私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

ツイート記事(20240301~)

2024年03月27日 09時20分06秒 | その他
◇ツイート記事(20240301~)◇

<3月1日>
◇悟りに関する他者批判
 私は、悟りに関して他者を批判します。
 どうしてそうなるのか、自分でもよくわからない部分があるのですが、やっています。
 多くのことは放っておけるのに、なぜかそこは放っておけずに、批判してしまう。
 あるいは、意識的にそれは違うよと指摘しています。
 悟りに関して間違った情報が多く(と言うか、残念なことに大半の情報が間違っているし、釈迦が喋ったとされる経典類も改変や作り物が多く、非常にやっかいです)、それがとってもイヤなのです。
 
 なぜそこまでイヤな気になるのか。
 ひょっとしたら、過去世でその誤った情報に翻弄され、悔しい思いをしたことが何度もあったのかもしれないと思っています。 
 ともあれ、この批判はまだまだ続けるつもりです!(^O^)

<3月3日>
◇悟りと日常性
 悟りというと、日常からの脱却というか、日常とは違った何か特別ことのように考えてしまうところがありますが、そうではないのです。
 むしろ逆で、悟りの行程の歩みに伴い、ものごとに対する見識が高まることで、非日常的な要素に対する幻想や期待が晴れ、日常が拡大していくのです。

<3月5日>
◇神頼み
 神に頼っているうちは、どうにもなりません。
 まだまだ子供であり、独りで立つこともできないし、自分の責任を引き受けるつもりもない。
 自分の力で取り組んでこその遣り甲斐ですが、それもわからない。
  
 人の行程としてそのような過程もあるものなのでしょうが、つい言いたくなります。
 いつまでやっているのかと。

<3月7日>
◇超能力者の清田さん
 昨日youtubeを観ていたら、清田さんの動画が出て来て、スプーンを曲げをやっていました。
 清田さんのことは、高校生か大学生の頃からテレビ等で知っていたのですが、当時は超能力なんて絶対無いと考えていて、インチキやろうだと思っていました。
 当時の私は、超能力なんて信じるヤツは頭が弱いヤツだと豪語していましたw

 それで、懐かしいなぁと思いながら動画を観ていました。
 すると、どうやら本当に、念力でスプーンが曲がっているようでした。
 清田さんの超能力はどうやら本当だったんだと思った次第ですw

 ただ、嫌味というか、素朴な疑問をひとつ。
 スプーンが曲がって何が嬉しいのだろう?

<3月8日>
◇意識で不整脈を回避する
 今日はちょっと変わった話を書きますね(いつも変わった話ばかりですがw)。

 実は私、小学校の頃から鼓動が1、2拍程度止まったり、抜けたりする不整脈がありまして。
 それが何故か、ここ4、5年くらい無くなっていたのですが、1年くらい前からまた起こり始めたのです。
 でも不整脈が再び起こり始めた頃、不整脈が起こりそうになるとそれに気づくようになったのです。
 ちなみに、不整脈が起こるのに気づくと、動作中なら動作を止めて、可能なら楽な姿勢に移行し、それに備えます。
 
 それで、不整脈が起きることに何回か気づくうち、これって意識の使い方で起こりそうになっている不整脈、あるいはそのエネルギーを逃がすようにしてやり過ごすことができそうなことに気づいたのです。
 やってみると、割と簡単に直ぐに上手く行き、不整脈を逃がすようにして未然に防げるようになりました。
 それ以来、いつも未然に防いでいるので実際に不整脈が起きたことは一度もありません。
 最近ではさらに進化して、予兆を感じてそれを逃がす行程を意識せずにやっているところもあります。

 従兄弟が心室細動で若くして亡くなっておりまして、自分も可能性があるのかなぁと思っていたのですが、
 この死因は回避できるかもしれないと考えています。

<3月9日>
◇サタンを呼ぶ
 今日もかなり変わった話を書きますw
 10年近く前だと思いますが、悟った後、なぜかサタンに対する興味が湧き、時々ヤツを呼んでいました。
 神々にも興味はあったのですが、それよりもサタンの方に興味があり、対面してみたいと思っていました。
 「いるのなら、今すぐここに来い!」と偉そうに呼んでいました。
 半年か1年くらいの間、時折呼んでいたのですが、とうとう現れませんでした。

