私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

近況など

2015年02月25日 20時44分09秒 | 個人的なこと
◇近況など◇

久し振りに近況などを書いてみたいと思います。
なお、家内もこのブログを読んでまして、家の中のことは一切記事に書くなとうるさいので、書きません(笑)。
ちなみに、仕事はまだ何もやっていません。
近いうちに、何か試しにやってみようとは思っていますが、何分身体が動くのかどうか不透明でして、本当に働けるのかどうかさっぱり分からない感じです(笑)。

記事の更新について。
記事の更新の間隔が少し空いてますが、特に心境の変化があったという訳ではありません。
ここのところ、書きたいネタも、書きたいという衝動も、両方が収まっている感じです。
まあ、ぼちぼちといきます(笑)。

心境面では、余り変化はないのです。

身体的にも特に変化はないですが、時折、頭頂からとても強い意識(あるいはエネルギー)の柱が立つような感じになることがあり、そのときは思考も止まりそうになるし、何も出来なくなります。
ここのところ、毎日のようにそうなりますし、そうなったときの意識の集中度がどんどん増していっているようです。
しかも、その意識の柱の太さが、数ヶ月前までは感覚的に直径が10cmくらいだったのが、いまはかなり絞られてきて、直径が1cmくらいかそれ以下になっています。
感覚的には、ちょうど太い針が頭頂に刺さっているような感じです。
なお、このような状態はそうなろうとして意図している訳ではなく、勝手にそうなってしまうのです。

あと、興味の対象等について。
どうも私は、悟りの他に、世界の動向についてまだ興味があるようでして、ここのところ、世界経済の動向についてネットを介していろいろ調べていました。
特に、世界経済の状態がどうなっているのか、いまどういうリスクがあるのか、また、世界経済が崩壊するとしたら、どういうことが切っ掛けになって、どう崩壊していくのかなどについて、調べていました。


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リンゴを使った考察

2015年02月25日 09時37分52秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇リンゴを使った考察◇

以前にもリンゴを使って同じような文章(リンクはこれです)を書きましたが、今日はちょっと別の角度から書いてみたいと思います。

第一の考察として、まず徹底的にやっていただきたいことがあります。
それは、目の前にあるリンゴ(PCでも景色でもなんでもいいです)について、それが本当に実体としてそこにあるのかどうかという点です。

リンゴは本当にそこに有るのでしょうか。
絶対にあると言えるのでしょうか。

有ると感じるのは自分がそう思い込んでいあるだけなのではないか。
自分がリンゴを目で見て認識したらか、あると思ってしまうのではないか。
手でリンゴに触れたとき、リンゴの感触を感じているが、それはリンゴがあるのではなく、リンゴの感触に対する認識が起こっているだけなのではないのか。
実際にリンゴを食べたときも、リンゴの食感や味に対する認識が起こっているだけでないのか。

リンゴが実体として存在しているという証拠はどこにもないのではないか。
存在しているという証明は不可能なのではないのか。
それでもリンゴが実体として存在していると信じていいのか。


第二の考察。
リンゴがテーブルの上におかれていて、あなたはいま、それを見ています。
そのとき、あなたはそのリンゴを目を通して認識しています。
そして、あなたはおそらく、リンゴは実体として目の前にあるんだと思われることでしょう(笑)。

では、あなたがリンゴが見えないように、クルッと後ろを向いたとします。
もうリンゴは見えていないはずです。
それで、私はあなたに質問したいと思います。

いま、あなたにはリンゴが見えていませんが、リンゴは存在していると思いますか?
存在していると思われる場合、そう思う根拠はなにですか?
根拠もなく存在しているという結論を出されるのですか?


第三の考察。
リンゴに視線を戻して、リンゴを見てください。
まずは、いつものように普通にリンゴを見てください。

次に、これ以上無いというくらいにリンゴに意識を集中しながら、リンゴを見てください。
徹底的に集中しながら、リンゴを見てください。

そのように集中しているとき、あなた自身に対する感覚や認識はありますか?
いま、あなたはどこにありますか?
リンゴに集中しているとき、リンゴに対する認識と、あなた自身に対する認識が共存できますか?

