私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

本心、カルマ、囚われ、運命と自由意志など(2)

2024年12月29日 14時56分17秒 | エッセイ

◇本心、カルマ、囚われ、運命と自由意志など(2)◇

 

((1)の続きです。)

 

前回の記事は、運命と自由意志の周辺について書こうとしているところで力尽きてしまいました。

今回は、その続きをどこまで書けるか、チャレンジしてみようと思います。

 

改めて最初に書いておきますと、運命と言うものがどういうものか、あるのか否か、また自由意志というものがどういうものか、あるのか否か等のものごとの本質的、核心的なことについては、不可知であり、誰であっても、絶対に、わかりません。

ここでは、それを承知で、核心には迫れないまでもその上っ面ぐらいはかすめられないかと考え、考察を行っています。

 

運命、自由意志があるのかないのかについては、私としては、それらがあると考えた方が辻褄が合うというか、納得できる部分が多いと考えています。

ですから、ここではそれらがあると考えた上で、話を進めていきます。

 

運命について、おそらくこれは間違いないだろうと考えている部分があるのですが、それは何かと言うと、階層性です。

階層構造と言うと、本心やカルマ、囚われ等についても、類似していて、大きな階層性の中に、さらに小さな階層性があり、しかもその各階層が複雑に関連していて、全体として非常に複雑な階層構造になっているのだろうと考えています。

そして、その本心やカルマ、囚われ、運命等の複雑な階層構造は、存在(具体的には人です)の意識の成長段階と関連しているのだろうと考えています。

例えば、運命について考えると、そのような複雑な階層構造に含まれるすべての運命要素が同じように作用するのではなく、運命の階層構造における、その存在の意識の成長段階に対応した階層の運命要素がその存在の運命としてより強く作用するのだろうと考えています。

つまり、存在の意識の成長段階の違いによって、その存在に主導的に作用する運命や本心、カルマ、囚われ等の階層が変化するということです。

幼い存在には、階層構造の全体の中の幼い意識に対応する運命等が主導的に作用し、より成長した存在には、階層構造の全体の中のより成長した意識に対応する運命等が主導的に作用するということです。

 

かなり抽象的な話なので、図にして説明した方がいいのでしょうが、そこまで手が回りません、すみません。

今回はなんとか文章のみで、説明してみようと考えています。

 

次に、運命と自由意志の関係について考察したいと思います。

私は、私たちの行動や人生は、運命と自由意志が互いに影響し合う狭間において織りなされているのだろうと考えています。

運命は、前述のように複雑な階層構造になっているのですが、各階層ごとに、この世界に生まれる前に自分で決めた(設定した)部分と、過去の経験等に応じて半ば自動的に決まる部分とがある可能性があるのだろうと考えています。

さらに、運命には、各階層ごとに、変えられない部分と、その他に、自由意志によるある程度の選択の自由度や、自由意志により変えられる部分があるのだろうと考えています。

運命に含まれる生まれる前に自分で決めた部分は、後述する本心と関連しているのだろうと考えています。

 

自由意志には、存在あるいは生物としての本能と関係している基礎的あるいは機能的な要素(これを基礎的要素と言うこととします)と、精神的な欲求に関連する(これを精神的欲求要素と言うこととします)と、さらには本心に関連する要素(これを本心的要素と言うこととします)が含まれると考えています。

基礎的要素は、典型的には生物としての生存本能と関連する要素で、基本的な食欲、排泄欲等です。

精神的欲求要素は、損得や喜怒哀楽などに関する基本的な欲求です。

本心は、広い意味では精神的な要素ですが、表面的な欲に関するものを精神的欲求要素として、それに含まれないより深淵な部分を本心とすることにしました。

 

で何が言いたいのかですが。

今回の記事を書いていて、私自身もよりハッキリしてきた部分があるのですが、存在の意識(自我と言ってもいいです)の成長に関してもっとも重要な要素が、おそらく、本心、あるいは本心に対する取り組みなのです。

本心も複雑な階層構造を有しているのですが、本心がしっかりと形成されてゆくのに伴って意識が成長していき、さらに、その形成された本心のより深淵な部分と向き合い、取り組むようになるに従って、意識が成長していくのだろうと考えています。

そして、運命の複雑な階層構造におけて、どの階層の運命要素が主導的に働くのかが、本心がどの階層まで形成されたか、さらには、本心の階層構造においてどの階層の本心要素に向き合い、取り組めているかによって決まるのではないかと考えています。

 

存在あるいは人として意識が幼いうちは、本心も未熟です。

それでも自由意志はありますが、その自由意志のうち、基礎的要素や精神的欲求要素が大きな割合を占めていて、深淵さが薄く、動物的です。

ですから、表面的な損得勘定や欲に基づいて考え行動しますから、行動や人生の軌跡も、有り勝ちなパターンとなりやすいです。

このような人は、運命の階層構造についても浅い階層の運命要素が主導的に働いており、その階層の運命要素と、その人の人生を比較すると、その運命要素通りに生きているように見えるのではないかと考えています。

 

本心がしっかりと形成され、意識がそれなりに成長してくると、自由意志の要素として、本心がそれなりの影響力を有するようになります。

このような人は、生物的な基礎的要素や、表面的な損得勘定だけでなく、本心によって考え、行動するようになりますから、行動や人生の軌跡も、より複雑なパターンとなりやすいです。

運命の階層構造における主導的に働く運命要素ついても、より深い階層の運命要素が主導的に働くようになり、その人の人生を観るときは、より深い階層の運命要素と本心の両方の影響を考慮する必要があります。

 

そして、しっかりと形成された本心に取り組むようになると、自由意志の要素として、本心がさらに影響力を有するようになります。

おそらく、この段階になって、運命に含まれる自分で決めた部分に取り組めるようになるのではないかと考えています。

この段階になると、本心に基づいて考え行動した結果と、生まれる前に自分で決めておいた運命が重なり合うような現象が起こるのではないかと考えています。

 

さらに、さらに本心に対する取り組みが進むようになると、社会通念や良い悪い等の二元的な囚われの手放し、解消が進むようになり、自由意志による選択の幅がさらに拡大するとともに、本心への取り組みがさらに深まっていくのだろうと考えています。

 

と、ここまでなんとか書いてきましたが、やっぱりこの考察は難しく、現時点ではこの程度が精一杯のようです。

また何か進展があれば、関連記事を書きたいと思います。

 

◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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本心、カルマ、囚われ、運命と自由意志など(1)

