とは、世界を構成する原理などという捉え方もあるようですが、これも簡単に言うと、世界あるいは対象である客体のとこです。
梵我一如を悟るとは、私である主体と世界である客体とが同一、つまり一体不可分であることを悟ることです。
この梵我一如の悟りは、主客の統合に関する悟りであり、一つ目の真我の悟りにより捉えた観照の視点、つまり主体的視点が脱落し、対象である客体と統合されることでそれに至ります。

この主客の問題について補足しますと。
常識的な日常の感覚では、私が目の前のリンゴを観るとき、私という主体とリンゴという客体は別個に存在しているように感じていますが、これは私たちの錯覚なのです。
リングに限らず、五感を通じて何か対象を認識するという現象について、それがどういうことなのか合理的に徹底的に追及していくと、主体と客体が別個に存在しているという錯覚が剥がれ落ち、主体と客体が一体不可分であると認識せざるを得ないところに必ず突き当たるのです。

次に、アドヴァイタの悟りについての批判です。
アドヴァイタの悟りには、大きな誤りがあるのです。
それは何かと言うと、絶対的なものに対する囚われ(執着)が手放せてないのです。

一つ目の悟りである真我の悟りでは、観照意識である真我について恒久不滅のものとして捉えてしまうのです。
恒久不滅のものなど何処にも無いのに、彼らはそれが受け入れられないのです。
二つ目の悟りである梵我一如の悟りでは、主体と客体に関する錯覚の剥落は一応あるものの、以前として、一体不可分であるとして捉えられた私(主体)である真我についても、対象(客体)である世界(あるいは、それを構成する原理)についても、それらが恒久不滅、絶対的なものとして捉えてしまうのです。

ここが彼らの悟りの誤り、即ち限界なのです。


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事実を悟ると言うのなら

2024年09月22日 14時50分21秒 | 悟り
◇事実を悟ると言うのなら◇


今日も、禅者の言うたわごとを叩きます。

彼らは、事実を悟るという言い方をします。
その悟りは誤っているのですが、どういうものかと解説しますと。
何も意図しなくとも(あるいは、元から意志や意図というものは無かったのだけど)、目は見えるし、耳は聞こえるし、手は動くし、ことは起こっていく、というところに気づくことなのです。
百歩譲って、確かに悟りの行程においてそのような感覚というか、錯覚が起こるポイントがいくつかあるんです。
その一つは、主客の統合体験が起こる「見るものは見られるもの」を体験するポイントの付近です。

しかし、彼らの言う事実を悟るというポイントは、悟りの行程の本筋から外れているのです。
どのように外れているのかと言うと、悟りの重点が物質的な現象に偏ってしまっていて、私というより重要な要素が抜けて落ちているのです。
つまり、私を捉えられておらず、私がまるっきりお留守になっているのです。
さらには、すべてに実体は無いなどと言いながら、その実は物質的な現象への囚われもまだ残っているのです。

事実を悟ると言うのなら、物質的な現象にのみ着目するのではなく、自らの思考や発意、そして身体の動きを自由に行っている自己の働きも紛れもない事実であるということに、もっと目を向けるべきなのです。
手は発意無しに自然に動いているところもありますが、意志により動かしている部分もあるのです。
その事実にも目を向けるべきなのです。

無我、即ち一切に実体が無いという悟りは、非常にシンプルであり、ハッキリしたものです。
ごちゃごちゃ説明する必要なんてないのです。
説明がごちゃごちゃ、曖昧になってしまうのは、まだ腑に落ちてないのです。

まずは、私という存在を捉えることが先なのです。
その次に、私という存在に実体が無いことが腑に落ちるのに伴って、一切に実体が無いことが腑に落ちるのです。


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知の限界点と無我、非有非無、無根

2024年09月19日 15時03分15秒 | 悟り
◇知の限界点と無我、非有非無、無根◇


悟りの道中の後半で、おそらく必ず通過するポイントがあります。
それが無我を悟るポイントなんです。
但し、ここで言う無我とは、私が無いという意味ではなく、一切に実体が無いという意味です。

実は、この無我という概念には、同義な別の意味があります。
それが、非有非無、無根です。
非有非無とは、一切は有るとも無いとも言えないという意味です。
無根とは、一切に根拠は無いという意味です。

