私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

「それそのもの」という迷い

2014年09月26日 22時01分39秒 | 悟り
◇「それそのもの」という迷い◇

悟りに関連して生じる理解に、「私という認識は消え去り、それそのものである」等の言葉で表現されるものがあります。
そのような理解を得られた方々は、自分は行為そのものであるとか、何かに意識を向けているときはその対象そのものであるとか、意識そのものであると言ったりします。
そして、「もう自分の自我は滅せられた」と言う方もおられます。
中には、私という認識も無いし、感覚も無いと言う方もおられるようです(実は私(慧空)自身も、過去にそれに近いことをこのブログにも書いたことがありました、(^o^))。

このような理解は、大悟(真我の完全覚醒、又は空の悟りと言ったりもします)の悟りにより得られるものなのですが、悟りの行程としてまだ途中であり、迷いの中なのです。
それにもかかわらずどういう訳か、この悟りの段階に到達された殆どの方が、それが最終的な悟り(解脱の悟り)であると誤解してしまいます。

どうしてそのような誤解が生じてしまうのでしょう。

その最大の理由は、「それそのもの」という理解が、それまでに経験してきた日常的な感覚から余りにかけ離れていて、しかも余りに鮮明かつ強烈だからなのだろうと思います。
そのため、自我がその理解を握りしめてしまい、これが最終的な理解に違いないと思い込んでしまうのです。
また、大悟に伴って自我の大半が滅せられるため、自身の自我を認知しにくくなり、自我が滅せられたという誤認も生じやすいのだと思います。


私は、「それそのものである」という理解を得ておられる方々に敢えて申し上げたいのです。

「それそのものである」という認識や、判断をしているのは誰なのか、改めてそこに意識を向けて頂きたいのです。

「それそのものである」という考え(理解)を握りしめている自分に気づいて頂きたいのです。

自分が、「それそのものである」という考えの他にも、他の考えを握りしめ、それに関連した判断や行為等の迷いの衝動を起こしていることに気づいて頂きたいのです。

自分の自我に蓋をしたり、目を背けたりせず、自我に直面して頂きたいのです。

「それそのもの」になろうとしている自分に気づいて頂きたいのです。

進むべき方向は、「それそのもの」になることではなく、自分が考えを握りしめていることに気づき、その考えを手放していくことなのです。


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情報紹介(ミャンマーでの出家)

2014年09月25日 20時42分41秒 | その他
◇情報紹介(ミャンマーでの出家)◇

ネット検索していたら、ミャンマーのお寺で出家したことがある方のサイトに行き当たりました。
ミャンマーでの出家に至るまでの経緯や、そこでの体験がオープンに書かれていて、参考になる方がおられるのではないかと思ったのと、私のメモも兼ねて紹介させて頂くことにしました。

下のリンクからどうぞ(^^)/

ミャンマーお寺生活記


なお、私自身は出家をするつもりは全くありません。
いまさら戒律に縛られるのは勘弁です。


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涅槃の体験は解脱の悟りに関係無しか

2014年09月22日 21時48分49秒 | 悟り
◇涅槃の体験は解脱の悟りに関係無しか◇

以前このブログに、涅槃の体験は解脱の悟りを得るときの重要な手がかりになっている可能性があるという記事を書いたことがあると思います。
しかし一昨日、その考えは間違っている可能性が高いことが分かりました。

今日は、このことについて記事を書こうと思います。
なお、涅槃とは深い瞑想等により得られる完全な無我の状態のことで、この状態になると意識や感覚は完全に断絶し、気絶状態となります。

解脱の悟りとは、端的に言えば、一切の考えを握りしめなくなることなのです。
あるいは、自我が握りしめている考えをすべて捨て去ることなのです。
ただそれだけのことなのです。

例えば、これは絶対だ等として信じていることや、こうであるべきだと思い込んでいることなど、そう言った囚われがすべて無くなれば、それで解脱の悟りなのです。
本当にただそれだけなのです。

握りしめた考えがあるからこそ、それが種になって次から次へと新たな考えを握りしめる衝動(衝動も考えです)が生じてしまうのです。
そして、その考えを次から次へと握りしめてしまうことが、延々と続く迷い行程そのものなのです。