2024年12月21日 21時05分24秒 | エッセイ

◇本心、カルマ、囚われ、運命と自由意志など(1)◇

 

この世界の謎だらけでなのですが、本当に知りたいポイントである核心的なことがらについては、私たちは何ひとつ知り得ないのです。

これは厳然たるものであり、どうしようもないことなのです。

ですが、解脱したなどと言っている私自身もどうしても気になり、未だについ考えを巡らせてしまいます。

 

今回は、そんな私がここ2、3ヵ月時折考えていることについて書いてみたいと思います。

 

まずは、本心、カルマ、囚われについて。

最近わかってきたのですが、本心とカルマと囚われは互いに関連しているようなのです。

これらの三つのものは、互いに重なった共通する部分を有しながら、互いに少しずつずれた要素を含んでいるようなのです。

カルマという概念は種々に広がりを有していて、具体的に特定するのは不可能なのですが、本心とカルマは実質的に多くの部分において共通しているのではないかと考えています。

つまり、本心に取り組むという意味合いと、カルマに取り組むという意味合いはかなりの部分で共通している可能性があると考えています。

 

これがわかったからと言って、特にいいことがあるわけではなく、凄いことでもないのですがw

もしもうあと何歩か考察を進められたら、もう少し何か具体的なことがわかる可能性もあるのではないかとは考えているのですが、現在のところは、まだまだ考察の始まりのところという感じです。

 

それと、本心、カルマ、囚われと、意識(自我)の成長や悟りとの関係についても考えておりまして、その辺りのことも少し書きますと。

意識の成長段階は大きくわけて二つの段階に分けられるのだろうと考えています。

前半の段階は、意識(自我)を作っていく行程です。

この段階では、カルマや囚われを、追加、解消しながら増やしていく行程です。

これによって、しっかりとした意識(自我)が形成されます。

なお、昔の記事にも書いたことがありますが、自我の一部は、ジャングルジムのように互いに関連付けられた多数の囚われによって構成されています。

 

後半の段階は、前半の段階で作られた意識(自我)により、自らを解体していく行程です。

その取り組みにより、カルマや囚われの解消や手放しが起こるにつれ、意識(自我)がより洗練され、先鋭化されつつ、意識(自我)のさらなる成長に繋がっていくのだろうと考えています。

そして、その行程がある程度進んだ段階で、悟りの行程へと移行していくのだろうと考えています。

 

そして、これらの行程において、自覚とはどのような作用、効果があり得るのかについても考えています。

自覚の有効な作用、効果が得られるのは、後半の段階においてであろうと考えています。

特に、囚われの手放しを中心とした、意識(自我)の解体に対して有効に作用するのだろうと考えています。

 

本心、カルマ、囚われについては、現段階である程度具体的に語れるのはこの程度です。

 

次に、運命と自由意志の周辺について。

 

運命と自由意志の問題は、要するに人生は決定論か否かということです。

いくら考えても結論も出ないし、理解も殆ど進まないのに、どうしても考えてしまいます。

他の多くの人たちの人生を見ていると、運命というものがあるのなら、その運命通りに生きて死んで行っているように見える例が時々あるのです。

もっと言えば、この世界の殆どの人は、運命通りに生きて死んで行っているのかも知れないと思うのです。

では、自分(慧空)はどうなんだ、ということになるのです。

自分は彼らと違うのではないか、それなりに自由意志による人生の選択を行っていると考えたりしているのですが、突き詰めて考えると、自分と彼らの違いは無いこともないが、それが人生の選択の有無に関係するような本質的なものかどうかは、怪しい限りだし、根拠も無いと考えたりもしています。

 

話がぐちゃぐちゃしてこんがらがってしまいそうです(すみません)。

書きながら考えているところもありまして(-_-;)

 

一気に本質的なところを見よう、わかろうとすると、直ぐに不可知の壁にぶち当たってしまいます。

焦ってはいけません。

核心的なことはわからずとも、もう少しはわかることがあるはずです。

欲張らず、論理展開と推論を慎重にちびりちびりと進める必要があります。

 

着眼のポイントとしては、普通の人々と、それなりに悟った人の間には、それなりに違いがあり、その違いが人生の営みにも反映されているのだろうと思うのです。

まずは、この辺りのことを整理して、運命との関連について何かわかることはないかを探りたいと思います。

 

((2)に続きます)

 

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自閉症の息子に自覚を伝える

2024年11月17日 11時07分12秒 | エッセイ

◇自閉症の息子に自覚を伝える◇

 

私には、今年二十歳になる自閉症の息子がいます。

自閉症の障害は非常に重く、重い知的障害、情緒障害、自傷他害等の問題行動、こだわり等があります。

自傷は、自分の頭を拳で殴る、壁や窓ガラスに頭突きする、手を机等に打ち付ける、膝を床に打ち付ける等があります。

他害は、他者の服や髪に掴みかかる、爪を立てる、殴る等があります。

会話は、例えば「昼ご飯の後、散歩に行きます」等のごく簡単な声かけは通じます。

自分からの発語は、「おやつ」、「散歩」等のごく簡単な単語を話せる程度です。

文字や時計(時刻)の判別等はできません。

 

5、6歳の頃から上記のような問題行動が激しくなっていき、支援学校やデイサービスでの対応も難しくなり、自宅でも手に負えなくなり、10歳のときに児童施設で受け入れてもらうことになりました。

その後、児童施設から成人施設に移行し、現在も施設で生活しています。

施設に入っても、面会があるのと、年に何回かは自宅に帰省させていますので、親子の関係はそれなりに保たれています。

 

息子が施設に入って1年程経った頃でしょうか、私は息子に自覚の真似事のようなものを教え始めました。

息子は、統合失調症の傾向があり、情緒が上下に不安定に揺れやすく、情緒が落ちると、マイナス方向の感情や衝動が連鎖的に起こり、それに巻き込まれ埋没し、抜けられなくなります。

そこで、息子の情緒がマイナス方向に落ちそうになったところで、そのことを息子にわからせ、自分で自分の情緒の落下を止めさせるための取り組みを始めました。

このブログで伝えている「自覚」が、それに使えるのではないかと思ったのです。

 

具体的な取り組みは、自分のマイナス方向への状態の変化に気づかせることと、自分の状態の悪化にブレーキを掛けさせることを繰り返し徹底的に伝えるというものでした。

例えば、自分の情緒が落ちそうなっていることや、掴みかかる、爪を立てる等の問題行動が出そうになっているときに、そのことをハートの部分でハッと気づかせることを繰り返し伝えました。

