私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

三つの苦

2015年01月31日 21時07分36秒 | 私の成り立ち
◇三つの苦◇

私という存在に起こってくる苦には、大きく分けて三つの苦があります。
但し、その三つが別々の苦という訳ではなく、順番に説明する一つ目と二つ目の苦は、三つ目の苦と同根であり、最後に説明する三つ目の苦を起源として引き起こされるということもできますし、三つ目の苦が態様を変えて表面に出てきたものということもできます。
なお、今回の記事では、苦という言葉ばかりが目につくでしょうが、そこはご辛抱ください(笑)。

一つ目の苦は、普通にただ起こってくる苦であり、受け取るだけの苦です。
私たちに普段何気なく起こっている思考や身体の反応や行動は、この一つ目の苦が起点になっていることが多いです。

具体的には、病苦に代表される痛い、苦しい等の比較的分かりやすいものはもちろん、腹が減ったいう感覚や、おしっこがしたいという感覚など、何かの欲求や衝動を引き起こすものはすべて苦です。
また、何かの音や目に見える景色を認識することも苦です(その音や景色に対する反応が起こりますし、その音や景色のことが気になったときはなどは、まさしく苦となります)。

この苦は、ただ起こってくるだけのものではありますが、雨のようにひっきりなしに起こってくるため、仮にどれかを避けたとしても、必ず別の苦を受けることになり、私という存在がある限り、何らかの苦は必ず受けることになります。
またこの苦は、基本的には、それが起こってきて、それに対する反応や対処があり、流れ去っていくという、ただそれだけのものですが、この苦に関連した握りしめた考え(執着、囚われ)があると、この苦をきっかけとして、次に説明する二つ目の苦が引き起こされることとなります。

二つ目の苦は、握りしめた考え(執着、囚われ)により誘発される苦であり、上記の一つ目の苦をきっかけとして引き起こされます。
この苦は、上記のように、一つ目の苦が起きたとき、その苦に関連した囚われがあると、それをきっかけにして引き起こされます。
例えば、こんな具合です。
ある女性が顔を何かにぶつけて怪我をしたとします。
顔を何かにぶつけたことの認識や、怪我をしたことの認識、それによる痛みの認識等は、一つ目の苦なのです。
そして、起こってきたそれらの一つ目の苦に対する反応や対処の展開は、それはそれで連鎖的に起こっていきます。
その一方、多くの女性は、顔は大事だという囚われも持っていますので、顔を怪我したという認識(一つ目の苦)をきっかけに、顔に対する囚われによる二つ目の苦が引き起こされる訳です。

この苦の元になる囚われの内容や、それにより引き起こされる苦の具体的な態様は本当に様々ですが、典型的には、その囚われの対象に対する満たされない欠乏感や、その対象を失うことに対する恐れや、その対象を失ったときの喪失感などです。
囚われの対象としては、本当にあらゆるものがその対象となり得ます。
典型的には、善し悪し、幸不幸、優劣等の二元的な囚われが多いですが、真理、真我、根源、空、神、悟り、そして「私」なども、その対象となります。

この二つ目の苦は、その握りしめた考えを手放すことにより解消することができます。
しかし現実には、私たちの人生においてこの苦は大変大きなウエイトを占めており、私たちの人生は、常にこの苦で満たされていると言っても過言ではありません。
私たちの人生の活動の多くの部分は、この苦に対する反応であり、この苦を巡る活動なのです。

三つ目の苦は、私という存在の根本にある苦のことです。
これについては、昨日の記事をお読み頂きたいと思います。
この苦と上記の一つ目の苦を特に分ける必要も無いのですが、一つ目の苦と三つ目の苦をひとつに包括した全体の苦のうちの、認識しやすいその表層部分が一つ目の苦に相当しており、認識しにくいその深層部分が三つ目の苦に相当しているという具合です。


こうやって苦について徹底的に書くと、自分でもイヤになります。(^_^;)
しかし、これが私という存在の営みであり、姿なのです。
まさに、私という存在は苦そのものというか、苦の連鎖そのものなのです。


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最後に残る迷いは苦に対する衝動

2015年01月30日 20時40分58秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇最後に残る迷いは苦に対する衝動◇

大切なことについて、改めて書きたいと思います。

握りしめている考えが私という意識の連鎖や迷いを引き起こしていますから、握りしめている考えをすべて捨て去ることができれば、解脱の悟りとなります。
その手放しを進めていく過程で、どうしても最後に残るものがあります。

それが「苦」です。

私という存在の根本のところに「苦」があり、私という存在である意識の迷いは、すべてその「苦」を何とかしようとする衝動に伴って起こっています。
その「苦」についてもう少し具体的に表現すると、不足感、不自由さ、閉塞感、苦しさなどです。