一切の考えを握りしめなくなれば、解脱の悟りなのですから、そこに涅槃の体験の有無は関係ないのです。

一切の考えを握りしめなくなることと、涅槃の体験とは直接的な関係は何もないのです。


涅槃の体験のない方、どうぞ心配されることなく、安心して道を歩んで頂きたいと思います。(^^)


以下、補足です。

また上記に関連して、コメントしたいことがあります。
仏教系の経典に、解脱の悟りを得た人について、涅槃の体験を得た後で解脱の悟りを得た人と、その体験を得ることなく解脱の悟りを得た人とを分けて捉える記述があるようですが、このような分類には意味が無く、誤りである可能性が高いと思います。
解脱の悟りは、一切の考えを握りしめなくなることなのですから、そこに違いなどあるはず無いのです。

ただ、解脱の悟りを得るときに涅槃の体験が間接的な意味で何らかなの影響があることはあるのだろうと思っています。
それは、涅槃の体験があると、自分自身を含めたこの世界そのものが幻であることが腑に落ちやすいので、握りしめている考えも手放しやすくなる傾向があると思われるからです。

しかしその反対に、涅槃の体験が解脱の悟りを得るときの邪魔になることもあるのだと思います。
涅槃も私という自我がつくる考えであるのにかかわらず、涅槃の体験を得たことにより、それをあたかも絶対的なものとして握りしめてしまい、そのことが解脱の悟りの邪魔になることがあるのだろうと思います。


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個人的なこと(今後の生き方など)

2014年09月12日 22時27分19秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(今後の生き方など)◇

今日はまた、大きな心境の変化がありまして、その心境の変化について書かせて頂きたいと思います。

その心境の変化とは、悟り等ではなく、生き方に関する心持ちの変化なのです。
今日の午前中までは、解脱の悟りを得た自分にとって、もう何も問題は存在しないのだから、薄くなってしまい余り機能しなくなった自我をわざわざ働かせて、自分の考えや行為について判断や選択をしなくとも、自然に起こってくる流れに身を任せていればいいんだと思っていたのです。
だって、何も問題は無い上、どんな考えや行為もすべて等価であり違いが無く、考えや行為を選択すること自体に意味がありませんから。
それで、これからも流れに身を任せて生きて行こう、あるいは生きていくしかないなあ、と思っていたのです。
またそれが、解脱の悟りを得た人の当たり前の生き方であり、姿なんだと思っていたのです。

原始仏典に記録されている解脱の悟りを得た人たちの例でも、その多くが、家族や世俗から離れ、一人で暮らすか、悟り系の組織の中に身を寄せて生活していたようであり、このことからも、解脱の悟りを得た人は、自然と日常的な執着から解放されていくというか、そう成らざるを得ないのだと思っていました。

それが、今日の昼頃、私のブログを訪問下さる佐藤さんと仰る方とメールでやり取りしていたときに、流れに身を任せる生き方とは違う生き方もあるんだということが分かったんです。
薄くなりながらもまだ残っている自我を、極限まで駆使して、敢えて何かに拘って生きていく道もあるんだということが分かったんです。
流れに任せて生きながら、執着を手放していくという生き方ではない、敢えて自分が拘りたいものに徹底的に執着して生きていく道もあるんだということが分かったんです。

解脱の悟りを得た者が残り自我を最大限に駆使して生きていくなど、愚かで馬鹿げたことであり、意味の無いことだということはよく分かっています(そもそも「意味」も幻想であり、無いものですし、笑)。
また、自我が薄くなってますから、自分を取り巻く世界の展開は残りカルマが主導権を握っていて、がんばって自我を駆使したところで、どれほどのことも出来ないのかも知れないということも分かっています。

それでも、私は、敢えて拘ってみようと思うのです。
残りカルマが起こす展開の流れに徹底的に抗ってみようと思うのです。

今日は、やっとこれからの自分の生きる道が見えた気がしました。

まずは、家族と一緒にこの社会の中で生きていく道に徹底的に拘ってみようと思っています。
そして、それをやりながら、悟りを伝えるということを一生をかけてやっていこうと思っています。
この社会の中で生きていくため、近いうちに何か仕事を見つけて働こうとも思っています。

もう一度、持ち前の折れない心と、根性でやってみようと思っています(やっぱり私は、「根性」が好きみたいです、(^o^))。

いまは、自分や自分の周りがこれからどうなっていくのか、また自分に何がやれるのか、とても楽しみです。(*^_^*)