息子の手を胸に誘導して、ここでハッと気づくんだという具合に伝えました。

また、情緒の悪化や、爪立て等の衝動に対して、息子の手を腹に誘導して、ここでグーッと堪えるんだという具合に繰り返し伝えました。

気付くためと、堪えるために、ハートと腹に意識を向けることを特に意識して伝えるようにしました。

 

このような取り組みを始めた当初は、息子に伝わっている様子も手応えも全くなく、自分は何でこんなことをしているのだろうと馬鹿らしくなることもありました。

でもなぜか、止めずに続けたのでした。

 

ところが、取り組みを始めて1年くらい経った頃でしょうか、息子の様子に変化が見られるようになったのです。

そのとき、私は、情緒が落ちていきそうになっている息子の様子を少し離れた場所から見ていました。

息子は、情緒が落ちてくると表情等が曇ってきて、急にマイナスのスイッチが入ります。

マイナスのスイッチが入ると、爪立て等の他害や自傷が始まります。

息子の情緒が落ちてきたので、もう直ぐ私のところに爪を立てにやってくるだろうと思って見ていたところ、息子が何かを堪えるようにして我慢していることに気付いたのです。

私は「おやっ」と思い、息子の様子を見ていると、息子は時折「んーん、んーん」と唸りながら必死に耐えているようでした。

そして、その格闘が数分続いた後、急に息子の様子が切り替わり、落ち着きを取り戻しました。

 

息子はいつの間にか、自分で自分の情緒の落下に気づき、踏み止まることを覚えていたのでした。

私はそのことに驚きながら息子に近寄り、「ハッとしてグーをやったんか?」と尋ねました。

すると、息子が「うん」と応えたのでした。

私は嬉しさに涙がこぼれながら、息子を抱き締め、「偉いやっちゃ」と褒めてやりました。

 

この息子の一歩はとても大きなものではありますが、その後の歩みが順調であった訳ではありませんでした。

長い停滞の時期や後退期を繰り返しながら、何年も掛けて取り組むことになりました。

最初のうちは、情緒が落下しそうなときに上手く「ハッとしてグー」をやれることは殆どなく、大半はそのまま落下していくので、その度ごとに「ハッとしてグー」を伝える必要がありました。

取り組みを始めて5年くらいが経ち、息子が15、6歳になった頃でしょうか、情緒の落下に対し、何割かの確率でブレーキを掛けられるようになったような具合です。

ブレーキを掛けても情緒の落下を上手く抑えられるのは、凡そ半分くらいだったように思います。

何年も掛けて、息子の身体と意識に刻み込むようして繰り返し伝える必要がありました。

そうやって取り組みを続けているうち、情緒が落下しかけたときに、少しずつ少しずつ「ハッとしてグー」が出来る機会が増えていきました。

 

言うたらダメゲームの話。

息子は、頭の中をある欲求というか、言葉が回り始めると、そのループに囚われてしまい、抜け出せなくなることがよくありました。

一番多かったのは、「ごはん」です。

食べることぐらいしか楽しみというか、時間を過ごすことがないのもあり、食事が終わって暫くすると、「ごはん」と言って次の食事を要求し始め、それが30分、1時間、長い時は2時間も続くことがありました。

「ごはん」、「ごはん」と何度も何度も訴えられるだけでも辛いのに、爪を立てたり、掴みかかったり、頭を壁に打ち付ける等の問題行動も重なることが多く、その相手をするのは本当に大変でした。

 

そんな中、「ハッとしてグー」が少しやれるようになってきたとき、私は息子に対して、ゲームのようなある取り組みを思い付いたのです。

名付けて、「言うたらダメゲーム」です。

息子が「ごはん」、「チーズ」(息子は何よりもチーズが大好きなのです)、「車さんぽ」(ドライブのことです)などと言ってグルグルし始めると、まずは息子に、「ごはん、ごはんってグルグルしている誰ですか?」などと言って、自分がグルグルにしていることを気づかせるようにします。
グルグルし始めると、「グルグルしているのは誰ですか?」と言ったぐらいではもう止まらないのですが、自覚を促すべく一応は何度か声掛けします。

 

それでもグルグルが止まらなかったとき、「言うたらダメゲーム」の発動を宣言するのです。

息子がそれ以上、その問題の言葉を言ったときは、息子にその言葉を言ったことを伝えて、頭を手でしばくのです(これを虐待と言う人もいるでしょうが、そんなことは気にしません、笑)。

もちろん、息子にはこのゲームのルールを繰り返し、何度も説明します。

ゲームを始めたときは、息子がグルグルに嵌ってしまって問題の言葉を発する度に、ルールを説明して頭をしばく、ということを延々と繰り返していました。

頭をしばくと息子の状態が余計に乱れてしまったり、泣き出してしまうこともありましたが、まずは徹底的にやってみようと思い、息子が問題の言葉を発する度に容赦なく頭をしばいていました。

 

ところが、このゲームに関しては意外に早く、息子が対応するようになったのです。

このゲームを始めて3日目頃くらいだったでしょうか、いつものように息子がグルグルに嵌ってしまったので、息子に「しゃあないなぁ、言うたらダメゲームやるしかないな。ほな、始めるぞ。」と言ったのです。

すると、息子がニヤッと笑ったのです。

私はその息子の様子にピンと来て、息子に「なんやお前、ひょっとしてこのゲームのルールがわかったんか?」と尋ねました。

これに対し、息子はまたニヤッとしながら、「うん」と応えたのです。

「それじゃあ、ゲームをやってみよっか」と言って、ゲームを始めると、それまで「ごはん」等と繰り返してグルグルしていたのがピタッと止まったのでした。

私は、息子に「凄いやないか、グルグルを止めれたやないか」と言って、息子を褒めてやりました。

 

この「言うたらダメゲーム」も万能である訳ではなく、息子の状態が悪く、情緒が余りに不安定になっているときは、やはりどうしようもなく、いくら頭をしばいてもどうしようもないときも多々ありました。

それでも、前述の「ハッとしてグー」とこの「言うたらダメゲーム」等を組み合わせて、繰り返し繰り返し、息子に自身の様子を自分で気づかせ、ブレーキをかけさせ、切り替えさせるように働きかけました。

 

