私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(3)

2014年11月29日 23時14分05秒 | 私の体験
◇私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(3)◇

前回の記事の続きです。

前々回の記事に書きましたように、2013年10月19日に大悟があってから少し経ったころ(おそらく、2、3週間ほど経ったころ)から、私は自然と瞑想状態に落ちるようになっていきました。
最初はうつらうつらするうたた寝のような感じだったのですが、それが次第にうたた寝のような状態に混じって、自分の意識が完全に落ちてしまうようになったのです。
なお、この自分の意識が完全に落ちてしまう状態とは、一切の感覚も意識も無い気絶状態のことです。

最初のころは、自分の意識が落ちていることに気がつかず、自分が眠りに落ちているのだろうと思っていました。
暫くして、それが眠りではない何かだと気づきました。
でも私は、それが無我に落ちていることだとは気がつかず、それを真我であると誤解してしまいました。

そして私は、真我になることへの拘りもつくってしまい、真我になること(無我に落ちること)を好むようになり、さらには真我になるように自分の意識を仕向けるようになっていきました。
そうしているうちに、自分の意識をコントロールして自我から真我に切り替えるコツというか方法が分かってきました。
どういう方法かと言いますと、何でもいいので起こってきた考えを自覚によって捉え、その捉えた考えをポイと放り投げるのです。
すると、自分の意識がすーっと真我に切り替わるようになっていました。
あるいは、自覚によって「私」を捉え、「私」をポイと放り投げても、同じようにすーっと真我に切り替わるようになっていました。
そうやって、私は何度も何度も真我(完全な無我)になりました。
最終的には、何百回も真我になったんだと思います。

そうやって、繰り返し真我(完全な無我)になっているうちに、真我から自我に戻ってきた瞬間やその直後に、少しずつ気づきというか理解が起こるようになっていきました。
それは、2013年の12月から翌2014年の1月にかけてのことだと思います。

その最初の理解は、真我(完全な無我)から自我に戻ってきた瞬間を捉えたときに生じました。
どういう理解かと言いますと、無我から自我に戻ってきた瞬間を捉えられたことにより、私という存在が考え(意識)そのものだというより深く明確な理解が生じたのです。
私には、大悟に伴って得た、私という存在は連鎖的に起こってくる考えそのものであるという理解が既にあったのですが、無我から自我に戻る瞬間を捉えられたことにより、その理解がより深くかつ明確なものになりました。

その理解に続き、私は無我から自我に戻った直後の自分の意識を観察するようになりました。
無我から自我に戻った直後は、パッ、パッ、パッと断続的に起こり移り変わる自分の意識の連鎖がよく見えるのです。
そうして、自分の意識の起こりや連鎖を繰り返し観察していくうち、それが新たな理解に繋がっていきました。

そうした観察の中で、まず私が着目したのは、完全な無我に入っているのにもかかわらず、その無我から繰り返し何度でも私の意識(自我)が起こってきてしまうことについてでした。
私はいつ死んでもいいし、いつ存在が消滅してもいい(むしろこのまま消滅したい)というつもりで無我に入っているのに、どうしてまた私の意識が生じてしまうのかその原因が知りたいと思い、徹底的にそこを観察しました。

そうやっているうち、あるとき一つの理解というか確信が起きたのです。
どういう確信かと言いますと、それは、完全な無我から自分の意識が起きてきてしまうのは、完全な無我に私の意識を引き起こす何かがあるに違いないという確信でした。
本当にそこに何も無かったら私の意識が再び起きてくることはないはずであり、私の意識はこうして再び起きてくるのは、完全な無我でありながら、そこにはまだ何かが残っているのだと確信したのです。
そして、その何かが私(慧空)の解脱を妨げているんだということを確信したのです。
私は、その何かを私の意識を生じさせる「種(たね)」と呼ぶことにしました。

それに続き、私はその「種」についてそれが何なのかを追求していきました。
すると間もなく、私はその答えに到達しました。
「種」とは、私という自我が掴んでいる考えであり、執着(カルマ)であるということが分かりました(解脱の悟りを得た現在の私からするとまだ不完全ではありますが、これがこの時点での私の理解でした)。
この理解に伴い、縁起に関する理解が自ずと生じました。

そして私は、連鎖的に起こってくる私の意識は、縁起そのものであり、自我が掴んでいる考え(執着)である種によって誘起される考えの連鎖であるという理解を得ました(これについても不完全ですが、これがこの時点での私の理解でした)。

そして、この理解は、私を解脱の悟りに導いた主な手掛かりの一つとなりました。


続きます。


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私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(2)

2014年11月27日 10時27分23秒 | 私の体験
◇私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(2)◇

今回の記事では、私の大悟後の無我へのダイブの実践や、その実践から分かったことなどについて書きたいと思います。

私の無我に落ちる体験を書く上で、三十代のころの体験についても書いておいた方がいいように思いますので、まずはその体験について書きたいと思います。

以前の記事にも書いたのですが、私は31、2歳のころに1年くらいの間、毎晩寝る前に瞑想をすることを日課としていました。
当時私は、気功に興味があってカルチャーセンターの気功教室に通っていて、瞑想はそこで教わりました。やっていた瞑想は、呼吸に意識を向ける呼吸瞑想の一種で、数を数えながら吸う、止める、吐くを繰り返すものでした。
具体的には、1から順番に自分の決めた数(例えば、10)まで数えながらゆっくりと息を鼻から吸い、次にその同じ数だけ数えながら息を止め(このときは丹田を意識します)、さらにその同じ数だけ数えながらゆっくりと息を口から吐くという三つの行程をただ繰り返すものでした。
私は、この瞑想を毎日30分から1時間くらいやっていました。