私や家族の状況については、またご報告させていただきますね。(^^)


以下、おまけです。

私はこれまで、お釈迦さまが解脱の悟りを得た後の生き方について疑問に思っていたところがあったのですが、今日はその疑問も晴れました。
私は、解脱の悟りを得たお釈迦さまが、どうしてあれほどまでの過酷な伝道生活を選択することになったのか、ずっと疑問だったのです。
解脱の悟りを得た人の人生は残りカルマが主導しているのだとしても、お釈迦さまの伝道生活の過酷さというか、お釈迦さまの伝道への凄まじいまでの執着ぶりを考えると、それを残りカルマによるものであると解釈してしまうことに、何となく違和感を感じていたのです。

その違和感というか疑問が、今日晴れた気がしたのです(もちろん、本当のところはどうか分かりませんが)。
おそらく、お釈迦さまは、薄くなった自身の自我を極限まで駆使して、悟りの伝道にとことん拘ったのです。
それはそれは凄まじい、伝道に対する強い決意があったのです。


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農園コミュニティー

2014年09月12日 10時00分34秒 | エッセイ
◇農園コミュニティー◇

昨今、小規模コミュニティーがちらちらと作られつつあるようですね。
コミュニティー作りの目的や形態は様々なようですが、この流れは今度さらに顕著になっていくのではないかと思っています。
(不確定な未来を語ってもしょうがないのに、また語ってしまっている自分に思わず笑ってしまいますが、(^_^;))。

その中で、私は農業を基盤とした農園コミュニティーに注目しています。
なぜなら、生きる上でやはり食べることが一番の基本だからです。

過去何十年も前(あるいはもっと以前)からこの手の取り組みが何度もなされてきたようですが、それらの取り組みは、ごく一部の例外を除いて長続きせず、失敗に終わってきたようです。
失敗の原因は様々でしょうが、一言で言えば、時期が早すぎたのだろうと私は思っています。
コミュニティー作りに参加するる者の心の状態や、それを取り巻く時代環境がまだそうなっていなかったのだろうと思っています。

ですが、そろそろ、そのような取り組みが成功し得る時期になって来たのかも知れないと思っています。

そして、ひょっとするとそれは、私(慧空)自身の居場所になるのかも知れないとも思ったりもしています。

私自身、まだまだ夢物語ではありますが、そんなことも夢想したりしながら暮らしています。(^^)


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心の時代が来てるのか

2014年09月12日 09時38分26秒 | エッセイ
◇心の時代が来てるのか◇

多くの方々が感じておられることと思いますが、人々も自然環境も不安定になっているというか、変化しつつあるように思っています。

そしてそれに伴い、私たちの心も変化していってるのではないかと思っています。
具体的には、物質的な側面に重きを置いたところから、心の内面的な側面に重きを置いたところへと変化していっているのではないかと思っています。

ひょっとすると、お釈迦さまが生きておられた時代のように、自分の心に対する探求が日常の中に入っていくようなことも可能性としてあるかも知れないと思っています。

不確かな未来のことを語ってもしょうがないですが、何となくそう思えるのです。


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個人的なこと(近況など)

2014年09月10日 15時30分10秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(近況など)◇

仕事(私一人の個人事業です)については、9月末で職場を閉鎖して完全に廃業することになりました。
今後の予定は、全く未定でして、暫く無職を続けることになりそうです。
僅かな貯金があるのですが、それが無くなるまでは無職なのかなと思っています。
それでも働かない可能性も大いにある感じですが、さあ、どうなっていくのでしょうか。(^o^)

家族について書こうと思ったのですが、最近、家内がこのブログを見てるので、書きにくいです。(^o^)

このブログは、10月以降も続けていきます。
どうやら、まだ伝えたいという欲求が続くようなので。

また何かあったら書きますね。


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自分の信じているものについて検証する

2014年09月10日 09時22分19秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自分の信じているものについて検証する◇