この「言うたらダメゲーム」に関連して、息子の知性の発達が窺えた話があるので、それを書きたいと思います。

息子がドライブに行きたくなり、「車さんぽ」と繰り返し、グルグルし始めたときでした。

いつものように「言ったらダメゲーム」を発動し、息子が「くるま」とか、「くる」とか、「く」と言ったところで何度か頭をしばいた後でした。

息子が暫く静かになった後、「がいしゅつ(外出)」と言ったのです。

なんと息子が、禁止ワードを避けて、言葉を替えてきたのです。

これに対して、私はすかさず「「がいしゅつ」と言うのもダメだからね」と伝えたのです。

すると今度は、息子がさらに言葉を替えて「ようい(用意)」と言ってきたのです。

「「ようい」と言うのもダメ」と伝えると、今度はさらに「いきたい!」と言ってきました(笑)。

「「いきたい」もダメ」と伝えると、もう我慢の限界だったようで、怒り出し、私に掴みかかってきました(笑)。

このときは、相当ドライブに行きたかったようです(笑)。

 

この話の最後に、息子にまつわる別のエピソードを紹介したいと思います。

実は私は、社会に出て最初の約二十年間はデスクワーク系の仕事をしていたのですが、その仕事を辞めてから現在の農家を始めるまでの5年間は、成人の知的障害者入所施設で支援員として働いていました。

その施設は、息子のような知的障害のかなり重い方々を中心に受け入れているところで、利用者の多くは全くあるいは殆ど言葉を話せないような人たちでした。

そのような特に重い障害を抱えた人たちに対して、何をしたくてこの世に生まれてきたのだろうという疑問が私の中にあったのです。

そのような人たちは、何もしなくてもそこに居るだけでいいんだ、という考えもあり、それはそれである程度は的を得ているところもあるようには思われますが、私はそれでは納得できませんでした。

彼らなりに何かあるのではないか、と私は考え続けていました。

 

そんな訳で、私は時折、息子に対して「お前はこんな身体でわざわざ何をしに生まれてきたのか?」と問いかけていました。

もちろん、応えが返ってくるはずもないのですが、わざわざ、どうして、という疑問に、息子の障害の不憫さが相まって、息子に対して呟かずにはいられなかったのです。

 

いつだったか、息子が前述の「ハッとしてグー」をやり始めた頃だったかは忘れましたが、私がまた息子に、「お前はわざわざ何をしに生まれてきたのか?」と問いかけていたときでした。

そのとき私は、息子が何をしに生まれてきたのかが、ハッとわかったのです。

息子は自身の障害に取り組むべく生まれてきたことがわかったのです。

息子だけでなく、障害を持って生まれてくる人、あるいは生まれてから障害を持つ人は、その障害に取り組むべく生まれてきていることがわかったのです。

それがわかったとき、私は嬉しくて涙をこぼしながら、「そうか、そうだったのか、お前は凄いヤツや」と言って、息子の頭を撫でてやりました(私は感動すると、直ぐに涙が溢れてしまいます^^;)。

息子は意味がわからず、ポカンとしていましたが。

 

それ以来、私は息子や重い障害を抱えた方々に対する考え方が大きく変わりました。

それまでは、彼らのことを不憫な人とか、何かの因果で罰ゲームのような人生を歩んでいるのかとか、幼稚な余り訳がわからず過酷な人生に飛び込んでしまったのかとか、そのように考えているところがありました。

しかし、それ以後は、彼らのことを果敢な挑戦者として、また対等なひとりの人間として考えるように変わりました。

 

知的障害は、人が人であるための重要な要素である自我の活動が難しくなります。

そのため、重い知的障害を持つ多くの人たちは、人生の営みや取り組みが、自らの感情や衝動、周りからの影響に流されるまま、されるがままといった具合に、どうしても漫然としたものになりがちです。

残念ながら彼らの多くには、自身の障害への取り組みや精神的な成長が見受けられないのです。

そんな彼らに対して、私はお節介に、「〇〇(利用者の名前)はそれでいいのか」とか、「そのまま何もしないで死んでいくつもりなのか」とか、「自分は何をしに生まれてきたのか、思い出せ」と、呼びかけていました。

彼らにも、持って生まれてきた自分の本心を振り返ってもらいたかったのです。

 

このような呼び掛けは、周りに他の職員が居ないときにやっていました。

私が上記のような呼びかけをすると、普段はぼーっとしていて余り反応が無いような人でも、明らかに嫌がったり、苦しそうな素振りを見せたり、激しく私に突っ掛かってきたりするのです。

それに対し私は、嫌がられても彼らの意識に突き刺すように繰り返し呼びかけていました。

自分が閻魔大王になったかのように。

でも残念ながら、自身の障害への取り組みに繋がるような人はいませんでした。

 

上記の「〇〇はそれでいいのか」、「そのまま死んでいくつもりなのか」、「自分は何をしに生まれてきたのか、思い出せ」等の呼びかけは、息子に対してもやっていました。

息子に対しては力余って、「お前は世界中の自閉症者が出来なかったことをやろうとしている」とか、「お前ならきっとできる」とか、「どんどん上手になってきている」とか、「お前は自閉業界の革命児になれ」なども呼びかけていました。

 

なぜか、息子はこのような私の呼びかけをそれなりにちゃんと聞いたのです。

全く聞かなかったり、嫌がって爪を立ててくるときも多々ありましたが、しっかりと私の目を見て聞くときもあったのです。

そして、情緒が不安定になりそれを踏み止まろうと格闘している様子などから、自身の障害への取り組みの様子がしっかりと見て取れたのです。

また、それが意識の成長に繋がっている様子も見て取れたのです。

だから、私の方も、そのような息子に対する取り組みを続けることができのだと思います。

 

息子ももう二十歳になり、ひと段落というか、もういいやと思っているのか、この頃は余り私の言うことを聞かなくなってきました(笑)。

私が「ハッとしてグー」を伝えたり、呼びかけをしようとすると、手で私を突っぱねて「いやだ」と言ったりもします(笑)。

息子なりに自立したのかもかも知れないと思い、嬉しくもあり、少し寂しさを感じるところでもあります。

 

おしまい。

 

 

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存在に関する情報

2024年10月04日 21時50分17秒 | エッセイ
◇存在に関する情報◇


9年程前に見た夢の体験から、私たち存在に関する興味深い情報をいくつか読み取ることができますので、今回はそれを記事にしておこうと思います。
ひょっとすると、この情報がどなたかの役に立つかも知れないと思っています。
その夢の体験はブログ記事にしておりまして、リンクはこれです。

