私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

なぜ私を捉えることが大切なのか

2024年09月14日 09時39分58秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇なぜ私を捉えることが大切なのか◇


なぜ私を捉えることが大切なのかについて、改めて書いてみようと思います。

私とは、実体は無く、有るのか無いのかもハッキリしない、どんなに追及してもよくわからないものです。
しかし、最も身近な存在であり、逃れられないものです。
そのようによくわからない、やっかいな私ですが、この私が生きていく上で、また悟りの道を歩んでいく際にも、中心的な要素になっています。

私を捉えるとは、私に意識を向け、私を実感しながら生きることです。

私を捉えることで、生きて行く上でも、悟る上でも、軸がしっかりとします。
そうすると、自ずと世界の中心に私がしっかりと立つようになります。
それに伴い、主体性を持って人生を生きるようになります。

さらには、自分が最も大切している本心に向き合うようになります。
そして、本心に取り組むようになります。
それによって、悔いの残らない、納得のいく人生を歩めるようになります。

次に、悟りの行程について書きます。
悟りの行程においては、悟るという現象の主体そのものが私ですから、私というものの重要性がより際立って来るのです。
悟り世界にはあちこちに袋小路のような迷い道ありますが、そのような袋小路に迷い込んでしまう原因の多くが私を捉えられていないことに起因しています。
そのため、最後の解脱まで到達するためには、私を捉え続けている必要があるのです。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行為の自覚

2018年03月21日 14時16分35秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇行為の自覚◇

考えの自覚をやれる方はそれをやられれば結構でして、ここで紹介する行為の自覚は特に必要ありません。
この行為の自覚は考えの自覚が難しいという方に試して頂きたい方法です。
なお、考えの自覚と行為の自覚を同時並行でやられても問題ありません。

行為の自覚は、その言葉の通り、自分の行為について自覚していきます。
具体的には、普段何気なくやっている一つ一つの行為について、「私がこの行為をやっているんだ」と自覚していきます。
大変でしょうが、一つ一つの行為についてできるだけ徹底的かつ丁寧に自覚してください。

歩いているときは、「私が歩いているんだ」と自覚してください。
さらには、一歩一歩の足の運びについても、「右、左、右、左」と言う具合に自分が左右の足を交互に送り出していることを自覚してください。
道を曲がるときや立ち止まるときは、私がそれらの行為をやっていることを自覚してください。
そして、自らの意志で自らの身体を目的地まで運んでいることを自覚してください。

食事を摂るときも、何にしようかメニューを考えるところから自覚してください。
材料を揃えに買い物に行くときも、料理をするときも、また何かを食べにレストランに行くときも、その途中で必要となる各行為について自覚してください。
食事中も、目の前に並んだ器の中からどれかを選び、選んだ器を手に取り、食べ物を箸で口に運び、咀嚼し、味わい、呑み込むところまで、一つ一つ丁寧に「私がやっているんだ」と自覚してください。

そうやって自覚を続けていると、一つ一つの行為を本当に自分がやっていることを実感するようになります。


行為の自覚と考えの自覚の関係について、少し補足します。
行為は行為単体で起こることは少なく、感情や思考等の考えと相まって起こることが多いです。
このため、最初は行為を主眼として自覚を行っていても、続けているうちに自ずと考えについても自覚するようになります。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

考えの自覚

2018年03月19日 10時36分48秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇考えの自覚◇

私に意識を向けられることに慣れてきたら、それと並行して考えの自覚をやってみてください。
考えの自覚とは、感情や思考等の考えが起こってきたときに、その考えを私の考えとして自覚することです。
起こってきた考えを私の考えとして自覚できたら結構ですから、方法は特に限定はなく自由です。

ただし、一つだけ大切なポイントがあります。
それは、できるだけ私に意識を向けた状態を保ちながら考えの自覚をやって頂きたいのです。
意識の重心を私に保ちながら、起こってきた考えに、その考えは私の考えなんだと自覚してください。

具体的には、例えば次のような要領で行います。
何か感情(例えば怒り)が起こってきたときに、その感情の高まりに巻き込まれる前に、「この感情(例えば怒り)は私の考えなんだな」と心の中で唱えるようにして自覚します。
また、思考(例えば善悪の判断)が起こってきたときは、その判断の連鎖に巻き込まれる前に、「この思考(例えば判断)は私の考えなんだな」と心の中で唱えるようにして自覚します。