みなさん、いろいろなものに対して執着したり、信じ込んで生きておられます。
その対象は人それぞれで本当に様々です。

例えば、幸せが一番だとか。

みんな幸せに暮らせる方法があるはずだとか。

善悪等に対する自分の判断を正しいと思い込んでいるとか。

すべての事に意味があるはずだとか。

あるいは、私という自我の意識は、肉体の機能によって成り立っているに違いないとか。

この世界は、この物質的な現実世界だけで成り立っているに違いないとか。

神はいない、あるいは神はいる等の神に対する思い込みとか。

さらには、私は実存だ、あるいは真我が実存だなどの実存に対する思い込みとか。

真理はある等の真理や法に対する思い込みとか。

などなど。

本当に様々です。

一度、自分が信じるものや、執着しているもの、譲れないもの、これが正しい、こうあるべきだと思い込んでいるものを徹底的に探し出して書き出してみてください。
そして、その書き出したものについて、それが本当に信じる得る対象なのか、徹底的に検証し、追求てみてください
これは、一生をかけた作業になるかも知れませんが、ぜひやってみて頂きたいと思うのです。

その追求の際のポイントは、誰がそれを正しいと考えているのかです。
また、「幸せが一番」等の考えをつくっているのは誰なのかです。


補足です。
なぜ、自分が正しい思い込んでいることや、信じていることについて検証するのかについて簡単に説明しますね。
正しいと思い込んでいることや、信じているということは、それに関連した考えを掴んでいるということであり、そこに、滅すべき自我の根っ子(あるいは、種)があるからなんです。


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ハートの自覚ワークについて(2)

2014年09月07日 22時19分43秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇ハートの自覚ワークについて(2)◇

昨日の記事の続きです。
今日は、このハートの自覚ワークのかなり踏み込んだ部分について書きます。

今日の記事では、このワークを使って大悟(真我の完全覚醒又は空の覚醒)を得る方法についてご紹介します。
なお、私(慧空)は主にこのワークを使って昨年10月に大悟を得ました。

前回の記事で、このワークを行うためには、ハートの中心にある「わたし」という感覚を捉えることがまず必要ですと書きました。
確かに、このワークを使って自覚を進めていくには、ハートの中心にある「わたし」を捉えられればそれで問題ありません。
しかし、このワークを使って大悟を目指すときには、ハートにある「わたし」に対してよりシャープな感覚が得られている必要があるのです。
まずは、そのよりシャープな感覚を得るための方法について説明します。

まず、両方の手の平を重ねた状態で胸の中心付近に当てて、ハートの中心にある「わたし」という感覚を感じてみてください。
そのとき、その「わたし」という感覚の中心に、その感覚の密度が周囲よりも高くなっている塊かコアのようなものが無いか探してみてください。
そのコアの大きさは、大凡直径が1センチから2センチ程度です。
コアに対するハッキリとした実感がなくても、ぼんやりと何かあると感じられれば大丈夫です。
あるいは、ぼんやりと何かあると感じられなくても、「わたし」という感覚の中心がハッキリと分かるのであれば、それで問題ないです。

なぜ、そのコア(あるいは「わたし」という感覚の中心)を捉えることが大切なのかと言うと、そのコア(あるいは、ハートにある「わたし」という感覚)を滅せれば、自ずと大悟が得られるようになっているからなのです。

では次に、そのコア(あるいは、ハートにある「わたし」という感覚)を滅するための具体的な方法について説明します。

その方法はとてもシンプルです。
そのコア(あるいは、「わたし」という感覚の中心)に、ただひたすら自分の意識を集中するだけなのです。
そのとき、「わたし、わたし、わたし、...」とゆっくり声を出しながら、コアに意識を向けると効果的です。
そして、私の意識はこの世界そのものというか世界全体なのですが、その世界全体であるすべての意識を、「一点」、すなわちコア(あるいは、「わたし」の感覚の中心)に集中してください。

このときとても大切なのは、意識の集中度合いなのです。
これ以上集中できないという極限まで意識の集中レベルを高めて頂きたいのです。
これ以上集中したら、意識がおかしくなってしまうかも知れないと思うほどの極限の集中を行って頂きたいのです。
しかも、その集中レベルを出来るだけ長い時間持続して、コアに意識を向け続けて頂きたいのです。

手の使い方については、例えば、手を使ってコアに対する感覚をより高めるようにして、あるいは、コアを両手で包み込むような感覚で、胸の中心付近に重ねた状態で両手を当ててください。
あるいは他の例として、手の平よりも指先の感覚の方が鋭敏な方は、左右の手の各指先でコアを感じるようにして、あるいは各指先から出る意識のエネルギーをコアに当てるような感じで、左右の手の各指をコアの上に当ててもいいです。