私は12年程前に明け渡しを体験した後から、身体の無い存在になっている夢を頻繁に見ます。
その身体の無い存在とは、本当に身体が無く、視覚だけがあり、意識としては薄っすらとした自我(思考や発意、感情等)があります。
存在の大きさはおそらく点のような小さいもので、透明です。
私は、そのような視点だけの存在になって、人々の様子や景色を眺めている夢を頻繁に見ます。
多くの夢は特筆するようなことは余りないのですが、上でリンクを貼った9年前の夢は、とても変わっているというか、面白いのです。

簡単にどんな夢かと言うと、
視点だけの存在になっている状態から、夢の中の身体のある他の人物と一体化し、その状態のまま暫く時間を過ごした後、再びその人物と分離したのです。
以下、その夢から読み取れる情報について書きます。

◇視点だけの存在があり得る
おそらく夢と現実は本質的な違いはありませんから、夢の中で起こることは現実でも起こり得ると考えています。
ですから、この現実世界でも、身体の無い視点だけの存在があり得るのだろうと考えています。

◇視点だけの存在が他の人物と一体化したり、離脱する可能性
この現実世界においても、視点だけの存在が肉体のある他の人物と一体化したり、離脱するという現象が起こり得ると考えています。
ちなみに、夢の中で、視点だけの存在である私(慧空)が他の人物と一体化したときは、それまでの慧空という認識は消失し、その人物になり切っていました。
しかし、その人物としての自我の働きは私が担っているという感覚でした。
つまり、その一体化している間、私は傍観者ではなく、その人物として主体的に活動していました。
そして、その人物から分離した後は、再び慧空としての感覚が甦りました。

◇一個の肉体に複数の意識存在が同居している可能性がある
夢の中で、その人物に私が一体化する前から、その人物は普通に活動していましたので、既に何らかの意識存在が入っていたのだろうと考えるのが妥当だと思います。
だとすると、私がその人物と一体化していた間は、その人物には複数の意識存在が入っていた可能性があると考えるのが妥当だろうと思います。
そして、これは現実世界においてもおそらく同じであり、私たちの肉体には複数の意識存在が入っている可能性があると思います。

ここで興味深く、かつ謎なのが、一つの肉体に複数の意識存在が入った場合、肉体のコントロール等の活動の主導権はどうなっているのだろうということです。
私は夢の中で、視点だけの存在のときも、他の人物と一体化しているときも、主体的な自我感覚(主導権)は自分にあったように思います。



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解脱者の入滅と他者との関連

2024年09月17日 15時43分55秒 | エッセイ
◇解脱者の入滅と他者との関連◇


今回の話題に関連して、大分以前に、ある思索(1)(2)という記事を書きました。
つい先日、その記事を読んで頂いていることがわかりまして、改めて自分も読んでみました。
当時に比べて私の中でいろいろ整理が進み、わからないなりにスッキリとした部分がありますので、今回それを記事にしてみようと思いました。
今回の記事のお題は、解脱者が入滅するときに、一切が消えてしまうのか、それとも何か残る、あるいは何が残るのかというところです。

まず初めに、今回の話の前提の部分について書きます。
実は本質的なところで、解脱や入滅ということがどういうことなのかは、誰にもわからないのです。
例えば、釈迦は解脱したと言われていますが、本当に彼が解脱していたのかは誰にもわからないのです。
そして、仮に彼が解脱していたとして、その死に伴って釈迦という存在がどうなったのかも誰にもわからないのです。
私自身についても、自分自身が本当に解脱しているのかどうか、実のところはハッキリしないのです。
これ以上先の悟りは無さそうだということと、これ以上はどうしようもない、ということがわかっているだけなのです。
このようなところを前提として、話を進めたいと思います。

まず、議論のお膳立てから始めたいと思います。
それは、他者の存在についてです。

悟りの行程を歩む過程で、おそらく多くの方(全員かも)が通過するポイントがあります。
それは、世界(宇宙)に存在しているのは自分だけ、あるいは、一人に一つずつ世界(宇宙)があると理解するポイントです。
この理解はそれなりに本質を突いているのですが、この理解に関連して、起こる疑問があるのです。
それは、自分自身はそれなりに存在しているように思うのだけど、他者は存在しているのかどうなんだろうということです。
他者が存在しているように感じるのは、自分がそう認識しているだけなんじゃないのかという疑問が起こるのです。

結論から言うと、その疑問はいくら追及しても答えは得られないのです。
いくら追及しても、自分自身のことさえ存在しているのかどうかわからないのですから、他者のことなんてもっとわからないのです。
しかし、この点について私(慧空)としては、自分自身についても他者についても、断定はできないけど、存在していると考えるのが妥当だろうと考えています。
ここからは、自分自身の他に、他者も存在すると考えて話を進めます。

もう一つのお膳立てとして、自分自身の世界と他者の世界の関係について書きます。
悟りの行程の後半にて、私とは意識であり、世界そのものであると理解するポイントあるんです。
その悟りの観点から見て、自分自身の世界と、他者の世界とはどう関係しているのかというところが問題というか、謎なんです。
この謎は、おそらく本質的に解明不可能な問題なのだろうと思うのです。
それでも、その核心部分に少しでも触れられないかと思い、考えを巡らせているのですが、なかなか手強い問題なのです。
私のなんとなくの感触ですが、個々の存在の世界は、互いに重なり合いその多くを共有し合うように存在していてるのではないかと考えています。

さらにもう一つのお膳立てとして、個々の存在の発生と消滅についてです。
私は、存在(意識)には始まりと終わりがあり、その両端を繋ぐ成長の過程があるのだろうと考えています。
そして、その発生のタイミングや、成長の過程の長さや、終わりのタイミングは個々に異なるのだろうと考えています。
ちなみに、存在の終わりは解脱に伴う入滅というそれなりの原因のようなものを考えることができますが、始まりについては、それがなぜ起こったのかは残念ながら誰にも決してわからないことなのです。

次にやっと、本題についての話に入っていきます。
ちなみに、ここまでの話と同様、ここからもバリバリの想像と推測の話です。

存在が発生すると、先に発生している存在の世界との共用が始まります。
多くの存在にとって、その存在が発生したとき、その発生に伴って世界が発生するのですが、既に他の存在が先にあって、その存在たちと共有するような形で、その世界の展開が進んでいくだと考えています。
つまり、多くの存在にとって、その存在が発生したときには既に世界がそれなりに形成されており、その形成された世界を共有する形でその後の展開が進んでいくのだと考えています。
しかし、一番最初に一つ又はいくつかの存在が発生したときには、世界はまだ何も無い世界だったのではないかと考えています。
現在のような複雑な世界は、存在たちの途方も無く長い意識活動の結果、創り出されたのだろうと考えています。

