私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

唯識について

2014年06月27日 11時07分53秒 | 個人的なこと
◇唯識について◇

ついさっき、頭の中に「唯識」というキーワードが浮かんできたので、それをネットで検索したら、それについてウィキサイトに詳しく書かれていました。

正直、驚きました。
自我や真我について私が体験と直感により理解したものが、大凡そっくりそのまま書かれてましたから。
それと過去この地球に生まれてきた数多くの存在の中で、自我や真我の本質についてそれらが何たるかを理解している存在は極めて少数なんではないかと思ってましたから(これぞ井の中の蛙です、大いに笑ってやって下さい、(^o^))。

自我は考え(認識)そのものであるということも、真我は考えである自我を誘起させる種であるとともに、自我が抱え込んだ考え(執着)を溜め込むタンクであるということも書かれてました。
また、真我が自我に強く関与する部分と、それ以外の部分の二重構造を有しているということも書かれてました(正直、これには本当に驚きました)。
しかもそれが、ネットサイトに実に簡便に書かれていることにも大変驚きました。

そのような驚きと、私の理解はそれで合っているだという確信と、自分でもよく分からない戸惑いとともに、この記事を書いています。
わざわざ私が自我や真我について伝えようとする必要はないのかも知れないなあとか、いやいやそれを頭ではなく実体験として理解しているものが伝える意義があるのかもとか、いろいろ考えたりして(笑)
それと、私は過去世で仏教経典を学んだことがあるのかもなどというたわいのない空想もしたりして(笑)。

何か分かったらまた書きますね。(^^)

<補足です>
唯識論には、すべてが考え(識)ではなく、根幹部には考えではない実体があるという立場があるようですが、私の理解は、そうではなくすべて考えであるというものです。


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「在る」という幻想

2014年06月26日 12時19分32秒 | 悟り
◇「在る」という幻想◇

真我(空)に完全に覚醒した方の中に、真我について「それは在る」とか、「実存」などと言って、その考えを掴んでしまう方がおられます。
そのような方は、それこそが真理であり根源であり、絶対的で不変なものだなどと仰います。

そう仰る方に対し、私は敢えてお伝えしたいことがあります。

それは在ると考えているのは誰ですか?
それこそが真理であり、絶対的で不変だというのは、誰の考えですか?
それこそが実存であり、それ以外はみな幻だと考えいるのは誰ですか?

それこそが実存だと考えている自分をしっかり見てください。
そして、それこそが実存だという考えをつかんでいる自分に気づいてください。

あなたは、それは考え以前のものであり、考えとして捉えられないものだと仰るかもしれません。
そして、私(慧空)に対し、お前はまだそれを知らないのだと。

しかし、本当にそうなのでしょうかと、私は言いたいのです。
私たちが認識するものについて、考え以前のものなどあるのでしょうかと。
あなたは、それについて、考え以前のものだ等としながらも何らかの認識を持っているではありませんか。
それは紛れもなく、あなたに起こっている考えではありませんかと。
それが何であれ、私たちが認識するものはすべて考えであり幻ではありませんかと。
もう一度、ぜひそこを徹底的に洞察してみてくださいと。
そう私は言いたいのです。


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私を捉える

2014年06月25日 09時29分38秒 | 悟り
◇私を捉える◇

悟りの道とは「私」を捉えていく道だと、最近改めてそう思っています。
「真我(空)」なんてどうでもよくて、そんなこと気にする必要なんてないんだと。
真我なんて気にしなくとも、私を捉えていけば、自ずと真我の理解が訪れてくるんだと。

また、私を捉えていくとは、私が握りしめている考えを手放していくことなんだと思っています。
そして、私というものをその根っ子まで捉えきり、私が掴んでいる考えをすべて手放せば、それが即、最終的な理解である解脱の悟りになるんだと思っています。

そしてそのためには、徹底的に私に意識を向け、私に起こってくる考え、私がつくる考え、私が握りしめている考えを見つめ続ければいいんだと思っています。
ただそれだけでいいんだと。