「この考えは私の考えなんだな」と心の中で唱えるとき、フレーズの中の「私」の部分を特に意識して唱えます。
これによって、意識が私に引き戻され、起こってきた考えに巻き込まれるのが防げます。
心の中で唱えるフレーズは、そのフレーズの中に「私」という言葉が入っていれば何でも構いません。
例えば、「この考えは私がつくったんだな」、「この考えは私に起こったんだな」など、そのときの感覚に応じて自由に選んでください。

考えの自覚を始めたころは、取りあえず見よう見まねでやってみるという感じなんだろうと思います。
やり方が合っているいるのかどうかも分からず、とても心許ない状態だと思います。
最初のうちはそんなものですから、取りあえず続けて頂きたいと思います。
続けていれば、段々と自覚の手応えや実感が得られるようになっていきます。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めての自覚

2018年03月17日 13時07分44秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇初めての自覚◇

大分以前から自覚ワークについてまとめ直そうと思っていたのですが、そのままになっていました。
やっとその作業に取りかかりたいと思います。
では始めます。


自覚とは、「私」に意識を向けることです。
私に意識を向けさえすれば、自覚です。
まずは、私に意識を向けてみてください。

私に意識を向けることに段々と慣れてきたら、可能な限り常に私に意識を向けた状態を維持できるよう努力してください。
また、私に向ける意識の集中度を段々と高めていくよう努力してください。

私に意識を向けることで、無用な感情や雑念が抑制されるとともに、それらに翻弄されることが減っていきます。
また、心と身体がしっかりとし、落ち着いて行動できるようになります。
そして、私に意識を向け続けることで、私が握りしめている考え(囚われ)に気づくようになっていきます。

身体のどこに「私」を感じて意識を向けるかについてですが、胸(ハート)でそれを感じる方、頭の中でそれを感じる方など様々だと思います。
場所はどこでも構いませんので、ご自分のやりやすい身体の部分で「私」を感じながら意識を向けてください。

「私」を感じないという方や、「私」がよく分からないという方は、自分の身体を頭頂から胸(あるいは丹田)あたりまで貫く中心軸をイメージしてみてください。
中心軸をイメージするだけでも自覚になります。
中心軸をイメージできるようになったら、その中心軸に「私」をいう名前を付けて、その「私」に意識を向けるようにしてみてください。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦だけを手掛かりに歩め

2015年10月30日 19時12分16秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇苦だけを手掛かりに歩め◇

小悟、大悟に至る際の手掛かりは、いくつかの具体的な手掛かりがあります。
しかし、最終的な悟りである解脱の悟りに至る際には、手掛かりとなるものがありません。
なぜなら、どのような手掛かりも考えであり、また何かに頼ろうとする衝動が既に迷いになっているからです。

そのような中で唯一、手掛かりとなり得るものがあります。
それは「苦」です。
あるいは、「苦」に対して起こる自分自身の反応や衝動です。

苦だけを手掛かりに歩んで頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在、各セッションはお休み中ですが、できれば12月には(遅くとも年明けには)再開したいと思っています。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最終的な悟りと意志について

2015年10月30日 08時39分04秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇最終的な悟りと意志について◇

久し振りの記事更新ですが、今日はかなり曖昧で、余りハッキリしていないことを書いてみたいと思います。
なんとなくおそらくそうだろうとは思っているのですが、確かな手応えが無いまま書くことにしました(そもそも私の書く文章はいつもそうなのですが、笑)。
では書きますね。

私は、最終的な悟りである解脱の悟りに至るときの重要な要素として、それに対する燃え上がるような強く激しい意志が必要なのかもしれないと思っています。
その意志とは、具体的には「私」という存在である意識の展開を終わらせることに対する意志です。
但し、その意志は、多くの場合、そんなきれいなものではなく、存在そのものに対する憎悪や激しい嫌悪感のような要素が含まれているのだろうと思っています。
事実、私(慧空)の場合も、存在そのものに対するとても激しい嫌悪感があり、その嫌悪感によって、私(慧空)は存在を終わらせることに強く駆り立てられていました。