そうやって瞑想を始めて何ヶ月かが経ったころ、瞑想中に不思議な現象が起きるようになったのです。
どういう現象かと言いますと、瞑想中に自分の呼吸が止まっていることに気がついたのです。
呼吸が止まらないようにいくら気を付けていても、いつの間にか止まっているのです。
そして、その現象について観察しているうち、呼吸が止まっているとき、自分の意識が完全に無くなっていることに気がついたのです。

それに気づいたとき、最初は自分が一時的に眠ってしまっているんだと思いました。
最初はそう思って納得しかけたのですが、その意識が無くなるときの様子を繰り返し観察するうち、眠っているのとはどうも違うということが分かりました。
なぜ眠りとは違うと分かったかと言いますと、呼吸瞑想ではなく普通の瞑想をやっているときに瞑想中に眠くなって本当に眠ってしまったことがあり、そのときに違いが分かったのです。

その瞑想中に起きる気絶状態が眠りではないと分かってから、私はそれが何なのかさらに観察しようとしました。
その当時、その気絶状態は毎日のように、日によっては2度、3度と起こってましたから、観察のチャンスは沢山ありました。
あるときは、気絶状態の時間的長さがどれくらいなのかと思い、何とかそれを測定できなかと試行錯誤したりもしていました。

しかし、当時の私にはそれが何なのかは分からずじまいでした。
気功教室の先生に質問したりもしたのですが、先生から有効な答えはもらえませんでした。
そうしているうち、自分でも不思議なほど、気功も瞑想も興味が無くなってしまい、全くやらなくなり、忘れ去ってしまいました。
その当時のことを思い出したのは、それから約15年が経った解脱の悟りを得た後のことでした。

この31、2歳ころの完全な無我の体験が私の悟りの道のりにどういう影響や意味があったのか、はたまた影響も意味もまったく無かったのか、私にはよく分かりません。
でももしかすると、何か関係があるのかも知れないと思い書いてみました。


次回は、大悟後の無我の実践等について書きます。

<補足です>
完全な無我の体験と悟りとの間には直接的な関係はありません。
そのような体験が無くても、解脱の悟りまで到達できます。
この点については断言できます。
なぜなら、解脱の悟りは一切の考えを掴まなくなることであり、ただそれだけのことですから、そこに完全な無我の体験の有無が関係し得るはずがないのです。


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私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(1)

2014年11月26日 22時01分42秒 | 私の体験
◇私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(1)◇

今回から何回かに分けて、大悟の後から解脱の悟りを得るまでの私の道のりについて書いてみたいと思います。

2013年4月の初めに天界の悟り(小悟)を得てから、同年10月19日に大悟を得るまでは、時間はそれなりにかかったのですが、悟りの道を進んでいるという実感もあり、比較的順調だったのではないかと思っています。
そう思うのは、天界の悟り階層では比較的自覚がやりやすく、スムーズに進んだからだろうと思っています。
例えば、天界の悟り階層では、多くの方がそうであるように、私自身もそれなりの数の考え(執着)を握りしめていましたので、自覚を通じて捨てるものがそれなりにあり、手放しを実感できたのです。
また、「私」に意識を向けることで、しっかりと「私」を捉え、実感することができたので、自分は自覚をやれているいうしっかりとした手応を得やすかったのです。

それに対して、大悟を得てからの行程については、自覚がやりにくくなったというか、難しくなり、あちこちで迷ってしまい、大変な行程だったという印象が残っています。
実際に、大悟後は、「私」に意識を向けようとしても、天界のときのような「私」を捉えているというしっかりとした手応えは余り無く、自覚がやりにくくなっていました。
そのため、天界のときにやっていた、「私」にぐいぐいと食い込んでいくような自覚や、「私」を焼き払うような自覚も出来なくなっていました。
また、握りしめている考え(執着)も既に大分少なくなっていたので、それまでのような考えの手放しも殆ど起きなくなっていました。
そのため、自分がやっていることが合っているのかどうかを判断できる手掛かりが少なく、暗がりの中を手探りで進んでいったような感じでした。
それでも、悟りに対する発心は続いてましたので、当時の私の様子を表現すると、暗がりの中をがむしゃらに突き進んだという感じでした。

このため、大悟の後から解脱の悟りを得るまでの私の道のりは、きれいなものではなく、ぐちゃぐちゃとした感じになっています。
例えば、このブログの記事や自分の悟りノートを見ると、解脱の悟りを得る直前まで、「無我」への拘りの様子が見えますし、自分でもよくそれで解脱の悟りに至れたものだと思っています。

それでは、前置きはここまでにして、解脱の悟りに至る私の道のりについて書いていきたいと思います。
少し分かりにくくなるかも知れませんが、私の道のりをぐちゃぐちゃしたままの状態で書いてみたいと思います。