このワークによるコアに対する意識の集中は、自我を溶かすとても強力な力があります。
このワークを行う際の意識の集中度合いや、このワークをどれくらいの時間行ったかや、自我の厚みがどれくらい残っているかや、また真我の第一段階の覚醒が得られているか否かなどによって異なりますが、短い人だと、ワークの開始から数日程度で大悟が得られるケースがあると思います。
私の場合は、このワークを一日あたり5、6時間程度のペースで2、3週間続けてやった段階で、大悟が起こりました。
なお、その2、3週間の間は、ほぼ毎日休まずこのワークをやっていました。


以下は、補足です。

ハートに「わたし」という感覚が少しでも残っていると、大悟には至りません。
ハートに「わたし」という感覚が全く無くなるまで、このワークを続けてください。

大悟に至った際、自分が大悟に至ったことは直ぐに分かります。
それが分からないということは決してありません。
まず、それまでハートにあった「わたし」という感覚が忽然と消失しますから、そのギャップ感だけでも直ぐに異変に気づきます。
また、考えである客体と私である主体の合一が始まりますので、目の前の物(例えば、PCディスプレイ等)を見たとき、その対象物に「わたし」の意識が一体化したような感覚が得られます。
つまり、「見るものは見られるもの」という感覚になります。

大悟を得た後は、ハートに「わたし」という感覚が完全に無くなりますから、このハートの自覚ワークを自覚のツールとしては使用出来なくなります。
しかし、自我が滅せられたという訳ではなく、薄くなったとは言え、滅すべき自我はまだしっかりと残っています。
大悟後の自覚は、私に意識を向けながら、起こってきた考えを自覚するという普通の自覚をやっていくことになります。


<補足です(2014年10月10日)>

上記のように、ハートで感じる私という感覚に中心に意識を集中させるときの注意点について補足したいと思います。
ハートの私への意識の集中度が上がってくると、自然と私という自我の意識が薄れていき、思考の無い無我(無心)の方に行ってしまいます(そのままいくと、無我や禅定に入ってしまいます)。
このとき、無我に入ってしまうことがいいことだと誤解される方がおられると思いますが、このワークはあくまでも私に意識を向ける自覚であり、無我に入ることが目的では無いのです。
ですから、安易に無我に入るのではなく、「私」という考えをしっかりと維持して、その「私」に意識を集中し続けて頂きたいのです。
そのときのコツとしては、例えば、「わたし、わたし、わたし、...」とゆっくりと声に出して、あるいは心の中で唱えながら、つまり「私」という考えをハートの中心につくり続けながら、その「私」に意識を集中してみてください。


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ハートの自覚ワークについて(1)

2014年09月06日 23時13分04秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇ハートの自覚ワークについて(1)◇

今日はハートの自覚ワークについてご紹介したいと思います。
ハートの自覚ワークには、既に何度か軽く触れたことがありますが、まだちゃんと書いたことがないなと思い、書いてみることにしました。


ハートというと、自我ではなく真我だという印象を持たれている方が多いと思いますが、ハートの中心は真我の中心であるとともに、「わたし」という自我の中心でもあるのです。
簡単に言うと、ハートの自覚ワークは、ハートの中心にある「わたし」という感覚を捉え、そこに意識をただ向けるだけなのです。

このワークを行うためには、まず初めに、ハートの中心にある「わたし」という感覚を捉える必要があります。

その方法は例えば、両方の手のひらを重ねた状態で胸の中心付近に当てて、ハートの中心の「わたし」に意識を向けながら、「わたし、わたし、わたし、...」とゆっくりと何度か声を出してみます。
そのとき、手のひらが当たっている部分の奥に、「わたし」という感覚が得られれば、それがハートの中心にある「わたし」です。
その感覚が分かりにくいときは、声を出しながら手のひらの位置を上下に少しずつ動かして、「わたし」という感覚を探してください。
人によって「わたし」を感じる位置は多少異なるかも知れませんが、大凡胸の中心付近でそれを感じることができるはずです。
他の目安として例えば、「わたし、わたし、...」という自分の声の振動を最も強く感じる位置を頼りにして、「わたし」の感覚を探って頂きたいと思います。
さらに他の目安としては、強く感動したときなどに胸がキュンとなる位置が分かる方は、そこに「わたし」の感覚があります。

みなさん、ハートの中心にある「わたし」を捉えられたでしょうか?