また、このような強く激しい意志は、最終的な悟りに至る過程で様々な葛藤や苦しみを生みます。
最終的な悟りへ至る過程は、とても抽象的かつ曖昧で、また微妙であり、なかなか思うようにはいかないのです。
このため、最終的な悟りへの意志が強ければ強いほど、その過程では強い葛藤や苦しみが生じることとなります。
この葛藤や苦しみが、私たちを悟りのさらなる深みへ誘う道案役になっているのだろうと思っています。

つまり、この葛藤や苦しみが意識を内面へ振り向かせるのだろうと思っています。
そして、まだ自分に残っている囚われ、あるいは迷いの衝動に気づくことになるのだろうと思っています。


なんだか尻切れトンボのような終わり方ですが、まあいいでしょう。(^o^)
また何か書きますね。(^^)

◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在、各セッションはお休み中ですが、できれば12月には(遅くとも年明けには)再開したいと思っています。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意志を持って悟りの道を歩め

2015年09月28日 09時51分03秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇意志を持って悟りの道を歩め◇

今朝、久し振りにピンと来るものがありしたので、それについて書きたいと思います。
ピンとの来たのは、意志の力と悟りとの関係についてです。
これまで両者の間に関係は無いことは無いとは思っていたのですが、どう関係しているのかがいまひとつスッキリしていませんでした。
それが、今朝私なりにハッキリとしました。

おそらく、何らかの悟りに至る方のおそらく大半が積極的に悟りを意図することなく、それに至られるんだろうと思います。
私も、小悟(明け渡し)に至るときは、悟りのことなど全く意識してなかったのに、突然悟りの方からやってきたという感じでした。
そういうこともあって、悟りとは求めてもどうにかなるものではなく、求める心がむしろ邪魔になる等と言われるのだろうと思うのです。

確かに、悟りは意図するものではなく、訪れるものという部分はあるんだと思います。
しかし、意図して追求していくものであるという部分も確かにあるのです。
私自身、小悟については半分くらいは悟りの方から勝手にやってきたという感じではありましたが、小悟以降の悟りは、意志の力を持って積極的に追求した結果であると思っています。

前置きはこの辺にして、本題に入っていきたいと思います。

悟る、あるいは悟りの道を進んでいくということは、私という存在である自我が握り締めている囚われ(考え)に気づいてそれを手放していくことなのです。
どうして迷いや迷いの衝動が起こってくるのかというと、自我が握り締めている囚われが起こってくる現象に反応して、その迷いの衝動を引き起こしているのです。
そして、その囚われをわざわざ握り締めているのは、私という自我なのです。

繰り返します。
囚われを握るのは、「私」がわざわざやっていることなのです。

「私」がやっていることなら、囚われを手放すことだって、その気になれば「私」に出来ることなのです。

つまり、「自分はもう囚われを手放していくんだ」という強い意志があれば、手放していくんです。
これは、実に単純で簡単なことなのです。

そうなると、何かの考えを掴んで、外に向かって「これだ」か、「こうだ」と主張している、あるいはそう考えている自分自身に気づくようになるのです。
あるいは、思わず何かを求めて外側に彷徨い出そうとしている自分自身の衝動や姿に気づくようになるのです。


そして、もう一つ申し上げておきたいことは、悟りの意志と自覚との関係です。

自覚をやっていくときの要は、なんと言っても、意志の力なのです。

もう一度、ご自分の悟りへの意志について確かめてみて頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私」に対する極限の集中

2015年09月26日 07時06分40秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇「私」に対する極限の集中◇

何かに集中したり、没頭される方はおられると思いますが、「私」に集中したことのある方は殆どおられないのだろうと思います。
ましてや、極限まで高められた集中度で「私」に集中したことのある方はゼロに等しいくらいおられないのだろうと思います。