大悟に伴って、私には主に二つの理解というか感覚が生じました。
一つは、私という自我は、連鎖的に起こってくる考えそのものというか、スポットライトのように移り変わる考えそのものであるという理解や感覚です。
この理解は、大悟とほぼ同時に起こってきたもので、この理解には、自我である主体と、その対象である考え(客体)との統合感、つまり「見るもは見られるもの」という感覚や理解が伴っていました。
もう一つは、私という存在は自我(個の意識)と真我(全体意識)の二面性があるという感覚や理解です。

一つ目の「連鎖的に起こってくる考えそのものが私という自我である」という理解については、大体のところは前回の体験記事に書いた通りです。
この理解や感覚は、解脱の悟りに向かう道中において、悟りの進展に伴って形を少しずつ変えながら、あるときは私を惑わし、またあるときは私のヒントになりながら、解脱の悟りまで一緒に歩みました。

二つ目の「私という存在は自我と真我の二面性がある」という理解については、その当時のブログ記事に理解の内容を何度か書いていますが、改めてここで簡単に説明したいと思います。
私の執着や誤解も絡んでいて説明しにくいのですが、無理ヤリやってみたいと思います。(^o^)

この二つ目の理解(「理解」ではなく、むしろ「誤解」と言った方がいいくらいなのですが、笑)は、大悟から2、3週間くらい経ってから私の中で明確になってきたように思います。
このような理解(誤解)が私の中に生じてきたのは、大悟後に私の意識の状態が少しずつ変化していったことと関係があるのだろうと思っています。

その変化がどういうものかと言いますと、大悟の直ぐ後くらいから、私の意識が特に何も意識することなく、自然と一種の瞑想状態に入ってしまうようになったのです。
瞑想をしようなどの意図はまったくないのに、何もせずぼーっとしていると、いつのまにかすーっと吸い込まれるように、深い瞑想状態のような状態に入ってしまうようになったのです。
朝、職場に出勤するのですが、仕事はもう全くやっていませんでしたので、このブログの記事を書いたり、ネットを閲覧している他は特にやることがなく、帰宅する夕方までぼーっとしていることが多かったのもあり、日によっては、職場にいる時間の大半の時間を瞑想状態で過ごしているようなこともありました。

それで、大悟した月の翌月の11月に入ったあたりからだったと思うのですが(定かではありません)、自然と起こる瞑想状態の中で、私という自我の意識が限りなく薄くなったり、完全に落ちて気絶状態になったりするようになったのです。
私は、その意識が完全に落ちている状態を自分が「真我」になっている状態と誤解してしまったのです。
そして、私という存在は自我と真我の二面性があるんだと思ってしまったのです。
そしてさらには、「自分はとうとう自我と真我の統合に成功したんだ(あるいは、成功しつつあるんだ)」などと思ってしまったのです。

どうしてそのような考えに嵌まってしまったのかはハッキリは分かりませんが、大悟前に読んでいたウパニシャッド系の書籍の影響等により、私には「真我」や「統合」という考えに囚われているところがありましたので、そのような考えに嵌まりやすかったのだろうと思います。

この「自我と真我の統合」という考えは当時の私にとってとても魅力的であり、翌2014年2月に解脱の悟りを得る少し前の1月ころまで、この考えに囚われていました。
具体的には、自我と真我の統合がより完全に得られれば解脱の悟りが得られるのではないかとか、そのためにはより完全に自我を滅して無我を実現する必要があるのではないかと思ったりしていました。

このため、解脱を目指す実践も、真我や無我に囚われる余り、どうすれば完全に自我を滅することができるのか等、自我を滅することばかり考えていました。
そして、いまから考えると馬鹿らしく思えるような無茶な実践方法を考え出し、それをやってみたりしていました。
例えば、自我が顕在化してくる切っ掛けの一つとして分別があることが自覚を通じて分かったので、分別を滅すれば完全な無我に至れるのではないかと思い、分別を完全に放棄しようとしてそれに取り組んだりしていました(もちろん、そんな実践がうまくいくはずはありませんでしたが、笑)。

そんな「無我」をめぐる思考錯誤の日々の中、私はもう一つ、拘りを持ってやっていたことがありました。
それは、真我(正確には無我)の中にダイブすることでした。
この実践は私に意外な理解と、解脱の悟りへの導きをもたらしてくれました。

次回は、その無我へのダイブの実践とその周辺のことについて書いてみたいと思います。


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私の体験談(見性後から大悟まで)(4)

2014年11月24日 21時02分58秒 | 私の体験
◇私の体験談(見性後から大悟まで)(4)◇

今回の記事では、大悟があった10月19日のことや、大悟に伴って生じた私の意識の変化等について書きます。

前回の記事に書いたように、大悟が起きる直前の2、3週間の間は、ハートの自覚ワークを毎日やっていました。
大悟が起きた2013年10月19日の前日の夜もハートの自覚ワークをやってから床に入りました。

翌19日の朝は、いつものように普通に目が覚めました。
そして、職場に出勤する準備をして家を出ました。
それで、最寄り駅のホームを歩いているとき、自分のハートに私という感覚のコアが無くなっていることに気がつきました。
なお、19日の朝は、目が覚めてから駅のホームでハートのコアの消失に気がつくまで特に変わったことは無かったので、私の場合、夜寝ている間に大悟が起きてしまったようです。