これらの無我、非有非無、無根は、わかるということ、知るということの限界を表すものとも言えます。
認識の正しさの原点ということもできます。
つまり、無我、非有非無、無根に沿った考えは合っている、正しい考えであり、そうでない考えは間違っている考えでなのです。


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悟りの迷い道と無我

2024年09月19日 10時59分22秒 | 悟り
◇悟りの迷い道と無我◇


悟りの行程には、いくつかの袋小路のような迷い道があります。
その代表的なものが、私は無いという罠のような誤解によるものです。

明け渡しや禅の頓悟など、悟りの行程をそれなりの幅で一気に進むと、急激な意識変化や自我感覚の急激な希薄化が生じ、私という自我があたかも無くなったかのような錯覚が起こります。
そうすると、自我が無くなった、あるいは元から自我は無い等の誤った認識に陥りやすくなります。
そして、自身の自我が落ちた、悟ったと誤解してしまいます。

私という自我は、実体が無いということはハッキリしていますが、それが有るのか無いのかは断定不可能なのです。
自我に限らず、目の前の物質や頭の中に浮かんでくる考えも含めて、一切のことがらについて、有る無しは断定不可能なのです。
ですから、私が有ると言うのも間違いであり、私が無いというのも間違いなのです。
私が無いという間違った理解により悟るなんてことは、あり得ないのです。
私が無いと言っている方々は、悟っておらず、袋小路に迷い込んでいるのです。

しかし、私(慧空)がここで、そこは迷い道ですよといくら言っても彼らの耳には届きません。
嵌まり込み、間違い無いと掴んでしまっていますから。

最近、私は、それもまた長い行程の中で必要な経験なのかも知れないと考えるようになっています。
私自身もきっと、何度もそこに嵌まり込んだ経験を経ているのだろうと考えています。
おそらく、私は無いという迷い道は誰しもが嵌りやすい罠のようなポイントなんだと考えています。
そこを超えていくには、何度か嵌って身をもって学ぶしかないのだろうと。


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仏教に欠けているもの(2)

2024年09月10日 08時10分14秒 | 悟り
◇仏教に欠けているもの(2)◇


先日の記事の続きです。

最初に核心部分を書きますと、仏教に欠けているもう一つのものとは本心です。

私たちにとって最も大切なことは、悟ることではなく、生きることなのです。
まずは生きることへの取り組みがあり、悟りはその取り組みに含まれる一要素に過ぎません。

そして、生きる上で最も大切なのが本心なのです。
本心とは、自分自身にとって最も大切なもの、あるいは大切にしたいものです。
誰しも皆、この本心を持って生まれてきます。
しかし、仏教はこの本心に関する着眼が欠落しているのです。

本心には大きく分けて二つの要素が含まれています。
一つ目の要素は、こう生きたい等、生き方に関するものです。
この要素は、生まれてから死ぬまで余り変化ません。
二つ目の要素は、人生でやりたいことに関するものです。
この要素は、人生の経過に伴って変化していきます。
これら二つの要素のうち、より重要なのは一つ目の要素です。

しかし、多くの方々は本心から目を背けたまま生き、死んでいきます。
それでは、納得できず、後悔が残るのです。

どうか、賢明な方々は、自身の本心に向き合い、出来る限り取り組んで頂きたいと思います。
上手くいったかどうか等の結果は問題になりません。
向き合い、取り組むという過程が重要なのです。

人生における自らの言動や取り組みについて、本心に照らして納得できているか、後悔は無いかを常に確認しながら、慎重かつ丁寧に生きていただきたいと思います。



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仏教に欠けているもの(1)

2024年09月06日 08時47分48秒 | 悟り
◇仏教に欠けているもの(1)◇


これまでは、このような直接的な言及は控えてきたのですが、考えが変わりまして、ダメなものはダメと言っていくことにしました。

仏教に欠けているものとは、解脱です。
(ご意見やご批判等はお受けしますので、コメント欄等ご遠慮なく。)