私たちの意識には、その根底にある「苦」に対して、それを何とかしたいとか、それから逃れたいとか、あるいはそれを何とかできるはずだ等の衝動が常に働いています。
その衝動が意識の迷いを延々と引き起こしています。

その意識の迷いから抜け出すためには、その「苦」から生じる迷いの衝動を停止させる必要があります。
その迷いの衝動を停止させない限り、いくら握りしめた考えの手放しをしても、また掴んでしまいます。

そのためには、「苦」は、私の意識の中に何らかの態様で常に有るものであり、決して逃れられないことに気づくと共に、「苦」から逃れようと衝動的に彷徨い続けている自らの姿に気づく必要があります。

そこに気づけば、あなたの意識の迷いはきっと止まります。

どうか、自覚を続けられ、そこに気づいて頂きたいと思います。


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六根からの意識の展開に気づく

2015年01月30日 11時01分57秒 | 悟り
◇六根からの意識の展開に気づく◇

私という存在は移ろいゆく意識そのものなのですが、私の意識として現実世界に対応した意識が起こっているときは、必ず六根からの入力とその認識(あるいは反応)から意識の連鎖が起こります。
六根とは、五感と意識の意です。

現実世界という実体がある訳ではなく、六根から始まる意識の展開があるだけなのです。
そこに気づいて頂きたいと思うのです。

まずは、あなたの目に見えるその景色について、その景色の世界が本当に実体として有るのか、その景色に対応した認識(意識)が起こっているだけなのか、徹底的に観察し、考察してみてください。
もし、あなたが見ている世界が実体として有ると思われるのなら、そう結論を出す前に、有ると結論されるその根拠を追求して頂きたいと思います。

何かを信じてしまう方は、根拠を曖昧にしたまま、信じてしまう方が多いです。
根拠もないのに、どうして信じることができるのでしょう。
皆さん、そこが安易なのです。
甘いのです。
依存心があると言ってもいいでしょう。

あらゆるものに対して徹底的に根拠を追求されると、一切根拠なんてものは無いということが分かります。
そうすると、実体や絶対と言われるものは一切無いこが分かり、信じるものなど無くなります。

まずは、私に意識を向け、六根から起こるあなたの意識の展開を徹底的に観察して頂きたいと思います。
そして、そこに何か実体的なものや絶対的なものがあるか、徹底的に追求して頂きたいと思います。


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何かを掴んでいる人と掴んでない人の違い

2015年01月29日 11時18分42秒 | 悟り
◇何かを掴んでいる人と何も掴んでない人の違い◇

何かの考えを掴んでいる人と、何も掴んでいない人の違いについて書かせて頂きたいと思います。
なお、殆どすべての人は、何らかの考えを掴んでおられます。
掴んでいる考えの内容や量が違うだけです。

何かの考えを掴んでいる人は、具体的な考えを取り上げて、「こうだ」、「こう思う」という具体的な主張があるんです。
控えめな人の場合は、主張が表に出にくいですが、心の中で「こうだ」、「こう思う」等の具体的な思いがあります。
何か主張があると、そこには間違い無く、その主張に関連した握りしめた考え(執着、あるいは囚われ)があるのです。

握りしめる考えは、いろいろです。
善し悪し等の二元的な考えや、この現実世界のことや、真我や、根源、空、神等と言ったことがらまで、本当にいろいろです。

握りしめる考えの内容はこのように様々ですが、握りしめた考えに対する思い込みの度合いや、普遍性というか絶対性のような感覚は、大凡みな同じです。
皆さん、自分の握りしめた考えを、私という存在よりも本質的で絶対的なものとして思い込んでおられます。
そのような方は、例えば、善悪等の基準に何か普遍的なものがあるに違いないとか、神は崇高に違いない等の思い込みをされます。
また、私という意識はこの肉体によって成り立っている等として、私という存在の成立根拠が肉体にある等の思い込みをされます。
そのような方にとって、肉体や現実世界は絶対的なものなのです。

そのように何か考えを握りしめると、その握りしめた考えに付随した意識の迷いが必ず起こります。
握りしめた考えが、欲や恐れを引き起こし、感情や思考、衝動を生むのです。
そうして、意識は彷徨い続けます。

一方、何も考えを掴んでいない人は、具体的な考えの主張がないのです。
そんなことはない、お前(慧空)もいろいろ出張してるじゃないかと仰る方もおられると思いますが、私は何も具体的な考えは主張していないのです。
あくまでも、すべては考えであり、幻であるとした上で、方便として何か言葉を言っているだけなのです。
すべては考えであり、絶対的なものは無いということが、よく分かっているのです。
敢えて、唯一主張があるとすると、すべては考えだという考えだけなのです。
そしてもちろん、その唯一の主張も考えであるということもよく分かっているのです。
何も掴んでいないので、意識が迷うことなく、自ずと定まるのです。
何も掴んでいないので、起こってきたことがらや考えを掴むこともなく、また引きずることもないのです。
だから、新たなカルマもつくらないのです。