では、今度はあなた自身に意識を向けてみてください。
多くの方がそうであるように、あなたも、自分自身についてあまり疑うことなく何となく、自分はあると思っておられるのかもしれません。
あなたは、どういう点を根拠に、自分はあると思っておられるのでしょうか?
この機会に徹底的に、そこを追求してみてください。

自分があるとどうしてそう言えるのだろうか。

そもそも自分とは何なのだろうか。


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大悟をめぐるハートと明け渡しの関係など

2015年02月19日 11時18分06秒 | 私の成り立ち
◇大悟をめぐるハートと明け渡しの関係など◇

ある方からメールで質問を頂きまして、それに対するお答えをしたのですが、その内容を少し編集して、記事にしてみようと思います。
ご質問の大凡のポイントは、大悟を得るとき、ハートの中心にある「私」という感覚のコアに意識を集中すると、どうしてそのコアが消失するのかという点と、その周辺のことについてでした。

以下、私の回答です。

ご質問の件ですが、正直なところ、私もよく分からないところが多いのです。
ハッキリと分かっていることは、
大悟以前はハートの中心に私という感覚のコア(1センチくらい)があること、
そこに意識を徹底的に集中すると、あるとき、そのコアがこつ然と消失し、それに伴って、主客の統合、つまり「観るものは観られるもの」の悟り である大悟が起きるということ、
だけなのです。

ご質問のポイントである、コアがどうして溶けるのかについては、正直なところ、よく分からないのです。
ごめんなさい。

ただ、最近、明け渡しとの関係でちょっと分かったことがありました。
実は、よく言われる普通の明け渡しは、主に外側に向けての明け渡しなのです。
と言うことは、明け渡しにはもう一つあるのです。
それは、私自身を受け入れる内面に向けての明け渡しなのです。
どうやら、この私を受け入れる明け渡しと、大悟とが密接に関係しているようなのです。

なぜそう思ったのかと言うと、普通に言われる明け渡しを経験した人の多くは、私の場合も含めて、外側で起こる現象についてはほぼそれらを受け入れているため、平穏に観ているのですが、自分の内面から起こる感情や思考については、まだ受け入れが不完全で、自己否定したり、観て観ぬふりをしたり、どこかモヤモヤとしている人が多いのです。
ところが、大悟を経た人は、外側の事柄だけでなく、自分に対しても完全にオッケーを出している人が多いことに気づいたのです(私自身を含めて)。

それで、ああそうか、そういうことかと理解した訳なのです。
どうやら、ハートの中心にあるコアに意識を集中すると、それを意図せずとも、自分自身に対する受け入れが自ずと起こるようになっているようです。

それと、もう一つ分かったことは、明け渡しは、外に向けた明け渡しも、内に向けた明け渡しも、どちらも、ハートがポイントになっているということです。
外に向けた明け渡しに伴って、ハートが開き、それに伴ってクンダリニが起こって、クラウンチャクラも開くのですが、このとき、ハートが要になっているんです。
そして、内に向けた明け渡しに伴って、私という感覚のコアとともに、ハートがほぼ完全に消失するんです。

私としては、どうやら、自我が握り締めた考えの集合との関係で、ハートが二重構造になっているのだと思っています。
外側が扉状の構造で、その中にコアがあり、扉を開いて中のコアを消失させると、ハートがほぼ完全に消えてしまうという構造になっているように思います。

それと、「私」をしっかりと捉えた状態で大悟に突入することがとても重要であることは間違い無いようです。
なぜなら、大悟に至ると、本当に自我が薄くなってしまうので(ハートの感覚が無くなるのが大きいと思います)、「私」を捉えられていない人が大悟に至ると、「私」を完全に見失ってしまうのです。
現に、そうなっている人をネット上で見つけまして、その人の言っていることを読むと、「私」はもう完全に消失しているんだと思い込んでしまっていて、そこからもうどうにもならない様子なのです。
そうなると、袋小路から抜け出せなくなるのです。

以上です。


なお、誤解のないように書きますと、ハートも、その中心にあるコアも、有ると言えば有るのですが、そこは「私」と同じで、有ると言えば有るし、無いと言えば無いという、実体が無いものなのです。
あらゆることがらに、絶対や実体は無い、ここは大前提なのです。


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さらに改めて悟りの階梯(1)

2015年02月05日 21時29分31秒 | 悟りの階梯
◇さらに改めて悟りの階梯(1)◇

悟りの階梯について、ちょっと大きなことが分かったので、改めて書いてみたいと思います。
理解はまだ途上のなのかも知れませんが、今回は大筋の大方のところが大分かったのではないかと思っています。

