私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

個人的なこと(一段落か)

2014年01月31日 10時15分16秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(一段落か)◇

昨年暮れから昨日にかけて、毎日のように記事を書きながら、悟りや解脱に関する理解も同時進行で進んできた感じですが、どうやら一段落したようです。
私自身としても、一応の納得が得られた感じです。
これで「知りたい」という執着が大分大人しくなった感じです(笑)。

また、「伝えたい」という執着についても、私の理解をそれなりにここに記載できたことで、一旦納得という感じです(インターネット、最高ーー!!、笑)。

気分は大分スッキリした感じです。
身体も軽いです(素晴らしい!、笑)。
四十肩が(いや五十肩か、笑)ちょっと痛いですが(笑)。

ちなみに、仕事はさらにやらなくなってしまってて、そろそろ本当に店じまいかという感じです(笑)。
でも、問題ないです。
私自身、それを心配する気持ちがまったくないのです(笑)。

残るは「家族をやりたい」という執着ですが、いまはそれを味わっている感じです。
これはおそらく死ぬまで味わっていきます。

でも、新たな課題が無くもないのです(笑)。

どうやら、私の時間と活動エネルギーに余裕が生じてきそうなのです。
でも、次の展開がまったく見えないのです(笑)。
私自身としては、特にこれをしたいというものがないので何でもいいのですが、見えないのでそこが気分的に少しスッキリしません(笑)。

いまは、次の展開を待っているというか、探っているというか、そういう感じです。

個人的な予感としては、今年4月で48歳になるのですが、その付近でまた何かありそうな感じはしています。

近況などはまた書きたいと思います。


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2014年01月31日 09時10分48秒 | 個人的なこと
◇師◇

私には、師と呼べる人がいます。


今日はただそれだけを書きたいと思いました。


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明け渡しとは

2014年01月30日 09時23分00秒 | 悟り
◇明け渡しとは◇

明け渡しについての理解がさらにクリアになったので、改めて書かせていただきます。


明け渡しとは分別の放棄なのです。

分別を放棄するということは、私という自我を放棄することなのです。

すなわち、明け渡しとは解脱なのです。


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明け渡しと解脱について

2014年01月29日 10時23分16秒 | 悟り
◇明け渡しと解脱について◇

一昨日の記事で、解脱とは自我の活動である分別が停止することですと書きました。
それに関連して、明け渡しについて少し分かったことがあるので書かせていただきます。

以前、明け渡しとは、すべてを受け入れて私という自我を明け渡し、全体意識(真我)に目覚めることですと書きました。
また、完全な覚醒のためには、明け渡しだけでは足りず、個の意識の目覚め(見性)も必要なのですとも書きました。

おそらく、明け渡しを経験された方の多くはそうなのだろうと思います。
それは、何故かといいますと、多くの方の場合(私も含めて)、明け渡しが起こったと言っても完全な明け渡しではないからなのです。
明け渡しが完全でないため、分別が起こり、私という自我が薄くなりながらも残っているため、最終的に、その自我を滅する過程がどうしても残ってしまうのです。
そして、その後の過程として、個の意識を捉える過程(見性)と、それを滅する過程が必要になるのです。

しかしごく希な例でしょうが、例外があるようなのです。
それは、完全な明け渡しが一気に起こってしまった場合です。
もし完全な明け渡しが起こってしまったら、分別はもう起こらなくなり、自我は完全に滅せられるのです。
そうなった方は、肉体はあっても、私という自我が生じることはないのです。
そして、肉体が滅ぶまでの間、全体意識が肉体を動かすことになるのです。

ラマナ・マハルシさんは、完全な明け渡しを一気にされた方だったのかも知れません。


<補足(2014年1月30日)>

生存中の解脱の完了との関係で、少し分かったことを補足します。

生存中に解脱が実質的に完了するケースは、やはりあるのだろうと思います。
しかし、その場合も、上で書いたように自我が完全に滅せられることはなく、おりふし分別が起こり、真我と自我の間の往ったり来たりの状態なのだろうと思います。
先人の覚者たちも、おそらく殆どの方が(すべてか?)そうだったのだろうと思います。

