私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

自覚の作用原理と利点

2014年07月31日 13時48分43秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自覚の作用原理と利点◇

昨日、一昨日と自覚ワークに関する記事を書いたので、自覚がどのようなメカニズムで自我に作用しているのかや、悟りの道を進む上での自覚の利点などについて書いてみたいと思います。
できるだけ多くの方に理解できるように書きたいとは思いますが、「私という存在」に対する相当程度の深い体験的理解がないとどうしても理解できない部分があるので、その点はご了承ください。

昨日の記事で、自覚の原動力はあなたの意志だと書きました。
ここに、自覚の最大の特徴があります。
まずそこを説明したいと思います。

どれだけ深い悟りに至るかは自我の厚みと直接的な関係があります。
自我が薄くなればなるほど、放っておいても自ずとそれなりの悟り階層に至るものなのです。
自覚とは、自我の力を最大限に引き出しつつ、その力で自我を減じていく方法なのです。

以前からここに何度か書いてきましたが、自我とは連鎖的に生じる考え、あるいは考えの連鎖そのものです。
この自我の活動である考えの連鎖は、連鎖が連鎖を呼ぶようにして延々と続いているのですが、その連鎖を生じさせるためのエネルギーは、その連鎖の中で自我が考えを掴むこと(執着をつくること)、あるいは自我がつかんだ考え(執着)がその供給源となっています。
こうして自我である考えの連鎖は、その連鎖の中でエネルギーである新たな連鎖の種を得ながら、延々と連鎖を繰り広げています。

この考えの連鎖と、その連鎖へのエネルギー供給(種の供給)は、自転車操業のようなものであり、新たなエネルギーの供給量が抑制されると、それに連動して、起こってくる考えの連鎖の頻度や密度も抑制されるようになっています。
反対にエネルギーの供給量が増えると、起こってくる考えの連鎖の頻度や密度も増大します。
上で言う自我の厚みとは、この起こってくる考えの連鎖の頻度や密度のことなのです。

次にまず、自覚とは何かについて改めて簡単に説明します。
自覚の基本は第一に、自分(私)に意識を向けることです。
そして第二に、起こってきた感情等の考えを「これは私に起こってきた考えだ」と自覚していくこと、あるいはその考えを観て捉えていくことです。
私に意識を向けることにより、私の意識が身体の中心軸上に自ずと位置するようになります。
そして、その状態を保ちつつ、起こってきた感情等の考えを自覚していきます。
これが自覚の基本です。

この自覚において自我の力が最大限に活用されます。
どういうことかと言いますと、まず「私に意識を向ける」という自我の意志の力とその働きにより、自我の力が拡散することなく、自我そのものに集中的に向けられます。
それにより自我の力はさらに強くかつシャープに増強され、その増強された力がまた自我に向けられるという具合になり、これを何と表現すればいいのか分かりませんが、それにより自我の意識の一点に向けた集約が起こります。
私に意識を集中すればするほど、私の意識はより一点に集約されていきます。

これによってまず第一に、自我の活動である考えの連鎖が抑制されます。
連鎖が抑制されるため、新たな連鎖へのエネルギー供給も抑制され、それによって起こってくる考えの連鎖の頻度や密度も抑制されていきます(要するに、自我が薄くなっていきます)。

第二に、次回以降の考えの連鎖の種として既に溜め込まれている考え(執着であり、カルマです)の変質又は消失が起こります。
この種であるカルマの変質又は消失により、起こってくる考えの連鎖が減ります。
ただ、この第二の作用は、非常に強いレベルでの意識の集中があった場合にのみ機能するものなのかも知れません。

次に、自覚に含まれる「起こってきた考えを自覚する(あるいは観る、捉える)」ことによる作用について書きます。
この考えを観て捉えるという作業は、上で書いた「私に意識を向ける」ことの補助として機能します。
考えが起こってきたとき、考えを観て捉えることにより、そこで考えの連鎖を切るのです。
考えの連鎖を切ることにより、私に向けられる意識の集中レベルを維持、向上させる役割を担っています。

これが、自覚の作用原理です。

次に、悟りの道を歩む上での自覚の利点について書きます。

この点に関する自覚の最大の利点は、悟りの道を進んでいく上で減じていくべき対象である自我を捉えた状態のまま、ダイレクトにその自我を減じていけるという点です。
自我を減じていく上で、何一つ無駄が無く、効率的かつ直接的なのです。