そして、解脱に伴い存在が入滅するとき、その存在とともにその存在の世界が消滅するのだろうと考えています。
そのとき、消滅するのは滅人する存在の世界だけであり、他者の世界は継続して展開していくのだろうと考えています。
入滅する存在の活動により生じた世界に対する痕跡というか影響は、他者の世界に波及し、展開を続けていくのだろうと考えています。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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仏教における苦をめぐる誤りについて

2024年08月28日 13時31分44秒 | エッセイ
◇仏教における苦をめぐる誤りについて◇


今回は、仏教における苦をめぐる誤りについて書いてみようと思います。

大乗、上座部を含む大半の系統において、苦を滅することができると考えられているようです。
しかし、これは大きな間違いなのです。
私という存在そのもの、この世界そのものが苦なのです。
私とは連鎖的に連なる識の連鎖であり、その一つ一つの識が苦なのです。
ですから、苦を滅するなんてことは不可能なのです。

釈迦は一切皆苦を言ったようです。
一切皆苦と言えば、一切すべてが苦なのです。
それがどうして苦が滅するという話になったのか。

次に、渇愛と苦の関係についてです。
仏教では、渇愛によって苦が生じるという考えがあるようです。
そして、悟りにより渇愛を停止させ、それによって苦を滅することができるという考えがあるようです。

このような考えも間違いなのです。
正しくは、苦が根本なのです。
渇愛によって苦が生じるのではなく、渇愛それ自体が既に苦なのであり、苦の連鎖によりさらなる苦が派生しているのです。
また、私という存在がある限り、渇愛という苦が滅することもありません。



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功徳と悪徳

2024年08月16日 09時07分01秒 | エッセイ
◇功徳と悪徳◇


存在の成長には功徳を積むことが大事であるという類のことがよく言われますが、実はこれは誤りなのです。
功徳はむしろどうでもよいくらいのことで、重要なのは悪事を行わないことなのです。
一つでも悪事を行ってしまうと、いくら善い行いをしても帳消しになることはありません。
一点の汚点が取り返しの付かないことになることもあります。
この世界、即ち私という存在はそのように出来ていると私は考えています。

それはどうしてなのか、少し説明します。
善い悪い等の概念は二元的な囚われですので、本来そのような基準はありません。
ですから、行いが誰かに評価されたり、裁かれることもありません。

ではなぜ、悪行はいけないのか。
私は、人として生まれてくる存在は、本性(本心と言ってもいいです)として善的志向を持っていると考えています。
誰しも、根の部分では人に迷惑を掛けたくはないし、傷つけたくはないのです。
できることなら、善いことをしたいのです。
どんなに悪事を重ねているような者でも、根の部分ではそうなのです。

ですから、本心に背いて悪事を働くと、根の部分で自分が自分を許せず、自責、後悔により、深く苦しむことになるのです。
そして、それは後の世に影響し、何世も苦しむことになるのです。

私たち個々の世は、過去世で蓄積された印象(業と言ってもいいです)が大きく影響していると私は考えています。
この印象は、善いことをしたときは殆ど残らないくらい薄いのに対し、本心に背いて悪事を働いてしまったときは深くしっかりと残ってしまうのです。
このため、いくら善行を重ねても、悪事を帳消しにすることはできないし、たった一つの悪事が大変な傷として残ってしまうのです。

ですから、私たちは自らの本心に向き合い、慎重かつ丁寧で生きる必要があるのです。


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無常の誤りについて

2024年04月22日 19時32分46秒 | エッセイ
◇無常の誤りについて◇


今朝のツイート記事に書いたものを単独の記事として書いてみようと思います。

無常、無我について(特に無常について)、これまで何となく違和感を感じたままほったらかしにしていたのですが、その違和感の内容がハッキリしたので記事にしておきます。

まず最初に、無常、無我の意味の確認から。
無常とは、一切のことがらは常に変化するものであるという意味です。
無我とは、一切のことがらに実体が無い、あるいは絶対が無いという意味です。

無常とは何を言っているのかというと、ことがらの本質的な性質について常に変化するものだと言っている訳です。
これに対し、無我には、ことがらの実体の有無に関する意味合いだけでなく、ことがらに対して何らかの言及を行う際のその言及そのものに対する意味合いも含まれている訳です。
つまり、無我の矛先は、ことがらに対して無常であると言うその言及にも向けられるということなのです。

無我の観点からすると、一切のことがらに絶対はありませんから、言い切りや断言は一切できないのです。
無常の言う、一切のことがらは常に変化するものであるというのは、言い過ぎであり、厳密に言えば誤りなのです。
なお、一切は常に変化するの「一切」を言わないとしても、変化するものであると言い切っていることには変わりありません。

無常という考えは軽く、どうでもいいのでないかと考えていましたが、誤りであるというのは、私自身、意外でした。
悟りの理解に、無常という考えは必須ではなく、むしろ無用であると結論する次第です。


<2024年8月25日>
◇訂正とお詫び

上の記事で、無常が誤りと書いたのは言葉が過ぎたと思います。
誤りと言ってしまった私自身が誤りでした。
すみませんでした。

改めて考えてみると、無常とは、私という存在である意識、即ち連鎖的に展開する識のこと(正確には識の特性)であると考えれば、確かに私とは無常であるということになります。
苦は、私というものを別の切り口から見たときの私のこと(正確には私の特性)であるということができます。
そうすると、空もそうです。
空も、さらに別の切り口から見たときの私のことであるということができます。
無我(実体は無い)も、私のことを言っているに過ぎません。

無常も、空も、無我も、苦も、私のことを言っているのだと改めて納得した次第です。


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問答の限界と悟り

2024年03月14日 08時55分09秒 | エッセイ
◇問答の限界と悟り◇


今回は、悟りと問答について書いてみます。

禅系の一部で、悟り修行に公案や問答が使われるようです。

悟りに問を使うことのメカニズムは、それはそれで非常にシンプルでハッキリしているのです。
結果はおそよ二種類あるようです。
どちらもポイントは問への集中です。

一つ目は、問への集中により、意識の囚われにより構成された外層部分が崩壊し、急激な自我感覚の希薄化が起こるのです。
このとき、自我が喪失した等の錯覚が生じやすいです。