なぜなら、肉体が残っているということは、そこに何らかの執着があるはずなのです。
あるいはもっと言えば、存在が残っているということは、執着が残っているということなのです。
存在自体が執着であり、カルマですから。
完全に執着がなくなり、自我も滅せられたのなら、その瞬間、私という存在は完全に消え去るはずなのです(消えると行っても、おそらくその抜け殻である屍を残して、意識だけが消えるのです)。
間違いないのです。

とすると、生存中の解脱が完了しているか否かの外見からの判断は困難なのだと思います。
本人にしか分からないのです。


<補足(2014年5月3日)>

ふっと自分の過去の記事が目にとまり、修正又は補足した方がいいと思いました(この時点ではこれが私の理解だったのでそれはそれでいいのですが、笑)。

まずは、解脱の理解について、完全な分別の停止が解脱という点は表現としてそう悪くはないのですが、ちょっとずれているように思います。
そもそも解脱を言葉で表現すること自体無理があるのですが、改めてやってみようと思います。

私は、解脱とはすべての考えが消滅することであると表現したいと思います。
そして、解脱の前段階である解脱の悟りが得られた段階は、一切の考えを掴まなくなった状態と表現したいと思います(これが無明の迷いが晴れた状態です)。


次に、ラマナ・マハルシさんの件です。
上ではマハルシさんは完全な明け渡しをされた方かも知れないと書きましたが、これはどうやら誤りのようです。
マハルシさんが講話で仰っている内容からすると、マハルシさんは真我が絶対であり、永久不滅であると言っておられるようです。
つまり、マハルシさんは真我に関する考えを掴んでしまっていて、それを手放せてません。
また、無明の迷いに対する理解も得ておられないように思われます。


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意思実現の不完全性について

2014年01月28日 11時14分20秒 | 私の成り立ち
◇意思実現の不完全性について◇

引き続き、「私」という意識について書いていきます。

私という個の存在は創造主であり、すべの事象を考えによりつくり出しています。
これは間違いありません。

また、私という存在は、自我と意思(自由意思)を持っています。
これも間違いありません。

ならば、創造主としての私の意思は当然の如く常に完全に実現されるはずです。

しかしそうはならず、実際には私の意思が常に完全に実現されることはあり得ないのです。
意思が実現されるのは、その一部であったり、ときどきであったり、あるいは全く意思と反対のことが実現されることもあります。

それはなぜか。

それは、私という存在が創造主である以上、自我が成立するためには、意思の展開方向(通常は時間軸の未来方向)に対する情報は基本的に伏せられている必要があるとともに、ある程度の割合で意思に反することが起こる必要があるからなのです。

つまり、例えば明日の天気が予め完全に分かっていたり、あるいは明日の天気を自分の意識の力で完全に制御できてしまったら、明日の天気に関する分別が起こり得ないのです。
分別が起こらないということは、私という自我も起こらないということなのです。
もっと単純に、明日の自分の行動を予め完全に知っていたり、あるいは自分の明日の行動を事前に完全に決定できたら、自分の明日の行動に関する分別が起こり得ず、そこに自我も起こり得ないのです。

どうやら、私という自我は、私という意識の創造内容の一部を潜在意識下に伏せるとともに、顕在意識の意思と潜在意識の意思との間の微妙なギャップによる意思実現の不完全性を生じさせることで、成り立っているようなのです。

なんだか希望を打ち砕くような話になりちょっと恐縮ですが、そういうことなのです(笑)。

ものごとは、不可避的に上手く行ったり行かなかったりするようになっていたのでした。


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自我の活動と解脱

2014年01月27日 10時28分22秒 | 悟り
◇自我の活動と解脱◇

一昨日から、自我と意識構造についてずっと探っています。
私という意識や、潜在意識に何度も何度もアクセスやアタックをして探っています。
成果が上がっているような、上がらないような、あるいはそもそもが無駄な行為であるような(笑)、微妙な感じなのですが、それでも分かってくる部分もあるので、それについてまた書いてみます。

今日は、「解脱」について書いてみます。
いままで、解脱という言葉を意識して使ってこなかったのですが、もういいだろうという気分になりました。

「解脱」とは、「私」という存在が肉体のレベルでなく存在のレベルで消えることなのです。
そして、「私」という存在が消えることとは、自我の活動、すなわち分別(思考)が完全に停止することなのです。

