私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

ツイート記事(20240905~)

2024年09月16日 10時10分55秒 | その他
◇ツイート記事(20240905~)◇

<9月5日>
◇今回の米騒動の関連
今回の米騒動は、裏で誰かが仕掛けたものだと考えています。
奴らがどこまで意図しているかはわかりませんが、今回の件はインフレと食糧危機の切っ掛けになるのではないかと考えています。
インフレは間違いないのではないかと考えています。
政府はカネを刷りまくり、市場に垂れ流しつづけてきてますから、インフレは必然であり、切っ掛けがあれば直ぐに起こります。
インフレが起きても、垂れ流したカネを吸い上げるのも無理ですし、金利を上げるのも無理ですから、どうしようもありません。
食料危機については、いずれ奴らが何か仕掛けてくるのではないかと考えています。
来年あたりか。

来年あたり国内が混乱するかもしれませんが、経済や人民統治が崩壊するのは、巨大地震でもない限り、日本が最初ではないと考えています。
主要国の中では、中国かアメリカが先で、その後、それが他の主要国に連鎖するのだと考えています。

<9月11日>
◇丁寧に生きる
私はブログで丁寧に生きてくださいなんて偉そうに書いていますが、自分はどうなんだろうと、今日ふっと我が身を振り返りました。
現在の私は日常生活では結構短気なところがあり、めんどくさがりで、結構雑というか荒っぽいところがあります^^;
ひょっとして、人には偉そうなことを言っておきながら、生き方も結構荒っぽいのかもしれないなぁと思ってしまいました。

それに、生き方の丁寧さってどう捉えたり、評価したらいいのかとも思い、難しい問題だなぁと思いました。
何か思い付いたら、また書くことにします。

<9月14日>
◇兵庫県知事の件と印象操作
兵庫県知事の辞職問題で騒がしくなっていますが、この件はおそらく奥があり、複雑な利害が影響しているのだろうと考えています。
実は私も、つい最近まで報道を殆ど鵜呑みにして兵庫県知事はしょうがいないヤツだと考えていました。
しかし、頑なに辞職をしない知事の様子や、核心的な情報が出てこない状況など、どうも不自然なところが多いなと思っていました。
そして、つい先日、ネットを見ていたらそれらしい裏側の情報が目に留まりました。

報道等では、知事はとんでもない問題人物とされていますが、おそらく真実は違っていて、
知事の言動にも問題は無いことは無かったのでしょうが、マスコミの印象操作が相当入っているのだろうと考えています。
知事はいくつかの利権問題の是正に取り組もうとしたいう情報があり、今回の騒動の根っ子はそこだろうと考えています。

で、何が一番言いたいのかと言うと、
マスコミ等による私たちの印象操作はかくも簡単に行われてしまうのだということです。
改めて、愕然とした次第です。

<9月16日>
◇心に刺さることを書きたい
私はこのブログを何年も熱心に書いているのですが、どうして書いているのかが自分でもよくわからいところがあるんです。
でも、やろうとしていることはそれなりにハッキリしていて、
一つは、悟り世界の地図のようなものを誰でもアクセルできるように、そして誰でもそれなりにわかるような形で開示することです。
もう一つは、心に刺さることを書きたいということです。
特に二つ目の心に刺さることを書きたいという気持ちは強いものがありまして、何をどう書いたらより心に刺さるのだろうと日々考えています。
この熱心さは何なんでしょうねw
人のことなんて放っておけばいいのに^^;
性分なのでしょうねぇ^^;

普通は一人で悟った人の多くはそのままひっそりと死んでいくのだと思うのです。
解脱に関する情報が文献等に殆ど残っていないのは、そういう理由もあるのではと思うのです。

最近、自分自身について気づいたことがありまして、
私はどうやら人が好きなようなのです。
むしろ、人が嫌いなのかと思っていたところがあるのですが、どうやら逆で、人が好きみたいなんです。
あと、動物や植物も好きみたいです。

その辺りのことも、私のこのブログ活動に関係しているのかなと思ったりもしています。

 
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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なぜ私を捉えることが大切なのか

2024年09月14日 09時39分58秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇なぜ私を捉えることが大切なのか◇