今となっては釈迦が解脱していたのかどうかもわからないのですが、現代に伝わる仏教の系統に、解脱が見受けられないため、始祖である釈迦は本当に解脱していたのかと疑いたくなります。
ハッキリ書いてしまうと、大乗の系統は龍樹も含めて、解脱者は一人もいないのではないかと見ています。
南伝の系統も、どうなんでしょう、解脱者がいるのかどうか、大いに疑問だと見ています。
アーチャン・チャーはひょっとすると解脱しているのかもと思ったりもしていますが、やっぱり違うのかなぁと見ています。

その理由は、仏教全体として苦に対する着眼が浅く、弱いのです。
大乗系は全くという程欠落しています。
南伝系も一部で薄っすらと残っているのかもしれませんが、大半の系統で欠落してしまっているのではないかと見てます。

この仏教の不甲斐なさの一番の原因は何か。
それは、私を捉えることの大切さをわかっていないのです。

実は、悟りの行程を歩む際、私を捉えることが最も大切な要になっているのです。
仏教はそれをわかっていないのです。
釈迦が何を語ったのか、実は殆ど知らないのですが、「私を捉えろ」等の話は聞いたことがありません。
(この点、もし釈迦が語っていたという文献があれば、教えていただきたいと思います。)

私とは、肉体も含めた私という存在そのもののことです。
もちろん、私には実体は無く、あるとも無いとも言えない、いくら追及しても本質的によくわからないものです。
しかし、この私こそが悟り行程の節目節目において要になっているのです。

例えば、小悟では私とは真我(観照意識、気づきの意識)であると悟るのですが、それなりに私を捉えていないと、この悟りは起こりません。
また、大悟では私とは意識であり、世界そのものであると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。
さらに、解脱では私、即ち世界とは苦であると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。

釈迦も含めて仏教は、私を捉えるという観点が余りに弱かった、あるいは欠落していたのです。
そのことは、釈迦が語った言葉にハッキリと表れています。
釈迦は無我という言葉を使いました。
一切に実体は無いという意味で無我という言葉を使ったようですが、文字を素直に読めば、自我が無いかのように読めてしまい、そのような誤解も生じてしまいます。
釈迦はどうしてそのような中途半端な言葉を使ったのか。
彼は私を捉えることの大切さを理解していなかったと考えざるを得ないのです。


<追記>
仏教に欠けている大変重要な要素がもう一つありましたので、後日続きを書くことにしました。



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「禅系覚者の認識が止む」について

2024年09月04日 10時54分06秒 | 悟り
◇「禅系覚者の認識が止む」について◇


今日もまた、禅の悟りに対する批判記事を書きます。

彼らは、悟りは状態ではないなどと知ったようなことを言います。
悟りは状態ではないというは、確かにそうで合っています。
しかし、どこで習ったか知りませんが、彼らがそれを言うのは余りに滑稽なのです。

彼らは、自らの悟りを表して認識が止むなどということをよく言います。
認識が止むとは、それはまさに状態を表しているのですが、彼らは自らの言説の矛盾に気づきません。
少し違った概念ですが、「無認識」というのも状態を表すものです。
さらに違った概念ですが、「自我が落ちる」も状態を表すものです。

悟りはそのような手法では表現できないのです。
悟りは悟りで表現するしかないのです。
つまりは、何を悟ったかということです。

では、「認識が無い」や「私が無い」は状態ではないのではないかという意見が飛んで来そうです。
「認識が無い」や「私が無い」は、悟りの行程の中でよく生じる感覚です。
しかし、残念ながら、これらの悟りというか理解は、誤っているのです。
なぜなら、そもそものところ、一切のことがらについて有る無しの問題は断定不可能であり、「ある」とも「ない」とも言えないのです。
ですから、認識や私について、有るというのも間違いであり、無いというのも間違いなのです。
間違った理解によって悟るなどということは、あり得ないのです。

話を元に戻します。
彼らは「認識が止む」と言っておる訳ですが、そう言うからには、何らかの形で自らの認識が止んだということを考えたり、それに関連した認識(本人の誤認ですが)しているに違いないのです。
つまり、彼らの認識は依然として続いているのです。
彼らはそれに気づけないのです。

さらにです。
彼らに言いたいのは、「認識」というものをどのように捉えているのか、ということです。
「認識」というものの捉え方が余りに浅いのです。
鳥の声が聞こえるとか、目の前の景色が見えるとか、何かの思考が浮かんだとか何でもいいですが、そのように何かの現象が起こって来たとき、それらの現象を認識するという働きがどのように起こっているのかについて、彼らは追及が足りないのです。