「私」という個の意識は、分別と同時に起こります。
分別とは、主体と客体の分離であり、それは「私」という主体(意識)の発生を意味するのです。
このため、分別が停止すると、「私」という個の意識が消えるのです。
要するに、分別が無くなるとあるいは分別を手放すと、解脱に至るのです。

なお、分別が無くなると言っても、四六時中そういう状態になっている訳ではないんです。
肉体を持っているときは、分別がある状態と無い状態を往ったり来たりするのです。

この往ったり来たりの現象がなぜ起こるかのかについては、そこをずっと観ているのですが、そいういう現象がなぜ起こるのか、まだ掴み兼ねています。
現時点の理解では、そのような往復現象が起こるのは、分別が無くなっている状態のときも、そこにはまだ種のような、あるいは波紋のような、あるいは最後に残った執着とでもいうべき何かが残っていて、その何かにより分別が誘発され、私という個の意識に戻ってきているのではないかと思っています。

そして、その最後に残っている種のような何かが消えたとき、「私」という存在は消えるのだろうと思っています。
それが起こるのはやはり、この肉体が滅ぶときなのかも知れないと思っています。


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自我と意識構造

2014年01月25日 12時49分33秒 | エッセイ
◇自我と意識構造◇

一昨日、私という自我がつくる分別の性に気づいてそれを受け入れたことで、それに関連していろいろ見えてきたことがあるので、それを書きたいと思います。

それは、私という個の意識の顕在意識と潜在意識の二重構造についてです。

まだ確信には至ってないのですが、どうやら、私という自我の意識が起こるためには、顕在、潜在の意識の二重構造が必須であるようなのです。
どういうことかと言いますと、私という個の意識はそれ自体が創造主であり、すべての事象をつくり出している訳なのです。
そのすべての創造内容がすべて顕在意識で把握されてしまったら、そこに自我意識が成立し得るのかと思うのです。
おそらく、成立し得ないのです。

さらには、上手く表現できませんが、顕在意識と潜在意識の間の微妙なギャップが、自我とその活動の原動力になっていることが分かってきたのです。
つまり、私という個の意識の活動とは何かというと、顕在意識と潜在意識の間の微妙なギャップに対する反応の連鎖であるということもできるのです。

どうやら私たちは、個の意識という観点から見れば、顕在意識と潜在意識の間の微妙なギャップに対する反応の連鎖を延々と繰り広げてきたようなのです。
一つの側面として、自我とはそのギャップに対する反応ということもできるようなのです。

それでです。
ここからが本当のポイントなのですが。

そのギャップを受け入れたらどうなるかってことなのです。

おそらく、自我の活動は間違いなく大人しくなるはずです。
そして、もし仮にそのギャップをすべて受け入れてしまったら、おそらく自我の活動は停止するのです。

どうですか?
面白いと思いませんか?

面白いと思うのは私だけかな?
多くの方は、何を言っているかさっぱり分からないかも知れませんが、一応書きました。

もし私が心理学者なら、これで論文を書くのだけどな~ (^o^)


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新たな夜明け

2014年01月24日 10時09分58秒 | エッセイ
昨日の私のささやかな気づきについて書かせていただきます。


◇新たな夜明け◇

いくら悟りを深めたつもりになっても、ふと我に返ると、思い通りにいかずもどかしい状況に遭遇してしまいます。
そこでまた、思い通りにいかないと考えている自分の分別を自覚し、手放すのですが、気がつくとまた、もどかしさを抱えている自分が出てきます。
本当にキリがないのです(笑)。

それで、これはどうしたものかとずっと考えていました。
どうしたら、抜け出せるのかと。

そして、やっと気づくことができました。

「私」という個の意識の働きは、そもそもがそういうものだったのです。
「私」という存在は、どうしても分別により、もどかしさや苦しみをつくり出してしまうのです。
これは避けられないのです。
ここに、お釈迦さまの言われる「一切皆苦」の意味があったのでした。