最初は、実感が乏しく、自分の得ている感覚がそれで合っているのかどうか確信が持てないかも知れませんが、確信が持てないまでもうっすらと何か感じられていれば、その感覚で合っている可能性が高いと思います。
ですから、直ぐに諦めずに、「わたし」という感覚を捉えることに何度もチャレンジして頂きたいと思います。
何度もやっているうちに、「わたし」という感覚を段々とハッキリ得られるようになっていくと思います。

では次に、ワークの内容について説明します。

ワークの方法は、大きく分けて二つの方法があります。
一つ目の方法は、ハートの中心にある「わたし」に対し、意識を集中して向ける方法です。
このとき、両手を胸の中心に当てて、「わたし、わたし、...」とゆっくり声を出しながら、それをやられることをお勧めします。

この方法は、ハートの中心に向けた意識の集中が強ければ強いほど効果が高まります。
毎日、10分でも20分でも、時間を見つけてやって頂きたいと思います。
やればやるほど、効果が高まります。
なお、この方法は高い意識の集中が必要なので、一日のうちの時間が取れるときに、瞑想のような感覚でやって頂きたいと思います。
(私は、この方法を大悟(真我の完全覚醒)が起こる直前の3週間くらいの間、毎日5、6時間やっていました。)

この一つ目の方法の効果はとても絶大でして、自我に直接的に働きかけ、自我を溶かす効果があるのです。
意識の集中が高まるほど、自我を溶かす力は強くなります。
そして、ワークをやればやるほど、どんどん自我が溶けていきます。

二つ目の方法は、普段の動きの中で、できるだけ気にかけて定期的に、ハートの中心にある「わたし」に意識を向けるというものです。
そのとき、心の中で「わたし、わたし、...」と言って頂きたいと思います。
朝起きたとき、顔を洗っているき、朝食を食べているとき、通勤途中、仕事をしているとき、誰かと話しをしているとき、帰宅途中、家でテレビを見てるときなど、どんなときも、忘れず定期的にハートの中心にある「わたし」に意識を向けて頂きたいのです。

この二つ目の方法の効果は、定期的に意識を「わたし」に向けることで、感情や思考等の考えに振り回されるのを抑制するとともに、不要な考えをつくり出すのを抑制する効果があります。


後半に続きます。


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悟りの道と真我の認識の推移

2014年09月05日 12時53分05秒 | 悟り
◇悟りの道と真我の認識の推移◇

昨日少し面白いことに気がついたので、書かせていただきますね。

悟りの道を進むにつれ、何らかの形で真我に対する気づきが生じるのですが、その真我に対する認識が、悟りの道の過程において様々に移り変わるのです。

真我に対する最初の理解は、真我の外縁に触れる第一段階の覚醒によって得られます。
このときは、真我に対して、ひとつのものとか、根源とか、愛とか、至福とか、人によっては神とか、そういう認識をされる方が多いです。

次に、真我の完全な覚醒である第二段階の覚醒(いわゆる、大悟です)が得られると、在るものとか、不変なものとか、気づきそのものとか、全体意識等として認識される方が多いです。
この段階では、真我は禅の空と近いものとして理解されることも多いと思います。

さらに、大悟から最終的な悟りである解脱の悟りに向かうにつれ、真我に対する認識が、全体意識等の認識から、完全な無我(涅槃)へと移行していきます。
なお、完全な無我とは、自我の意識が完全に落ちた状態、つまり気絶状態のことです。

そして、自我が十分に滅せられ、解脱の悟りが得られると、真我と自我の合一が起こります。
その合一は、私という存在の意識の主体が真我ではなく自我なので、自我が主体となり、真我が自我に取り込まれるようにして起こるのです。
このようにして合一が完了すると、どう言葉で表現したらいいのか非常に難しいですが、限りなく薄くなった自我だけが残り、真我に対する感覚がほぼ完全に消失します。
こうなると、それまでは瞑想等により意図して涅槃に落ちることが出来た人も、意図して涅槃に至ることはもうできなくなります。
しかし、涅槃が消失したのではなく、自我の陰に一体となって重なっているだけなのです。
涅槃が自我ととても近しくなり、自我が起きているのか涅槃に入っているのか分かりにくい状態や、いつの間にか涅槃に入ってしまっていたということが増えていきます。