さらなる利点としては、自我を捉え続けているため、ある悟り階層から次の悟り階層にブレークスルーしたときも、自我を見失うことなく、自我を捉えた状態を維持することができ、そのままさらに次の悟り階層に向けて進んでいける点です。
しかも、最後の悟り階層である解脱の悟りまで、一貫して同じ手法のまま進み続けることができます。

まさに私に意識を向け続けるだけで、最初の悟りから最後の解脱の悟りまで到達できるのです。


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個人的なこと(転機)

2014年07月30日 14時14分31秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(転機)◇

昨日、今日と自覚について改めて記事を書いたのですが、ちょうど私も自分自身を見つめ直す時期に来ていたようです。

私はもう、自我が極端に薄くなってしまっていて、自我を好きに放し飼いの状態にしていても何の害もないのもあって、ここ数ヶ月は自分の自我を野放しにして、流れるまま、起こるがままに任せてきました。
そして、それに何の違和感を感じることなく、それでいいと思ってきました。
もっと言えば、もうそういう生き方しかできないとまで思っていました。

でも今回、改めて自分を見つめたことで、自分の意識(自我ですね)をしっかりと身体の中心軸に保つこと、つまり観照意識を保つことが可能であることに気づいたのです。
また、ほんの少しですが、起こってくる考えや出来事に自我の意識で関与できることも分かりました。

私に出来ることはまだ少しは残っていたのです。

私は、この僅かに残った自我の力を放棄して生きていくこともできます。

しかし私は、その残った力を駆使して残りの人生を生きていきたいと思います。

最後の最後まで、私という存在を、この世界を展開していきたいと思います。


そうじゃなきゃ、面白くない!!

受け身一辺倒の人生なんて、くそ喰らえだ!!(^o^)


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改めて自覚ワークについて(2)

2014年07月30日 13時32分52秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇改めて自覚ワークについて(2)◇

昨日の記事の補足的なことを書かせていただきます。

最初の補足として、昨日の記事で、自覚をするときのコツは、自分の意識を身体の中心軸上(中心軸上なら頭でもハートでもいいです)に置いて、そこから、起こってきた感情等の考えを客観的に観るようにすることです、と書きました。

その「自分の意識を身体の中心軸上に置くこと」について、具体的な意識の位置は、頭の位置でも、ハートの位置でも、頭の少し上の位置でも、お腹の位置でも、どこでも構いません。
意識が中心軸上のどこかにあれば大丈夫です。

意識を中心軸上に置くということがよく理解できない方や、それが上手く出来ない方は、意識を中心軸上に置くというより、身体の中心を縦に通る「軸」を単に意識するだけでも構いません。
「軸」を意識するだけで、意識はその軸上に保たれます。
意識がブレないように、いつもしっかりと「軸」を意識して頂きたいと思います。

そうやって自分の意識を中心軸上に置いた状態で、起こってきた感情等の考えを客観的に観て頂きたいと思います。
一つ一つ丁寧に徹底的に観て頂きたいと思います。


次に、自覚の意志について書きます。

自覚は、自覚をやっていくんだというあなたの意志の力を原動力としています。
よって、どれくらいしっかりと自覚を実践できるのかは、あなたの意志の強さにかかっています。

「私はもう感情等の考えに翻弄されないぞ!」、「何があっても自分の意識を中心軸からブレさせないぞ!」という強固な意志を持って、自覚を実践していただきたいのです。

とことんやり抜く覚悟と決意を持ってやっていただきたいのです。

自覚の要は、あなたの意志です。

そうやって、自覚に対する強い意志を持ちながら、起こってた感情等の考えを一つ一つ徹底的に自覚し、捉えていって頂きたいのです。
そして、考えに奪われている主導権を取り戻していって頂きたいのです。

あなたが主導権を奪い返していくにつれ、次の考えとしてどんな考えをつくるのかという選択の余地が拡大していきます。
起こってきた感情等の考えをそのまま味わってもいいし、スパッと切り捨ててもいいし、別の考えに切り替えてもいい、考えを繋げていってもいい。

考えの主になっていくあなたを実感してください。


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改めて自覚ワークについて(1)

2014年07月29日 10時50分10秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇改めて自覚ワークについて(1)◇