ハートのコアの消失に気づいたとき、自分の意識に何か大きな変化が起きたことは直ぐに分かりました。
しかし、その変化がどういう意味を持っているのか等は何も分かりませんでした。
何か大きな変化が起きたことがただ嬉しくて面白くて、自分の意識を無邪気に観察しながら職場に向かいました。

職場に着き、パソコンの電源を入れ、椅子に座り、パソコンの画面と向き合ったとき、パソコン画面を見る自分の意識の感覚が昨日まのでの感覚と違うことに気がつきました。
パソコン画面と向き合い、それに意識を向けると、私という自我の感覚が欠落し、私の意識がパソコン画面そのものになっているかのような感覚になることに気づいたのです。
それに気づいた私は、これはきっと凄いことが起きたんだと思い、有頂天になりながら、夢中で自分の意識を観察しました。

自分の意識をパソコン画面から他の対象に向けると、私の意識がパソコン画面からその対象に移り変わり、その対象そのものが私の意識になりました。
窓の外の景色を見ると、私の意識がその景色そのものになりました。
また、自分の意識を内面に向け、内面に起こってきた考えに意識を向けると、その考えそのものが私の意識になりました。

そして、私は直ぐに、連鎖的に起こってくる考えそのものが私という自我なんだということを理解しました。

4月9日になぜか自分に起こってきた「私自身が考えである」という確信的理解は、まさにそれで合っていたのです。

それが分かった私は、嬉しくて嬉しくて、何かお祝いをしようと思いました。
それでお祝いに、自宅近くの寿司屋でお寿司を買って帰り、それを家族と一緒に食べました。
家族(特に家内)には、そのことを話しても分かってもらえないと思ったので、今日は仕事でとってもいいことがあったから、みんなでお祝いしたくなったんだと言いました。

なお、当時の私は、大悟がどういう悟りかということを全く知らず、自分の意識の変化が何なのかは全く分かりませんでした。
そのとき分かっていたのは、相当大きな変化が起きたということと、悟りの道のりとしては大分いいところまで来たこと、でもまだもやもやっとして晴れない何かがあり、これが最後の悟りではなさそうだということだけでした。
自分のその意識の変化がいわゆる大悟なんだということを知ったのは、翌2014年の1月に入ってから、犬山さんと仰る方に、私が言っていること、つまり「私という自我は、連鎖的に起こってくる考えそのものである」と同じことを言っている人がいると言って、クリシュナムルティさんのことを教えてもらってからのことでした。


次回からは、大悟後から解脱の悟りまでのことを書きたいと思います。

続きます。


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私の体験談(見性後から大悟まで)(3)

2014年11月22日 23時22分10秒 | 私の体験
◇私の体験談(見性後から大悟まで)(3)◇

今回の記事では、私がどのように大悟に近づき、到達したかについて書きたいと思います。

大悟に近づき、それに至るときのポイントは、握りしめた考えの手放しと、私という自我への集中だったのだと思っています。
手放しは、主に「すべては考えに過ぎない」という智慧が導いてくれました。
自我への集中は、「私自身が考えである」という確信的理解が導いてくれました。

2013年4月9日に、「すべては考えに過ぎない」という理解と、「私自身も考えである」という確信が起きたとき、前者については直ぐにそれが附に落ちたのですが、後者については間違いないという確信があるだけで、それがどういう意味なのか等については理解が得られませんでした。
そのため、「すべては考えに過ぎない」という理解については、その理解が直ぐに自分が握りしめた考えの手放しに有効に作用し、手放しが進んでいきました。
しかし、「私自身も考えである」という確信については、それが理解できず、またどう受け止めたらいいのかも分からず、その後数ヶ月の間、お手上げ状態でした。

それでも、「私自身も考えである」という考えに何か大きなヒントがあるような気がして、そのことが頭から離れず、それはどういうことなのかとか、どういう意味があるのかなど、絶えず考えていました。
今から思うと、そうやって考えることに、私自身に意識を向けるという効果があったのだと思います。
「私自身も考えである」という考えはその対象が自分なので、そのことについて考えることは、自ずと自分に意識を向けることになったようです。

そうやって、ああでもない、こうでもないと考えているうち、「私自身のことをもっと深く知りたい」、あるいは「私という存在を覆う霧のようなベールを取り払いたい」という強い衝動が生じるようになっていました。
2013年の9月に入るころには、自分自身に意識を集中し、より深く自分を見ようとするようになっていました。

そして、9月の後半から10月に入るころには、自分自身に意識を集中することへの非常に強い衝動が湧き起こるようになっていました。
いま考えても、どうして自分にそのような強い衝動が起こったのかよく分かりませんが、その衝動が起こってくると、これ以上ないほどの高い集中度で自分自身に意識を集中するようになっていました。
当時の私は、どうしてそれをやるのか、また、どうしてそこまで激しくそれをやろうとするのか、自分でも分からないまま、それをやっていました。

なお、その当時の私がやっていた自分に意識を集中する方法は、このブログの記事(ハートの自覚ワーク(1)(2))として既に紹介済みです。
ちなみに、このワークは誰かから教えてもらったものではないのです。
自分でも不思議なのですが、自分自身に意識を集中するうちに、記事に書いた方法が自然に出来上がっていったのです。