この私が言っていることを頭で理解されようとしても、それは無理です。

私に意識を向け、まずは、すべてのことがらは私に起こってきている考え(認識)なんだということをしっかりと理解して頂きたいと思います。
その次に、私とは何かについて徹底的に追求して頂きたいと思います。
私も幻だということが理解できたとき、本当に一切もことがらが幻だということが理解できます。


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生死、夢、涅槃

2015年01月28日 12時00分47秒 | 私の成り立ち
◇生死、夢、涅槃◇

悟りには関係のないどうでもいいことですので、暇つぶし程度にお読み頂きたいと思います。

私たちの意識の状態には、意識が有る状態と、意識が全く無い状態の二つの状態があります。
私たちの意識はその大半が、意識が有る状態にあります。
意識が全く無い状態とは、一切の感覚も意識も無くなった完全な無我のことであり、涅槃です。

普段、私たちの意識は、その完全な無我である涅槃からパッパッパッと断続的かつ連鎖的に起こってきています。
しかし、皆さんなかなかそれに気づかれないのですが、時折、その涅槃が一定時間継続することがあるのです。
それは、深い瞑想でそうなる場合もありますし、ふとしたきっかけでそうなってしまうこともありますし、睡眠中にそうなっていることもあります(睡眠中は比較的よく起こっているようです)。
その涅槃が続く時間の長さは、1秒未満の非常に短い時間のときもありますし、1秒から数秒程度のときもありますし、数十秒から数分のときもあり、様々です。

そのように、涅槃からパッパッパッと生じている私たちの意識は、涅槃に落ちているとき以外は、当然ながら常に有るのです。
どういうことかと言いますと、私たちの意識は世界そのものですから、涅槃に落ちているとき以外は、常に何らかの世界があるのです。
そして、それに付随した私という自我の感覚も意識も常に有るのです。

目が覚めているときはこの現実世界の意識が起こり、眠りに入ったときは夢の世界の意識が起こります。
またそれと同様に、この現実世界に生まれてきたときは現実世界の意識が起こり、死を経た後は死後の世界の意識が起こるのです。
現実世界から死後の世界への切り替わりは、眠りに落ちたとき意識が現実世界から夢の世界に移行するのとまったく同じようにして起こります。
そうやって、私たちの意識の展開は、解脱により私という存在が消滅するまで、つまり私たちの認識している世界が完全に消滅するまで、生死を超えて延々と続いていきます。
私という自我と共に。


私がこんなことを言っても、コイツはまた馬鹿なことを言っていると思われる方が大半なのだと思います。
ぜひ、あなたが死ぬときに確かめて頂きたいと思います。
それで、もし本当にそうだったら、何とかして私(慧空)に、「あんたの言ったこと、本当だったよ」と知らせて頂きたいと思います(笑)。


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禅定に関するサイト紹介

2015年01月27日 11時11分19秒 | その他
◇禅定に関するサイト紹介◇

禅定に興味のある方がおられるようなので、禅定について書かれたサイトを紹介したいと思います。
リンクはこれです。

禅定の各段階の説明は、大凡合っているようです(偉そうな言い方ですみません、笑)。
ただし、禅定と悟りの関係に対する捉え方や理解は間違っています。
悟りと禅定の間には直接的な関係は何もないのです。
深い悟りを得ると、それに伴って深い禅定を体験するようになる傾向はありますが、禅定を体験したからと言って、悟っているということは全くありません。


<訂正(2015年2月4日)>
上の文章では、上のリンク先のサイトに書かれた禅定と悟りの関係に対する捉え方や理解は間違っています、と書きましたが、私の勘違いだったようです。
サイトの文章をちゃんと読んでみたら、禅定の体験は、最後の滅尽定の除いて悟りと余り関係がないとちゃんと書いてありました。
どうやら、別のサイトと勘違いしてしまったようです。
すみませんでした。


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あなたは「観るものは観られるもの」を実感したか

2015年01月27日 08時13分15秒 | 悟り
◇あなたは「観るものは観られるもの」を実感したか◇

悟りの道中の後半部分に、必ず通るゲートがあります。
それが、「観るものは観られるもの」のゲートであり、大悟です。

あなたは「観るものは観られるもの」を実感したか!