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解脱の疑似体験

2014年06月19日 14時19分19秒 | 悟り
◇解脱の疑似体験◇

解脱とは、解脱の悟りを得た存在に、その肉体が滅んだときに生じる現象であり、存在そのもののが消滅することなどと言われています。
解脱のゲートはそこを潜れば往ったきりで戻って来れませんので、解脱をしたらどうなるか、本当のところは誰にも分かりません。

しかし実は、その疑似体験は比較的簡単にできるのです。(^^)

それはどういうものかと言いますと、深い瞑想中や、何かの動作(作業等)に完全に没入しているときに、自我に関する意識が何もない完全な無我の状態が一時的に得られるときがあります。
その完全な無我の状態は、解脱と実質的に等価なんだろうと私は思っています。

なぜなら、完全な無我のとき、一時的にせよ、一切の考えが消滅しており、そこには何も存在していませんから。
より厳密には、そこには何も存在していないという考えさえも無いのですから。

完全な無我と言うと、何か縁遠い感じがしますが、私たちが気づかないだけで、普通の生活の中でも完全な無我は意外なほど頻繁に起こっています。
擬似的な解脱は、私たちの身近なところにあるのです。

この観点からすると、解脱とは完全な無我から戻ってこないことであるということもできると思います。


余談ですが、禅定等により完全な無我の状態に入った後、なぜ再びこの世界に戻ってきてしまうのかと疑問に思う方がおられるかも知れませんね。
そこは私も疑問に思い、結構考えました。(^^)
答えは、まだ自我を誘起させる種であるカルマが残っているからなのです。
カルマとは、自我が抱え込み、真我に溜め込まれた考え(執着)ですから、自我が何も考えを抱え込まなくなり、かつ真我に溜め込まれたカルマがすべて消費されれば、もう自我は生じることはありません。


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私の成り立ち(2)

2014年06月17日 08時49分57秒 | 私の成り立ち
◇私の成り立ち(2)◇

昨日の記事の続きです。
昨日は自我、すなわち考えについて書きましたので、今日は真我について書きたいと思います。

自我について、私に起こってくる考えそのものであると書きました。
では真我はと言いますと、それは私に考えである自我を起こさせる種(カルマ)なのです。
もう少し分かりやす言えば、真我とは自我が抱え込んでいる考え(執着)を溜め込むタンクであるとともに、そのタンクに溜め込まれた考えに基づいて私に考えである自我を生じさせる装置なのです。

真我に溜められたカルマは、起こってくる考えを自我が抱え込まないで流せば減っていき、いずれ空っぽになります。
しかし、多くの人は、起こってきた考えを掴み取り、抱え込んでしまうため、真我に溜められたカルマがなかなか減りません。
悟りを得るなどして、起こってきた考えのうち、それを抱え込む量の割合が減ると、真我に溜められたカルマも減り、それによって起こってくる考えも減っていきます。

いずれ解脱の悟りを得るときが訪れ、自我が考えを一切抱え込まなくなると、後は真我に溜められた残りのカルマを消費するだけとなります。
そして、その残りカルマが消費されると、それに伴ってその存在は消滅します(少なくとも、私たちが認識するこの世界からは消滅します)。

私は、私という存在の始まりについて、それはハッとする気づきのような認識そのものだったのだろうと思っています。
つまり、その最初の気づきそのものが私の始まりだったのだろうと思っています。
それは、「ハッ!」という何かに対する反応のような気づきだったのか、「何か在る!」いう何らかの対象に対する認識を伴う気づきだったのか、「これは何だ!?」という驚きに似たものだったのかは分かりませんが、それらに近いものだったのだろうと思っています。

そのとき、私という自我はその気づきである考えを掴み取り、抱え込んでしまったのです。
そうしたら私という存在の展開が始まってしまった、ただそういうことなのだろうと思うのです。(^^)


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私の成り立ち(1)

2014年06月16日 11時31分33秒 | 私の成り立ち
◇私の成り立ち(1)◇

今日は、私という存在について現時点で得られている私の理解を書いてみたいと思います。
それが分かって何がいいの?、というような内容ですので、興味のおありの方だけお読み下さい。

私という存在は、自我(個の意識)と真我(全体意識)の二面性があり、これらが交互に顕在化することで成り立っています。
なお、ここでいう自我とは肉体に付随した肉体感覚の自我感覚とは違います。