大悟を得た10月19日の直前の2、3週間の間、私は自分に意識を集中するワークを一日5、6時間かそれ以上、毎日のようになっていました。
1回ごとのワークの時間は、短いときは20分か30分程度で、長いときは2、3時間連続してやっていました。
また、ワークをやるときは、燃えさかる炎のような激しさでそれをやっていました。
そして、その激しさは大悟の日に向けて増して行きました。
最終的には、私という存在を焼き尽くしてやる、あるいは跡形もなく破壊してやるという強い念がわき起こり、それと一体になってワークをやるようになっていました。

また、そのように私自身に意識を集中するようになっていく一方で、依然として「私自身も考えである」という考えについての考察も続けていました。
そうしているうち段々と、私という自我と、自我がつくる、あるいは自我に起こってくる考えとの関係等について観察し、考察するようになっていました。
そして、私の意識の変化、より詳細には、私に何か考えが起こってきた瞬間の意識の挙動や変化に着目するようになっていきました。
例えば、私自身に意識を向けている状態で、電車の音が聞こえてきて電車に関する考えが起きたときの私の意識の挙動や変化について観察し、考察するようになっていました。

そして私は、その観察により、私に何か考えが起きたときの私の意識の挙動について、不思議な現象がそこに起こっていることに気づき始めたのです。
どういう気づきかと言いますと、私に意識を向けているときは、私の意識には「私」だけがあるような感覚なのです。
それが、「電車だ」等の何か別の考えが起きた瞬間に、私の意識のほぼ全体が「私」から「電車」に移ってしまうという現象に気がつき始めたのです。
そのことに気づき始めたとき、私はそのことがとても不思議で、それがどういうことなのか必死に考えながら、私の意識の挙動について何度も何度も観察しました。
このような自分の意識についての観察や考察も、私にとって重要な大悟への導きとなったのだろうと思っています。

もう一つ、私が大悟を得る直前にやっていたことを紹介したいと思います。
私が大悟を得るのにどれほど効果があったのかは分からないのですが、私は大悟を得る直前の4、5日間、面白いワークを考え出して実践していました(これについても既にこのブログで紹介済みです)。
そのワークとは、自分に意識を集中し、その集中度がピークに達した状態で、自分に意識を向けたまま、「私という考えをつくっているのは、私だ」という考えを心の中で繰り返し唱えるのです。
私の場合、このワークをやり始めると直ぐに、自分の頭の中や、この世界そのものが飴細工が溶けるようにして崩壊するような感覚になり、このワークを5分と続けることが出来ませんでした。
もしかすると、私の場合、大悟に至る最後のだめ押しのところで、このワークが自我を破壊するのに有効に作用した可能性もあるのかも知れないと思っています。


次回は、大悟があった10月19日のことや、大悟の意識の状態等について書きます。

続きます。


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私の体験談(見性後から大悟まで)(2)

2014年11月21日 23時43分14秒 | 私の体験
◇私の体験談(見性後から大悟まで)(2)◇

今回の記事では、私の意識が天界の悟り階層にあった2013年4月初めから10月19日の期間のうちの8月、9月ころまでの意識の様子や移り変わりについて書きます。
意識の移り変わりの流れを分かりやすくするために、2012年暮れの明け渡し以降の様子を振り返りながら書いてみたいと思います。

明け渡しにより得られる悟り階層(意識次元で言えば、5次元である天界の悟りの少し手前の4.5次元程度でしょうか)と、天界の悟り階層とは、基本的に幸福感、喜び、楽しさ(Joy)等が前面に出てきやすいため、これらの悟り階層に至った人多くの方は、自分が生きることや存在していることに対する幸福感や楽しさを実感される方が多いと思います。

事実私自身も、明け渡しから、見性を得て暫くの期間が経過するまでの間は、幸せや楽しさを実感することが多かったように思います。
特に、2012年暮れに明け渡しがあってから、翌2013年の3月中旬に自覚を始めるまでは、私は本当に幸せの中にいました。
いいことばかりが起こっていた訳ではなく、悪いこともしっかりと起きていたのですが、悪いこともそのまま受け入れてしまうというか、幸福感に酔っ払っていて感覚が麻痺しているというか、いま思い起こしても不思議なほど消極的な感情や感覚が余り起きてきませんでした。

しかし、そのような私を取り巻く幸福な雰囲気は、3月中旬にマスターゲートさんに会い、自覚を始めたことにより、急速に後退し、覚めた雰囲気に変わっていきました。
これに伴って、明け渡しにより広がった私の意識も、自覚を始めて「私」に意識を向け始めたことにより、コンパクトに引き締まっていきました。

そして、4月初めに見性を得てからは、私の意識は、明け渡しによる言わば広がった状態から、キュッとコンパクトに引き締まった覚めた状態へと大きく変化していました。
それでも、8月ころまでは、幸せや楽しさを実感することが多かったように思います。
例えば、見性により得た創造主としての実感を無邪気に楽しんでいました。
こうなったらいいなとか、こうしたいなと自然にイメージすると、そのイメージが自然と実現していくこともよくありました。

しかし、そうやって天界の悟り階層を楽しむ一方で、私の意識の中心は、見性の直ぐ後に生じた「私自身も考えである」という考えに対する追求心と、「すべては考えに過ぎない」という理解から生じる破壊の目の方に徐々に移っていきました。
創造主としての実感を楽しみながらも、それに没頭できない覚めた自分がいつもいて、私の意識を「私自身も考えである」と「すべては考えに過ぎない」に引き込むようになっていました。
楽しさや嬉しい感情が起きたり、こうしたいな等の考えが起きたとき、それが何なんだとか、それのどこが嬉しいんだとか、意味ないだろう等の覚めた考えが出てきて、少しずつ幸福感や楽しさから遠ざかってていきました。
そして、私に起こってくる考えを深く観察し、考察するようになっていきました。