 半分度胸試しのようなところもあったのかもしれません。
 神々に対してもそうですが、サタンに対する自分でもよくわからない怒りのようなものもあったように思います(これは今でも少しあります)。
 対面すれば、何か納得するところがあるように感じていました(これも今でもそういうところがあります)。
 私としては、いつ来てもいいよと思っているのですが、いまだに現れません。

 最後に面白い余談をひとつ。
 サタンを呼んでいた当時、いつものように机に座ってヤツを呼んでいたのです。
 呼んでも来ないので、トイレに行って寝ようと思ったところで地震(確か震度2程度)が起こったのです。
 「ウォッ、来るのか!」と思い、思わずビクッとなってしまったのですw
 まだまだ小心者の自分を見たようで、独りで笑ってしまいましたw

<3月10日>
◇有料記事「自覚のヒント」の販売状況など
 自覚のヒントがどれくらい買われているのか等について、書いてみますね。
 約1年8カ月前に自覚のヒントをアップしてから今日まで、16名の方に購入していただいています。
 買っていただいた皆さん、ありがとうございます<m(__)m>
 
 やっぱり、なかなか売れませんねw
 他の有料記事もそんな感じです。
 
 特に、有料のスカイプ個人セッションのお申込みは、とっても少ないです。
 確かお二方くらいしかおられなかったような、、、
 無料でやっていたときから、ここ数年は年間で四、五人くらいでしたら、こんなところでしょうかね。
 
 ちなみに、最近のこのブログの毎日の訪問者は、平均すると150~200名くらいでしょうか。
 少ない日で100人弱、多い日で300人弱という感じです。
 記事は意外に沢山の方に読んで頂いているようです。

 私のライフワークですので、続けられなくなるまでやっていきます。

◇予防接種
 お節介ですが、書いておくことにしました(本当に大変な影響が出そうなので)。
 例の流行り病の予防注射は、身体への非常に強い影響が出るケースがあり、その頻度も予防注射として成立しない程高いことが明るみになってきています。
 この秋から導入予定のレプリコンと言われる注射は、さらに高いリスクがあると言われています。
 接種を避けるか、1~2年様子を見られてから受けられた方が無難だと思います。

<3月12日>
◇覚者EOについて
 EOさんのことは、悟り界隈の方ならご存知の方も多いと思います。
 悟り関係でネットを検索していると、必ず出て来ますから。
 サイトは、これです。
 
 私は、EOはその弟子とされている鈴木崩残という人の作った架空の人物だろうと考えていました。
 サイトに書かれているEOさんの悟りに関する文章に異なる悟り階層の概念が混在しており、矛盾も目立つため、EOという人物を含めてすべて作り物だろうと考えていました。

 ところがです。
 今日、私がやっているnoteの記事を閲覧していると、曹洞宗のお坊さんのnoteサイトが出て来て、EOさんとの文章でのやりとりや、実際に会ったことなどについて書かれているのを見つけたのです。
 へー、EOさんて実在してたんだ、と思った次第です(少しホントなのかなぁ、思ったりもしているのですがw)。
 ちなみに、そのお坊さんの関連記事は、これとか、これとか、これです。

 だからなんだという感じですが、これ以上特に何もないですw
 EOさん、36歳で亡くなったとのことですが、それが本当なら死因等はなんなのでしょうかね。
 まさか自死ではないと思うのですが、もしご存知の方がおられたら、教えていただければと思います。

 (追記)
 上記のお坊さんに、noteのコメント欄でEOさんの死因について質問してみました。
 質問のお相手が私が散々ぶっ叩いている禅系の方なので、質問するのを少し躊躇しましたw
 これも何かのご縁でしょうかw

 (再追記)
 上のお坊さんから、返事のコメントをいただきました(^O^)
 EOさんは、実在の方で、2017年2月まで生きていたそうです(享年60歳)。
 但し、死因等の当時の詳細は不明だそうです。

 つい最近まで生きていたのですね。
 驚きです。
 悟りに関する文章を方々に郵送したり、ネットに文章をアップしたのが、2000年前後のことですから、
 それ以降、長く沈黙していたのだろうと思います。
 どこで何をしていたのでしょうね。