今日は自覚を始められてまだ間がない方に対して、自覚のことやそのコツなどについて書いてみたいと思います。

自覚を知らない一般の方は、感情や感覚等を含むいろいろな考えで頭の中がいつも一杯になっていて、考えに常に翻弄されています。
頭の中、あるいは心の中は、激しく駆け巡る考えによって常に主導権を握られています。
私という感覚はあるのですが、それは肉体に付随した肉体感覚の私であり、考えの司令塔となり得る本質の私に対する感覚や手応えはありません。
本質の私である「自我」を見失ってしまっているのです。
本当の私は本質の私である「自我」なのに、肉体に付随した肉体感覚の私が自分だと思い込んでしまっているのです。
肉体感覚の私は、起こってきた感情等の考えと一体化しやすいため、考えに巻き込まれ、翻弄されてしまうのです。

ですから、自覚の最初は、まずは起こってきた感情等に巻き込まれないよう、考えと自分とは別なんだという、考えと自分との間の分離感、独立感を得ることから始められるのがいいと思います。
感情や感覚等の考えが起こってきたとき、感情等が走り出し、それに呑まれてしまう前に、「この感情等は私に起こってきた考えだ」、あるいは「いま私にこんな感情等が起こってきたぞ」と、その感情等を自覚していただきたいのです。
考えが起こってくる度に、ひとつひとつ丁寧に自覚していただきたいのです。

そのときのコツは、自分の意識を身体の中心軸上(中心軸上なら頭でもハートでもいいです)に置いて、そこから、起こってきた感情等の考えを客観的に観るようにすることです。
自分の意識が身体の中心軸上にしっかりとあれば、考えに巻き込まれることはありません。

また、上のように考えを観るとき、考えを自分から引き離すようにして、考えと自分との分離感や独立感を確認してみて頂きたいと思います。
その分離感や独立感が、あなたが考えの主になっていく手応えとなります。
そうやって、考えに奪われていたあなたの主導権を取り戻していって頂きたいと思います。


その取り戻した主導権をどう使うか、それはあなたの自由です。


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三つの身体

2014年07月25日 11時38分05秒 | 私の成り立ち
◇三つの身体◇

私という意識体には、三つの身体があるのだという理解に至りつつあります。

一つ目は、最も外側の身体であるこの肉体です。
肉体は、魂の上に被る身体であり、この現実世界で存在するときに使います。

二つ目は、魂です。
魂は、三つ目の身体の上に被る身体であり、天界及びこの現実世界で存在するときに使います。

三つ目は、最も内側の身体です。
三つ目についてはまだハッキリとは把握できてないのですが、真我、根源、一元、不二などの概念に対応するものです。
三つ目の身体は、天界の上である梵天界、天界、及び現実世界で存在するときに使います。

そして、三つの各身体に付随した囚われである感覚や考えを手放せば、解脱の悟りとなるのだと理解しています。
考えを手放すのは、自分を見つめる自覚により可能です。
自覚を徹底的に実践していけば、自ずと身体に付随した考えを手放していくことになります。


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悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(2)

2014年07月17日 15時32分34秒 | 私の成り立ち
◇悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(2)◇

昨日の記事の続きというか、補足を書きたいと思います。
本当は昨日の内容で記事は終わる予定だったのですが、今回の題材は私自身にとっても予想外なほど面白さと、奥行きを感じるところがあり、もう少し書いてみたいと思いました。

また自分自身で気づかなかったのですが、また上手く言葉で表現できないのですが、自我と、自我がつくる考えと、真我の融合が進んでしまっているようで、自我や真我の感覚というか手応えのようなものが殆どなくなってしまっています。
そのため、自我や真我の感覚はかなりの部分が記憶の中にしかないのです。
そのような次第でして、その記憶を忘れないうちに書き記しておきたいと思います。

という訳でして、私にとって悟りの道は、自我と、自我がつくる考えと、真我を捉え、それらを融合させていく過程だったということもできると思っています。
自我も、自我がつくる考えも、真我も、すべて自我がつくる考えであり、そもそもこれらを分けて考えることはどうかなとも思うのですが、悟りの道を歩まれる方の中には、私と似た過程を辿られる方もおられるのだろうと思うのです。