私がまず集中的に考察したのは、「正しさ」や「理想」についてでした。
具体的には、当時、北朝鮮が韓国に対してミサイル攻撃をやるのではないかという懸念が一部で高まっておりました。
そんな北朝鮮の様子を観ていて、私の中に北朝鮮に対する批判心が起こってきたのです。
それが切っ掛けとなり、私は2、3日の間、理想的は社会とはどういう社会なのかについて真剣に考えたのです。

ちょっと冷静に考えれば、複数の立場が存在する以上、すべての人にとっての理想社会など存在するはずがないことは直ぐに分かるはずなのですが、そのときの私はなぜか、理想社会について、本気であれこれと考えたのです。
自分が理想的と思う社会モデルをいくら考えても、それを別の立場から考えると必ず短所や弊害があり、その理想像は直ぐに崩れ去ってしまいました。
散々考えたところで、理想社会なんて存在するはずがないという当たり前のことに気がついたというか、立ち戻りました。

そのとき私は、その当たり前のことへの気づきに対し、自分はなんてバカなことを真剣に考えていたんだ、自分はなんてバカなんだと思っていました。
しかし、そう思いながらも、附に落ちるものがあったのです。

賢明な方は、理想とは個々の視点に依存する二元的な価値観であり、普遍性はないということは知っているんだと思います。
私だってそんなことぐらい知っていました。
でも、過去の私もそうでしたが、それは頭でそう理解しているだけなのです。
薄っぺらな表面的な理解に過ぎないのです。
その証拠に、そのような賢明な方も、自分が日常的にやっている良い悪い等の二元的な判断に対して無自覚であり、相変わらず二元的な考えに囚われたままなのです。

しかし私は、その当たり前のことへの気づきにより、自分に良い悪い等の二元的は考えが起こったとき、あるいは起こりそうになったとき、それをしっかりと自覚できるようになったのです。
そして、自分自身が握りしめている二元的な考え(執着)を手放していき始めたのです。

二元的な考えに対する自覚が進み始めると、将棋倒しのようにして二元的な考えに対する自覚や手放しが進んでいきました。
2012年の6月ころには、良い悪い等で代表される多くの二元的な考えについて、手放しがほぼ完了していました。
そしてそれに伴い、二元的な考えに関連して自分を縛り付けているいくつかの固定観念がひとつずつ外れていきました。

解放が起こった固定観念の例を書きますと、まず最初の方に「仕事が出来ないやつはダメだ(あるいは、無能なやつはダメだ)」という固定観念の解放が起こりました(5月の後半ころだったと思います)。
私は、この固定観念により自分や自分の周りの人たちを長い間痛めつけていたのでした。
私は明け渡し以後、殆ど仕事が出来なくなっていたのですが、この解放により、自分が仕事が出来ないことの苦しさが幾分楽になりました(相変わらず、仕事は出来ませんでしたが、笑)。

続いて、確か8月に、「何かやらないといけない」という固定観念の解放が起こりました。
私は、何かをやっていないといけなくて、何もやらないのはダメだという固定観念を握りしめ、ずっと自分自身を駆り立て、苦しめていたのでした。
なお、私の場合、「仕事が出来ないやつはダメだ」や「何かやらないといけない」等の固定観念の解放がおこるときは、それらの固定観念がまさにそのような言葉として内面の奥底から浮かび上がってくるのです。
そして、浮かび上がってきた考えに気づいたときには、既に解放が起きているという感じなのです。

続いて9月に、「人間としてちゃんと生きなければいけない」という固定観念の解放が起こり、それに続いて、「人に迷惑をかけちゃいけない」という固定観念の解放が起こりました。
私は、自分が仕事を放置していることによりお客さんに迷惑がかかっていることがとても辛くて苦しかったので、そららの固定観念が外れたことでとても楽になりました。
そして、完全に仕事をやらなくなりました(笑)。

そして、9月後半から10月にかけて、幸、不幸という考えも手放していきました。


次回は、「私自身も考えである」という理解の導きにより、どのように大悟に近づき、到達したのかときのことについて書きます。

続きます。


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私の体験談(見性後から大悟まで)(1)

2014年11月20日 22時37分13秒 | 私の体験
◇私の体験談(見性後から大悟まで)(1)◇

悟りの階梯の方を先に書こうと思っていたのですが、気が変わりまして、見性後から解脱の悟りに至るまでの私の体験談を何回かに分けて書いてみたいと思います。
まずは、見性から大悟に至るまでの体験について書きたいと思います。

まずはじめに、私のこれまでの経過を簡単にまとめて起きたいと思います。
私の場合は、最初に、2012年12月20日に明け渡しを経験しました(いわゆる真我の外縁に触れる体験です)。
それに続いて、2013年4月2日前後に、自我を捉える悟りである見性を得、これに伴って天界の悟り階層に入りました。
(一般に見性は緩やかな悟りであり、私の場合もそうだったので、見性のタイミングをこの日だと断定するのは難しいのです。)
続いて、同年10月19日に、大悟を得ました。
そして、翌2014年2月11日に、解脱の悟りを得ました。