これ以上は無いという極限の集中度で「私」に集中すると何か起こるのか、興味を感じませんか?
興味を感じられる方は、ぜひやってみて頂きたいと思います。

やられるときは、ちょっとしたコツがあります。
「私」に向けて意識を集中すると、急速に思考が抑制され、思考が止まるか、殆ど止まった状態になっていきます。
そのままだと、意識の集中の焦点である肝心の「私」も消えてしまったり、うつろになってしまいます。
そこで、どうするかと言うますと、内面の中心に「私」という考え(思考と言ってもいいです)を積極的につくりながら、その「私」に向けて意識の集中をさらに高めていくのです。
意識の集中がさらに高まると、さらに思考が抑制され、「私」が消えそうになりますから、そこでまた、力を振り絞るようにして「私」という考えを中心につくりながら、その「私」に集中します。
そうやって、自分自身があたかも「私」の中心に食い込んでいくネジになるような感覚で、「私」のより中心に向けて集中を極限まで高めていきます。

試しにちょっとやってみて頂きたいと思います。
(はい、どうぞ(^^)/)

どうですか?
うまくやれましたか?
ちょっと難しかったですか?^^


えっ?
何が起こるのかってぇ?

「私」に対して本当に極限まで集中を高められたなら、その人なりの何か変化が起きるはずだと思います。
何かの気づきが起こる方がおられるかもしれませんし、大悟が起こる方もおられるかもしれません。
何が起こるか、それはやってみてのお楽しみです。(^o^)


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根源的な衝動について

2015年09月15日 17時28分07秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇根源的な衝動について◇

ここでいう根源的な衝動とは、私という存在にある根本的な苦に対して、それをなんとかしようして起こるものでり、私という自我を延々と突き動かしている原動力です。
最終的な悟りに至る瞬間には、自らのこの衝動に気づくことになります。

この衝動に気づくためには、ありのままの自分自身の姿を受け入れ、しっかりと観る必要があります。
苦しみに悶え、それをどうにかしようとしてジタバタしている格好の悪い自分自身の姿から目を背けず、それをしっかりと観る必要があります。

あなた自身に、どのように苦が起こり、そして苦にまみれ、また苦に対してどのような反応や衝動が起こっているのか、しっかりと観てください。


あなたは、自分で気づいておられないかも知れませんが、起こってきた苦に対して、延々とそれを何とかしようとして右往左往と奔走しています。

どうして、そのような苦をなんどかしようとする衝動が起こり続けるのでしょう。

それは、あなたという存在の根源的な部分に、「苦をなんとかしないといけない」とか、「苦がなんとかなるはずだ」等の深い思い込みがあるのです。
その思い込みである囚われが、「苦」という現象に対してあなたを延々と反応させ、突き動かしているのです。

そのことに気づいて頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現象に囚われが反応する瞬間を捉える

2015年09月14日 08時45分21秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇現象に囚われが反応する瞬間を捉える◇

悟りを深めるとは囚われを手放していくことです。
自覚はそのための手段です。

ですから、自分自身に徹底的に意識を向け、起こってきた現象に囚われが反応し、感情や思考、衝動が起こる瞬間を捉えてください。

例えば、強い怒りはまず間違いなく、あなたが握り締めている囚われの反応によって生じています。
走りだそうとする怒りの衝動に無自覚に呑まれてしまうのではなく、自らの意識に、自覚の杭を打ち込んでください。
そして、どうして自分は怒っているのか、自分の内面にどういう考えの反応が起こり、怒りが引き起こされているのかを、自覚の観点でしっかりと観てください。

意に反する現象が起こると、それに連動して怒りが生じることが多いです。
これは至極当たり前のことであり、それだからこそ、怒りが生じる本質的なプロセスが見過ごされています。
当たり前のこととして見くびらないで、どうして自分に怒りが起こっているのかを自覚の観点から追求して頂きたいと思います。
怒りが起こっている現場を自覚の目で捉えて頂きたいと思います。

怒りだけではありません。
起こってきた現実に対して、それをどうにかしようとして何らかの衝動があなたに起こるとき、そこでもあなたが握り締めている囚われが関与していることが多いです。
過ぎてしまったことに対し、「どうしてあんなことになってしまったのか」とか、「あんなことをしてしまったのか」等の考えが繰り返し生じ、過去を引き摺っているときは、間違い無く、そこには囚われが関与しています。