今回の理解での大きな変更点は、悟りの要素を明け渡しの要素と、智慧の要素に分けてまとめています。
悟りには明け渡しの要素と智慧の要素があるのですが、それらの二つの要素は、互いに関連し合いながらもある程度独立していることが分かりました。

得られる悟りの深さが、基本的に自我の厚みにより決まるという点はこれまで通りです。
なお、自我の厚みは、起こってくる思考の量と関係しており、起こってくる思考が減るほど、自我が薄くなります。
また、起こってくる思考の量は、自我が握り締めた考え(囚われ、執着)の量と関係しており、囚われの量が増えるにつれ、それによって誘発される思考の量も増えます。

悟りの階梯の基本構造は、明け渡しの進行の度合いにより決まり、四段階になっています。
それに対し、智慧の悟りについては、その進行度合いによって五段階になっており、明け渡しの系列の各段階と、智慧の悟り系列の各段階とは独立しながらも、相互に関係しています。

明け渡しの悟り系列の四段階の一段目は、何も明け渡しの無い段階です。
同二段目は、私という存在の外側に向けてなされる明け渡し(受け入れ)である第一の明け渡しがなされた段階です(小悟、天界の悟り)。
同三段目は、上記の第一の明け渡しに加えて、私という存在の内側に向けてなされる明け渡し(受け入れ)である第二の明け渡しがなされた段階です(大悟、梵天の悟り)。
同四段目は、私という存在の根底にある苦に対してなされる明け渡し(受け入れ)である第三の明け渡しがなされた段階です(解脱の悟り)。
なお、第一の明け渡しとは、一般に言われている明け渡しとほぼ同じ意味です。
第二の明け渡しとは、私という存在に向けてなされる明け渡しで、主客の統合である「観るものは観られるもの」という理解が得られる悟りです。

智慧の悟り系列の四段階の一段目は、私という自我に対する自覚がなく、まだ自我を捉えられてない段階です。
同二段目は、私という自我に対する自覚があり、自我を捉えられた段階です(第一の見性)。
同三段目は、私という自我に対する自覚があり、自我を捉えられているとともに、私という自我以外のすべての対象について、それが私に起こってきた考え(あるいは私がつくりだした考え)であるという理解が得られている段階です(第二の見性)。
同四段目は、私という自我も含めて、すべてのことがらが考えであるという理解が得られている段階です(空の理解)。
同五段目は、私という存在の根底にある苦に対しての理解が得られるとともに、その苦に対する衝動が絶えず起こっているいることに対する理解が得られている段階です(解脱の悟り)。

悟りの階梯の第一階層は、見性の階層であり、未だ明け渡しがなされていない明け渡しの一段目が対応しています。
この階層には、智慧の悟りの二段目である第一の見性が得られた第一の見性の段階と、同三段目である第二の見性の段階が存在します。
この階層に、智慧の悟りの四段目である空の理解が得られる段階が存在し得るのかどうかは、分かりません(仮にこの階層に空の理解が起こり得るとしても、その理解は非常に浅いものになるのだろうと思われます)。

悟りの階梯の第二階層は、小悟(天界の悟り)の階層であり、上記の第一の明け渡しがなされた階層です。
この階層には、どの段階の智慧の悟りが得られているかにより、四つの段階が含まれています。
一つ目の段階は、私という存在である自我に対する自覚がなく、何ら見性が得られていない段階です。
二つ目の段階は、上記の第一の見性が得られている段階です。
三つ目の段階は、上記の第二の見性が得られている段階です。
四つ目の段階は、上記の空の理解が得られている段階です。

悟りの階梯の第三階層は、大悟(梵天の悟り)の階層であり、上記の第一及び第二の明け渡しがなされた階層です。
この階層には、どの段階の智慧の悟りが得られているかにより、四つの段階が含まれています。
一つ目の段階は、私という存在である自我に対する自覚がなく、何ら見性が得られていない段階です。
二つ目の段階は、上記の第一の見性が得られている段階です。
三つ目の段階は、上記の第二の見性が得られている段階です。
四つ目の段階は、上記の空の理解が得られている段階です。
この四つ目の段階で、空の理解が深まり、縁起に対する理解が得られます。

悟りの階梯の第四階層は、解脱の悟りの階層です。
この階層に至るためには、上記の第三の明け渡しが得られるとともに、上記の五段目の智慧の悟りが得られている必要があります。
これら第三の明け渡しと、五段目の智慧の悟りは同時に得られます。


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夢か現実か、絶対はあるか

2015年02月04日 23時23分10秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇夢か現実か、絶対はあるか◇