それでは、本題に入っていきます。

私は、2012年暮れに明け渡しを体験した直後から、智慧が働くようになっていました。
その智慧とはどんな感じかと言いますと、内面から湧き起こるようにして、あるいはハッとひらめくようにして、自分自身の内面のことや、この世界の仕組みに関することを理解するようになっていました。
2013年4月初めに見性を得た後は、その智慧の働きがさらに深くシャープになったようでした。

そして、見性を得た直ぐ後の4月9日のマスターゲートさんの講話を聞いているときに、智慧の働きにより、私にとって大きな契機となる理解を得ました。
その理解が生じた後の数分間は、大小複数の智慧の発動というか理解が生じ、自分の内面に没頭していました。

その理解とは、この世界のすべてのことは考えであり、私という自我を通してつくり出されているんだという理解でした。
この理解は、私に二つの派生的な理解を起こしました。
まず派生的な理解の一つ目として、どうして私たちに創造主としての自覚や主体性が必要なのかを理解しました。
どういうことかと言いますと、私が考えによりすべてのことをつくり出しているのだから、自分自身からつくり出されている考えに自分が翻弄されていてはどうしようもない訳であり、自分はそのことにしっかりと気づいているべきだということが分かったのです。
この派生的な理解により、私は創造主としての私なりの心持ちと言いますか、立ち位置をある程度確立したんだと思っています。

それに続いて生じた派生的な理解の二つ目は、すべては考えに過ぎないんだという理解そのものに対する着眼でした。
その着眼は、あらゆる対象を幻想として打ち壊していく破壊の目でした。
まさにそのときから、私は創造主としての立脚点を確立するのと同時に、その破壊の目により、創造主である自分自身や、創造主として自らが立っているその足場を破壊し始めたのです。

そして、その破壊の目は私自身に対する大きな直感的理解を直ぐに誘発させました。
その理解とは、この世界だけでなく、世界をつくりだしている私という自我そのものも考えに違いないという確信でした。

しかし、そのときの私は、その直感的な理解が絶対に正しいものであることを確信しただけで、それがどういう意味なのかが今ひとつ分からずにいました。
そして、その「私自身も考えである」ということの意味を解き明かそうとする追求心と、「すべては考えに過ぎない」という理解から生じる破壊の目が、それ以後、私が大悟を得るまでの案内役となりました。


次回は、私が天界の悟り階層にいたころの前半部分の様子等について書いてみたいと思っています。

続きます。


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死後の世界や輪廻のことについて

2014年11月17日 21時51分25秒 | エッセイ
◇死後の世界や輪廻のことについて◇

死後の世界や輪廻のことは、悟りや自覚とは直接的な関係はなく、むしろ邪魔になりかねないため、このブログでは意図的に触れないようにしてきました。
でも、このブログ付設の掲示板の方でご質問を頂きまして、いい機会かも知れないと思い私の考えをお答えすることにしました。
それで、そのお答えの内容を少しアレンジしてこのブログにも掲載することにしました。

なお、念のために申し上げておきますと、死後の世界や輪廻のことを全く知らないでも最後の解脱の悟りに到達できますので、これらのことに余り気を取られないようしていて頂きたいと思います。
そういう私自身も殆ど知らないまま最後まで到達してしまいました。


最初にまず、ハッキリとさせておきたい点は、すべてのことは考えであるということです。
この点は決して揺るがないのです。
ですから、霊界や天界等の死後の世界も輪廻も考えなのです。

しかしです。
ここがひとつ重要な点なのですが、考えであるという点では、私の肉体を含めたこの現実世界も考えなのです。
考えであるという点では、死後の世界も現実世界も同等であり、変わりはないのです。
違いがあるとすると、いま現時点の私という自我の本拠地が現実世界であるということだけです。

生きてるうちは、私という自我の本拠地がこの現実世界であるという点については、納得しやすいと思います。
問題は、死んだらどうなるかというところだと思います。
要するに、霊界や天界等の死後の世界は存在するのかということです。

この点に関する私の理解というか実感として感じていることを書きますと、霊界や天界等の死後の世界は、この現実世界と殆ど同じようなリアリティを持って存在しています、ということになります。

私は、過去世の記憶もありませんし、霊界や天界に対する実体験もありません。
ただ、一昨年暮れの明け渡し体験の直後から、どうやらこの現実世界と同じようにして霊界や天界がありそうだという理解というか感覚が生じるようにはなっていました。
でも、その感覚はとても曖昧なもので、確信的なものではなかったため、私は死後の世界や輪廻のことについて疑っているようなところもかなりありました。