あなたが、そのゲートを通ったなら、何の説明も要らないはずです。
ああだ、こうだと頭や言葉を使う必要はありません。
まさに、「それだ!」、「それだった!」と分かるはずです。

まずは、「観るものは観られるもの」を実感するまで続けて頂きたいのです。

あなたの中には、まだ晴れないモヤモヤとした何かがあるはずです。
それを誤魔化さないでください。
目をそらさないでください。


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滅私、無我という迷い

2015年01月25日 08時43分24秒 | 悟り
◇滅私、無我という迷い◇

悟りの道は、私という自我を滅することだと言われることがありますが、これは誤解です。
また、覚者の中には自分の自我は滅せられたと仰る方がおられますが、これも誤解です。

確かに、悟りが深まるにつれ、囚われや欲が薄くなり、私という自我も薄くなっていきます。
しかし、どんなに深く悟ろうと、私という自我が完全に滅せられることは決してありません。
存在が続く限り、世界が続く限り、最低限の私という自我は残ります。
なぜなら、存在、すなわち意識あるいは世界そのものが、私という自我なのですから。

自分の自我が滅せられたと仰る方は、自分の自我を見失い、主体性を喪失してしまっているのです。

そのような方は、もう一度、冷静に自分を観て、感じて、考えて頂きたいと思います。
目に入るものや感じたものを認識し、思考し、行為を起こしているあなた自身の自我から目を背けないでください。
あなたの手足は、あなたが思った通りに動いているでしょ?
手足は自由に動かせるでしょ?
そこにあなたの自由な意志があり、あなたの自我の主体性があることに気づいてください。
目の前のパソコン画面を観て、この文章を読み、ああだ、こうだと考えを起こしているのは誰なのか、気づいてください。

自分の自我を誤魔化さないでください。
自我から逃げないでください。
逃げているうちは、迷ったままです。


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真理も幻

2015年01月24日 15時55分29秒 | 悟り
◇真理も幻◇

以前、「私は在るという錯覚について」という記事を書いたのですが、今日は真理について書いてみたいと思います。
今回もリンゴを例にしたいと思います。(^^)

あなたの目の前にリンゴがあるとします。
そのリンゴは、あなたがそのリンゴを観て、あるいは感じて認識しているときだけ、存在しています。
あなたがリンゴを認識していないとき、リンゴは存在していません。
私たちは、リンゴ、すなわちこの物質世界が実体としてあるものだと思い込んで生きています。
しかし、それは私たちの思い込みであり、誤解なのです。
リンゴという実体がそこにあるのではなく、リンゴというあなたの認識があるだけだからです。

リンゴがあなたの認識(考え)であり、幻であるこという点については、ご理解頂ける方は少数でしょうがおられるのだと思います。
では、真理についてはどうでしょう。
真理の内容は、真我でも、根源でも、無でも、無我でも、空でも、神でもなんでも結構です。
あなたが真理と考えているもので結構です。

リンゴに対してそれが幻であると見抜かれた方も、対象が真理になると、なぜか皆さん、それが絶対であると信じ込み、握りしめてしまいます。
どうしてでしょう。

真理も、リンゴと同様に、あなたが認識している考えじゃありませんか?
真理とリンゴにどういう違いがあるのでしょうか?
何も違いはないのに、皆さん、真理に触れると簡単にそれを抱え込んでしまうのはどうしてでしょう。

そこには、まず、何かにすがり付きたいというあなたの依存心(執着と言ってもいいです)があります。
そして、あなたが依存しているその対象が崩れ去ることに対する恐れがあります。

盲目的に真理を抱え込むのではなく、また真理に意識を向けるのではなく、真理を認識しているあなた自身に意識を向けて頂きたいと思います。
そして、真理を認識しているあなた自身(自我)に気づいて頂きたいと思います。


とは言え、真理を手放すのは簡単ではありません。
真理と共に生きる道も、それを手放していく道も、どちらの道もパーフェクトです。(^^)


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「私」の意識要素と身体の関係について

2015年01月23日 20時27分22秒 | 私の成り立ち
◇「私」の意識要素と身体の関係について◇

自覚や悟りのこととは関係が薄いのですが、参考になる方もおられるかもしれないと思い、ここにもアップすることにしました。
なお、この文章は、メールで頂いたご質問に関連してお答えしたものを手直したものです。

「私」という意識又は感覚lの要素は、大きく分けて、お腹(丹田付近)と、胸(ハート付近)と、頭(目の奥からサードアイの奥又は頭頂にかけての付近)の三カ所に分散しています。
このため、その三つの意識要素(あるいは場所)のどれを最も強く感じるかで、「私」という意識又は感覚の中心の位置も変わってきます。

ちなみに、その三つの場所(あるいは意識要素)にどのような 違いがあるかと言いますと、頭には、良い悪いの分別等の思考をする意識と、ただ観ている観照意識の要素があります。
胸(ハート)は、感情や感覚の意識なのですが、それらの愛情や悲しみ等の比較的精神性の強い意識の要素がここにあります。
腹も、感情や感覚の意識なのですが、それらのうち、より肉体に近い部分、例えば憎しみや恐れ、怒り、欲などに関する意識の要素がここにあります。

