◇幸福論と本心◇
幸福論と本心というテーマで記事を書いてみたいと思います。
本心については、このブログである程度可能な範囲で具体的に書いていますので、まずは、幸福とは何かについて書くことから始めたいと思います。
幸福とは何か。
幸福については、大昔から皆さん、いろいろと考えがあるのだろうと思います。
しかし、よくよく考えてみると、幸福って捉えるのが難しく、やっかいな対象なのです。
そこを敢えて、切り込んでいき、本心というものが幸福の中心的な要素になっていることを可能な限り明らかにしたいと考えています。
典型的な幸福観では、お金、仕事や地位、パートナーや家庭など、条件や状態が幸福と関連付けられることが多いと思います。
確かに、それらにより感じられる幸福感はありますが、表面的であり、ここで言う幸福とは異なるものです。
幸福とは、こうなったら幸福になる等のように、形や条件がある訳でもなく、特定の状態というものでもないはずです。
ですから、幸福とは、それそのものが目的になることもないし、それが結果として達成されるようなものでもないのです。
では、幸福とは何なか、果たしてそれはあるのか。
ここまで来ると、まるで悟り論議のようです(笑)。
悟りに関する話と同じで、一切のことがらはあるとも無いとも言えませんから、究極的には、幸福についても、あるのか無いのかわからないのです。
また、一切のことがらは不可知ですから、幸福についても、それがどういうものかは、究極的にはわからないのです。
しかし、そう言ってしまうと余りにも実も蓋もないので、なんとか踏ん張って、もう少し核心に迫りたいと思います。
私が考える幸福論とは、こうです。
幸福というものがあるとすれば、それが目的になることもなく、結果としてそうなるものでもなく、得られたり、失ったりするものではないはずである、と私は考えるのです。
もしそれがあるのなら、常にあるべきものではないか、と。
つまり、生きるという過程そのものが幸福であるべきではないか、と。
即ち、人生における日々の取り組みそのものが幸福であるべきではないか、と。
ここで疑問となるのが、生きるという過程そのものが幸福であるとなら、幸福な人(あるいは、幸福そうな人)と、不幸な人(あるいは、不幸そうな人)がいるのはどうしてなのか、というところだと思います。
そこで要になるのが、本心であるという訳なのです。
自身の本心に向き合い、それに取り組むとき、その取り組みそのものが幸福になるのです。
(余談)
一応最後まで書いたのですが、どうもいまいちと言いますか、しっくりきません^^;
どうしようか、と考えてはみましたが、どうにもなりそうにないので、エイヤッとアップしてしまいますねw
どうも私は、幸福には余り興味が無いというか、意欲も湧かないようですw
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