 (再々追記)
 上のお坊さんと何回かコメント欄でやりとりさせていただきました。
 それでわかったのですが、EOさんと崩残さんは同一人物で、どちらも実在というか、作られたキャラクターというか、実話と創作が混じり合ったもののようですね。
 当初の私の予想で当たっていたようです。
 EOさんの悟りや体験についても、それなりに創作が入っていたのだと思います。
 EOさんの文章に含まれる矛盾や違和感についても、納得です。

 本件はこれにて終了します(^O^)

<3月16日>
◇月について
 月が何らかの存在によって作られたものでなのではないかという説を、1年くらい前にネットで知りました。
 確かに、月の公転周期と自転周期の完全な一致、公転軸と自転軸の完全な平行一致など、自然に出来たものとしてはその一致性があり得ない程のもので、改めて考えると不自然だなぁと考えています。
 あれはなんなのでしょうねぇ。

 いつもの、だからどうしたのっていう話なのですがw

<3月17日>
◇チャネリングと統合失調
 こんなことを言うと叱られそうですが、
 チャネリング、憑依等は統合失調特性と関連があるのではないかと考えています。
 分裂体質、依存体質など、種々の問題を抱えている人が多いのではないかと考えています。

<3月27日>
◇自分以外の解脱者と会ってみたい
 自分以外の解脱者と会ってみたいと思い、延々と探しています。
 あるいは、延々と待っています。
 現存している方がいいんですが、自らの体験が書かれた文章があれば故人でもいいのです。

 いくつか興味があるのですが、
 対面したときどんな感じなのかが一番興味があるところです。
 例えば、お互いの悟りをわかり合えるものなのか等。
 
 この点についてなんとなくですが、解脱者同士でもお互いの悟りをわかり合うのは難しい可能性があると感じています。
 なぜなら、自分自身の悟りさえよくわからなくなっていますからw

 
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

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問答の限界と悟り

2024年03月14日 08時55分09秒 | エッセイ
◇問答の限界と悟り◇


今回は、悟りと問答について書いてみます。

禅系の一部で、悟り修行に公案や問答が使われるようです。

悟りに問を使うことのメカニズムは、それはそれで非常にシンプルでハッキリしているのです。
結果はおそよ二種類あるようです。
どちらもポイントは問への集中です。

一つ目は、問への集中により、意識の囚われにより構成された外層部分が崩壊し、急激な自我感覚の希薄化が起こるのです。
このとき、自我が喪失した等の錯覚が生じやすいです。

二つ目は、問へのさらなる集中により、意識の囚われにより構成された外層部分の崩壊がさらに進み、主客に対する錯覚が剥がれ落ち、それらの統合体験が起こるのです。
この体験をわかりやすく言うと、自分の意識あるいは存在が問そのものになるという体験です。
あるいは、すべてが消失し、問だけになるという体験です。
このときも、自我が喪失した等の錯覚が生じやすいです。

しかし、問答で到達できる悟りは、ここまでなのです。

ここから先は、私に意識を向け、自我を捉える必要があるのです。
しかし、これがなかなか難しいのだと思うのです。
仏教、特に禅を含む大乗系では、私は無いという誤った無我の概念が伝統になってしまっていて、私に意識を向けることや、自我を捉えるという概念が欠落してしまっていますから。


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なぜ自由意志を否定できないのか

2024年03月13日 15時33分10秒 | エッセイ
◇なぜ自由意志を否定できないのか◇


今回は、自由意志についてちょっと違った切り口で書いてみたいと思います。

自由意志が無いと仰る方は、本当にそれで納得できているのでしょうか。
納得できるはずはないのですが。
なぜなら、その考えは間違っているからです。
自我が無いというのも同じで、間違っています。
正しくは、自我も自由意志も実体が無いのであって、有る無しについてはどちらとも言えないのです。