その疑いは、二つの体験的理解により消えていき、どうやら霊界や天界等の死後の世界を含めた、輪廻というものがあるんだいう確信に変わっていきました。

その体験的理解の一つ目は、大悟した後に何度も経験した涅槃(完全な無我であり、気絶状態です)に落ちる体験に伴うものです。
具体的にどういう体験かと言いますと、大悟した状態、つまり「見るものは見られるもの」になり、自我である主体と、その対象である考え(客体)とが統合した状態で、しかも、自我としっかりと捉えた状態で涅槃に落ちると、涅槃から自我に帰ってきた瞬間とその直後に、私という自我である意識の連鎖現象とても鮮明に体験することができるのです。
つまり、私という存在がパッ、パッ、パッっと連鎖的に起こってくる考え(意識)そのものであるということが如実に体験できるのです。
私は、この体験により、私という存在の本質は意識の連鎖であり、この肉体の体験は、その連鎖の中で一時的に現れてくる考え(現象)に過ぎないのだと理解しました。
この意識の連鎖を止めないことには、仮に肉体が滅んでも、連鎖する考えの中身(現象)が変わるだけで、私という自我の意識はそのまま続いていくんだということを理解したんです。
それで、霊界や天界等の死後の世界を含めた輪廻についても理解しました。

もう一つの体験的理解は、解脱の悟りを得た後のものです。
どういうものかと言いますと、私のブログにも書きましたが、解脱の悟りを得て確か4、5ヶ月ほどしたころに、自我の意識(正解には観照意識)が目覚めた状態のまま眠りに入っていくという体験を暫くの間、毎日のように体験したんです。
もう少し分かりやすく書きますと、意識が半分か何分の一の割合で目覚めた状態のまま眠りに入っていくんです。
すると、眠りに入るのに伴って、見えている世界(風景)が、この現実世界の風景(目をつむってますから普通に暗闇です)から眠りの世界の風景にすうっと変わるのです。

私はこの体験から、現実世界と夢の世界の間に本質的な違いは何もないこと、そして、夢の世界が死後の世界と殆ど違いがないこと、また、眠りに落ちていくときの感覚は、死んでいくときの感覚と殆ど違いがないこと、を直感的かつ確信的に理解しました。

そういう訳で、私は、死後の世界や輪廻は考えではありますが、この現実世界と同じように存在していると言うことにしております。


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悟りの階梯に関する理解の変化

2014年11月15日 22時35分13秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯に関する理解の変化◇

現在、「改めて悟りの階梯」と題して文章を書いている途中なのですが、悟りの階梯に関する私の理解が少し変化して来まして、そういう理由もあり、記事のアップが停滞しております。

今日は、その私に起きている理解の変化がどういうものかを少し書きたいと思います。

私のこれまでの理解では、自我と真我について、自我が主であり、真我が従であるとしながらも、両者を対等なものとして捉えているところがありました。
しかし、その理解が変わってきたのです。

結論として、唯一本質的な要素は、考えの連鎖そのものである私という自我だけなのです。
自我だけが本質的な要素であり、他のすべてのものは、私という考えの連鎖の中で現れてくる考えであり、現象に過ぎないのです。
よって、真我や空も、私という考えの連鎖の中で一時的に現れる一つの考え(幻)に過ぎないのです。

真我や空に関する感覚や理解は、悟りの道中で一時的に現れる一過性のものなのです。
同様に、大悟に伴って生じる「見るものは見られるもの」という感覚や理解も、悟りの道中の一過性のものなのです。

悟りの階梯を一つ昇ったときには、自我にその厚みがギャップ状に薄くなる等の変化が生じます。
至福等の真我の外縁の感覚や、「見るものは見られるもの」という感覚は、そのような自我のギャップ状の変化により生じる一時的な過渡現象なのです。
それらは、水面に石を投げ入れたときに生じる波紋のようなものであり、水面が落ち着くに連れ収まっていくものなのです。

できれば、この新たな観点から、悟りの階梯について再度書き直してみたいと思っています。


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個人的なこと(近況など)

2014年11月15日 21時45分38秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(近況など)◇

お久しぶりです。
それなりに元気にやっております。
10月下旬に、1年以上放置していた仕事の残務処理を終わらせ、借りていたオフィスも閉鎖しました。
いまは、家の中の片付けをやりながらのんびりと過ごしています。
もう少し落ち着いたら、あるいは、片付けに飽きてきたら、散歩や山歩きでもしようかと思っています。

家にいる時間が増えたので、料理をすることが増えました。
自分で言うのも何ですが、そこそこ美味しく作れるんです。(^^)
と言っても、大したものではなく普通の家庭料理です。
野菜を煮たり、魚を煮たり、中華や、パスタやピザを作ったりしています。

仕事のことですが、明け渡しがあった一昨年の暮れからもう2年近く、殆ど仕事をしてませんし、昨年の9月からは全く仕事をしてませんから、もう既に仕事をしない状態が日常化しているところもあり、このような自分に仕事が出来るのかと、正直なところ思っています。
それでも、一応は働く意思はありまして、もう少し家の中が落ち着いたら、来年の4月ころを目処に、何か仕事を見つけて働いてみようと思っています。
直ぐに辞めることになったとしても、とにかく何か仕事をしてみようとは思っています。

書きかけての悟りの階梯に関する記事が途中で止まっておりますのは、二つほど理由があります。
一つは、率直に申しまして、意欲の低下です。(^o^)
なぜ意欲が低下しているのか、ハッキリとした理由は分かりませんが、現在のところ意欲が沈滞ぎみなのです。
解脱の悟りを伝えたいという気持ちはまだありますので、自分ではこんな時期もあるのだろうと思っています。

もう一つの理由は、悟りの階梯に関する私の近いが微妙に変わってきていることです。
この点については、今晩か明日の夜にでも、簡単に記事を書いてみようと思っています。
ですので、そちらをお読み頂きたいと思います。


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