今日は、悟りに関係がなさそうで、実は悟り、それも深い悟りと繋がっていることがらについて書きたいと思います。

前置きは抜きで書いてしまいますと、次の二つの問いは、一見すると悟りのは何の関係もなさそうに思われるかも知れませんが、実は深い悟り、特に解脱の悟りに至る上で、とても重要な意味を持っています。

一つ目の問いは、この現実世界は夢か現実(実体)かという問いです。

二つ目の問いは、絶対と言えるものはあるのかという問いです。

私としては、悟り云々をやる前に、まずこれらの問いについて徹底的に考え、追求して頂きたいと思うのです。
ここをうやむやにしたままでは、解脱の悟りには決して至れないのです。
取りあえず悟りの道に入り、解脱の悟りに至るまでに追求するという方法も無いことも無いですが、多くの場合、それは成功しません。
なぜなら、悟りの道中では、如何にも絶対的に見え、又は感じる概念(幻)に触れることになりますので、上記の問いに対するしっかりとした追求を経ていない方は、それらの概念を絶対なものとして、信じ込み抱え込んでしまうのです。
そのような概念としては、ここで何度も書いていますが、真理、真我、根源、空、全体、ひとつのもの、神、涅槃、「私」などがあります。
そられの概念を絶対として抱え込んでしまうと、そこで悟りの行程は止まります。

上記の二つの問いについて、ぜひ考え追求してみて頂きたいと思います。
その上で、以下の文章をお読み頂きたいと思います。


まず、この現実世界が夢か現実(実体)かという問いについての答えを書いてしまいますと、この問いに対する結論は出ないのです。
多くの方は、この現実世界は本当に有る実体で、夜寝ているときに見る夢は単なる夢で、私という意識によってつくり出された幻だと、なんとなく思い込んでおられるのだと思います。
また、そう信じたいお気持ちも分かります。
しかし、この現実世界が実体であるという確固たる証拠は何処にも無いのです。
この現実世界が実体であるという証明も不可能なのです。
つまり、この現実世界の根幹は絶対のものではなく、揺らいでいるのです。

次に、絶対と言えるものはあるのかという問いについての答えを書いてしまいますと、上記のように、この現実世界が実体であると断言できないように、何一つとして絶対と言えるものなど無いのです。
そんなことはないよ、神こそが絶対だよと仰る方がおられるでしょうが、そのあなたの追求は甘いです。
絶対であると結論を出す前に、絶対であるとする揺るぎない根拠を見つけ出すべきです。
根拠も無いのに絶対であるという結論を出すべきではありません。
曖昧なまま安易に結論を出されるのなら、その甘さは、悟りの道を歩むあなたの足取りを簡単に停止させるでしょう。
突き詰めると、あらゆることがらに根拠がなく、絶対だと断言できることは一切無いことが分かるはずです。
これは、悟り云々をやる以前の問題です。


このように、一切のことがらに、実体性、絶対性が無いのです。

その一方で、この文章を読まれているあなたには、心の中に解決したい、あるいはスッキリしたい何かがあり、悟りを求める何らかの欲求があるのだと思います。
そして、あなたは、そのようなあなた自身の心を落ち着かせ、何らかの納得を得る必要があるという、あなた自身の課題に直面している訳です。

実体と呼べるものも、絶対と呼べるものも無い中、それでも、あなたはあなた自身の心を巡る課題に取り組んでいかなければならないのです。
どこから、どう取り組めばいいのか、ここが大いに問題になります。

そのような雲を掴むような状況の中、ひとつだけハッキリとしていることがあります。
それは、解決したい、スッキリしたい、あるいは悟りたいという課題を抱えた、あなたの心が「有る」ということです。
まさに、これについては、あなたが向き合い、取り組むべき対象としてしっかり「有る」のです。

だって、あなたの心はモヤモヤしていて、それをスッキリさせたいのでしょ?
悟りを求めてるのでしょ?

もちろん、絶対に「有る」とは言いませんが、あなたの心の課題はしっかりと有る訳なのです。

それだったら、まずは、あなたの心のその課題に向き合い、取り組んで頂きたいのです。
現実世界のことや、神や真我や真理と言ったものに気を取られずに、まずは真っ直ぐに、あなたの心と向き合って頂きたいのです。

それでもし、そのあなたの心のモヤモヤがスッキリして解決できたら、他のことはもうどうだっていいじゃないですか。
そうでしょ(^^)


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