では、どうするか。

対応の方法は、大きく分けて二つなのです。

一つは、出来うる限りの事柄から身を引くことです。
究極には、どこかの山奥で一人で暮らすことです。

もう一つは、どの道、上手くいったりいかなかったりするのだから、それを受け入れて、これまでと同じように生きていくことです。

どちらの道を選択するのか。

私は迷わず、後者の道を選択します。

昨日、改めてそう決めたのです。


もどかしさも、苦しみも、ウエルカムです (^o^)


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「私」というゲート

2014年01月23日 10時25分41秒 | 悟り
◇「私」というゲート◇

悟りの道を歩む過程で、どうしても潜らなければならないゲートがあります。
それが、「私」という個の意識のゲートなのです。
希に意図せずにそのゲートを潜ってしまわれる方もおられるのでしょうが、意図して悟りの道を歩まれる方は、いずれ「私」というゲートを目指して歩まれることになります。

「私」というゲートを潜る方法は、おそらく一つしかないのです。
それは、まずは「私」という個の意識を捉え、その捉えた「私」に意識の焦点を当てることなのです。
決して、愛することでもなければ、受け入れることでもなく、許すことや信じることではないのです。
ただ「私」に意識を向けることなのです。

本当の自覚とは、私はこのようにただ「私」に意識の焦点を当てることなのだと思っています。
また、これを仏陀(見性した人)の自覚というのだろうと思います。

この本当の自覚をするためには、「私」を捉える必要があり、悟ること、つまり見性することが必要なのです。
「私」を捉えられてない方は、まずは見性され、「私」というゲートを手に入れてください。

既に見性され、「私」を捉えられている方は、ゲートを手に入れられた方です。
立ち止まらずに、せっかく捉えられた「私」に意識を向けてください。
熾烈なまでに徹底的に「私」に意識を向けてください。
そうすれば、「私」が大きく深く広がるようにして、あるいは溶解して薄くなるようにして、「私」というゲートが開かれるときがきっときます。
その過程で、おそらく全体意識の目覚めも自ずと訪れるのだろうと思います。

最後に、なぜ「私」というゲートを潜る必要があるのかについて書きますと、全体意識(真我と言ってもいいです)に完全に目覚めるためには、どうしても「私」というゲートを通らなければならないのです。
明け渡しだけでは、足りないのです。
明け渡しをされた方は、私がそうであったようにおそらく、「私」を捉えるのも、そしてその「私」を潜るのも、難しくありません。
ぜひ、「私」を捉えられ、潜っていただきたいと思います。
あなたは、おそらくそのために生まれてこられた方です。


<補足です>

下のコメント欄のヒロさんのご質問に関連して、補足させていただきます。

まず、どうして明け渡しだけでは足りないかについて、書かせていただきます。
明け渡しにより得られる全体意識(真我)の理解は、人により個人差等も大きいのでしょうが、言わば全体意識の外縁を撫でる程度の理解しか得られないのです。
明け渡しにより、全体意識に繋がるようにしてアクセスできるようになるのですが、常に繋がっているという訳ではなく、全体意識に繋がるときは、感謝の気持ちを起こす等して何らかの形で意図しなければなりませんし、そうしたことが拘りや、執着になったりもします。
また、全体意識に繋がったときも、ワンネス感や、大きな喜び等の感覚は得られるのですが、全体意識の明確な姿を捉えられるまでの理解は得られないのです。

次に、「私」というゲートを潜るということの意味について補足します(ゲートという表現に拘りすぎて、説明が不明確になってしまいました、笑)。
「私」というゲートを潜るとは、「私」という存在が考えであり、幻であることを実感として理解(自覚)することなのです。
そして、その私が考えであることを自覚することは、同時に全体意識の本質を捉え、理解(自覚)することであり、全体意識に完全に目覚めることなのです。
それは、考えの連鎖そのものが全体意識としての私なのだということを理解することなのです。
このような全体意識に対する理解が生じると、全体意識に完全に目覚めた状態となり、常に全体意識が捉えられた状態となります。
そして、私という個の意識と全体意識の間を自由に往ったり来たりできるようになります。

残るご質問ポイントの、明け渡しを経験することなく見性された方の場合、「私」というゲートを潜る前に、全体意識への目覚め等の何らかの前段階があるのかの点についてですが、私自身が見性前に明け渡しを経験してしまっているので、この点に関する詳細はよく分からないのです(ごめんなさい)。
この点は、私の予想程度のことしか申し上げられないですが、おそらく人によりいろんなバリエーションの過程があるのだろうと思います。
私自身も気になっておりまして、いつかマスターゲートさんに質問してみたいと思っています。