なぜ私を捉えることが大切なのかについて、改めて書いてみようと思います。

私とは、実体は無く、有るのか無いのかもハッキリしない、どんなに追及してもよくわからないものです。
しかし、最も身近な存在であり、逃れられないものです。
そのようによくわからない、やっかいな私ですが、この私が生きていく上で、また悟りの道を歩んでいく際にも、中心的な要素になっています。

私を捉えるとは、私に意識を向け、私を実感しながら生きることです。

私を捉えることで、生きて行く上でも、悟る上でも、軸がしっかりとします。
そうすると、自ずと世界の中心に私がしっかりと立つようになります。
それに伴い、主体性を持って人生を生きるようになります。

さらには、自分が最も大切している本心に向き合うようになります。
そして、本心に取り組むようになります。
それによって、悔いの残らない、納得のいく人生を歩めるようになります。

次に、悟りの行程について書きます。
悟りの行程においては、悟るという現象の主体そのものが私ですから、私というものの重要性がより際立って来るのです。
悟り世界にはあちこちに袋小路のような迷い道ありますが、そのような袋小路に迷い込んでしまう原因の多くが私を捉えられていないことに起因しています。
そのため、最後の解脱まで到達するためには、私を捉え続けている必要があるのです。



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仏教に欠けているもの(2)

2024年09月10日 08時10分14秒 | 悟り
◇仏教に欠けているもの(2)◇


先日の記事の続きです。

最初に核心部分を書きますと、仏教に欠けているもう一つのものとは本心です。

私たちにとって最も大切なことは、悟ることではなく、生きることなのです。
まずは生きることへの取り組みがあり、悟りはその取り組みに含まれる一要素に過ぎません。

そして、生きる上で最も大切なのが本心なのです。
本心とは、自分自身にとって最も大切なもの、あるいは大切にしたいものです。
誰しも皆、この本心を持って生まれてきます。
しかし、仏教はこの本心に関する着眼が欠落しているのです。

本心には大きく分けて二つの要素が含まれています。
一つ目の要素は、こう生きたい等、生き方に関するものです。
この要素は、生まれてから死ぬまで余り変化ません。
二つ目の要素は、人生でやりたいことに関するものです。
この要素は、人生の経過に伴って変化していきます。
これら二つの要素のうち、より重要なのは一つ目の要素です。

しかし、多くの方々は本心から目を背けたまま生き、死んでいきます。
それでは、納得できず、後悔が残るのです。

どうか、賢明な方々は、自身の本心に向き合い、出来る限り取り組んで頂きたいと思います。
上手くいったかどうか等の結果は問題になりません。
向き合い、取り組むという過程が重要なのです。

人生における自らの言動や取り組みについて、本心に照らして納得できているか、後悔は無いかを常に確認しながら、慎重かつ丁寧に生きていただきたいと思います。



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仏教に欠けているもの(1)

2024年09月06日 08時47分48秒 | 悟り
◇仏教に欠けているもの(1)◇


これまでは、このような直接的な言及は控えてきたのですが、考えが変わりまして、ダメなものはダメと言っていくことにしました。

仏教に欠けているものとは、解脱です。
(ご意見やご批判等はお受けしますので、コメント欄等ご遠慮なく。)

今となっては釈迦が解脱していたのかどうかもわからないのですが、現代に伝わる仏教の系統に、解脱が見受けられないため、始祖である釈迦は本当に解脱していたのかと疑いたくなります。
ハッキリ書いてしまうと、大乗の系統は龍樹も含めて、解脱者は一人もいないのではないかと見ています。
南伝の系統も、どうなんでしょう、解脱者がいるのかどうか、大いに疑問だと見ています。
アーチャン・チャーはひょっとすると解脱しているのかもと思ったりもしていますが、やっぱり違うのかなぁと見ています。

その理由は、仏教全体として苦に対する着眼が浅く、弱いのです。
大乗系は全くという程欠落しています。
南伝系も一部で薄っすらと残っているのかもしれませんが、大半の系統で欠落してしまっているのではないかと見てます。

