私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

もう一度悟りの階梯についてー自我を捉えることの意義ー

2023年03月12日 17時35分58秒 | 悟りの階梯
◇もう一度悟りの階梯についてー自我を捉えることの意義ー◇

悟りの階梯には小悟、大悟、解脱と三つの階層がありますが、どの階層に至るときも、私に意識を向け、自我を捉えることが重要な要になっているのだということが、なぜかここ1、2年くらいでより明確になってきました。
今日は、その周辺のことをまとめてみようと思います。

まず、小悟について。
小悟に至る際には、まずはその下準備として良い悪い等の二元的な囚われの手放しが済み、思考や感情が減っている必要があります。
この囚われの手放しは、明け渡しや禅の頓悟のような体験によって一気に生じることがあります(私自身は、明け渡し体験に伴って手放しが生じました)。
しかし、多くの場合、これだけでは小悟には至り切れないのだろうと考えています。
小悟に至るには、日常的な私という自我のもう一つ深層にある意識要素である観照意識に気づく、あるいは観照意識を捉える必要があります。
観照意識とは、日常的な私という自我意識のもう一つ深い層にある意識要素で、ただ観ている意識です。
アドヴァイタの覚者たちは、これを真我と言ったりしています。

観照意識に気づくためには、私に意識を向け、私という自我を捉える必要があります。
その際に、自覚が大変役に立ちます。
自覚は、二元的な囚われに気づいて手放していく際にも非常に役に立ちます。

次に、大悟について。
大悟に至る際には、その下準備として握りしめた囚われの大半の手放しを終え、思考や感情が十分に減り、意識の集中度が十分に高まっている必要があります。
囚われの手放しは、主に外側に向けた囚われから順に生じていきます。
つまり、小悟階層に至る際は外側に向けた囚われ(他者や外側のものごとに対する囚われ)の手放しが主に生じ、大悟階層に至る際は内側に向けた囚われ(自分自身に対する囚われ)の手放しが主に生じます。
この内側に向けた囚われの手放しも、明け渡しや禅の頓悟のような体験によって一気に生じることがあるのだろうと思います(私自身は自覚を行う中で手放が生じていきました)。

大悟の場合にも、このような囚われの手放しだけでは、多くの場合大悟に至り切れないのだろうと考えています。
大悟に至るためには、私という意識要素の本質的な部分に意識を向け、私という存在とは何かを捉え、知る必要があります。
これによって、私とは意識であり、世界そのものであると納得することとなります。
この大悟に至る際にも、自覚が大変役に立ちます。

最後に、解脱について。
解脱に至る際には、その下準備として握りしめた囚われのほぼ全ての手放しを終え、何かの考えを掴もうとする、縋り付こうとする衝動が十分に小さくなっている必要があります。
囚われは大悟に至った後でもいくらかは残っているもので、解脱に向かう際にそれらのほぼ全てを手放し切る必要があります。
なぜ、ほぼ全ての囚われの手放しが必要なのかと言うと、何かの考えを掴んでいる間(あるいは、何かの考えに縋り付こうとしている間)はまだ厳密な意味で意識が外向きであり、私という存在の根本に意識を向けられないからです。
何かの考えを掴んでいる、あるいは考えに縋り付こうとしているということは、その考えに依存しているということであり、まだ根本苦に向き合える段階ではないのです。

解脱に至るには、私という存在の根本に意識を向け、根本苦と向き合い、根本苦に七転八倒している自らの姿に気づく必要があります。
それに気づけば、根本苦をどうにかしようとして常に右往左往していた衝動がすっと収まります。
この解脱に至る際にも、自覚が大変役に立ちます。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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悟り階層と特徴について

2018年11月07日 15時09分18秒 | 悟りの階梯
◇悟り階層と特徴について◇

掲示板に久しぶりに少しまとまった文章を書いたので、それを少し編集してブログに残しておこうと思います。


悟りには階層があり、順番があります。
どうしても順番にやっていくしかありません。

そして、各階層ごとに特徴があります。
その特徴とは、各階層ごとに意識の表面に現れてきやすい囚われや感覚があり、それによるものなのです。
その囚われや感覚を形または状態と言ってもいいです。

覚者たちは、その自分が属する階層に応じた囚われや感覚を言葉にして表現します。
最初の階層では、愛や幸福、光、ワンネスなどそういう言葉が出てきやすいです。
中には、神という言葉を発する人もいるでしょう。

この階層は、まだ悟りには到達しておらず、未悟です。
まだまだ囚われも多く、思考も多いです。
良い悪い等の二元の囚われも残っています。
しかし、本人は自分の囚われや思考に気づかず、自分の自我が消滅したなどと言いだします。

さらに囚われが減ると、それに伴って思考も減ってきます。
そうすると、雑念の雲が晴れるようにして、観照意識が表面に出てくるようになります。
その観照意識がしっかりと確立すると、小悟となります。

この階層は、観照意識が立ち上がることにより生じる感覚が特徴です。
この階層にいる覚者たちは、その感覚や状態を「今」とか、「ただ観ている」とか、
「気づき」とか、そのような言葉で表現しようとします。
「真我」という言葉を使う人も多いです。
この階層にいる有名な覚者としては、ラマナ、プンジャン等がいます。
他ににもいるでしょうが、私は悟り業界のことを余り知らないので、分かりません。

小悟は囚われが減ったとは言え、まだまだ多くの囚われが残っています。
彼らには、まだ自分が「これだ」と掴んでいる囚われがあるのです。
そして、その掴んでいるものが言葉になって出てきます。
「これだ」と言って主張となる訳です。

上に挙げた、「今」、「だた観ている」、「気づき」等の言葉が、まさに彼らの囚われなのです。
彼らの囚われは、それだけではありません。
彼らには「こうあるべき」等の種々の囚われがまだまだあり、彼らの言動が注意深く観ていると、その囚われに関連した言葉や概念が必ず出てきます。
「こうだ」という強い口調とともに。

彼らには、まだ自分が握りしめている囚われに関連した、何らかの具体的な概念の主張があるのです。
その主張は、彼ら自身も気づかないし、ましてや普通の人は気づきません。

どうして自らの囚われに気づけないのか。
それは、彼らが余りにも当たり前のこととしてしまっているため、それが盲点となり、気づけないのです。
囚われとは、そういうものなのです。