基本的には、悟りを知らない一般の方や、悟りの道に入ってもまだ悟りの浅い方は、頭(脳)でする分別等の思考が優位となっているため、頭の位置に私を感じる方が多いのだろうと思いますが、そういう方の場合、頭だけでなく、腹の意識もそうとう強く活動し、影響を与えています。

悟りの道に入り、ハートが開き始めると、ハートの意識が優位になり、私という意識のセンターをハートで感じるようになります。
そして、さらに悟りが進み、ハート(あるいは、ハートにある意識要素)がほぼ完全に滅せられると、頭の観照意識が優位となり、私という意識のセンターを頭の位置に感じるようになります。


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意識の焦点を「私」に絞り込む

2015年01月21日 22時51分41秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇意識の焦点を「私」に絞り込む◇

自覚とは、シンプルに言うと「私」に意識を向けることです。
私に意識を向けただけで、十分に自覚になるんです。

より正確には、自覚には、私に意識を向けることだでなく、起こってきた現象や、感情や思考を観るという要素も含まれているのですが、意識が私にしっかりと向けられていれば、観ることも自ずと伴ってきます。
どういうことかと言いますと、私にしっかりと意識が向けられていれば、起こってくる現象や、感情や思考に巻き込まれる割合が減りますので、自ずとそれらを冷静かつ客観的に観られるようになるのです。

そうやって、起こってきた現象や感情や思考を冷静に観られるようになれば、私という自我が握り締めた考え(囚われ)に自ずと気づいていきます。
また、高い集中度で「私」に意識が向けられれば、それだけで私という自我が握り締めた考えが解放されていきます(あるいは溶けていきます)。

ですから、自覚をされる方は、これ以上は無理だという程の強い集中度で、ご自分の意識の焦点を「私」に当てて頂きたいのです。
そして、気が向いたときにときどきされるというのではなく、できるだけ常に、高い集中度で意識を「私」に向け続けて頂きたいのです。
その状態を常に維持していただきたいのです。

どのくらい深い悟りを得られるかは、その「私」に当てられる意識の焦点の絞りの強さによって決まると言っても過言ではありません。
特に、大悟や解脱の悟りと言った深い悟りを得る際には、極限まで絞り込んで意識を「私」に当てる必要があります。
解脱の悟りを得る際は、針の先のような意識の集中度が必要になります。
最終的な局面では、私の意識の迷いがとても微細なものになっていきますので、そのような極めて高い意識の集中がないと、私の意識の迷いに気づけないのです。

具体的なやり方としては、例えば、まずは、身体の中心を通る直径10cmくらいの中心軸をイメージして、その中心軸に意識を集中してください。
なお、中心軸に意識を向ける際の上下方向の範囲については、例えばハートから頭の範囲や、丹田付近から頭の範囲など、ご自分で意識を集中しやすい範囲を決めて集中してください。
直径10cmの中心軸がイメージできるようになったら、さらにシャープに、例えば直径1cmかそれ以下のサイズの中心軸をイメージして、その中心軸に意識を集中してください。
あるいは、ハートの中心(コア)の位置が分かる方は、そのコアに向けて意識を集中されてもいいです。


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ハートを開くワーク

2015年01月18日 23時03分10秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇ハートを開くワーク◇

ハートを開くためのワークにはいろいろあるとは思うのですが、一つとてもいいワークがありまして、今日はそれを紹介したいと思います。
準備が出来ている方の場合、このワークをやれることで、ハートが開くだけでなく、明け渡しが起こってしまう方もおられるのではないかと思います。
なお、このワークはある有名なワークの本質部分をコンパクトに抜き出したものです。

<ステップ1>
あなたが、最も嫌いだと思う、あるいは否定したくなる、あるいは受け入れられないと思う対象を一つ選んでください。
好ましくは、その対象は、あなたと密接な関係性がある出来るだけ近しい人であるのがいいです。
例えば、一番望ましいのは家族(特に両親)で、次に望ましいのは関係の深い知人や職場の同僚や上司等だと思います。
その対象となる人の全体が受け入れられないというのでもいいですが、その人の一部であるここが受け入れられないというのでもいいです。
なお、対象は人が望ましいのですが、仕事や学校、社会の中の制度や取り決め等でもいいです。
あるいは、お金等のものでもいいです。

<ステップ2>
ステップ1で選んだ対象(ここでは人とします)となる人の、こういうところが受け入れられないと思うところを、言葉(単語)で表現し、紙に書き出してください。
少なくとも三つ以上書いてください(できれば五つ以上)。
例えば、ずるい、不真面目、自堕落、意志が弱い、傲慢、感情が激しいなど、いろいろあると思います。
まずはとにかく、その対象人物の受け入れられないと思うところをどんどん言葉にして書き出してください。