これは私が繰り返し書いていることですが、今回の趣旨ではありません。
以下が本題です。

自由意志が無いと言う方は、以下の問についてぜひ考えていただきたいのです。

「自由意志が無いのなら、どうして人は後悔をするのか」



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正誤の追求の果て

2024年03月13日 10時02分17秒 | エッセイ
◇正誤の追求の果て◇


今回は、正誤、正しいことと間違ったことについて書いてみたいと思います。

正誤は、善悪等の二元の概念と混同されがちですが、それらのとは本質的に異なるものです。
善悪等の二元の概念は囚われであり、本来そのような区別はありません。
これに対し、正誤はそれなりにしっかりとあるのです。
「それなりにしっかりと」などという中途半端な言い方をするのは、本当は厳然としてあると言いたいところだけど、敢えて避けたというところです。

面倒なので、最初から結論を書くような形になりますが、ご容赦ください。
何が正しいのかについて、論理的に徹底的に追及していくと、必ず到達する結論があるのです。

それは、
「一切に根拠が無い」
あるいは、
「一切に絶対は無い」
なのです。

ここが正しさの原点であり、源なのです。
これに沿ったものは正しく、反するものは間違っているのです。

もう少し嚙み砕いて書きたいところですが、いろいろ反発もありそうなので自重します。


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自我の手放しという誤り

2024年03月12日 10時30分08秒 | エッセイ
◇自我の手放しという誤り◇


今回は、自我の手放しについて書いてみます。

自我の手放しは悟り界隈でよく言わることですが、間違いです。
そもそも、自我を手放すことなんて不可能であり、あり得ないのです。
究極的には、この世界そのものがあなという自我なのですから。

自我、私、個の意識など、なんと言っても同じです。
すべて私であり、手放す対象となり得るものではありません。

自分は自我を手放したと言っている人が時々おられますが、それは本人の誤解であり、認識不足です。
世界があり、その世界が見えている、感じられているのに、私が無いなんてことはあり得ないのです。
起こってくる現象と、それを観ている、感じている観照とは、不可分であり一体なのです。

悟りの行程は、囚われ(執着)を手放していく行程です。
囚われの手放しを少しずつ進めていく行程を漸悟といい、一度にそれなりの量の囚われを手放す行程を頓悟と言います。
頓悟と言っても、1回で悟り切る例はおそらくなくて、実際には漸悟と頓悟を織り交ぜながら進んでいきます。

明け渡し体験や禅の頓悟など、一度にそれなりの量の囚われの手放しが起こると、自我感覚の急激な希薄化が生じ、これは自我の消失感覚を伴います。
ここで、多くの方が自我が消失したと誤解してしまいます。
すると、ちょうど仏教の教えにも「無我」などという紛らわしい概念があるため、「これだ」と嵌ってしまい、そこから抜け出せなくなってしまいます。
そもそも釈迦が言ったとされる無我とは、私が無いと言っているのではなく、全てに実体が無いと言っているだけであり、私についてはあるとも、無いとも言っていないのです。

手放す対象は、あくまでも自我ではなく、囚われ(執着)なのです。
囚われを手放すと、その結果として、自我が薄くなったような現象が生じるのです。
自我を手放すなんてことは、道理に合わないのです。

次に、私に意識を向けること、自我を捉えることの大切さについて書きます。

悟りの行程を歩む際に限らず、人生を歩む際にも、私に意識を向けつつ歩みを進めることはとても大きな意義があります。
悟りの行程を歩む際は、囚われを手放していく必要があります。
囚われを握りしめているのは、私自身ですから、その現場である自分自身にしっかり意識を向けることで、自分自身が囚われを握りしめていることに気づきやすくなります。
自分が囚われを握りしめていることに気付くことができれば、その瞬間に気づいた囚われが消失します。

次に人生について。
一般に人の営みは、損得や感情など表面的なことがらに意識が向けられやすいです。
人目や社会的地位が気になり、自分を自分の目で直接見るのではなく、人の目や社会的基準を通して自分を見て評価することが多いです。
これでは外側ばかりに気が取られ、自分の内面深くまで見ることはできません。
そうなるのも仕方のないことではありますが、それでは自身の本心が置き去りになってしまうのです。
だから、人生に後悔を残すことになってしまうのです。

私たちはどうして生まれてきたのか。
それは、自分がこう生きたい、これがやりたいという想いがあるからだと、私は考えています。
もっと言えば、そこに後悔があるからだと、私は考えています。