答えを書いてしまうと、
現象とそれを認識する働きは、一体不可分に同時に生じているのです。
現象が起こっているのに、認識だけが止むなんてことはあり得ないのです。

彼らは、幾人もの偉大な先人の悟りが自分の悟りと合っているなどとたわけたことを言います。
挙句は、釈迦もそう言っているなどと言い出す始末です。
そんなこと何の頼りになりません。

釈迦も含めて、頼りになるものなど何処にも無いのです。
何かに頼ったり、安易に納得しようとぜず、徹底的に追及していただきたいと思います。
何かに頼っているうちはどうにもなりません。



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悟りの本質について

2024年08月31日 11時01分29秒 | 悟り
◇悟りの本質について◇


最近になって、悟りについて、正確には悟りの捉え方についてまた理解が進みまして、今回はそれを記事にまとめてみたいと思います。

悟りと言うと、体験として大きな意識の変化が生じるので、どうしてもその体験や、意識がどう変化したか等に目を取られてしまいがちになります。
そして、多くの悟りを体験をした者は、自分の体験や意識の変化に基づいて、自らの悟りを語ります。
かくいう私自身もそうでした。
このブログに書いてきた悟りの体験談や悟りに関する文章は、悟りによって意識がどう変化したとか、どうなったか等が中心になっています。
これを振り返り、悟りを語るには私自身まだまだだったなと思う次第です。

端的に言えば、悟りの本質は何を悟ったかなのです。
どんな体験をしたとか、悟ってどうなったとかは、どうでもいいんです。
何を悟ったかが重要なのです。

核心部分について書く前に、少しお膳立てをしておきたいと思います。
そのお膳立てとは、悟りは階層的に捉えられるのか否かです。
多くの場合、悟りの行程は段階的に進んで行くので、一見すると悟りに階層構造があるように思われます。
しかし、改めてその階層構造について考えたとき、最後の解脱は非常に明確でハッキリしているのに対して、途中の節目については、どこをどう分けても、ぼやけてしまい、明確性に欠けるのです。
そのため、私は最近、悟りの行程は一続きのものとして捉えるべきであり、途中で分けるのは好ましくないのではないかと考えたりもしています。
そのような事情がありまして、今回の記事ではこれまで通り、悟りの行程を、小悟、大悟、解脱の三つに分けていますが、小悟、大悟については、明確なものではなく、それなりにぼんやりとしているものだと考えて頂きたいと思います。

では、悟りの本質について階層ごとに説明します。

小悟では、真我を悟るのです。
真我とは、ただ観ている意識である観照意識です(気づきの意識と言っていいです)。
私の本質として、観照意識を悟るのです。

大悟では、私とは意識であり、世界そのものであることを悟るのです。
少し補足すると、この段階で縁起を悟るケースもあると思います。
縁起を悟るとは、私、即ち世界は連鎖的に連なる識の連鎖であることを悟ることです。

解脱では、苦を悟るのです。
私、即ち世界は苦であることを悟るのです。

悟りの本質は、たったこれだけなのです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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無常無我苦と私

2024年08月26日 14時15分10秒 | 悟り
◇無常無我苦と私◇


つい最近、無常無我苦は私のことを言っているのだと改めて納得したところがありまして、記事にしてみようと思います。

悟りの捉え方は種々ありますが、悟りとは私を知っていくことだと言うこともできます。
その過程で、無常無我苦に関する理解が自ずと進んでいきます。
重要なのは、無常無我苦が私というものの別のところにあるのではなく、私そのものを言っているのだというところです。

私という存在は、意識であり、この世界そのものであり、微細に見ると映画フィルムのコマのようにパッパッパッと連鎖的に連なる識です。
そして、この識の連鎖のことを縁起と言います。
このような私と、無常無我苦の関係について説明してみたいと思います。

まず、無常無我苦についてのおさらいから。
無常とは、ものごとは常に移り変わっていくものであるということです。
無我とは、一切のことがらに実体(あるいは絶対)が無いということです。
苦とは、一切のことがらは苦であるということです。