囚われは、その人の人格や世界観、そして人生のベースとなる部分をつくりだすものであり、いわばその人の存在としてのベースを構成しています。
ですから、囚われは、それを握りっている本人からすれば、余りにも当たり前のことであるため、それが自分が握り締めている考えであり、囚われであるということになかなか気づけないのです。

ですから、囚われに気づいていこうとするとき、自分が当たり前と思っていることに対して疑いの目を持つことが囚われに気づきにとても有効になります。
当たり前のことや、決まったことなど、何もないのです。

あらゆることがらに対し、疑いの目を持ち、自覚を実践して頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根本苦に対する衝動と気づき

2015年09月12日 21時49分25秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇根本苦に対する衝動と気づき◇

今晩は、最終的な悟りに至らんとするまさにその瞬間に生じる気づきについて、改めて書いてみたいと思います。

私という存在の根っ子には、常に苦があります。
その苦は、常にあるものであり、どうしようもないもないものです。
その苦はどうしようもないものなのに、私という存在は、その苦を何とかしようしていつも駆けずり回っています。
私という存在には、その苦をなんとかしようする衝動が常に起こり続けています。

その苦をなんとかしようとして、走りだそうしている自分自身の意識の衝動に気づいてください。
どうにもならない苦をどうにかしようとして、闇雲に走りだそうとしている自分自身の愚かさに気づいてください。

どこに向けて、何を求めて、走りだそうというのでしょうか。
一度立ち止まり、冷静な目で、自分が何を求め、何処にいこうとしているのかをしっかりと観てください。

どこかにいい逃げ場はありそうですか?
どこにも逃げ場などないのではないですか?

仮にどこにも逃げ場がないことが分かっていても、それでもまだあなたの意識は苦をなんとかしようとして走りだそうとするでしょう。
その走りだそうとしている自分自身の姿を自覚の目で逃さないよう捉えてください。

そうすれば、延々と続いていたあなたの意識の衝動がスッと停止します。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悟りの行程を三つに分ける

2015年09月11日 21時06分39秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇悟りの行程を三つに分ける◇

悟りを深めるとは、私という自我が握り締めている考えである囚われを手放していくことです。
囚われが薄くなると、その分悟りが深まり、囚われが一つ減ると悟りの行程を一歩進むことになります。
そして、囚われがすべて無くなると、最終的な悟りである解脱の悟りということになります。

悟りの行程は、おおよそ三つの部分的な行程に分けることができます。
また、囚われの手放しは、大体で言いますと、外側、つまり浅い部分から順に手放しが起きていきます。
このため、一番目の行程では、最も外側の囚われに対する手放しがなさます。
一番目の行程で、その人が握り締めている外側の囚われについてある程度の割合で手放しがなされると、自ずと小悟の悟りが生じるようになっています。

具体的には、社会の状況な仕組みについて、「こうあるべきだ」とか、「これが正しい」等の考えは、外側の囚われが関係しています。
また、他人に対して、「あいつは間違っている」とか、「あいつは悪いやつだ」等の考えも、外側の囚われが関係しています。
また、自分の個性や境遇に対する不平不満や他人との比較等も、外側の囚われが関係しています。

この一番目の行程をさらに進み、このような外側の囚われの大半を手放していくと、手放しの対象が外側の囚われから内側の囚われへと徐々に変化していきます。
これに伴って、悟りの行程も一番目の行程から二番目の行程へと移行していきます。

二番目の行程では、主に内側、つまり自分自身に関する囚われを手放していくことになります。
皆さんはなかなか気づかれないかも知れませんが、私たちは、自分自身に対して、「こんなことはやっちゃいけない」とか、「こうあるべきだ」等の沢山の囚われを持っています。
そして、その囚われにより自分自身を縛り付け、抑制しているのです。
この行程では、そのようながんじがらめになっている自分自身の姿に向き合い、ありのままの自分自身を受け入れていく、自分自身を許していくことになります。

そして、そのような内側の囚われの大半について手放しが起こると、「観るものは観られるもの」の悟りである大悟の悟りが自ずと生じるようになっています。

そしてさらに悟りの行程を歩み、自我が握り締めたおおよそすべての囚われの手放しがなされると、私という存在が考え(認識)そのもの、あるいは考え(認識)の連鎖そのものであるという理解が生じます。