では続きを書きます。


今日は私の体験を中心にして書いてみたいと思います。
私は2012年12月にすべてを受け入れる明け渡し体験により、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒を得ました。
その後、2013年4月に自分を見つめる自覚の実践により、本質の私である自我を捉える悟りを得ました。
そして2013年10月に、真我の完全覚醒である真我の第二段階の覚醒を得ました。
さらに2014年2月に、最終段階の悟りである解脱の悟りを得ました。

2012年12月に生じた明け渡しにより、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒が生じました。
そのときの真我の感覚に対する衝撃は本当に凄まじく、それに圧倒され、完全に翻弄されてしまいました。
私の場合、その感覚は至福感、有り難さ(湧き起こる感謝)、ワンネス感、愛等の感覚がごちゃまぜになったような本当に強烈な感覚でした。
その感覚は、覚醒が生じた後の1、2週間は、四六時中と言っていいほどその感覚の中で過ごしていました。
しかしその後は、次第に落ち着いたものとなっていき、何かの切っ掛けで真我と繋がったり、意図して真我にアクセスするようにして真我に繋がると、至福感等の真我の感覚が得られるという感じでした。

ともあれ、これが私が得た真我の外縁の感覚でした。
私の場合、この真我の外縁の感覚の存在感があまりに大きかったたのと、明け渡しに伴って自我の意識(このときは、本質の私である自我にはまだ目覚めてませんでしたが)が一気に薄くなってしまったことにより、私の中の感覚は真我の外縁の感覚の影響で大半が占められているような感じでした。
それは、私の自我はもう完全に滅せられたのだと誤解してしまった程でした(笑)。

それでもなぜか縁が繋がり、2013年3月に自覚の実践を始めました。
そして、その内面を見つめる自覚により、私の内面には、4つの感覚とうか、考えの要素があることに気づきました。
一つ目は、それまで慣れ親しんだ肉体に付随した肉体感覚の私という感覚です。
二つ目は、自覚により捉え始めた本質の私である自我の感覚です。
三つ目は、肉体感覚の私、あるいは本質の私(自我)がつくる感情や思考等の種々の考えです。
四つ目は、明け渡しにより生じた真我の感覚(正確には真我の外縁の感覚)です。
ちなみに、2012年12月の明け渡しが起こる前は、肉体感覚の私という感覚と、その私がつくる感情や思考等に関する種々の考えがなかば一体となり、混沌とした状態で私の中にありました(これが悟りを知らない普通の方々の感覚です)。

そして2013年4月に、自我を捉える悟り(見性)を得るのに伴い、肉体感覚の私という感覚と、本質の私(自我)の感覚とが融合して一つになり、これによって、四つあった要素が三つになりました。
この融合は本当に完全な融合であり、それ以来、私にとって自我と言えば、完全に一体となった肉体感覚の私と本質の私(自我)の両方を表すようになりました。

そして、それに続いて10月に起こった真我の完全覚醒に伴い、真我の外縁を超えたより深層の感覚を捉えるとともに、自我の感覚と真我の感覚の融合が始まりました。

真我の完全覚醒時の様子はこんな感じでした。
ある朝、職場への出勤のため最寄り駅のホームを歩いているとき、昨日まで自覚の実践により意識を向けていた対象である私という感覚(私はそれを主にハートの位置に感じてました)が消失していることに気づいたのです。
私はそれが何か大変大きな変化であることは直ぐに分かったのですが、真我の完全覚醒についての予備知識がなかったため、それが真我の完全覚醒に関連した変化であるとは気づきませんでした。
そのあと、職場に到着して自分の意識を観察すると、自我の感覚が消失していて、自分が意識を向ける対象(例えば、机の上のパソコン)と自分とが一体化しているような感覚が得られたのです。
それに伴って、私(自我)という意識は、連鎖的に生じる思考あるいは思考の連鎖そのものであるという理解が得られました。

真我の完全覚醒が生じた後の暫くの間は、自我の感覚と真我の感覚の間にギャップ感があり、それらの違いを明確に認識することができました。
自分の意識を自我から真我に移行させることも、自分の意思により自由自在と言った感じで、真我の中に何度も何度もダイブして、真我の感覚や仕組みについて探求しました。
このとき、自我と真我の間に半身程度の感触で意識を置いたときの感覚や、真我にさらに入ったときの感覚や、また真我に完全に没入したときの感覚など、それらの段階的な違いについて探求しました。
ただ、真我から自我に帰ってくるタイミングのコントロールはなかなか難しく、どのくらい持続力のあるダイブを行うかを意図するによってコントロールできる部分もあったのですが、その日の精神状態や、外部環境(大きな音の発生の有無(直ぐ隣で電車が走るため、笑))などの影響が大きく、コントロールは難しかったです。