人の目や社会的基準を通して自分を見るのではなく、外側ばかりを見ているその目を自分に向けて、自分の目で直接自分を見ていただきたいと思います。
そして、自分はどう生きたいのか、何をしたいのか、考えていただきたいと思います。
自分の本心に向き合っていただきたいと思います。

後悔しないように。


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虚無を超えて生きる

2024年03月06日 11時50分36秒 | 生きるヒント
◇虚無を超えて生きる◇


 今日は、久しぶりに虚無について、思うことを書いてみたいと思います。

 まずは私自身のことから。
 私は小学校に入る頃には、社会常識や道徳等も人が決めたことであり、本来はどうでもいいことだということがそれなりにわかっていて、すべてに意味が無いこともなんとなくわかっていました。
 そして、生きることの面倒くささ、特に社会と関わっていくことの煩わしさを強く感じていました。
 余談ですが、おそらく前世で小悟か大悟を既にやっていたのだろうと思います。

 で、何が言いたいのかと言うと、
 そりゃあ、そんな人間なら虚無感を感じしてしまうのは仕方ないよなぁ、と改めて思ったのです。
 そこには、この世界に生まれてしまったこと、もっと言えば自分という存在が生じてしまったことへのやり場の無い怒りもあるよなぁ、と思ったのです。
 
 それもこれも、仕方のないことですが。

 私と似たような方は、沢山おられるのかも知れませんね。

 そのような方は、何もかもどうでもよくなってしまうような大きな大きな虚無感に襲われてしまうこともあると思います。
 投げやりになって自分の人生や周りをめちゃくちゃにしてしまったり、命を絶ってしまうこともあると思います。

 しかしです。

 すべてを諦めるには、まだ納得し切れない部分があるはずなんです。
 心の中に、まだ何かやりたいことや、やり残したことが僅かでもあるはずなんです。

 自暴自棄にならず、自分をごまかさず、もう一度、自らの心の中を見つめてほしいのです。

 あなたのやりたいと思えることがきっと見つかります。



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二元的志向の矛盾と本心

2024年03月05日 09時43分14秒 | 生きるヒント
◇二元的志向の矛盾と本心◇


 一切のことがらには、プラス面とマイナス面が必ずあります。
 これは決して避けられないのです。

 例えば、平等について。
 実際に自分で考えてみて頂きたいのですが、平等なんてものは幻想であり、皆平等なんてことはあり得ないし、不可能なのです。
 平等にしようとすると、必ずその裏側で不平等が増大します。

 平和もそうです。
 平和になるようにしようとすると、必ずその裏側で過度な抑圧が増大し、結果として平和から遠ざかってしまいます。
 権利や自由もそうで、それらを守ろうとすると、その裏側で義務や規制が必ず増大し、結果としてそれらを抑制することになってしまいます。

 愛だってそうです。
 
 個々の人もそうです。
 良い人も悪い人も、皆プラス面、マイナス面があります。

 このように言うと、何をどう選択したらいいのかわからなくなってしまいそうです。

 そこで、重要なのが本心なのです。

 どのような選択もプラス面とマイナス面があり、それは避けられません。
 しかし、人として存在している以上、何らかの選択をしていかなければなりません。

 その個々の選択を、自身の本心に沿って行っていくのです。
 
 その個々の選択に、あなたの個性が現れるのです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
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空を批判する

2024年03月03日 10時03分38秒 | 悟り
◇空を批判する◇


仏教で使われる概念に、空というものがあります。
今日は、その空を批判します。

空は、日常的な概念について説明するためにわざわざ導入された概念ですが、この空という概念を持ち込むというやり方そのものが既に筋が悪いのです。

そもそものところ、一切のことがらは説明をすることが不可能なのです。
よりわかりやすく言うと、一切のことがらは説明を尽くすことができないのです。
ですから、空という概念を持ち込んだところで説明できないという状況には変わりないのです。
むしろ、いたずらに概念を増やすことで余計ややこしくなってしまうだけです。

わざわざ空なんて概念を持ち込まなくても、日常的な概念を使って同程度の説明は十分にできるのです。
むしろ、空を持ち込まない方が、ややこしくならずに、よりわかりやすくすっきりとした説明ができます。
ここはとても大切なところです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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