二つ目は、問へのさらなる集中により、意識の囚われにより構成された外層部分の崩壊がさらに進み、主客に対する錯覚が剥がれ落ち、それらの統合体験が起こるのです。
この体験をわかりやすく言うと、自分の意識あるいは存在が問そのものになるという体験です。
あるいは、すべてが消失し、問だけになるという体験です。
このときも、自我が喪失した等の錯覚が生じやすいです。

しかし、問答で到達できる悟りは、ここまでなのです。

ここから先は、私に意識を向け、自我を捉える必要があるのです。
しかし、これがなかなか難しいのだと思うのです。
仏教、特に禅を含む大乗系では、私は無いという誤った無我の概念が伝統になってしまっていて、私に意識を向けることや、自我を捉えるという概念が欠落してしまっていますから。


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なぜ自由意志を否定できないのか

2024年03月13日 15時33分10秒 | エッセイ
◇なぜ自由意志を否定できないのか◇


今回は、自由意志についてちょっと違った切り口で書いてみたいと思います。

自由意志が無いと仰る方は、本当にそれで納得できているのでしょうか。
納得できるはずはないのですが。
なぜなら、その考えは間違っているからです。
自我が無いというのも同じで、間違っています。
正しくは、自我も自由意志も実体が無いのであって、有る無しについてはどちらとも言えないのです。

これは私が繰り返し書いていることですが、今回の趣旨ではありません。
以下が本題です。

自由意志が無いと言う方は、以下の問についてぜひ考えていただきたいのです。

「自由意志が無いのなら、どうして人は後悔をするのか」



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正誤の追求の果て

2024年03月13日 10時02分17秒 | エッセイ
◇正誤の追求の果て◇


今回は、正誤、正しいことと間違ったことについて書いてみたいと思います。

正誤は、善悪等の二元の概念と混同されがちですが、それらのとは本質的に異なるものです。
善悪等の二元の概念は囚われであり、本来そのような区別はありません。
これに対し、正誤はそれなりにしっかりとあるのです。
「それなりにしっかりと」などという中途半端な言い方をするのは、本当は厳然としてあると言いたいところだけど、敢えて避けたというところです。

面倒なので、最初から結論を書くような形になりますが、ご容赦ください。
何が正しいのかについて、論理的に徹底的に追及していくと、必ず到達する結論があるのです。

それは、
「一切に根拠が無い」
あるいは、
「一切に絶対は無い」
なのです。

ここが正しさの原点であり、源なのです。
これに沿ったものは正しく、反するものは間違っているのです。

もう少し嚙み砕いて書きたいところですが、いろいろ反発もありそうなので自重します。


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自我の手放しという誤り

2024年03月12日 10時30分08秒 | エッセイ
◇自我の手放しという誤り◇


今回は、自我の手放しについて書いてみます。

自我の手放しは悟り界隈でよく言わることですが、間違いです。
そもそも、自我を手放すことなんて不可能であり、あり得ないのです。
究極的には、この世界そのものがあなという自我なのですから。

自我、私、個の意識など、なんと言っても同じです。
すべて私であり、手放す対象となり得るものではありません。

自分は自我を手放したと言っている人が時々おられますが、それは本人の誤解であり、認識不足です。
世界があり、その世界が見えている、感じられているのに、私が無いなんてことはあり得ないのです。
起こってくる現象と、それを観ている、感じている観照とは、不可分であり一体なのです。

悟りの行程は、囚われ(執着)を手放していく行程です。
囚われの手放しを少しずつ進めていく行程を漸悟といい、一度にそれなりの量の囚われを手放す行程を頓悟と言います。
頓悟と言っても、1回で悟り切る例はおそらくなくて、実際には漸悟と頓悟を織り交ぜながら進んでいきます。

明け渡し体験や禅の頓悟など、一度にそれなりの量の囚われの手放しが起こると、自我感覚の急激な希薄化が生じ、これは自我の消失感覚を伴います。
ここで、多くの方が自我が消失したと誤解してしまいます。
すると、ちょうど仏教の教えにも「無我」などという紛らわしい概念があるため、「これだ」と嵌ってしまい、そこから抜け出せなくなってしまいます。
そもそも釈迦が言ったとされる無我とは、私が無いと言っているのではなく、全てに実体が無いと言っているだけであり、私についてはあるとも、無いとも言っていないのです。

手放す対象は、あくまでも自我ではなく、囚われ(執着)なのです。
囚われを手放すと、その結果として、自我が薄くなったような現象が生じるのです。
自我を手放すなんてことは、道理に合わないのです。

次に、私に意識を向けること、自我を捉えることの大切さについて書きます。

悟りの行程を歩む際に限らず、人生を歩む際にも、私に意識を向けつつ歩みを進めることはとても大きな意義があります。
悟りの行程を歩む際は、囚われを手放していく必要があります。
囚われを握りしめているのは、私自身ですから、その現場である自分自身にしっかり意識を向けることで、自分自身が囚われを握りしめていることに気づきやすくなります。
自分が囚われを握りしめていることに気付くことができれば、その瞬間に気づいた囚われが消失します。

次に人生について。
一般に人の営みは、損得や感情など表面的なことがらに意識が向けられやすいです。
人目や社会的地位が気になり、自分を自分の目で直接見るのではなく、人の目や社会的基準を通して自分を見て評価することが多いです。
これでは外側ばかりに気が取られ、自分の内面深くまで見ることはできません。
そうなるのも仕方のないことではありますが、それでは自身の本心が置き去りになってしまうのです。
だから、人生に後悔を残すことになってしまうのです。

私たちはどうして生まれてきたのか。
それは、自分がこう生きたい、これがやりたいという想いがあるからだと、私は考えています。
もっと言えば、そこに後悔があるからだと、私は考えています。

人の目や社会的基準を通して自分を見るのではなく、外側ばかりを見ているその目を自分に向けて、自分の目で直接自分を見ていただきたいと思います。
そして、自分はどう生きたいのか、何をしたいのか、考えていただきたいと思います。
自分の本心に向き合っていただきたいと思います。