別の言い方をすると、彼らは「今だ」などと認識し、主張しているその主張に対する吟味が足りないのです。
本当にそうなのかという吟味が足りないのです。

自らの主張に気づき、それに対して徹底的に検証し、吟味していくと、 一切のことがらに根拠がなく、また何も知り得ないという分かってきます。
また、一切のこと、この世界そのものである私という存在が意識(識と言ってもいいです)の連鎖的な展開であることが分かってきます。
これが大悟となります。

大悟まで来ると、私という存在を含めて一切に「これだ」ということが何も無いことが分かっていますから、
何か具体的な概念を主張することも無くなります。
軽はずみ「今」などと言うことも無くなります。

「観るものは観られるもの」は、小悟階層から大悟階層に到達する途中で体験するものなのです。
囚われがさらに減り、それに伴って思考が相当減ってくると、より深い観照意識が表面化するとともに、「観ている」という視点の欠落(正確には、欠落感)や、自我感覚の欠落(正確には欠落感)が生じ、主体が落ちて観ている対象だけになる意識状態が生じます。
それを「観るものは観られるもの」と言います。

観るものは観られるもの」を体験するところまで来ると、自我感覚の喪失感が激しく、またその体験の日常感覚とのギャップの激しさもあり、殆どの人は、自分の自我は消滅したと思ってしまうのだろうと思います。
ましてや、その先の大悟に至ると、自我感覚はさらに希薄になりますから、自分の自我は完全に滅したと思ってしまうのだと思います。

それでも自我は残っています。
希薄になりながらも、残っているのです。

最後の悟りである解脱へ至るには、希薄になった私という自我をもう一度捉え直し、「苦」に直面する必要があります。


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悟りの階梯

2018年03月14日 09時24分13秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯◇

2年以上前から、悟りの階梯について改めてまとめ直そうと思っていたのですが、気が向かずそのままになっていました。
今回の内容は、これまでごちゃごちゃと複雑になっていた部分を切り捨てて、スッキリとさせました。
おそらく、これが最終的な形となります。

悟りの階梯は、小悟、大悟、解脱の3階層です。

小悟の要件は、観照意識の確立です。
小悟によって、私と考え、あるいは私と世界が分離され、起こってくる考えや事柄に翻弄されることがほぼ無くなります。
この悟りへの手段は、例えば、外側(世界)に対するこうあるべき、これが正しい等の囚われの大半を手放すことです。

大悟の要件は、私とは意識であり、世界そのものであることの理解です。
この悟りへの手段は、例えば、私自身に対するこうあるべき等の囚われの大半を手放すことです。

解脱の要件は、根本的な苦に対する理解と、その苦に対する自らの衝動の停止です。
これによって、私という存在そのものが苦であり、どうにもならないことを理解します。
この悟りへの手段は、例えば、考え(囚われ)を何も握っていない状態に至り、依然として苦しんでいる自らの姿に気づくことです。


(補足説明)
これまでの内容では明け渡し等によって得られる状態を小悟に含めていましたが、今回の内容で未悟としました。
また、これまでの内容では「見るものは見られるもの」を体験した状態を大悟に含めていましたが、今回の内容で大悟から除外しました。
いずれの悟りも、私に意識を向け、私が握りしめている考え(囚われ)に気づき、手放していくことで至れます。


(記事の修正、2018年10月2日)
上記の記載の大悟のところで、大悟の要件を無常、無我としていたのですが、いろいろ考えた結果、自分の理解に一番合致した自分の言葉で大悟の要件を表現することにしました。


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悟りのゲートと盲点

2015年05月16日 18時39分43秒 | 悟りの階梯
◇悟りのゲートと盲点◇

悟りのゲートは、まさに盲点なんだなあと改めて思ったので、ちょっと書いておきますね。

小悟のゲートは、「私」の明け渡しです。
この小悟のゲートも盲点と言えば十分に盲点ですが、まあ見つけるのはそう難しくはありません。

しかし、大悟のゲートは、また「私」なのです。
これは本当に難しい。
明け渡しで「私」という自我の感覚が薄くなり、多くの方はそれで終わりだと思ってしまいますから。
でもまだ終わりじゃない。
小悟が、外側に向けての受け入れなら、大悟は「私」という中心に向けての受け入れ(明け渡し)なのです。

そして、最終的な悟りである解脱のゲートは、また「私」なんです。
正確には、「苦」という私の根っ子なんです(性と言ってもいい)。
これは本当に、本当に難しい。
大悟では、多くの人が「私」を見失ってしまいます。
そしてその静かな平穏さに酔ってしまう。
にもかかわらず、それを見つけることは、まさに奇跡です。

最後の最後まで、「私」がキーなのです。


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※現在、スカイプセッションについては一部又は全部を無料化する方向で検討中です。
 近日中に結論を出して、公表したいと思っています。


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さらに改めて悟りの階梯(2)

2015年03月04日 15時10分47秒 | 悟りの階梯
◇さらに改めて悟りの階梯(2)◇

前回の記事の続きです。
悟りの道や、悟りの階梯の各段階について説明してみようと思います。

悟りは階段状の構成になっていて、深さや段階があります。
各節目で起きる理解や感覚は、基本的な部分は共通しており、誰がどのような経緯を辿ってそこに至っても、ほぼ同じような理解や感覚が得られます。
この傾向は、深い悟りの節目になればなるほど強まります。

悟りの道は、私という自我が握り締めた考えである囚われ(執着)を手放していく道であるということができます。
囚われは、感情や思考を引き起こします。
このため、囚われが多いほど、起こってくる感情や思考の量も多くなり、自我も厚くなります。
反対に、囚われが減っていくほど、起こってくる感情や思考も少なくなり、自我も薄くなっていきます。
ただし、どんなに深く悟ろうと、最低限の自我は必ず残ります。
私という存在、すなわち世界がある限り、自我は必ず残ります。

囚われを手放していく方法としては、大きく分けて二つの方法があるのだと思っています。
一つは、受け入れや諦めによる明け渡しの方法です。
もう一つは、私に意識を向ける自覚等を使って囚われに気づくことで、それを手放していく方法です。
これら二つの方法は、互いに独立したものではなく、多くの場合、互いに関連し合いながら、囚われの手放しに対して作用します。

意図して受け入れようと思っても、なかなか思うようにはいきません。
ですから私としては、自覚を中心とした実践をお勧めします。
自覚の実践だけで、最終的な悟りである解脱の悟りまで到達することができます。
受け入れは、敢えてそれを意図しなくても、自覚の実践に伴って自動的に進んでいきます。

その際の最も大切なポイントは、私という自我をしっかりと捉えて、自我の主体性を維持することだと思っています。
なぜなら、考えを握り締めるのも、何かを求めて彷徨い迷うのも自我がすることだからです。
自我をしっかりと捉えていないと、その迷いに気づけないのです。


取りあえず、今回はここまで。
続きはまた書きます。


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さらに改めて悟りの階梯(1)

2015年02月05日 21時29分31秒 | 悟りの階梯
◇さらに改めて悟りの階梯(1)◇

悟りの階梯について、ちょっと大きなことが分かったので、改めて書いてみたいと思います。
理解はまだ途上のなのかも知れませんが、今回は大筋の大方のところが大分かったのではないかと思っています。

今回の理解での大きな変更点は、悟りの要素を明け渡しの要素と、智慧の要素に分けてまとめています。
悟りには明け渡しの要素と智慧の要素があるのですが、それらの二つの要素は、互いに関連し合いながらもある程度独立していることが分かりました。

得られる悟りの深さが、基本的に自我の厚みにより決まるという点はこれまで通りです。
なお、自我の厚みは、起こってくる思考の量と関係しており、起こってくる思考が減るほど、自我が薄くなります。
また、起こってくる思考の量は、自我が握り締めた考え(囚われ、執着)の量と関係しており、囚われの量が増えるにつれ、それによって誘発される思考の量も増えます。

悟りの階梯の基本構造は、明け渡しの進行の度合いにより決まり、四段階になっています。
それに対し、智慧の悟りについては、その進行度合いによって五段階になっており、明け渡しの系列の各段階と、智慧の悟り系列の各段階とは独立しながらも、相互に関係しています。

明け渡しの悟り系列の四段階の一段目は、何も明け渡しの無い段階です。
同二段目は、私という存在の外側に向けてなされる明け渡し(受け入れ)である第一の明け渡しがなされた段階です(小悟、天界の悟り)。
同三段目は、上記の第一の明け渡しに加えて、私という存在の内側に向けてなされる明け渡し(受け入れ)である第二の明け渡しがなされた段階です(大悟、梵天の悟り)。
同四段目は、私という存在の根底にある苦に対してなされる明け渡し(受け入れ)である第三の明け渡しがなされた段階です(解脱の悟り)。
なお、第一の明け渡しとは、一般に言われている明け渡しとほぼ同じ意味です。
第二の明け渡しとは、私という存在に向けてなされる明け渡しで、主客の統合である「観るものは観られるもの」という理解が得られる悟りです。

智慧の悟り系列の四段階の一段目は、私という自我に対する自覚がなく、まだ自我を捉えられてない段階です。
同二段目は、私という自我に対する自覚があり、自我を捉えられた段階です(第一の見性)。
同三段目は、私という自我に対する自覚があり、自我を捉えられているとともに、私という自我以外のすべての対象について、それが私に起こってきた考え(あるいは私がつくりだした考え)であるという理解が得られている段階です(第二の見性)。
同四段目は、私という自我も含めて、すべてのことがらが考えであるという理解が得られている段階です(空の理解)。
同五段目は、私という存在の根底にある苦に対しての理解が得られるとともに、その苦に対する衝動が絶えず起こっているいることに対する理解が得られている段階です(解脱の悟り)。

悟りの階梯の第一階層は、見性の階層であり、未だ明け渡しがなされていない明け渡しの一段目が対応しています。
この階層には、智慧の悟りの二段目である第一の見性が得られた第一の見性の段階と、同三段目である第二の見性の段階が存在します。
この階層に、智慧の悟りの四段目である空の理解が得られる段階が存在し得るのかどうかは、分かりません(仮にこの階層に空の理解が起こり得るとしても、その理解は非常に浅いものになるのだろうと思われます)。

悟りの階梯の第二階層は、小悟(天界の悟り)の階層であり、上記の第一の明け渡しがなされた階層です。
この階層には、どの段階の智慧の悟りが得られているかにより、四つの段階が含まれています。
一つ目の段階は、私という存在である自我に対する自覚がなく、何ら見性が得られていない段階です。
二つ目の段階は、上記の第一の見性が得られている段階です。
三つ目の段階は、上記の第二の見性が得られている段階です。
四つ目の段階は、上記の空の理解が得られている段階です。

悟りの階梯の第三階層は、大悟(梵天の悟り)の階層であり、上記の第一及び第二の明け渡しがなされた階層です。
この階層には、どの段階の智慧の悟りが得られているかにより、四つの段階が含まれています。
一つ目の段階は、私という存在である自我に対する自覚がなく、何ら見性が得られていない段階です。
二つ目の段階は、上記の第一の見性が得られている段階です。
三つ目の段階は、上記の第二の見性が得られている段階です。
四つ目の段階は、上記の空の理解が得られている段階です。
この四つ目の段階で、空の理解が深まり、縁起に対する理解が得られます。

悟りの階梯の第四階層は、解脱の悟りの階層です。
この階層に至るためには、上記の第三の明け渡しが得られるとともに、上記の五段目の智慧の悟りが得られている必要があります。
これら第三の明け渡しと、五段目の智慧の悟りは同時に得られます。


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天界の悟り階層の構成とそこでの迷いについて

2015年01月01日 22時11分33秒 | 悟りの階梯
◇天界の悟り階層の構成とそこでの迷いについて◇

悟りの階梯について、まだ理解が少しずつ進むようで、今日は天界の悟り階層(小悟)の構成やそこでの迷い等について書いてみたいと思います(悟りの階梯の全体については、できれば近いうちに記事を書きたいと思っています)。
なお、天界の悟り階層は、明け渡しと、自我を捉える悟りである見性とを得ることにより至る悟り階層です。
明け渡しとは、私という自我が握り締めた考え(囚われ)をある程度の割合で手放すことにより、得られる悟りです。
見性とは、私という自我を捉えることにより得られる悟りです。

天界の悟り階層は、大きく分けて上下二つの二階建て構造のようになっています。
その一階部分と二階部分の違いは、自我が掴んでいる考えの内容や数の違いです。
一階部分と二階部分との間は、それらを分けるちょっとしたギャップのような感じになっていて、そのギャップを超えて一階部分から二階部分へ移行するためのルートとしては、空のルートがあります。
空のルートとは、すべてが考えであり幻であるという空の理解を得るルートであり、この理解が得られると自ずと二階部分へ移行します。
なお、空の理解はすべては考えであるという理解ですから、私以外の対象でだけでなく、私という自我も含めて考え(幻)であるという理解が得られて初めて空の理解となります。

私はこの空のルートを通って二階部分へ進んだのですが、他のルートがあるのかどうなのかは私にはよく分かりません。
ただ、何となく確信としてあるのは、大悟において私という存在は連鎖的に起こってくる考えそのものであるという理解が起こるはずなので、この点からすると、二階部分へ進んでいくためには、空のルートしかないのではないかと思っています。

なお、私は空については二つの捉え方があるのだろうと思っています。
一つ目は、上で書いたように、すべては考えであり、実体はなく幻であるという理解です(龍樹さんは基本的にこの理解だったのだろうと思っています、もし間違っていたら教えて頂けると有り難いです)。
二つ目は、私という存在(自我あるいは意識)は断続的かつ連鎖的に起こってくる考えそのものであるという理解です(これは大悟に至ったときに得られる理解です)。
お釈迦様は空という言葉を使われなかったのではないかと思いますが、お釈迦様はこの二つ目の理解に基づいて、おそらく空以外の言葉を使って、私という存在について説明されたのではないかと私は思っています(このお釈迦様の理解が正確に後世に伝わらず、誤った形で(一つ目の理解のような形で)、後世に広まったのではないかと思っています)。
ここでは、一つ目の理解を空の理解と言っています。
以上、余談でした。

話しを元に戻して、天界の悟り階層の一階部分は、良し悪しで代表される二元の囚われがまだかなり多い階層なのです。
幸福はもちろん、善や徳や愛と言った二元の囚われがまだとても強いのです。
また、この一階部分では、人格神に対する強い囚われを持ったままこの階層に至る方もおられます。
握り締めた考えが多いということは、起こってくる考えも多く、自我も厚いですから、自我の欲求も強いのです。
このため、意識は基本的に外向きであり、僅かな間だけ時折内側に向けられるという感じです。
考えが多く、意識も基本的に外向きなので、自覚も浅く、自我の囚われや、自我の虚構性に対する気づきも起こりにくいです。

それ故、一階部分におられる方は、私という存在は真に存在する実存であると思い込んでいたり、自我の虚構性に思考のレベルでは理解していても、深い理解には至らず、表面的な理解に留まってしまいます。
また、意識が基本的に外向きなので、自我を見失ってしまい、自分の自我が滅せられたと誤解してしまうということもよく起こります(このような誤解をされている方はとても多いです)。

また、真我や根源等に関連した絶対的あるいは恒久的な考えを握り締めている方は、この一階部分にで留まっておられる方です。
ウパニシャッドの系列の覚者のほぼすべては、真我等の恒久的な考えを握り締めてしまい、この階層に留まってしまいます。
真我等の考えに囚われる余り、真我等の考えを起こしている自分自身(自我)に気づくことができず、真我が考えであり幻であるという理解が得られないのです。
また、自我も見失ったままになるのです。

すべてが考えであるという空の理解を得るためには、私という自我が考えを起こしている現場に直面できる程度のそれなりに深い自覚が必要なのです。
私という自我が考えを起こす瞬間、あるいは私という自我に考えが起こってきた瞬間を繰り返し観察することにより、すべてのことがらが考えであるという理解が生じます。
このときの理解は、多くの場合、まず空の第一段階の理解として、私という自我以外のことがらについて、それらはすべて私という自我がつくった(あるいは、自我に起こってきた)考えであるという理解が起きます。
そしてそれに続いて、空の第二段階の理解として、私という自我も考えであり幻であるという理解が起きます。
この第一及び第二の二つの段階の理解により、空の理解が完成します。

なお、私以外のことがら(例えば、真我や根源)についてそれが恒久的なものである等してその考えを掴んでいるのに、私という自我が考えであるという空の第二段階の理解が先に生じることは決してありません。
第一段階の理解と第二段階の理解がほぼ同時に起こることがあっても、第二段階の理解が第一段階の理解よりも先に生じることは決してありません。

ですから、ウパニシャッドの系列の覚者のように、真我や根源等を握り締めているのにかかわらず、私という自我は滅せられたなどの誤った認識に陥っている方については、まず、私という自我に意識を向ける自覚をされて、自我を捉えられ、真我等が自分が起こしている(あるいは、自分に起きてきた)考えであることに気づく必要があります。
そして、その上で、私という自我も考えであり幻であることを理解する必要があります。

空の理解を得て二階部分に移行した後は、自覚の実践等により、その得た理解を展開していくことになります。
具体的には、私という自我が握り締めた考え(囚われ)に気づき、あるいは手放し、あるいは焼き払っていくようになります。
それに伴って、自我も薄くなっていきます。
そして、自我の囚われが減り、自我の厚みがある臨界点を超えて薄くなると、大悟に至ります。


<補足と訂正(2015年2月3日)>
最近になって分かったことがあり、上の記事の内容を少し訂正したいと思います。
上の記事では、私という存在を含めてすべては考えであり幻であるという空の理解が、天界の悟りから大悟へ向かうときの条件であるかのように書いていますが、これは誤りでした。
空の理解が無くとも、大悟は得られるのだということが分かりました。
しかし、今回の理解により、大悟(梵天の悟り)の悟り階層にも、二つの階層があることが分かりました。
これらのことについては、できれば近いうちに記事を書きたいと思っています。


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悟りの階梯に関する理解の変化

2014年11月15日 22時35分13秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯に関する理解の変化◇

現在、「改めて悟りの階梯」と題して文章を書いている途中なのですが、悟りの階梯に関する私の理解が少し変化して来まして、そういう理由もあり、記事のアップが停滞しております。

今日は、その私に起きている理解の変化がどういうものかを少し書きたいと思います。

私のこれまでの理解では、自我と真我について、自我が主であり、真我が従であるとしながらも、両者を対等なものとして捉えているところがありました。
しかし、その理解が変わってきたのです。

結論として、唯一本質的な要素は、考えの連鎖そのものである私という自我だけなのです。
自我だけが本質的な要素であり、他のすべてのものは、私という考えの連鎖の中で現れてくる考えであり、現象に過ぎないのです。
よって、真我や空も、私という考えの連鎖の中で一時的に現れる一つの考え(幻)に過ぎないのです。

真我や空に関する感覚や理解は、悟りの道中で一時的に現れる一過性のものなのです。
同様に、大悟に伴って生じる「見るものは見られるもの」という感覚や理解も、悟りの道中の一過性のものなのです。

悟りの階梯を一つ昇ったときには、自我にその厚みがギャップ状に薄くなる等の変化が生じます。
至福等の真我の外縁の感覚や、「見るものは見られるもの」という感覚は、そのような自我のギャップ状の変化により生じる一時的な過渡現象なのです。
それらは、水面に石を投げ入れたときに生じる波紋のようなものであり、水面が落ち着くに連れ収まっていくものなのです。

できれば、この新たな観点から、悟りの階梯について再度書き直してみたいと思っています。


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改めて悟りの階梯(3)

2014年10月31日 22時58分33秒 | 悟りの階梯
◇改めて悟りの階梯(3)◇

第二の段階(天界の悟り、5次元)は、私という自我を捉える見性と真我の第一段階の覚醒の両方を得た階層です。

この階層の象徴的なイメージは、幸福感、創造主、二元だと私は思っています。

まず、幸福感とその周辺について。
この階層では、見性と真我の第一覚醒の両方が得られているため、その両方の特徴が反映されます。
4次元では、自我か真我の片方の覚醒しか得られてないため、意識の状態がアンバランスであったのですが、それが改善され、安定しやすくなります。

具体的には、真我の第一覚醒が得られているため、基本的に真我の外縁による感覚が前面に出てきやすく、意識や感覚の状態として、幸福感、積極性、楽しさ(ジョイ)、愛、感謝などのバイアスが日常的にかかりやすくなります。
それでいて、自我が捉えられてますから、そのような真我の外縁による感覚に必要以上に翻弄されることもなく、バランスが保たれやすいです。

次に、創造主とその周辺について。
この階層では、4次元よりも、自我が薄くなっており、起こってくる考えも減っていますから、考えに翻弄される割合も減ります。
それでいて、この階層におられる大半の方にとっては、自我に相当程度の厚みがまだ残ってますので、創造主として自我を駆使し、考えを操るには好都合なのです。
中には、創造主としての能力や実感を楽しまれる方がおられるだろうと思います。
この次元は、人が考えの主人(マスター)になる次元なのです。
なお、自我の削減が進んでしまっている方の場合は、そのような創造主としての実感は薄い場合があると思います。

次に、二元とその周辺について。
この階層は、まだ良い悪いで代表される二元の迷いの中なのです。
この階層におられる大半の方は、真我の外縁が見せる愛や善等に代表される二元の感覚(考え)に囚われています。

さらに、この階層について申し上げるとすると、その複雑さと、分厚さと、迷いやすさです。
複雑さについては、この階層におられる大半の方は、まだ多種多様な考えを握りしめておられます。
そのため、その方に起こってくる考えや出来事の展開も複雑で多様なものになる傾向があります。
また、分厚さについては、この階層におられる大半の方がまだ相当数の考えを握りしめておられます。
そのため、それらの考えに対する手放しが並大抵ではないのです。
また、迷いやすさについては、真我の外縁が見せる幸福感や楽しさ等が迷いを誘います。
自分に意識を向けるべきところ、どうしても意識が外側に向いてしまうのです。

この階層から抜け出すには、日常生活の中での経験や、自分に意識を向ける自覚等を通じて、自我が掴んでいる考えを手放していく必要があります。
そうやって考えの手放しが進んでいくうち、自ずと第三の段階の悟りである大悟に導かれていきます。


続きます。


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改めて悟りの階梯(2)

2014年10月28日 20時06分51秒 | 悟りの階梯
◇改めて悟りの階梯(2)◇

では、悟りの階梯を第一の段階から順に改めて説明していきたいと思います。

第一の段階(4次元)は、私という自我を捉える見性か、あるいは、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒かのいずれか一方を得た段階です。
この段階は、悟りの道の入り口と言える段階です。
この段階では、多くの方の場合、まだ自我が握りしめた考えが多く、自我に起こってる考えも多いです。
そのため、感情や思考に翻弄されやすい傾向があります。

殆どの方の場合、見性と真我の第一段階の覚醒は別々に起こります。
それはなぜかと言いますと、この段階では、自我と真我との距離感と言いますか、分離感が大きいのです。
このため、自我を捉えるときの意識の使い方と、真我の第一覚醒が起こるときの意識の使い方や握っている考えの手放し方との間に大きなギャップがあるのです。
このギャップが、見性と真我の第一覚醒が一度に起きにくい最も大きな原因なんだろうと私は考えています。

余談ですが、5次元(天界の悟り)に至り、その階層を6次元(大悟)に向けて進んでいくうち、自我と真我との間の距離感が徐々に縮まっていきます。
そして、真我の第二段階の覚醒により6次元に至ると、自我と真我がいわば一枚の紙の表と裏の関係のようにぴったりと寄り添うような状態となります。

次に、この段階における見性が得られた方の場合と、真我の第一覚醒が得られた方の場合について個別に説明します。

まず、見性が得られた方の場合について。

自我を捉えるとは、本質的な私という意識に気づき、それを捉えることです。
あるいは、考えをつくり出している創造主としての自分に気づき、考えに対してある程度の主体性を獲得することです。

見性による意識の変化の最大の特徴は、「私」という意識がしっかりし、自らの意志をある程度自覚して表現できるようになる点です。
このため、意志の実現性も向上します。
一部には、特殊能力が活性化される方がおられると思います。

また自我の目覚めに伴い、この世界のすべての事象が創造主である自我のつくった考えであるということに対するある程度の認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、それにより気持ちもある程度楽になります。

但し、その意識の状態としては、多くの方の場合で、まだ自我がつくる感情や思考に忙しく、連鎖的に生じる考えに翻弄されやすい状態です。
考えに対する主導権はまだ不十分であり、また二元的な考えに代表されるような固定観念等の種々の考えを沢山握りしめており、深い迷いの中におられる方が多いです。

自覚(自分に意識を向ける)を続けていくことで、自我が握りしめている考えの手放しが進んでいきます。
それに伴って、起こってくる考えが減り、自我が薄くなっていきます。
そして、自我の厚みがある閾値(臨界値)を超えて薄くなると、真我の第一段階の覚醒が起こります。


次に、真我の第一段階の覚醒を得た場合について。

真我の第一覚醒とは、真我の外縁に触れることです。
この真我の第一覚醒に伴い、起こってくる考えが大きく減り、自我が大幅に薄くなります。

真我の外縁に触れることで、それによる特有の感覚や理解が得られます。
具体的には、至福、愛、歓喜、すべてはひとつ等の真我の外縁に関する感覚や理解が得られます。
また、起こってくる考えが比較的大きな落差で減るとともに、執着(囚われ)も減るため、多くの場合、苦しみもそれなりに減ります。
そのため、基本的に楽になる方が多いと思います。
また、真我の外縁は二元の感覚の世界なのですが、至福等に代表されるプラス方向の感覚が前面に出できやすいため、日常の生活でも幸福な感覚になりやすい傾向があります。


また他の特徴として、起こってくる考えがそれなりの大きさで減りますので、それに伴って智慧が発現するようになっていきます。

しかし、この真我の第一覚醒のみを得た段階では、まだ自我を捉えられていないため、主体性が欠落しやすく、心地よい真我の外縁の感覚や、真我の外縁が見せる見せかけの真理(理解)に延々と迷ってしまわれる方がとても多いです。
主体性が欠落してしまっていると、つまり私という自我をしっかりと捉えていないと、自分が何かの考えを掴んでいて、それに惑われていることに気づけないのです。

自分を見る自覚を通じて自我を捉え、自我(意識)の挙動を冷静に観察していくことで、真我の外縁から得られる感覚や理解も考えであることが理解できるようになります。


続きます。


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改めて悟りの階梯(1)

2014年10月27日 19時42分33秒 | 悟りの階梯
◇改めて悟りの階梯(1)◇

<この記事は今年2月27日に書いたものをもとに、書き直したものです>

改めて悟りの階梯について文章を書いてみたいと思い、書いてみることにしました。
前回の記事も削除せずに残しておくことにしました。

悟りの道は、階段状の構造を有していて、大きく分けて四つの段階があります。
殆どの方は、階段を一つずつ上がっていかれるようです。

ここで私が書きます悟りの階梯も、私の考えに過ぎないものであり、幻です。
しかし、悟りの各段階のゲートを潜ったときに得られる体験や理解は、少なくともその基本的な部分については非常に共通性が高いのです。
つまり、誰かがある段階のゲートを潜ったとき得られる体験や理解は、その人がどのような経過を辿ってきたかは余り関係がないのです。

まず最初に、用語や基本的なことに関しまして、予め少し説明します。
私という存在は、自我(個の意識)と真我(全体意識)の二面性を有しています。
なお、ここで言う自我とは、肉体に付随した私という感覚(肉体感覚の私)のことではなく、私の内面にある本質的な私(大いなる私と言ってもいいです)のことです。
あるいは、創造主としての私と言ってもいいです。

次に、悟りの階梯の四段階について簡単に説明します。
第一の段階は、私という自我を捉える見性か、あるいは、真我の第一段階の覚醒かのいずれか一方を得た段階です。
なお、真我の覚醒の段階には、真我の外縁に触れる第一段階の覚醒と、真我に完全に覚醒する第二段階の覚醒があります。
第二の段階は、真我の第一段階の覚醒を得ることと、自我を捉えること(見性)の両方を得た段階です。
第三の段階は、真我の第二段階の覚醒を得た段階です。
第四の段階は、最終的な悟りである解脱の悟りを得た段階です。

私は、第一の段階のことを、ラジニーシさんの言い方に習って4次元(物理的な次元ではなく、意識の次元です)と言ったりもしています。
なお、この次元の数は私自身はそれほど意味があるものだとは思っておらず、簡単に表現できるので便利だから使っています。
ちなみに、悟りを全く知らない一般的な人の意識は3次元です。

続いて、第二の段階のことは、天界の悟りと言ったり、5次元の悟りと言ったりしています。
また、第三の段階のことを、大悟とか、真我の完全覚醒とか、梵天の悟りとか、6次元の悟りと言ったりしています。
第四の段階は、解脱の悟りとか、無明が晴れるとか、7次元の悟りと言っています。


次に、第一から第四の段階についての全体的な特徴等について説明します。

一つの見方として、私という存在である自我は、その自我が握りしめている考えの集まりだということができます。
そして、悟り道を進んでいくということは、その自我が握りしめている考えを手放していくことなのです。

また、私という自我に起こってくる考えの原因は、自我が握りしめた考えであり、執着(カルマ)ですから、握りしめた考えが多いほど、起こってくる考えも多くなり、自我も厚くなります。
このため、悟りの道を進むのに従って、自我が握りしめている考えも減っていき、自我も薄くなっていきます。

また、良い悪い等で代表される二元の迷いとの関係で言うと、悟りを知らない一般的な方がおられる段階(3次元)から第二の段階(天界の悟り、5次元)までは、二元の迷いの中です。
第三の段階(大悟、6次元)の悟りを得ると、大凡の部分において二元の迷いから脱却できますが、多くの場合、まだ一部に二元の迷いが残るケースが多いようです。
例えば、悟りや幸せを良いものとして掴んでおられる方がおられるようです。
二元の迷いを含めたすべての迷いから抜け出すためには、第四の段階(解脱の悟り、7次元)を得る必要があります。


続きます。


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悟りの階梯(4)

2014年03月01日 09時55分51秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯(4)◇

さらに昨日の続きです。

第四の段階は、真我も幻であると認識した段階です。

この段階において、「私は在る」という感覚のうち、「私」という感覚だけでなく、「在る」という感覚も消失します。
この感覚を敢えて表現すると、幻がふわっと存在しているような感覚になります。

この第四の段階と上の第三の段階の違いは、真我に対する理解のみです。
真我を幻であると理解し、真我に対する執着を手放しているか否かの違いです。
真我に対する執着を手放すことにより、実質的にすべての執着が解かれるため、上で書いた無明の迷いからも開放されます。

輪廻との関係については、肉体が滅ぶとき、真我に対するものも含めて、一切の執着が消失してますので、死後は肉体が滅ぶのに伴い、すべての存在要素が消滅します。

この段階へは、真我について行きつくところまで徹底的に理解することにより到達できます。
あるいは、私という存在を延々と展開している迷いの連鎖を絶てば至れます。


この記事の最後に。

悟りの道を歩む際の最大の原動力は、私という存在に対する探求心です。
悟りの道を進むに連れ、私が抱え込んでいた考えである執着が減り、私という存在に対する理解、つまり自覚だけが残るようになっていきます。
そして最後は、その自覚とともにすべてが消え去るのです。


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悟りの階梯(3)

2014年02月28日 09時41分25秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯(3)◇

さらに昨日の続きです。

第三の段階は、私という感覚が落ち、ほぼ常に真我を捉えている段階です。
これが真我に完全に覚醒した段階です。
第二の段階で体感的に感じられていた、ハートの中心の「私」という感覚も消失します。
「私は在る」という感覚のうち、「私」という自我による要素が消失し、「在る」という感覚だけが残った状態です。

この第三の段階では、分別が極端に減り、自我が不在となる期間が長くなりますので、自我と真我が交互に顕在化してくるその推移を実感できるようになります。
まさに、真我を常に捉えた状態となります。

そしてこの段階で初めて、真我とは思考、又は思考の連鎖そのものであるという理解が得られます。
その理解のもとでは、主体と客体が統合され、見る者(主体)と見られるもの(客体)が一体となっています。
逆に言えば、この理解が得られると、真我に完全に覚醒したということになります。

またこの段階では、現実世界を含めたこの世界のすべてについて、ごく一部の例外を除いて執着が消失します。
その例外とは、その人が残りの人生で経験すべき最低限のカルマ(執着)です。
この段階に至った人は、残りの人生をその残りカルマに導かれるようにして生きていきます。
この人には、こうしたいとか、こうしようという積極的な意思出しは、その残りカルマに関連すること以外は、無くなります。
人によっては、その残りカルマに関連することでも、積極的に意思出しをすることも無くなっていくのではないかと思います。

但し、この段階では真我に対してそれが永久不滅のものである等の執着が残ります。
この執着は、まだ無明の迷いを生じさせます。
無明の迷いとは、私という存在の最も根源的な性です。
私という存在の根底には、不足感のような抽象的な否定的な感覚(考え)があります。
その根底にある否定的な感覚のため、私という存在は、楽、すなわち光を求めて連鎖的な考えを起こし、延々と彷徨っているのです。
これが無明の迷いです。
この無明の迷いは、次の第四の段階で消失します。

輪廻との関係については、肉体が滅ぶとき、真我に対する執着のみが残りますので、死後は梵天界に行きます。
そして、そこで途方もない時間を過ごし、真我に対する執着が滅するのに伴って、すべての存在要素が消滅します。

真我への完全な覚醒は、「私というゲート」を潜ることにより可能となります。
ここで言う「私」とは、私の個の意識である自我のことです。
「私というゲート」を潜る方法としては、一つは、自覚を通じて「私」に意識の焦点を当て続けることです。
それによって、「私」を解かし、消失させることです。
私が消失し、私というゲートの扉が開くのに伴い、真我としての私は思考そのものであるという理解が自ずと得られます。
もう一つは、私に起こる思考について、あるいは私と思考の関係について徹底的に洞察することです。
徹底的に洞察すれば、その過程の中で「私」も解かされていき、いずれ最終的な理解に行きつきいます。
この洞察の際、「私とは何か」を追求するのもいい方法だと思います。


<少し補足します(2014年3月12日)>
つい最近になって梵天界のことについて少しずつ分かってきたことがあり、輪廻との関係で改めて考え直しています。
上では、お釈迦さまが仰ったことをほぼそのままそうなんだと受け入れて、第三の段階に到達した存在は、死後は梵天界へ行き、その後真我への執着の消滅と共に消滅すると書きましたが、梵天界のことを理解するに連れて、ことはそう単純ではないように思い出したのです。
詳細は改めて書かせていただくつもりですが、梵天界は何も無い暗闇の世界なのです。
但し完全な暗闇という訳ではなく、あちらこちらと意識を展開させれば、遠くの方に微かに感じる光が見える場合があるのだろうと思います。
あるいは、暗闇に耐えかねて私という存在が考えにより光をつくり出す場合があるのだろうと思います。
そして、その光が、新たな迷い、つまり執着をつくり出してしまうこともあるのだろうと思うのです。
そしてさらには、その迷いによりこの現実世界へ再び生まれてくることがあるのではないかと思うのです。
このような迷いによりむしろ、梵天界を経て解脱に至るケースよりも、再び現実世界に生まれてくるケースの方が圧倒的に多いのではないかと思わないでもないのです。


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悟りの階梯(2)

2014年02月27日 10時21分59秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯(2)◇

昨日の続きです。

第二の段階は、個の意識である自我と全体意識である真我の両方に目覚めた段階です。
大切な点は、「自我と真我の両方」に目覚めることです。
いずれか一方だけの目覚めでは、この段階に至っていません。

自我と真我の両方に目覚めることにより、自我の思考である分別がさらに減るとともに、分別が幻であることもさらに附に落ちてきます。
これにより、自我の活動である分別がさらに減り、いわゆる「自我が落ちた」という状態になります。

分別がさらに減りますので、起こってくる一つ一つの分別を認識し、必要に応じてコントロールできるようになります。
この段階で、分別に対する十分な主導権が得られ、分別に翻弄されることが殆ど無くなります。
分別が大幅に減ってますので、分別が起きていない無我の状態に入ることも容易になります。

またこの段階では、現実世界のすべての事象について私がつくった考えであるという理解が附に落ちてきますので、現実世界に対する迷いや執着が薄くなります。

さらにこの段階では、智慧の発現がさらに活性化してきます。
そして、真理への理解が自ずと進んでいきます。

但しこの段階では、自我が落ちても、私という個の意識や私という感覚は残っています。
これを言葉で表現すると、「私は在る」という感覚がピッタリと当てはまるのだろうと思います。
体感的にも、ハートの中心に「私」という感覚が感じられる状態です。

輪廻との関係については、肉体が滅んだ後は、天界に行きます。
ラジニーシさんによると、肉体転生を自ら強く望むような一部の例外を除いて、この段階で肉体への転生が無くなるとのことです。
しかし私としては、天界で個々に必要な時間を過ごした後は、再度(少なくとも一度は)肉体に転生する必要があるのではないかと考えています。
なぜなら、希薄ながらまだ残っている自我を手放す悟りを得るためには、肉体への転生が必要だろうと考えるからです。