面白いでしょ?(^o^)

これを面白いと思うのは私だけかなぁ?(^o^)


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みんな何かを言いたがる

2014年09月04日 12時15分56秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇みんな何かを言いたがる◇

悟りの道をいく人か否かにかかわらず、みんな何かを言いたがります。
自分が手にしている考えをどうしても外にアピールしたくなるのです。

幸せを表現する人。
自分の社会的なステイタスや成功を表現する人。
自分のやっていることや思っていることを良いと思って表現する人。
反対に、苦しいや悲しみを訴える人もいます。

これらの人はみな、その方が表現している考えやそれに関連する状況を握りしめているのです。

これは、悟りを知っている人も同じなんです。

神や、愛や、至福や、喜びを言う人は、それらの考えを握りしめています。

また、真我や、空や、在るを言う人も、それらの考えを握りしめているのです。

ですから、私はみんさんに申し上げたいのです。

いま「その言葉」を仰ったご自身に意識を向けてくださいと。

ご自身がその考えを握りしめていることに気づいてくださいと。


このような偉そうなことを言っていると、皆さんからお前(慧空)はどうなんだと厳しいご指摘を受けそうです。(^^)

そうなんです。
私も言いたがりなんです。(^^)

ですが、私は何も握りしめてないのです。
だから私は、私が得た最終的な悟りの理解について、「こうです」とか、「ああです」等の具体的なことは何も言わないのです。
ただ、「それを手放してください」とか、「そうではないです」とか、「こうでもないです」等の否定的な表現を使って言うだけなのです。
そうでしか表現できないのです。(^^)


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解脱の悟りへ向かうルートについて

2014年09月04日 09時01分56秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇解脱の悟りへ向かうルートについて◇

私は、解脱の悟りを得る際に、主に自分に起こってくる苦しみと向き合いならがら、言わば「苦」をツールとして利用して解脱の悟りに至りました。
この行程は、お釈迦さまが辿られた道とほぼ同じだと思います。

私の辿った道がお釈迦さまの道と同じだったということや、他の方がどういう道を辿ったかについての情報を知らないのもあって、解脱の悟りに至る道はひょっとすると、「苦」を入り口としたルートしか無いのかも知れないと思うようになっていたところがありました。

しかし、昨日ふと思うところがありまして、「苦」を入り口としない他のルートもあるのかも知れないと思うようになっております。

例えば、その一例というか手掛かりとして。
私という存在というか、意識は、断続的かつ連鎖的にパッ、パッと起こってくる考え(認識)そのものなのです。
それで、解脱の悟りというのは、そのように連鎖的に延々と起こってくる考えを一切掴まなくなることなのです。
だから、もし、起こってくる考えを一切掴まない意識状態に直接的に至ることができれば、「苦」等を使ったアプローチは不要な訳なのです。

私にそのような直接的な行程が可能だったかと言うと、そのようなことは難しかったのだろうと思います。
しかし、中にはそれが出来る方がおられるのかも知れないと思ったりしています。


<追記(2015年1月30日)>
上記の「苦」を使わないで、起こってくる考えを一切掴まない意識状態に直接的に至ることができるかについてですが、どうも、そのようなアプローチは困難というか無いようです。
最後に握りしめているものとして、「苦」はどうしても残るようです。
ですから、最後の手放しは「苦」がポイントになるのだろうと思います。


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個人的なこと(入眠時の意識状態など)

2014年09月03日 15時01分39秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(入眠時の意識状態など)◇

以前に入眠時のことについて、自我の観照意識が目覚めた状態のまま現実の世界から夢の世界に入っていくようになってきたと書きましたが、最近は、ほぼ毎日(起きたとき記憶が無いだけでおそらく毎日)のように、観照意識が目覚めたままで夢の中に入っていくようになっています。
どういう感じなのかお分かりにならない方がおられるとは思いますが、ほぼ毎日そうなのです。