早い話が、私、即ち世界とは連鎖的に連なる識であるということが腑に落ちてしまえば、連鎖的に生滅する識は幻のようなものですから、無常と無我についての理解は自ずと伴って来るのです。
これはシンプルで明白なことなんです。

無常、無我と識の連鎖と関係について、念のために簡単に説明しますと。
識は留まることなく、次々と連鎖的に展開していきますから、識、即ち無常となる訳です。
また、識は幻の如く生滅を繰り返しますから、識、即ち無我となる訳です。

無常、無我に関する理解がややこしくなるのは、悟らずとも日常的な考え方の範疇でそれらの考え方に触れられるからだろうと思います。
このため、誤解が生じたり、わかった気になってしまいやすいのです。

次に、苦についてですが、これがやっかいなのです。
苦はある意味、無常、無我よりも日常的な概念や感覚としてそれに触れられるものです。
このため、無常、無我よりもさらに誤解が生じやすく、わかった気にもなりやすいのです。

しかし、苦は無常、無我よりもさらに深淵なのです。
なぜなら、識の連鎖である縁起を悟ってもなお、苦の理解には届かないからです。


苦についてどう説明しようかと考えていたのですが、途方に暮れてしまいました。
端的に言えば、私、即ちこの世界そのものが苦なのです。
連鎖する識の一つ、一つが苦なのです。
これをなんと説明したらよいのか、残念ながら私(慧空)には言葉がありません。
説明のための何かよい言葉を思い付いたら、書きたいと思います。
尻切れトンボですが、今回はここまでとします。


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根本苦と衝動

2024年08月18日 10時32分54秒 | 悟り
◇根本苦と衝動◇


私という存在は、苦そのものです。
根本苦とは、存在の根のようにしてある苦のことをそう言っています。

私という存在の深層には、その根本苦を何とかしようとして激しく振動するもがくような衝動があります。
そして、その根本苦に対する衝動が、私という存在に生じる様々な衝動の震源となっています。
例えば、何かをどうにかしようとする恐れ、何かを得ようする欲、何かを握り締める執着、何かを求め徨う期待などです。
このような衝動は、ジャングルジムのように相互に関係し合いながら階層構造をなしています。

根本苦は、私の意識を外へ向けさせ、外側へ展開させるよう作用します。
苦しみにより藁にすがるよにして、考えを掴むのです。
考えを掴むと、意識がその考えに向くため、根本苦の苦しみが表面的には緩和されるのです。
深層では考えを掴むことにより、苦しさが増すのですが、それには気づきません。
一つ考えを掴むと、さらなる考えを求めて意識は外側へさらに彷徨い出します。
そして、次々と別の考えを連鎖的に掴んでいきます。
掴める考えの数は限界があるのですが、その限界まで考えを掴みます。

ここまでは前置きで、本題はここからです。

言いたいのは、根本苦は意識を外側に向けさせるということです。
そして、一つでも考えを掴んでしまうと、意識がさらに外側に向いてしまうということです。
一つでも考えを握っていると、根本苦に向き合うことができないのです。

では、握っている考えを手放すのはどうしたらよいのか。
私のブログではそれには自覚が有効ですなどと書いたりしていますが、正直なところ、自覚だけで手放すのは困難なのかも知れないと考えています。
本筋的には、納得するまでその状態を経験するしかないのかもしれないと考えています。
そうするとやっぱり、本心と向き合って生きることが大切なのかと考える次第です。


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囚われと苦

2024年08月04日 15時18分01秒 | 悟り
◇囚われと苦◇


握り締めた考えを囚われと言います。
囚われとは、典型的にはこうあるべき、あああるべき、これはダメ、あれはダメ等ですが、表面的なものだと、お金は大事、女がいないとダメ、男がいないとダメ、ポスト(地位)がないとダメ等もこれに含まれます。

どうしてそのような考えを握り締め、手放せないのでしょう。

そこには、恐れという苦があります。
何の頼りもなく、考えの海に浮かぶのは耐えられないのです。
溺れる者は藁にもすがるという訳です。

考えを握り締めると、その考えに囚われるため、さらに苦しくなります。
しかし、考えを握り締めると、それが思考の前提として取り込まれ、あるいは潜在化され、自分が考えを握り締めていることに気付くのが困難になります。


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