そうするといよいよ、最終的な悟りに向けた最後の行程である三番目の行程に入っていくことになります。
この三番目の行程では、私という存在の根本にある「苦」と向き合うことになります。
あるいは、どうしようもない苦を抱え、それをどうにかしようとして奔走している自分自身の姿と向き合うことになります。
そして、苦に対するそれをどうにかしようとする衝動に気づき、その衝動が停止すると、最終的な悟りである解脱の悟りとなります。


それがなんだと言われそうですが(笑)、言いたいことは、悟りを深めるということは囚われを手放していくことだということと、囚われの手放しは外側から順に進んでいくものだということです。


最後に、囚われの手放しについて、その手放し方は複数のやり方があるのだろうと思っています。
例えば、一つは、その囚われに関連して起こってくる展開を経験し尽くすことです。
もう一つは、その囚われに関連して起こってくる展開を受け入れることです。
さらにもう一つは、自分自身の内面において、現象と囚われが反応して感情や思考や衝動が起こっているプロセスを自覚の観点で直視し、それに気づくことです。
囚われに反応している自分自身の姿に気づけば、その瞬間、囚われは根っ子から消失します。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最終的な悟りへ至る最後のステップについて

2015年09月10日 22時43分33秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇最終的な悟りへ至る最後のステップについて◇

まず、最終的な悟りである解脱の悟りに至るためには、必ず通る必要がある二つのゲートがあります。
その一つ目のゲートは、ハートの消滅が起こる大悟のゲートです。
このゲートを通ると、その後暫くの間、ハートの消滅に伴って生じる自我感覚の欠落感により、「観るものは観られるもの」を実感することとなります。
二つ目のゲートは、私という存在を含めた一切のことがらは私の考えであるということに対するある程度の理解(私はこの理解を空の理解と呼んでいます)が生じるゲートです。

大悟と空の理解の両方の悟り要素が揃うと、私という存在は考え(認識)そのもの、あるいは考え(認識)の連鎖そのものであるということを本当に深く理解するようになります。
この段階で、縁起に関する理解も生じます。
なお、この段階に至って初めて大悟とする悟りの捉え方もあるのだろうと思っています。

ここまでは前置きであり、今回の本題はここからです。

上の大悟と空の理解が揃った段階に留まらずに、自覚等を通じて解脱に向けて悟りの行程を歩んでいくと、ちょっと意外なことに気づき始めることとなります。
何に気づくのかと言うと、相変わらず苦しんでいる自分自身の姿、あるいは自分自身が感じている苦しさに気づくのです。
その苦しみに気づいた方の中には、自分自身がまだなお、かなり深く、しかも執ような苦しみを感じていることに驚き、戸惑う方もおられるのではないかと思います。
それは、それ程意外であり、心外というか、落胆が生じるような苦しみなのです。

なお、その苦しみは、私という存在の根本から起こってくる苦しみなので、大悟や空の理解を掴んでしまい、その悟り段階に囚われている方には気づくことができません。
その悟り段階を手放し、内面に向けたさらなる悟りを追求される方のみが気づくことができるものなのです。

その苦しみに気づき始めた方は、最終的な悟りの側まで到達しておられるのだろうと思います。
今回の記事は、そのような方に対して何かヒントになればと思い、書いたものです。

その苦しみに気づき始めたポイントから、最終的な悟りに至るまでの過程について、とても微妙なものではありますが、私としては二つのステップがあるのだろうと思っています。

一つ目のステップは、一切は苦であるという理解が起こるステップです。
この理解が起こると、苦が当たり前であるというそれなりの理解が生じるので、肝が据わるというか、意識や感覚の面でハッキリとしたそれなりの変化が生じます。
中には、これを最終的な悟りであると誤解してしまう方もおられるのではないかと思っています。
実は、私(慧空)自身、一切皆苦の理解が起こったとき、ひょっとするとそれで悟りの行程が終わったのではないかと誤解しそうになったのです。

最終的な悟りである解脱の悟りに至るためには、起こってくる苦しみに対し、それを何とかしようとする衝動(特に強い衝動)が停止する必要があるのですが、一切皆苦を悟っても、その苦に対する衝動が完全には停止しないのです。