<ステップ3>
ステップ2で書き出した対象人物の受け入れられないと思う複数のところのうち、あなたが最も受け入れられないと思うところ、あるいは、それによってあなたが最も影響を受けた(嫌な思いをした)と思うところを一つ選んでください。

<ステップ4>
ステップ3で選んだその対象人物のあなたが最も受け入れられないと思うところによって、あなたが受けたマイナスの影響(デメリット)をすべて(できれば三つあるいは五つ以上)書き出してください。
例えば、父親の自堕落さによって、家庭が崩壊したとか、行きたい学校に行けなかったとか、惨めな思いをした等、思い付いたものをすべて書き出してください。

<ステップ5>
ステップ3で選んだその対象人物のあなたが最も受け入れられないと思うところによって、あなたが受けたプラスの影響(メリット)をすべて(できれば三つあるいは五つ以上)書き出してください。
このステップ5が最も重要なところですので、これまでのあなたが歩んできた道のり、あなたが得てきたもの、あなたが大切にしているものや思いなどに、あなたの意識を深く、そして全体に向け、あなたが得たものを探し出してください。
その対象人物の受け入れられない部分によって、あなたはきっと何かを得ています。
その対象人物のその部分に対して起こるあなたの感情が強ければ強いほど、その対象人物のその部分から、あなたにとって大きな大きな何かを得ています。
それを見つけ出してください。
そして、気づいてください。

<ステップ6>
このステップ6からステップ8は、補助的なものであり、それほど重要なものではありません。
ステップ3で選んだその対象人物のあなたが最も評価できると思うところ(長所)を一つ選んでください。
その対象人物に対する評価が低い場合、長所なんてあるはずがないと思われるかも知れませんが、どこかに長所は必ずありますから、注意深く探してください。
そして、その対象人物の長所によって、あなたが得たプラスの影響(メリット)について、思い付くものすべて書き出してください。
また、その対象人物の長所によって、あなたが得たマイナスの影響(デメリット)について、思い付くものすべて書き出してください。

<ステップ7>
あなた自身について、自分で最も優れていると思うところ(長所)を一つ選んでください。
そして、そのあなた自身の長所によって、周りの人にどのようなプラスの影響(メリット)が及んでいるかを、思い付くものすべて書き出してください。
また、あなた自身の長所によって、周りの人にどのようなマイナスの影響(デメリット)が及んでいるかを、思い付くものすべて書き出してください。

<ステップ8>
あなた自身について、自分で最も劣っていると思うところ(短所)を一つ選んでください。
そして、そのあなた自身の短所によって、周りの人にどのようなマイナスの影響(デメリット)が及んでいるかを、思い付くものすべて書き出してください。
また、あなた自身の短所によって、周りの人にどのようなプラスの影響(メリット)が及んでいるかを、思い付くものすべて書き出してください。


ワークの内容は以上です。

実は、私は知り合いの人からこのワークを受けたことがあり、それでこのワークのことを知りました。
私がこのワークを受けたのは、明け渡しと、自我を捉える悟りである見性を終えた後だったのですが、私がこのワークを受けた動機は、このワークについて知ったとき、このワークが中庸(ニュートラル)を徹底するのに使えるとピンと来たからでした。
結果は、私の思った通りで、私はこのワークを受けた後、悟りの道中の中庸(ニュートラル)のポイントを通過し、大悟に向かっていくことになりました。

最後に、参考になればと思い、私がこのワークを受けたときの対象人物等について簡単に書きたいと思います。
私は、私が小学五年のときに自死した父についてこのワークを受けました。
私が生まれた家は、父の実家だったのですが、諍いが絶えない家でした(母は、父が亡くなって直ぐ、私と弟を連れて父の実家を出ました)。
私は自覚を知って始めて、家の中のゴタゴタから逃げ、いつも夜遅くまで出歩いている父の弱さや無責任なところを受け入れられてないことに気づいたのです。
また、交通事故の後遺症(むち打ち症です)を苦に、あっけなく自死してしまった父の弱さが心のどこかでずっと受け入られてなかったのでした。
私に備わった粘り強さや責任感は、そう言った父の弱さの影響により得た部分があることが、このワークにより分かりました(そしてもちろん、その強さの裏側には弱さもしっかりあることも分かりました)。


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自分の考えに翻弄されていることに気づく

2015年01月17日 21時31分09秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自分の考えに翻弄されていることに気づく◇

みなさん、自分で考えをつくっておきながら、その考えに翻弄され、苦しまれる方が多すぎます。
これは、とても滑稽で悲しいことですが、事実です。
今日はそのことについて書いてみたいと思います。

例えば、あなたに何かを手に入れたいという欲望が生じたとします。
その対象としては、仕事だったり、何かの物だったり、異性だったりといろんな対象があると思います。
それが何とか手に入るものならいいですが、なかなか手に入らないものであるときは、心に激しい葛藤が生じることもあるでしょうし、大きな苦しみのもとになります。
少なからず、あなたの心はその対象により翻弄されることになります。
翻弄される余り、人生の貴重な時間を翻弄されたまま消費してしまう方もおられるのだと思います。

しかし、そうやってただ翻弄されるのではなく、一度冷静になって立ち止まって頂きたいと思うのです。

あなたが囚われているその対象に価値や意味を与えたのはあなた自身であることに気づいて頂きたいのです。

仕事や物や異性に、それがいいという価値を与えたのは誰ですか?

起こってきた現象に、それが問題だという考えを与えたのは誰ですか?

誰かの言動に対し、それが理不尽だ等の考えをつくったのは誰ですか?

その対象や、その対象に付与した考えに囚われるのではなく、一度立ち止まり、あなた自身に意識を向けてください。

そして、その対象に付与した考えをつくっているのはあなた自身であることに気づいてください。

自分のつくった考えに囚われ、翻弄されている馬鹿馬鹿しさに気づいてください。


厳しい言い方をすれば、何かの対象やそれに自らが付与した考えに翻弄される姿は、まさに奴隷です。
外側の対象に価値を付与しておきながら、自分自身に価値を見出せず、外側ばかりに価値を求めて翻弄されるその姿を、奴隷と言わずしてなんと言えばいいのでしょう。
残念ながら、多くの方は、自分がつくった考えの奴隷のように生きています。
そして、奴隷のまま死んでいきます。

どうか、外側の対象やそれに付与した考えをあなたの上に置かないでください。

それらを、あなたの足の下に踏みつけ、それらに主導権を与えないでください。

そして、創造主としての主導権をあなた自身にしっかりと保持してください。


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夢から覚める

2015年01月16日 08時15分11秒 | 悟り
◇夢から覚める◇

悟りの一つの表現として、悟ること、そして悟りを深めていくことは、夢から覚めていくことであると言ってもいいです。

私という存在そのものであるこの世界は、幾重にも重なった夢のようなものなのです。
私という存在も夢そのものと言えるのですが、その私が夢に夢中になる余り、夢が夢を呼び、止めどなく続く夢の連鎖に収集が付かなくなっているのです。

そして、その夢の最深部がこの現実世界という訳です。
私たちは、夢のまた夢であるこの現実世界に夢中になる余り、それを「現実」と信じ込んでしまっているのです。

ここまで書けばなんとなくお分かりかも知れませんが、悟りの階層は、夢の階層として捉えることもできるのです。
面白いでしょ(^^)

そのように延々と続く夢ですが、飽きも来ますし、いずれ必ず気づくときが来ます。

あなたはどうですか?^^


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天界の悟り階層の構成とそこでの迷いについて

2015年01月01日 22時11分33秒 | 悟りの階梯
◇天界の悟り階層の構成とそこでの迷いについて◇

悟りの階梯について、まだ理解が少しずつ進むようで、今日は天界の悟り階層(小悟)の構成やそこでの迷い等について書いてみたいと思います(悟りの階梯の全体については、できれば近いうちに記事を書きたいと思っています)。
なお、天界の悟り階層は、明け渡しと、自我を捉える悟りである見性とを得ることにより至る悟り階層です。
明け渡しとは、私という自我が握り締めた考え(囚われ)をある程度の割合で手放すことにより、得られる悟りです。
見性とは、私という自我を捉えることにより得られる悟りです。

天界の悟り階層は、大きく分けて上下二つの二階建て構造のようになっています。
その一階部分と二階部分の違いは、自我が掴んでいる考えの内容や数の違いです。
一階部分と二階部分との間は、それらを分けるちょっとしたギャップのような感じになっていて、そのギャップを超えて一階部分から二階部分へ移行するためのルートとしては、空のルートがあります。
空のルートとは、すべてが考えであり幻であるという空の理解を得るルートであり、この理解が得られると自ずと二階部分へ移行します。
なお、空の理解はすべては考えであるという理解ですから、私以外の対象でだけでなく、私という自我も含めて考え(幻)であるという理解が得られて初めて空の理解となります。

私はこの空のルートを通って二階部分へ進んだのですが、他のルートがあるのかどうなのかは私にはよく分かりません。
ただ、何となく確信としてあるのは、大悟において私という存在は連鎖的に起こってくる考えそのものであるという理解が起こるはずなので、この点からすると、二階部分へ進んでいくためには、空のルートしかないのではないかと思っています。