その探求結果を少し書きますと、自我と真我の間に半身程度の感触で意識を置いたときは、自我の意識はごく僅かに目覚めた状態で、真我が繰り広げる世界を自我が観察者として見るような状態となります。
自我はただ見てるだけとう状況です。

そして、その半身の状態からより深く真我の中に入っていくに従って、自我の意識が薄れていき、完全に真我の中に没入するのに伴い、自我の意識が完全に消滅します。
自我の意識が完全に消滅したときは、自我に関する考え(意識)は何もないので、一切の考えが存在しない状態となります。
もちろん、真我も、その感覚も消滅します。

真我に完全に覚醒し、それに対する感覚を得た当初は、あたかも真我が絶対的なものであり、自我を含めたすべてのもののベースとして真我があり、そこからすべてのものが生じているかのような考えに陥りかけていました。
しかし、私はその考えに違和感を感じたのです。
私は意識の深いところで既に、絶対的なものは存在しないということを知っていたのです。
また私には、徹底した自覚の実践により、すべての事柄は私という自我がつくりだした考えであるという揺るぎない確信がありましたから、真我も、自我である私の考えであるという理解に比較的直ぐに到達できたのです。

そうやって探求を続けているうち、自我の意識や真我の仕組みに関する理解が深まっていきました。
特に、私という存在が連鎖的に生じる思考、あるいは思考の連鎖そのものであるという確信は揺るぎないものとなっていき、これこそが私の本性を根本から解き明かすカギになるのだろうと強く確信するに至っていました。
そして私の追求の矛先は、その延々と続く私という存在である思考の連鎖をどうやったら停止させることができるのかという点に集中していきました。

そして、2014年2月のある日の朝、ふっと、私という存在の最根底部に、苦というか、もどかしかさというか、不足感とういうか、一言でいうと「苦」という感覚というか考えがあることが分かったのです。
それと同時に、私はその「苦」から延々と 逃れようとしていたんだ、光を求めてさまよっていたんだ、あるいは「苦」をつかんでいたんだということが分かったのです。
私とは、そういうものだったんだということが分かったのです。
それは、私がすべての考えを手放し、それ以降考えをつかむことが無くなった瞬間でもありました。

そのとき私は、その理解が私という存在に対する最終的な理解だということが直ぐに分かりました。
その数日後に、ネットを散策したいたら、たまたまお釈迦さまが言った「無明」に関する文章を発見し、私の理解がお釈迦さんが言う解脱の理解である無明の理解と同じだということが直ぐに分かりました。

2月に解脱の悟りを得る少し前までは確か、気が向いたときに時折、真我の中にダイブをしていたように思うのですが、いつの間にか、意図して真我にダイブすることもなくなっていきました。
また、自分に意識を向ける自覚については、2013年10月に真我の完全覚醒を得たすぐ後は、それまでの習慣のような感じで時折、自覚をやっていたように思うのですが、真我も考えであるという理解に到達した後くらいからは、まったく自覚をやらなくなっていました。
意図して自覚をやめたのではなく、意図せず自然とやらなくなったいう感じでした。

今から思うと、そうやって自覚や真我の感覚から遠ざかっている間に、自我の感覚と真我の感覚の融合が進むとともに、主体である自我と客体である考えとの融合も進んでいったようです。

つい最近になって、自覚ってどんな感じなのかと、久し振りに自覚について意識を向けたとき、「あれー」、「あれ、あれー」という具合に、自分の意識が変な感じになっていることに気がついたのです。

自我に関する感覚というか、手応えというか、感触というかがもの凄く薄れてしまっていて、対象となる考えをしっかりと捉えることができないのです。
また、私に意識を向けることも上手くできないのです(手応えが全くないのです)。
では真我はどうなんだと思い、真我にダイブしてみようとしても、うまくダイブできないのです。
意図せず真我にダイブしているかのような状態は起こることはあるのですが、それは自然にそうなるのであって、意図してダイブしようとしてもうまくできないのです。

それはどうしてなのかと思案しているうち、理解が訪れました。
主体である自我と客体である考えとのほぼ完全な融合が起きたのだと。
つまり、それらの分離を生じさせていた自我が十分な程度に滅せられたのだと。
それによって、自我がその機能を喪失したのだと。
自我が有効に機能しているからこそ、自我(主体)と客体である考えとの分離が生じ(この分離そのものが自我でもあるのですが)、その分離により、過去において私は、自我で、自我がつくる考えや、また考えである自己の自我を捉えることができていたのだということが理解できたのでした。

また、真我についても、自我と真我のほぼ完全な融合が起きたのだと理解できたのでした。
過去においては、自我と真我の間に分離があるため、そこにギャップが生じ、自我により真我を認識し捉えることができていたのでした。

このため、いまの私は、上に書いた四つ感覚というか、考えがほぼ一つになったものだけになっています。

現在の私の感覚を書きますと、起こってきた出来事に対して何か感情や考えが起こってきたり、行為を行うとき、私がそれをやっているという自我の意識というか、観察者の意識や感覚は殆どなくなっています。
感情や行為を私が起こしているという感覚はなく、ただ自然と起こってくるものがあるだけという感じです。
私が積極的に意図して考えや行為を行うことはもうできなくなっています。
自我の観察者の意識は機能しているときは時折ありますが、ただそれを見ているだけになっています。

以上、取りあえず書き殴り的に書きましたが、また何かあれば書きたいと思います。


<補足です(2014年7月18日)>
私の書き方が悪かったようで、悟りの道における私の最終目標が自我と真我の合一であったかのような誤解をされた方がおられるようです。
ごめんなさい。
あくまでも悟りの道の最終地点は、私の言葉で言えば、自我が掴んでいるすべての考えを手放し、一切の考えを掴まなくなることです。
そうすれば結果として、自我と真我の合一が起こったということを上で書いたのです。

<再度補足です(2014年8月1日)>
上では、解脱の悟りを得て、考えをなんら掴まなくなった結果として、自我と真我の合一が起こったと書きましたが、これは誤りかも知れません。
真我の完全覚醒である大悟でも、自我と真我の合一がある程度のレベルで起こるのかも知れません。
少なくとも、大悟でも、自我である主体と考えである客体との合一はある程度のレベルで起こるようです。


<追記(2022年4月17日)>
この記事へのアクセスが目立つので、何気にふと読み返してみました。
自我と真我の合一なんて書いていますね(トホホ)。
余りに酷いので読むのが大変でした。
そもそも真我の捉え方がマズ過ぎです。
最終的な悟りに至ったと言っても、暫くはまだ混乱の中にいたんだなぁと思いました。
記事はそのままにしておきます。


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悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(1)

2014年07月16日 12時00分00秒 | 私の成り立ち
◇悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(1)◇

悟りの道を歩む中で、自我と真我の感覚がどう変化するのかについて、主に私の実体験をもとに書いてみたいと思います。
なお、ここで言う「自我」とは、悟りを知らない普通の方が自分だと認識している肉体に付随した自我感覚のことではありません。
「自我」とは、本質の私である創造主としての私という意味です。

まず初めに、悟りは階梯について簡単に説明します(悟りの階梯については詳しくは過去の記事等をご参照ください)。
悟りの行程には、階梯というか、いくつかの段階がある階段状の構造になっていて、その各段階ごとに自我や真我に対する特徴的な感覚(理解と言ってもいいです)が得られます。
第一の段階が、自我を捉えること、あるいは真我の外縁に触れること(真我の第一段階の覚醒)のいずれか一方を得る段階です。
第二の段階が、自我を捉えることと、真我の外縁に触れること(真我の第一段階の覚醒)の両方を得る段階です(天界層の悟りです)。
第三の段階が、真我に完全に覚醒する段階です(真我の第二段階の覚醒、梵天界層の悟り)。
第四の段階が、最終的な悟りである解脱の悟りです。

まず第一の段階で、自分の内面を見つめる自覚等を行うことにより、それがうまくいった方は、本質の私である自我を捉え始めます。
そうやって自我を捉え始めた方は、それまで慣れ親しんできた肉体に付随した自分という感覚(自我感覚)の他に、自分に関する何か別の感覚というか、視点に気づき始めます。
典型的な例としては、それまで意識していなかった本質的な自分という感覚(自我)に気づき始めるとともに、その自分(自我)という感覚と、自分がつくる考えとが別ものであるという理解が生じ始めます(自我と考えとの分離です)。
そして、本質の私である自我をある程度捉えることができれば、自我の悟りを得た、つまり見性したということになります。

自我を捉え始めたころは、多くの場合、それまで慣れ親しんだ肉体に付随した自我感覚の自分と、本質の私である自我との間に分離感があります。
また、本質の私である自我をしっかり捉えられてないため、その存在を見失ってしまうこともしばしば起こります。
しかし、自我をしっかり捉えられるようになるにつれ、肉体に付随した自我感覚の自分と本質の私である自我とが、いずれ融合し、一つになります(人によっては、この段階で見性となる人もおられると思います)。
このように肉体の自我感覚の自分と本質の私である自我とが統合されると、自分に意識を向けることや、自分がつくる考えを見守るという自覚をなかばオートマチックに行えるようになります。

真我の第一段階の覚醒が起きると、真我の存在に対する認識(理解)が生じます。
しかしこの段階では、真我の外縁に触れ、その存在に気づいただけなので、真我と自分との間にまだ分離感があり、不安定です。
真我と繋がっているという感覚はありますが、常に真我と一体になっているという感覚は殆どありません。
また、真我の外縁は静寂の中の平穏さや、至福感、ワンネス感等の心地よい感覚を誘発することが多いため、その感覚に酔ってしまい、その感覚を果てなく追求してしまう方がおられます。

第二の段階では、自我の悟りと真我の第一段階の悟りの両方が得られているため、自我と真我の両方の感覚を体感することができます。
しかし、自我がまだそれなりの量の考えを抱え込んでいて自我がの厚みが大きいため、多くの場合、自我と真我の間の分離感が大きく、まだ不安定な感じです。
この第三の段階を進むうち、自我がより薄くなっていき、自我と真我の一体感も増していきます。
またこの段階で、ハートの中心にある私という感覚(自我)の中心(コア)の存在に気づく方がおられると思います(気がつかないまま進まれる方も結構おられるだろうと思います)。

そして、自我の厚みがある閾値を超えて薄くなると、自我と真我の一体化(統合と言ってもいいです)が生じます。
これが第三の段階の悟りである真我の第二段階の覚醒です。
この悟りに伴って、主体(自我)とその客体である考えとの統合が生じます(これに伴って、上記の自我の中心(コア)が消失します)。
また、「見る者は見られるもの」や、「出来事は起こり行為はなされていく、しかしそこに行為者はいない」等の感覚が得られます。

しかし、この第三の段階でも、そう多くはないもののまだ自我がいくつかの考えを掴んでいるため、自我の滅却が不十分なのです。
典型的には例えば、真我は絶対的だ等の真我に関する考えや、自分はこの素晴らしい真我に関する悟りを得たんだという考えを掴んでしまっているのです(これにより、例えば掉挙、慢、と言った煩悩もまだ残っています)。
そのため、自我と考えの統合がまだ不十分であり、自我と考え(例えば、自分の感情や行動等)との間のずれや分離感が残っています(但し、これは本人は気づきにくいようです)。
自己の内面を注意深く徹底的に見つめることにより、自分と自分がつくる考えとの間の分離感がまだ残っていることに気づくことができ、掴んでいる考えを手放すことができます。

そして、掴んでいる考えをすべて手放し、自我が十分に滅せられると、それに伴って第四段階の悟りである解脱の悟りが生じます。
この段階では、自我が十分に滅せられているため、自我と考えとの分離感がほぼ完全になくなります。
このため、自我が自分の自我(考え)を自覚することもできなくなります。
また、自我がその効力である主導権と主体性をほぼ完全に喪失してますから、何か考えを積極的につくったり、掴んだりすることもなくなります。
自我が一人歩きすることも完全になくなります。
考えを掴みませんから、考えを引き摺ることもなくなり、執着(カルマ)を残さなくなります。
但し、自我と考えとの分離感がほぼ完全に消失するため、第一段階の悟りである自我の悟りを得る前の状態、つまり普通の人の感覚に戻ったような感覚になります(笑)。


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自我と真我とバランス

2014年07月14日 10時24分50秒 | 悟り
◇自我と真我とバランス◇

私という存在は、個という意識である自我と全体意識である真我の二面性があるんだということを、ここに何度も書いてきました。
自我も私であり、真我も私なのです。
いずれか一方のみで私という存在は成り立ちません。