そのため、二つ目のステップで、その苦に対する衝動を完全に停止させることになります。
どうすればその衝動が停止するのかと言うと、自覚により、自分自身を観ること、あるいは自分自身に意識を向けることにより、起こっている苦しみをなんとかしようしている自らの衝動、あるいは自らの姿に気づくことができれば、その衝動が停止するのです。

自らの衝動、あるいは自らの姿に気づいた瞬間、それまで延々と起こっていた苦に対する衝動がウソのようにスッと停止します。
そして、その瞬間、「これが最終的な悟りだ」、あるいは「これ以上の先は無い」等の感覚的な手応えというか、理解が生じます。
これが解脱の悟りです。

最終的な悟りに向かう際の要は、やはり「自覚」です。
「自覚」あるのみです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうして内面に向けた集中が大切なのか

2015年07月23日 09時40分30秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇どうして内面に向けた集中が大切なのか◇

以前から何度もここで書いていることですが、悟りの道を歩む際にどうして内面に向けた意識の集中が重要なのかについて改めて書いてみたいと思います。

悟りの道が深まるに連れ、意識を内面に向けて強く集中し、いわば極限まで凝縮させるような意識の使い方が有効になっていきます。
浅い悟りの段階では、ハートを共鳴させるなどして、意識をいわば拡散させる手法が有効である場合もありますが、それはあくまで浅い段階に限ってのことなのです。
意識をいくら拡散させても、せいぜい到達できて、悟りの行程の中間地点までだろうと思います。
意識を拡散させる手法では、中間地点より先に進むことは困難です。

それはなぜかと言いますと、悟りの道を歩むということは、私という自我が握り締めた考えである囚われに気づき、それを一つずつ手放していくことだからです。
囚われに気づくためには、囚われに基づいて感情や思考等が起こっている現場を直視する必要があるのです。

考えが起こっている現場は、どこにあるのかというと、内面の奥深くにあります。
内面の奥深くに、モヤモヤっとした感じがあれば、そこが現場です。

このモヤモヤ感を伴う現場は、相当強い集中力がないと直視できないのですが、そこをなんとか強い意志と集中力を持って直視して頂きたいと思うのです。

何となくでもモヤモヤ感を捉えることができたら、食らいついて放さないように徹底的に意識を向けて直視して頂きたいと思います。

後悔しないよう、悔いの残らないよう、全力で直視して頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。

※次回の講話セッション、個人セッションは7月31日(金)です(上のリンクを参照ください)

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸せを捨てる

2015年05月27日 08時22分40秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇幸せを捨てる◇

今朝ある方のブログを読んでいて改めて思ったことがありまして、それを書いておきたいと思います。

幸せを求めているうちは、あるいは幸せを掴んでいるうちは、まだ深い迷いの中なんです。

私がそう言ってもなかなかご理解頂けないでしょうし、むしろ反発される方が大半でしょうが、そういうことなんです。
最終的な悟りに至るまでのどこかで、幸せを捨てること、あるいは幸せを捨てる覚悟が必要なんです。
つまり、幸せを求めないこと、幸せにしがみつかないようになることが必要なんです。

その理由は、私たちの迷いの根本が苦からの解放を求める衝動だからです。
私たちはつい、幸福、それも絶対的なものを求めてしまいます。
しかし、絶対的な幸福なんてどこにも存在しないのです。
確かに表面的に幸せを感じることはあります。
しかし、それは一時的に訪れては過ぎ去っていく幻なんです。

幸せを捨てたとき、その方の日常は少なからず影響が出ると思います。
そのとき、その方の日常がどう変化するかは人それぞれなんだと思います。
中には日常生活が崩壊してしまう方もおられるのかもしれません。
私の場合は、仕事は一旦完全に崩壊し、家庭も崩壊寸前まで行きました(いまも微妙な状態は続いていますが、笑)。

この幸せにまつわる迷いの構造に何となくでも気づけたものだけが、最終的な悟りに向けて先を進んでいくことができます。
この道はそういう道です。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。

※次回の講話セッション、個人セッションは6月28日(日)です(上のリンクを参照ください)

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (22)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする