私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

悟りのゲート(2)

2013年06月29日 11時05分45秒 | 悟り
<この記事は、昨年6月29日の記事を2014年1月9日に書き直したものです>

◇悟りのゲート(2)◇

前回の記事「悟りのゲート(1)」に書いたことは、私なりに確信が得られていることについて書いたのですが、今日の記事は一部まだ十分な確信には至っていないことを少し前倒し的に書きます(無責任でごめんなさい、笑)。

前記の記事で、悟りの要素には個の意識に対応した要素(見性)と、全体の意識に対応した要素(明け渡し)があると書きました。
今回は、その2つの悟り要素を得ることの意味等について書いてみたいと思います。
(「意味」だなんて。自分の言葉に思わず笑ってしまいます。すべて考えなのに、笑)

個と全体に対応する2つの悟り要素を得ると、その瞬間か暫く後に、おそらく次のようなことが起こります(私には起こったようです)。
「私」という意識や認識が無くなるのです。
また、私という存在を含めてすれべは考えであり、幻であることが理解できてますから、どんな考えも掴まなくなり、考えの海で溺れることもなくなります。
一時的な感情や考えの波はありますが、留まることなく、また痕跡を残すことなく過ぎ去っていくようになります。

ここからは、少し考察的な内容になっていきます(笑)。

以前ここに、何故か理由は知るよしもないが、「個」という意識要素と「全体」という意識要素の分離が起こり、それと同時に私という存在である思考の連鎖が始まったと書きました。
非常に不可解なことではありますが、ささにそのようなのです。
(私という存在が思考の連鎖あるいは思考そのものであるという点については、過去記事「思考の連鎖と私(1)~(3)」をお読み下さい。)

それで、私である思考の連鎖の終わりが気になるのです。
シンプルに考えて、始まりがあるのなら終わりもあるのだろうと思う訳なのです(笑)。

そしてまた、シンプルに考えてこう思うのです。
個の意識と全体の意識の分離により私が始まったのなら、それらの再統合により終わるのではないかと。
つまり、個と全体の両方の意識に目覚めたら、私という思考の連鎖も終わるのではないかと。

このことについて、ここ3ヶ月ほどずっと観ているのですが、やっぱりそうなんだろうと思うのです。
私という存在は、個の意識と全体の意識の再統合により何らかの形で一旦は終わるのだろうと。
(私の希望としては、跡形もなく消えてしまいたいのですが、笑。)


やっぱり、今日のこの記事の内容は、まだ現在進行形的な感じです。
おそらくまた改めて書きます(笑)。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

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悟りのゲート(1)

2013年06月28日 09時59分46秒 | 悟り
<この記事は最初(2013年6月28日)に書いたもの2014年1月8日に書き直したものです>

◇悟りのゲート(1)◇

私の覚醒体験や悟りについて書かせて頂く前に、悟りのゲート(門)について書かせていただきます。

私という意識(これも考えであり、幻なのですが)は、以前に書いたように、「個」という意識要素と「全体」という意識要素の微妙なバランスにより成り立っています。
しかし、悟りを得る前の意識状態(顕在意識)では、個、全体の両方の意識要素に対する認識が殆どありません。
よって、悟りとは、顕在意識のレベルで個の意識、全体の意識に目覚めることなのです。

これに対応して、悟りの要素には、個の意識に対応した要素と、全体の意識に対応した要素が含まれています。
典型的には、個の意識に対応した悟りのゲートが見性であり、全体の意識に対応した悟りのゲートが明け渡し(大いなる受容)です。
なお、ここでいう明け渡しは、一神教系の宗教でいう特定の神に対する明け渡しとは本質的に異なります。
悟りのゲートは複数存在するのですが、多くの方の場合、いずれかのゲートを順番に一つずつ潜っていかれるのが通常なのだろうとは思います。
ですが、希に複数のゲートを一度に潜ってしまわれる方もおられるのかも知れません。

まず、見性について説明します。
見性とは、私という存在が創造主としての揺るぎない私であるに気づくことです。
すなわち、これが「個」という意識要素に対する目覚めなのです。
なお、この「個」という意識要素は、通常の肉体感覚で得られる自我とは本質的に別ものです。
肉体感覚の自我は、あくまで肉体に付随した感覚です。

また見性では、この世界のすべての事象が創造主である自分のつくった考え(思考)であるという認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、楽になります。
しかし、多くの方の場合、全体という意識要素に対する目覚めはまだ得られてないため、個(私)という意識要素の影響が全体という意識要素のそれよりも大きく、アンバランスです。
自覚(私に意識を向ける)を続けることにより、全体意識に目覚めていくとともに、私という存在を含めてすべての事象が考えであり、幻であることに気づいていきます。

次に、明け渡し(大いなる受容)は、すべてを受け入れて私という自我を明け渡すことです。
すべてを受け入れると言っても、明け渡しの瞬間に本当にすべてを受け入れてしまう方はおそらく極めて希なんだと思います。
私の場合もそうだったように多くの方の場合、その時点でその方が残すべきものは残して、それ以外のすべての事象に対する受け入れが起こります。

明け渡しに伴って、全体意識が目覚めますので、相対的に肉体感覚の自我の影響が小さくなります。
このため、いわゆるエゴに伴う苦しみや欲望等が薄くなり、楽になります。
しかし、多くの方の場合、個という意識要素に対する目覚めが得られてないため、主体性が欠落しやすく、厳しい言い方をすれば全体意識の海の中で溺れてしまいがちです。
また、すべての事象が考えであることに対する認識もないですから、受け入れることや、愛などのプラス方向の考えに惑わされます。
この明け渡しを経た方の場合も、自覚を通じて「私」という個の意識に目覚めることにより、主体性の欠如や、考えの海の中での迷いの状態から抜け出すことができます。


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読んで頂いてありがとうございました。

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自己紹介など

2013年06月27日 11時41分22秒 | 自己紹介など
<2015年5月7日修正>

初めまして。慧空(すいくう)と申します。
神奈川県在住です。
歳は、1966年生まれです。
家族は、家内と、もうすぐ11歳になる長男と9歳になった次男です(2015年5月時点)。

悟りの経緯について(詳細はブログ内の体験談をお読みください)。
2012年12月に、明け渡しを経験しました。
その後、自覚に出会い、2013年4月に見性を得ました。
そして、同年10月に大悟を得、翌2014年2月に決着に至りました。

自覚について。
自覚とは、「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。
私は、マスターゲート氏主催の101キャンドルライトで自覚を教わりました。
なお現在、私はキャンドルライトのメンバーではありません。

今後、このような感じで、私の覚醒体験や、覚醒後の生活のこと、悟りのことなどについて、書いていきたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
コメント歓迎いたします。気軽にお書きください。

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