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自由意思について

2014年01月22日 09時22分28秒 | 私の成り立ち
◇自由意思について◇

今日は、意思(自由意思)について書いてみます。

意思については、あるとする考えと、ないとする考えの二通りの立場がありますが、結論から言えば、どちらも正しいということになります。

このブログで、私という意識は、個の意識要素と全体の意識要素から成り立っていますと書き続けていますが、上記の意思に関する異なる二つの立場は、これらの個、全体の二つの意識要素のいずれに立脚するかにより生じているのです。

個の意識の観点から見ると、私という意識がありますので、確かにそこには意思があるのです。
私が幻であっても、そこに私が顕在化しているとき、意思はあるのです。
典型的には、自分の身体を自由に動かすことができるというこの事実が、意思の存在を最も端的に表しているのだと思います。

一方、全体意識の観点から見ると、そこには私という意識はなく、ことがただ起きていくだけですから、意思もないのです。
ただご注意頂きたいのは、意思がないからと言って予め起こる事柄が決まってしまっているという訳ではありません。
全体意識の観点では、そういう決まり事など何もなく、ことがただただ起こっていくだけなのです。

次に、ちょっと面白いことを書きますね(面白いと思うのは私だけか、笑)。
以前ここに、悟りの要素には、個の意識に対応した悟り要素(例えば、見性)と、全体意識に対応した悟り要素(例えば、明け渡し)があると書きましたが、意思の有無についてどちらの立場がしっくりとくるかにより、自分が見性、明け渡しのいずれの悟りゲートを先に目指しているのかが大体分かるのです。

先に見性ゲートを潜られる方又は潜られた方の多くは(ほぼ全員か?)、意思があると仰います(多数のサンプル採取済みです、笑)。
一方、先に明け渡しゲートを潜られる方や潜った方の多くは、意思がないと仰るようです(こちらはサンプルが少ないですが、笑)。

ちなみに、私の場合はと言いますと、私は明け渡しを経験した後に見性を得たのですが、明け渡しを経験する前は、やっぱり意思はないと強く確信していたのです(笑)。
意思はあるかのように見えるだけで、人間の錯覚だろうと思っていました。
ですから、明け渡しの後も意思はないと思っていましたし、実は見性を得た後も暫くは、やっぱり意思はないんだろうと思っていました(いま思うと、如何に自覚が浅かったのかと思います、それでも見性してしまった不思議、爆笑)。

見性後暫くして、自覚が深まり、私という個の意識をより的確に捉えられるようになって初めて、自分に意思があるのだと自覚できました(笑)。
その後、さらに自覚が進み、個、全体の両意識が統合されるに伴って、個と全体の二つの意識による意思の有無の違いについて理解しました。


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執着について

2014年01月21日 11時07分31秒 | 私の成り立ち
◇執着について◇

今日は、執着について書かせていただきます。
まず初めにきっぱりと申し上げておきたいことは、執着はけっして悪いものではないんだということなのです。
執着も必要な過程なんだということなのです。
ですから、仮に無理に執着を手放そうとしても、それは無理です。
手放す時期が来たら、自ずと手放していくようになります。

それならなぜ、執着について敢えて書こうとするのかと問われそうですが、それはおそらく、執着に対する私の理解がそれを手放す時期に来ておられる方へのヒントになるのだろうと思っています。
情報の送り手がいれば、必ずその受け手がいるのです。
どういう受け取り方をされるにせよ、受け手は必ずいるのです。

では本題に入っていきます。

最も根源的な執着は、私という存在が消えることに対するおそれからくるものです(ここで言っているのは、肉体の死ではなく、存在自体の消滅に対するものです)。
殆どの方は芯の部分で、「私という存在の考え」を握りしめ、「私は在るんだ」という信念というか、思い込みをしておられます。
信じ込んでしまっているため、私という存在が考え、すなわち幻であることに気づかないのです。