後悔しないように。


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なぜ悪行はいけないのか

2024年02月25日 14時34分57秒 | エッセイ
◇なぜ悪行はいけないのか◇


今回は、なぜ悪行はいけないのかについて、私の考えを書いてみます。

善悪も囚われですから、本来、行いついても善い、悪いはありません。
これは間違いありません。

ではなぜ、悪行はいけないのか。

私は、人として生まれてくる存在は、性分として善的志向を持っていると考えています。
人々の行いを善悪の観点から観れば、実際に表出する行いは種々あります。
しかし、実のところは、誰しも出来れば悪いことではなく、善いことをしたいという想いを持っていると考えています。
どんなに悪いことをしている人でも、本心はそうなのだと考えています。

ところが、実際に生きていく中では、表面的な欲や価値観、そこから派生する損得勘定や感情等に流され、本心に反する行いをしてしまうことが多々あります。
生きることは難しく、仕方のないことでもありますが、本心に背くと、自分が自分を許せず、深い後悔と自責の念に苦しむことになると考えています。
そして、その苦しみは、途方も無く深く、重いものになり得ると考えています。

その本人の意識の表層では、後悔や自責について自覚が薄いことがあります。
しかし、意識の深層では、後悔や自責の念が深く刻まれており、いずれそれらが表出し、途方も無い苦しみを抱えることになると考えています。

そして、その苦しみの行程は、幾世にもわたるものになるのだろうと考えています。



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肯定と否定

2024年02月22日 09時23分33秒 | エッセイ
◇肯定と否定◇


今回は、肯定と否定について書いてみます。

ものごとに対するアプローチとして、肯定的アプローチと否定的なアプローチがあります。
両者を比べると、イメージ的にも肯定の方がいいですし、受け入れやすいです。
否定はどうしても、辛く、受け入れ難い。
そのため、否定はどうしても受けが悪いです。

また、両者の特性として、肯定は女性的あるいは母性的であり、否定は男性的あるいは父性的であると言うこともできます。
昨今は社会的にも男性性不在あるいは父性不在の時代となっていて、否定的アプローチに対する風当たりが強いです。

悟りの世界でも、良い悪い等の二元の囚われが落ちる小悟の辺りまでは肯定的アプローチが有効であり、またその階層周辺に属する人々の数も多いことから、どうしても肯定派が優勢となりやすいです。

しかしそもそものところ、悟りの行程を含めた私たち人の営みは、あれでもない、これでもないという具合に選択肢を全部潰していく否定的行程なのです。

あれもこれも、やってみないとわからない。
でも結果はいつも、「これじゃない」となる。
残念ながら、「これだ」というものが一つも残らない。

そして、あれでもなかった、これでもなかったという具合に全てにバッテンが付いて、やっと諦めが付くようになる。
人の営みとは、そういうものなのです。


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滅尽定と入滅とその関連(2)

2024年02月12日 09時50分47秒 | エッセイ
◇滅尽定と入滅とその関連(2)◇


前回記事の続きです。

私とは、パッ、パッ、パッと断続的かつ連鎖的に連なる識の連鎖として捉えることができます。
この識の連鎖という観点から見たとき、それは否応なく自動的に展開していきますから、そこには自由意志を含めて自我の存在も無いかのように感じられます。
しかし、だからと言って自我は無いと考えてしまうのは、私は間違いであり、大切な要素を見落としてしまうことになると考えています(かと言って、自我があると言うのもまた間違いなのですが)。

識の展開、自我の活動、どちらも幻ですが、私は、自我の活動が識の展開に大きく影響を与えているのではないかと考えています。
以前の記事で、各コマを構成するひとつひとつの識には、その識そのものを認識する自己認識機能が含まれており、それが自我の主体感覚の源泉であるということを書いたことがあります。
また、私という存在の重要な要素として自由意志がありますが、その自由意志は、私という存在をミクロに拡大して微小な識の展開として見たときは存在しないかの如く姿を消してしまうことも書いたことがあります。

私は、私という意識には二つの相があり、その各相の要素が互いに複雑に関係し、作用し合うことで、私という存在が成り立っているのではないかと考えています。
ここで、一つ目の相は通常の意識感覚の相であり、自由意志を認識できる相です。
もう一つの相は、私という存在を識の展開としてミクロに見たときの相です。
もう少し具体的に言いますと、自我の活動、特にその自由意志が識の展開に作用するということが、あるいはそのような構造が、上記の自己認識機能に加え、私という存在の極めて本質的な要素になっているのではないかと考えています。

一旦話を識の展開に戻します。

私は、パッ、パッ、パッと識が起こって来るとき、それを誘発する種のようなものがある可能性があると考えています。
その種に含まれるものとしては、一番分かりやすい例は囚われ(執着と言ってもいいです)です。
なぜなら、何か現象が起こってきたとき、その現象に関連する囚われがあれば、現象に囚われが反応して思考を誘発するからです。
その他、種には、記憶(あるいは、記憶のようなもの)も含まれます。

この種と識の展開との関係において、識の展開が継続するためには、識を誘発する種の供給、あるいは種へのエネルギーの供給を持続的に行う必要があるのではないかと、私は考えています。
この考えは、私自身が囚われを手放し、悟っていく、あるいは悟りを深めていく過程で感じた実感によるものと、悟りの行程に入る前の自分自身の様子を思い出して観察した結果によるものです。

多くの方々は、ジャングルジムのように絡み合った多数の囚われ(種)を握りしめており、起こってきた現象に対し、それに関連する囚われが連鎖的に反応し、無数の思考が誘発されます。
それが囚われの手放しが生じ始めると、起こってきた現象に反応する囚われが減ったり、囚われが薄くなり、それによって、囚われにより誘発される思考の量や強さも減少し、絡み合った囚われのジャングルジムが崩壊し始めます。
こうしたことから、私は、種によって無数の思考である識が誘発されることで、次回以降のコマの識を誘発する種を供給する、あるいは囚われを握り直すようにして種にエネルギーを供給するような作用が生じているのではないかと考えています。

さらに私は、識の連鎖が終わることなく延々と継続するのは、識を誘発する種の要素にその原因となるものが含まれているのではないかと考えています。
具体的には、上手く捉え切れないというか、表現できませんが、根本苦に対する衝動というか、性というか、囚われというか、そのような何かが種に含まれているのではないかと考えています。
そして、囚われに気づくことでそれが消失するように、解脱に伴い、種に含まれるそのようなものが消失するのではないかと考えています。
その消失により、識の展開は継続するための原動力を失い、段々と勢いを失い、最後は肉体の死に伴って停止する可能性があるのではないかと考えています。



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