続きます。


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悟りの階梯(1)

2014年02月26日 13時42分19秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯(1)◇

<この記事は2月26日に書いたものを、翌27日に大幅に訂正しています>

先週、ラジニーシさんの「奇跡の探求Ⅱ」を読み、それが助けになって、悟りの階梯について理解がクリアになりましたので、書かせていただきます。
なお、ラジニーシさんの理解と私の理解は大凡は一致しているのですが、細部には違いも多々あります。
悟りに関する理解は、体験や内面から湧き起こる確信的な理解に基づく主観的なものですので、各自の理解に異なる部分が生じるのは不可避なのだと考えています。


悟りには、第一から第四の四つの段階があります。
第一の段階は、私という存在の個と全体の二面性のうちの個の意識(自我)又は全体意識(真我)のいずれか一方を捉えた段階です(見性又は真我の気づき)。
第二の段階は、自我と真我の両方を捉えた段階です(覚醒)。
第三の段階は、私という感覚が落ち、ほぼ常に真我を捉えているようになった段階です(真我の完全覚醒)。
第四の段階は、真我も幻であると認識した段階です(実質的な解脱)。

各段階について、以下に簡単に説明していきます。

第一の段階の段階から順に説明していきます。
まず最初に改めて申し上げたいことは、私という存在の個と全体の二面性についてです。
私という存在は、個と全体の二面性を有していて、個の意識要素が創造主としての自我であり、全体の意識要素が真我であるということです。
この二面性を理解することにより、私に対する理解がより容易かつクリアになります。

第一の段階は、私という存在の個の意識(自我)又は全体意識(真我)のいずれか一方を捉えた段階です。
この段階は、悟りの道の入り口です。
この段階では、自我又は真我の一方しか捉えられていないため、アンバランスであり、自我の思考である分別に惑わされる傾向があり、まだ迷いの中にいます。
迷いから抜け出すためには、自我と真我の両方を捉え、次の段階に進む必要があります。

次に、この段階における自我を捉えられた場合と真我を捉えられた場合について個別に説明します。

まず、自我を捉えた場合について。

自我を捉えるとは、創造主としての自身の本性(仏性)に気づくことです。
これを見性と言います。
なお、この「個」という意識要素は、通常の肉体感覚で得られる自我とは本質的に別ものです。
肉体感覚の自我は、あくまで肉体に付随した感覚です。
ここで言う「自我」は、創造主である個の意識のことです。

見性による最大の特徴は、創造主としての自我に目覚めるため、「私」という意識がしっかりし、意思をしっかり自覚して表現できるようになる点です。
このため、意思の実現性も大幅に向上します。
人によっては特殊能力が活性化される方がおられると思います。

また自我の目覚めに伴い、この世界のすべての事象が創造主である自分のつくった考え(思考)であるという一応の認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、楽になります。

但し、意識の状態としては、まだ自我の思考である分別に忙しく、連鎖的に生じる分別に翻弄されやすい状態です。
分別に対する主導権はまだ不十分であり、迷いも多々あります。
分別に対する十分な主導権を得るためには、真我を捉え、次の段階に進む必要があります。

自覚(自分に意識を向ける)を続けていくことにより、分別が減り、それに伴って自我が薄くなっていくとともに、断続的に起こってくる分別の隙間から、全体意識(真我)が少しずつ垣間見えるようになっていきます。
これが真我に目覚めるための準備になります。

次に、真我を捉えられた場合について。

真我に目覚めるとは、真我を捉えることです。
真我に目覚めることにより、分別が大幅に減り、自我が大幅に薄くなります。
この目覚めに伴って、すべては一つという理解が得られます。

分別が大幅に減ることで自我が薄くなり、それとともに、出来事に対して受け入れることが比較的無理なくできるようになりますので、自我に起因して起こってくる苦しみも大幅に減り、楽になります。

また、分別の減少に伴い、智慧が発現するようになってきます。
そして、その智慧の発現により、真理に対する理解が自ずと進んでいきます。

しかし、この真我の目覚めだけを得た場合では、自我が薄くなったとは言え、いわゆる「自我が落ちた」という段階には至っておらず、分別に惑わされる傾向が残ってしまいます。
また、まだ自我に目覚めていないため、主体性が欠落しやすく、厳しい言い方をすれば全体意識の海の中で溺れてしまいがちです。
すべての事象が考えであることに対する認識もない又は不十分ですから、受け入れることや、愛などのプラス方向の考えに惑わされ、迷いの状態から抜け出すのが困難です。

主体性と分別に対する十分な主導権を得るためには、自我を捉え、次の段階に進む必要があります。
但し、真我に目覚められた方で智慧の発現が活性化しておられる方の場合、智慧の導きにより自然と自我の目覚めに導かれていくこともあるのだろうと思っています。
私の場合も、明け渡しによる真我の目覚めの直ぐ後から智慧の発現がありましたので、マスターゲートさんのもとで自覚について学ぶ前に、智慧の導きにより見性の一歩手前のところまで達していました。

この第一の段階における輪廻との関係については、ラジニーシさんによると、この段階を進むに連れ、肉体へ転生する割合が減っていくとのことです。
しかし私としては、この段階では、仮に肉体転生から一旦離れて天界等に行ったとしても、いずれ再び肉体へ転生する必要があるだろうと考えています。
なぜなら、自我という執着を手放す悟りを得るには、肉体への転生が必要だろうと考えるからです。

自我への目覚めについては、そのためのワーク(技法)があります。
このブログ内に自我に気づくためのワークとして「自覚ワーク」を紹介してますので、興味のおありの方は、右端のブログカテゴリをご参照ください。

真我への目覚めは、自覚や瞑想等により、私という存在の「センター(中心)」を捉えることにより可能です(比較的短い時間でも、捉えられればいいです)。
「センター」とは、分別が生じていない自我不在の状態であり、「いまここ」の状態です。
あるいは、明け渡しによりすべてを受け入れることによっても可能です。
最初に「センター」を捉えたときは、多くの方の場合、至福感や静寂、笑い等の通常と違った感覚が起こってきますので、直ぐに分かります。
但し、この段階での真我に対する理解は、至福感や静寂、愛等の感覚的なものしか得られません。
なお、私は突発的に生じた明け渡しによって真我に目覚めたため、真我に目覚めるための具体的なワーク(技法)やその過程については、余り詳しくはありません。


続きます。


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