上の根源的な執着の周辺である深い部分には、「私という存在の考え」を覆い隠すような形で、いくつかの深い二次的な執着があります。
その根深い執着の例としては、例えば「経験したい」、「知りたい(理解したい)」、「愛したい(反対に、憎みたい等もあるのか?)」、「楽しみたい(反対に、苦しみたいもあるのか?)」、「救済したい(反対に、苦しめたいもあるのか?)」、「霊的に進化したい(反対に、逆方向の進化志向もあるのか?)」、「伝えたい」などがあるようです(ここは推測です)。
これらの「経験したい」等の衝動的な欲求も、私という個の意識が握りしめている考えなのですが、「私という考え」を取り巻き、一体化するようにしてそれを支えています。

私の場合はと言いますと、いまは殆どの執着が消えてしまっていて、根っ子の部分ではすべてのことがどうでもよくなっています(ホントに、笑)。
強いて言えば、「家族をやりたい」、「知りたい」、「伝えたい」等の執着がほんの少し残っている感じです。

この記事を読まれて何かを感じられる方は、私と同じようにそういう時期に来ておられる可能性があるのだろうと思います。


なお、私がここに書いていることはすべて私(慧空)の考えであり、戯言ですから。
どうぞ、私や私のつくった幻に惑わされないようにしてくださいね(笑)。
私自身もそうしてますから(笑)。
考えはかる~く捉え、私自身を観るときは熾烈かつ徹底的に、というのがコツです(笑)。


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個の意識と全体意識

2014年01月20日 10時43分38秒 | 私の成り立ち
◇個の意識と全体意識◇

個、全体の両意識について、さらに書いていきます。

個、全体の両意識に目覚めると、ほぼ常にその二つの意識を捉えているので、慣れてくるにつれて自由にその二つの意識の間を往ったり来たりできるようになるようです。

最近の私の状況で言いますと、一人でいるときは全体意識が顕在化していることが多いです。
特に何もないと、自然と全体意識の方に往ってしまうという感じです。
全体意識から個の意識に戻ってくるのは、私という個の考え(典型的には分別です)を起こせば、すーっと個の意識が顕在化します。
反対に意図して個の意識から全体意識に移行するときは、私という個の考えを一歩引いて客観視するようにして手放すと、すーっと全体意識に移行します。

いまは、全体意識に自分の身体を預け、全体意識下で自分の身体を動かすことについていろいろ試行錯誤しています。
何か面白いことが分かれば、ここに書きたいと思います。

全体意識について少し書きますと、全体意識が顕在化しているときは、そこに私という意識はありません。
私という意識がありませんから、感情も分別も意思もありません。
ことがただ起こっていく、流れていくという感じです。
世界の情報は五感から入ってはくるのですが、それらを感じているのかどうかよく分からない感じです。
おそらく、私が無いのですから、何も感じてはいないのだろうと思います。
ただ、全体意識下で五感に入った情報はちゃんと残っていて、個の意識に移行したとき、その情報が個の意識の記憶に残っています。

このような書き方をすると、全体意識がさも特別なものに感じられるかも知れませんが、そんなことはないのです。
実は私たちは普通にちょくちょく経験しているのです。
典型的には、何かに没頭しているときです。
また、普通に何かをしているときや考えごとをしているときでも、私たちは気がつかないだけで、通常の意識と全体意識との間を頻繁に往ったり来たりしています。

全体意識について何となく分かっていただけましたでしょうか(笑)。

全体意識を捉えるのは、明け渡しによっても可能ですが、自覚(自分に意識を向けること)という手段を使っても可能です。
自分に意識を向け続けるうち、まずは自分の個の意識を捉えることができると思います。
そして、さらにその個の意識に意識を向け続けることにより、その個の意識、すなわち私という存在が幻であることを見破り、全体意識を捉える瞬間がきっときます。

その瞬間、あなたに経験したことのない至福が訪れるかも知れません。


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真我もまた幻

2014年01月18日 12時49分25秒 | 私の成り立ち
◇真我もまた幻◇

引き続き、内面世界の探索を続けておりまして、理解がまだ進むようです。
今日もそのことについて書かせていただきます。

昨晩、このブログにコメントを下さる「とろぞう」さんから、井上義衍老師が実相と生死に関連して話しておられる古い動画を教えて頂き、それを視聴しました。
お陰様で、まさにちょうどいいタイミングで理解のヒントを頂いたという感じです。
とろぞうさんと、そのご縁に感謝いたします。m(_ _)m