この仏教の不甲斐なさの一番の原因は何か。
それは、私を捉えることの大切さをわかっていないのです。

実は、悟りの行程を歩む際、私を捉えることが最も大切な要になっているのです。
仏教はそれをわかっていないのです。
釈迦が何を語ったのか、実は殆ど知らないのですが、「私を捉えろ」等の話は聞いたことがありません。
(この点、もし釈迦が語っていたという文献があれば、教えていただきたいと思います。)

私とは、肉体も含めた私という存在そのもののことです。
もちろん、私には実体は無く、あるとも無いとも言えない、いくら追及しても本質的によくわからないものです。
しかし、この私こそが悟り行程の節目節目において要になっているのです。

例えば、小悟では私とは真我(観照意識、気づきの意識)であると悟るのですが、それなりに私を捉えていないと、この悟りは起こりません。
また、大悟では私とは意識であり、世界そのものであると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。
さらに、解脱では私、即ち世界とは苦であると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。

釈迦も含めて仏教は、私を捉えるという観点が余りに弱かった、あるいは欠落していたのです。
そのことは、釈迦が語った言葉にハッキリと表れています。
釈迦は無我という言葉を使いました。
一切に実体は無いという意味で無我という言葉を使ったようですが、文字を素直に読めば、自我が無いかのように読めてしまい、そのような誤解も生じてしまいます。
釈迦はどうしてそのような中途半端な言葉を使ったのか。
彼は私を捉えることの大切さを理解していなかったと考えざるを得ないのです。


<追記>
仏教に欠けている大変重要な要素がもう一つありましたので、後日続きを書くことにしました。



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「禅系覚者の認識が止む」について

2024年09月04日 10時54分06秒 | 悟り
◇「禅系覚者の認識が止む」について◇


今日もまた、禅の悟りに対する批判記事を書きます。

彼らは、悟りは状態ではないなどと知ったようなことを言います。
悟りは状態ではないというは、確かにそうで合っています。
しかし、どこで習ったか知りませんが、彼らがそれを言うのは余りに滑稽なのです。

彼らは、自らの悟りを表して認識が止むなどということをよく言います。
認識が止むとは、それはまさに状態を表しているのですが、彼らは自らの言説の矛盾に気づきません。
少し違った概念ですが、「無認識」というのも状態を表すものです。
さらに違った概念ですが、「自我が落ちる」も状態を表すものです。

悟りはそのような手法では表現できないのです。
悟りは悟りで表現するしかないのです。
つまりは、何を悟ったかということです。

では、「認識が無い」や「私が無い」は状態ではないのではないかという意見が飛んで来そうです。
「認識が無い」や「私が無い」は、悟りの行程の中でよく生じる感覚です。
しかし、残念ながら、これらの悟りというか理解は、誤っているのです。
なぜなら、そもそものところ、一切のことがらについて有る無しの問題は断定不可能であり、「ある」とも「ない」とも言えないのです。
ですから、認識や私について、有るというのも間違いであり、無いというのも間違いなのです。
間違った理解によって悟るなどということは、あり得ないのです。

話を元に戻します。
彼らは「認識が止む」と言っておる訳ですが、そう言うからには、何らかの形で自らの認識が止んだということを考えたり、それに関連した認識(本人の誤認ですが)しているに違いないのです。
つまり、彼らの認識は依然として続いているのです。
彼らはそれに気づけないのです。

さらにです。
彼らに言いたいのは、「認識」というものをどのように捉えているのか、ということです。
「認識」というものの捉え方が余りに浅いのです。
鳥の声が聞こえるとか、目の前の景色が見えるとか、何かの思考が浮かんだとか何でもいいですが、そのように何かの現象が起こって来たとき、それらの現象を認識するという働きがどのように起こっているのかについて、彼らは追及が足りないのです。

答えを書いてしまうと、
現象とそれを認識する働きは、一体不可分に同時に生じているのです。
現象が起こっているのに、認識だけが止むなんてことはあり得ないのです。

彼らは、幾人もの偉大な先人の悟りが自分の悟りと合っているなどとたわけたことを言います。
挙句は、釈迦もそう言っているなどと言い出す始末です。
そんなこと何の頼りになりません。

釈迦も含めて、頼りになるものなど何処にも無いのです。
何かに頼ったり、安易に納得しようとぜず、徹底的に追及していただきたいと思います。
何かに頼っているうちはどうにもなりません。



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