この様子なら、私の肉体が滅んで死んでいくときも、自我の観照意識が目覚めた状態を保ったまま死んでいけるんじゃないかと思っています。
私は、最後の最後までこの目(?、笑)でしっかり観てやろうと思っています。(^o^)
これは私にとって、最後の最後の大きな楽しみになっています。(^o^)

それと、夢の見方も大きく変わってきました。
これはかなり以前からなのですが、どうやら睡眠に入ると必ずと言っていいほどすぐに何らかの夢を見るのですが、夢に参加者として参加していないのです。
いつも観照意識のような意識で第三者的に、夢の景色というか展開を見てるだけなんです。
これをどう解釈するればいいのか分かりませんが、一つの解釈としては、夢に巻き込まれないようになったと言うこともできるのかも知れないと思っています。

ああ、それと追記ですが、人が登場する夢が減ってきているように思います。
夢の内容としては、どこかの景色や、まったく意味不明な世界など様々ですが、単に景色のようなものを観る夢が多いように思います。

また何か面白いことがあれば書きますね。(^^)


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「真我」という迷い

2014年09月01日 09時52分07秒 | 悟り
◇「真我」という迷い◇

意図するか否かの別はありますが、悟りの道を進んでいくと、いずれ真我の覚醒を体験することとなります。
その真我の覚醒には、第一、第二の二つの段階があります。

第一段階の覚醒は、真我の外縁に触れるもので、一般に一瞥とか至福体験等と呼ばれるものです。
この第一段階の覚醒に伴い、すべては一つとか、至福、愛、感謝、喜び等の真我の外縁の感覚が得られるようになります。
それとともに、智慧(智慧)が出現し始め、自分がこの世界について持っていた固定観念等に対する幻想が晴れていきます。

第二段階の覚醒は、真我の完全覚醒(あるいは単に真我の覚醒)とか、あるいは空の悟りや、大悟と呼ばれたりするものです。
この第二段階の覚醒では、自我の大半を滅したことで、自我と真我の合一が始まります。
それに伴って、主体である私と客体である考えとの合一も始まります。
その主客の一体感を端的に表現した言葉として、「見るものは見られるもの」があります。
もしあなたが、あるとき突然、ほぼ四六時中、「見るものは見られるもの」という感覚になったら、あなたは大悟した人ということになります。
この段階での感覚は、平穏さや、静けさや、穏やかな幸福感や、ただ在るなどです。

しかし、上記のいずれの覚醒段階も、まだ迷いの中なのです。
真我の感覚は、第一、第二のいずれの段階も、幸せな感覚や満たされた感覚になりやすいのもあって、迷いを誘うのです。
滅すべき自我はまだしっかりと残っているのに、満たされた感覚に酔ってしまい、自我の存在に気づけなくなってしまうのです。
また、どんなときも主体性は常に自我にあるのに、真我こそが主体であり、実存だと思い込んでしまい、自らの主体性を見失い、真我の感覚の海で溺れてしまうのです。
また、そのような方々には、自分が都合よく自我を使っているのにかかわらず、自分の自我は滅せられたと思い込む方もおられます。

そして、そのように真我に迷われた方々は、真我の感覚に中に留まろうとしたり、自らの肉体が滅んだとき、自身の意識が真我や根源に溶け込んでいくんだと信じ込んだりします。

しかし、それが誰の意識であろうと、私という個の意識が真我や根源に溶け込むことはないのです。

その理由は簡単で、真我も根源も、私という自我の意識がつくった考えだからです(自我も考えですが、(^o^))。

そのような方々が肉体の死を経るとき、一瞬の意識の断絶を感じるかも知れませんが、その後直ぐに、生前の感覚と余り変わらない感覚で、自分の自我の意識が継続していることに気づかれるでしょう。
そして、自分の自我の意識が継続していることに対する驚きと大きな落胆を経験されるでしょう。
残酷ではありますが、それが彼らにとっての真実です(私(慧空)にとっては真実などどこにも無いのですが)。

「真我」の感覚に惑わされないで頂きたいのです。

「真我」の感覚に酔わないで頂きたいのです。

主体性は「真我」ではなく、常に「自我」にあることに気づいて頂きたいのです。

「真我」ではなく、「私」に意識を向け、主体性を持って歩んで頂きたいのです。

そうして歩んでいれば、自ずと迷いは晴れていきます。


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