ここのところ、私という個の意識と真我との間をかなり自在に往き来できるようになってきておりまして、往ったり来たりしながら理解を深めている感じです。
もちろん、理解が生じるのは、私という個の意識が顕在化しているときのことです(ここがポイントなのですが、笑)。
では、本題に入っていきます。

私は、次の二つの点で誤解しかけてました。

一つは、真我(実相)が、全体意識や私という個の意識と別のものであるかのように考えてしまいそうになっていたのですが、これは間違いでした。
真我は、まさに全体意識のことでした。

もう一つは、全体意識(真我)と、私という個の意識の間で主従関係を考えてしまい、真我の方が主であるかのような考えになりかかけていましたが、これも間違いでした。
全体意識と個の意識は、対をなす対等な関係なのです。

私という個の意識が幻なのですから、全体意識もまた幻なのです。
幻である私という個の意識があるから、全体意識を認識して理解できるのです。
つまり、私という個の意識が存在するから、全体意識も存在するのです。
よって、私という個の意識が消えるのに伴い、全体意識も共に消えるのです。

私という存在を含めたこの世界は、まさに私という個の意識と全体意識の分離、すなわちそれらの起こりにより始まり、それら二つの意識が再度統合されるに伴って消える、瞬きのような一瞬の出来事だったのです。

それは、まさに一瞬の幻なのです。


付け足しのようで、心苦しいですが、

私に自覚を教えて下さったマスターゲートさんに改めて感謝したいと思います。m(_ _)m


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思考の連鎖がただ在るだけ(2)

2014年01月17日 09時23分10秒 | 私の成り立ち
◇思考の連鎖がただ在るだけ(2)◇

思考の連鎖について、もう少し書いておきたいと思います。
もう大分理解はまとまったのだろうとは思っているのですが、まだ理解は進んでるようで、少しずつ明らかになる部分があるのです(笑)。

先日の記事で、個の意識の目覚めと全体意識の目覚めに伴って、「私」という個の意識が消えるのだと書きました。
また、通常の意味での「私という意識」は考えであり幻であり、「私という考え」を含む思考の連鎖が起きていたのだと書きました。

上の私の切り口は、個の意識と全体意識という観点からのものでしたが、別の切り口も存在するようです。

それは例えば、主体と客体という切り口です(ニュアンスの違いだけであり、ほぼ同じことですが、笑)。

個と全体の両意識の目覚めにより「私」という個の意識が消えるのに伴い、主体と客体の統合が起きているようです。
例えば、リンゴに意識のスポットが向けられてリンゴという考えが起こっているとき、そこにはリンゴという考えだけがあり、通常の意味での「私」は存在せず、敢えて言えば、そのリンゴという考えそのものが私なのだということです。

主体と客体が統合されていますから、まさに唯一の存在ということになります。
様々な有り様に変容する唯一の存在ということになります。
存在と言っても、通常感覚の意識はありませんし、意思もありません。
ただただ存在の変容が繰り広げられているだけなのです。

この唯一の存在は、「私」という個の意識の考えとの関連で存在しています。
そのため、個の意識のそれぞれに一つずつ唯一の存在が在ることになります。
私(慧空)には、私という考えに関連した唯一の存在があり、あなたには、あなたという考えに関連した唯一の存在があります。

この唯一の存在を、先人たちは真我と呼んだりするようです。


私とは、思考の連鎖である。

私とは、意識である。

私とは、ただ在る存在である。

私とは、変化である。

私とは、私である。

私とは、真我である。


これらは、すべて同じことを言っているものです。


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思考の連鎖がただ在るだけ(1)

2014年01月16日 09時55分45秒 | 私の成り立ち
◇思考の連鎖がただ在るだけ(1)◇

「私という存在」が考えであり、幻なのですから、「私の意思」も幻なのです。
私の意思は、錯覚だったのです。
そもそも、意思は存在しなかったのです。

敢えて在ると言うとすれば、「私という考え」を含む思考の連鎖がただ在るだけなのです。
私という考えが起こり、私が生きてこれをやっているんだという考えの連鎖が起きていたのです。
ただそれだけなのです。


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