なお、私は空については二つの捉え方があるのだろうと思っています。
一つ目は、上で書いたように、すべては考えであり、実体はなく幻であるという理解です(龍樹さんは基本的にこの理解だったのだろうと思っています、もし間違っていたら教えて頂けると有り難いです)。
二つ目は、私という存在(自我あるいは意識)は断続的かつ連鎖的に起こってくる考えそのものであるという理解です(これは大悟に至ったときに得られる理解です)。
お釈迦様は空という言葉を使われなかったのではないかと思いますが、お釈迦様はこの二つ目の理解に基づいて、おそらく空以外の言葉を使って、私という存在について説明されたのではないかと私は思っています(このお釈迦様の理解が正確に後世に伝わらず、誤った形で(一つ目の理解のような形で)、後世に広まったのではないかと思っています)。
ここでは、一つ目の理解を空の理解と言っています。
以上、余談でした。

話しを元に戻して、天界の悟り階層の一階部分は、良し悪しで代表される二元の囚われがまだかなり多い階層なのです。
幸福はもちろん、善や徳や愛と言った二元の囚われがまだとても強いのです。
また、この一階部分では、人格神に対する強い囚われを持ったままこの階層に至る方もおられます。
握り締めた考えが多いということは、起こってくる考えも多く、自我も厚いですから、自我の欲求も強いのです。
このため、意識は基本的に外向きであり、僅かな間だけ時折内側に向けられるという感じです。
考えが多く、意識も基本的に外向きなので、自覚も浅く、自我の囚われや、自我の虚構性に対する気づきも起こりにくいです。

それ故、一階部分におられる方は、私という存在は真に存在する実存であると思い込んでいたり、自我の虚構性に思考のレベルでは理解していても、深い理解には至らず、表面的な理解に留まってしまいます。
また、意識が基本的に外向きなので、自我を見失ってしまい、自分の自我が滅せられたと誤解してしまうということもよく起こります(このような誤解をされている方はとても多いです)。

また、真我や根源等に関連した絶対的あるいは恒久的な考えを握り締めている方は、この一階部分にで留まっておられる方です。
ウパニシャッドの系列の覚者のほぼすべては、真我等の恒久的な考えを握り締めてしまい、この階層に留まってしまいます。
真我等の考えに囚われる余り、真我等の考えを起こしている自分自身(自我)に気づくことができず、真我が考えであり幻であるという理解が得られないのです。
また、自我も見失ったままになるのです。

すべてが考えであるという空の理解を得るためには、私という自我が考えを起こしている現場に直面できる程度のそれなりに深い自覚が必要なのです。
私という自我が考えを起こす瞬間、あるいは私という自我に考えが起こってきた瞬間を繰り返し観察することにより、すべてのことがらが考えであるという理解が生じます。
このときの理解は、多くの場合、まず空の第一段階の理解として、私という自我以外のことがらについて、それらはすべて私という自我がつくった(あるいは、自我に起こってきた)考えであるという理解が起きます。
そしてそれに続いて、空の第二段階の理解として、私という自我も考えであり幻であるという理解が起きます。
この第一及び第二の二つの段階の理解により、空の理解が完成します。

なお、私以外のことがら(例えば、真我や根源)についてそれが恒久的なものである等してその考えを掴んでいるのに、私という自我が考えであるという空の第二段階の理解が先に生じることは決してありません。
第一段階の理解と第二段階の理解がほぼ同時に起こることがあっても、第二段階の理解が第一段階の理解よりも先に生じることは決してありません。

ですから、ウパニシャッドの系列の覚者のように、真我や根源等を握り締めているのにかかわらず、私という自我は滅せられたなどの誤った認識に陥っている方については、まず、私という自我に意識を向ける自覚をされて、自我を捉えられ、真我等が自分が起こしている(あるいは、自分に起きてきた)考えであることに気づく必要があります。
そして、その上で、私という自我も考えであり幻であることを理解する必要があります。

空の理解を得て二階部分に移行した後は、自覚の実践等により、その得た理解を展開していくことになります。
具体的には、私という自我が握り締めた考え(囚われ)に気づき、あるいは手放し、あるいは焼き払っていくようになります。
それに伴って、自我も薄くなっていきます。
そして、自我の囚われが減り、自我の厚みがある臨界点を超えて薄くなると、大悟に至ります。


<補足と訂正(2015年2月3日)>
最近になって分かったことがあり、上の記事の内容を少し訂正したいと思います。
上の記事では、私という存在を含めてすべては考えであり幻であるという空の理解が、天界の悟りから大悟へ向かうときの条件であるかのように書いていますが、これは誤りでした。
空の理解が無くとも、大悟は得られるのだということが分かりました。
しかし、今回の理解により、大悟(梵天の悟り)の悟り階層にも、二つの階層があることが分かりました。
これらのことについては、できれば近いうちに記事を書きたいと思っています。


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読んで頂いてありがとうございました。

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