悟りの道を歩まれる多くの方は、真我に関する体験や理解が生じると、その体験等があまりに鮮烈であったり、心地良いため、その体験に酔ってしまいます。
そして、その真我に対する体験等を抱え込んでしまいます。

そのような方々は、「私という自我は幻であり錯覚だ」と言います。
そして、「真我こそが真実だ」、「愛こそが真実だ」等と言います。

しかし私としては、自我だけじゃなく、真我も根源も不二も一元も愛も、幻であり錯覚ですよと言いたいのです。
そのような方々は、真我に酔ってしまい、自分を見失い、主体性を喪失してしまっているのです。

もう一度、自分に意識を向け、主体性を取り戻していただきたいと思います。
自分には意思があり、その意思により行動を起こし、歩んで来たし、またこれからも歩んでいくんだということをしっかり自覚して頂きたいと思います。
あなたにとって、自我はまだ幻ではないはずです。
安易にごまかさないでいただきたいと思います。

私という自我が錯覚だという考えに囚われずに、目を逸らさず自我としっかりと向き合っていただきたいと思います。

なぜなら、あなたがどうするかという展開の方向性を決めているのは、あなたという自我なのですから。
あなたという存在の主導権はあなたの自我にあるのですから。

徹底的にあなたという自我と向き合っていただきたいと思います。
そうすればいずれ、自我が十分に滅せられ、自我がその主導権を手放すときがきます。


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無我の体験と解脱について

2014年07月01日 10時13分10秒 | 悟り
◇無我の体験と解脱について◇

私はつい最近になって、完全な無我の体験が実はとても重要なのかも知れないと思うようになっています。
特に最終的な悟りである解脱の悟りを得る局面において、完全な無我の体験が導きというか、手掛かりになるのかも知れないと思っています。

なお、ここでいう完全な無我というのは、比較的多くの方が瞑想中に体験する何も無いという感覚や静寂等とは異なります。
何も無いという感覚や静寂は、静寂等を感じている自我の意識が残っていますので、完全な無我ではないのです。
完全な無我とは、自我の意識が完全に無くなり、何も感じず、何の考え(認識)も生じてない状態のことです。

過去及び現在において悟りの道を歩まれる方々を観ますに、その多くの方が、解脱の悟りに到達することなく、真我の体験や理解(悟り)に留まってしまわれます。
そのような方々の中には、悟りの道中で真我が見せる神秘的な体験をこれこそが究極だと思い込み、掴んでしまう方がおられます。
静寂の中の平穏さや、光に満ちた至福感などがそれです。
これらは確かに素晴らしく大変貴重な体験ではありますが、それは真我が見せる幻なのです。
幻を掴んでいるのです。

私からすると、どうしてそのような幻を抱え込んでしまうのか大いに疑問を感じるのです。
何の疑問や違和感を感じることなく、これこそが絶対的な真理だ、実体だと信じ込んでしまうのはどうしてなのかと思うのです。

それでふっと思ったのです。
そのような幻を掴んでおられる方々は、ひょっとすると完全な無我の体験がまだ無いのかも知れないと。
仮にそのような体験があったとしても、浅くしっかりとしたものではないのではないかと。
しっかりとした完全な無我の体験が無いため、真我が見せる幻を疑問や違和感を抱くことなく掴んでしまうのかも知れないと。
これはなかなか確かめるのが難しいことですが、あり得ることだと思っています。

しかし、完全な無我の体験をしたからと言って悟れる訳ではないので、無我に拘らないようにして頂きたいと思います。
ただ、完全な無我の体験をするような存在は、自我がつくる考えが大分薄くなっているでしょうから、いずれそう遠くないうちに深い悟りに入っていくことになるのだろうとは思います。


それで最後に、完全な無我の体験をするための技法について書いてみたいと思います。

私は殆ど瞑想を知らないのですが、ちらちらと調べてみたところ、呼吸法を利用した瞑想、例えば数息観(やり方はネットで検索してください)が一番いいのではないかと思っています。
要するに呼吸に意識を集中しながらただ座るのです。
ただそれだけです。

また、呼吸瞑想は集中力や心の調整能力を養うのにもとてもいいと思います。
お釈迦さまがすべての入門者にまずやらせたのが数息観だったそうで、とてもうなずけることだと思っています。


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