私は、自我とは私に起こってくる考えそのものであると理解しています。
考えとは、自我に起こってくる各種の認識や、感覚、感情、思考等のすべてを含めたものです。
つまり、いかにも実体として存在しているように見えるこの宇宙も、それが実体して存在しているのではなく、宇宙という認識である考えが起こっているに過ぎないのだということです。
そして、その起こっている認識である考えそのものが自我だということです。

考えは連続して起こるものではなく、一つ一つの考えが断続的に起こります。
ですから、私に何らかの考えが起こっているときにだけ自我が顕在化し、それ以外のときは、基本的にすべて真我が顕在化します。
つまり、自我は考えと同時に断続的に生じるものだというとです。

考えが起こってくると、それと同時にその考えに対する認識がまず生じ、自我の感覚が生じます。
そして、その認識した考えに付随する(あるいは関連する)考えが派生的に生じ、さらにその考えに派生した考えが生じていきます。
この考えの連鎖がどのように展開するかは、まさにケースバイケースであり、起点となる最初の考えから数えていくつかの数だけ連鎖すると一旦終了となります。
この考えの連鎖のことを「縁起」と言ったりするようです(私は詳しくは知りません、笑)。

考えの連鎖の一例として例えば、学校や職場で終了のチャイムが流れていることを認識したとします。
このチャイムが鳴ったという認識がこの場合の起点となる考えで、この考えと同時に自我が顕在化します。
そして、そのチャイムの認識に派生して、授業等が終了したという認識が生じ、その認識に関連して帰宅等の次の行程に関する考えが生じます。
さらに、次の行程が帰宅なら、帰宅行動に関連する考えや、帰宅後のことに関する考えなどが起こっていき、考えの派生が一段落するまで断続的に続いた後、終了します。

また他の例として、ふいに何かを思い出し、その思い出したことに関連して考えが派生していくことがありますが、この場合も、ふいに起こってきた記憶に対する認識が考えの起点となり、その記憶の認識と同時に自我が顕在化します。

真我が顕在化しているときは、基本的に自我が完全に不在となるため、自我が普段認識するすべての感覚等(五感と意の六根)に対する認識も不在となります。
よって、自我が完全に不在となっているときは、すべて消え去った状態となります。
正確には、消え去るという概念さえもない状態となります。
(この最後の段落の記載を訂正しました、2014年6月19日)

続きます(一応その予定です、笑)。

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自分はどうしたいのか

2014年06月13日 10時28分19秒 | 悟り
◇自分はどうしたいのか◇

「自分はどうしたいのか」、これは人が人生を生きる上で永遠のテーマだと思います。
その答えは、一見すると直ぐに見つかりそうに思われるかも知れませんが、ここでいう問いはもう少し深いものを言っています。

上の問いに対し、多くの人たちは、貧富や社会ステイタスなど、比較的表面的な社会基準等に基づいて自分のやりたいことや方向性を定めて生きています。
それに対して殆どの方々は何の疑いも持っていません。
何の疑いも感じない方はそれでもいいのです。
疑いがない以上、そうするしかありませんから。

でもいずれ、そんな社会基準等に基づいて生きている自分の生き方に対し、疑問や違和感を感じるときがきっときます。
そして、すべては無意味に感じられ、それが虚無感等に繋がっていくこともあると思います。
あるいは、何かの出来事により、大きな喪失感や絶望感が訪れるときがきます。

そんなときこそ、自分を見失わず、自分をしっかり見て頂きたいと思うのです。
社会基準等の表面的なことに囚われない自分の本当のやりたいことは何なのかを見つめ、見極めて頂きたいと思うのです。
やっとあなたが社会基準等に囚われないもっと深い人生のテーマに目を向けられるときが来たのですから。

そして、自分のやりたいことや方向性が見つかったなら、勇気を出して、力を振り絞って、動き出していただきたいと思います。

それは、あなたが過去から持ち越してきた人生の深い深い課題かも知れません。
あるいは、自分の内面を見つめる悟りの道かも知れません。

さあ、あなたの道を見つけてください。


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いるだけでいい

2014年06月10日 16時41分33秒 | エッセイ
◇いるだけでいい◇

そもそも、すべての存在はいるだけでいいのです。

何をやっても、どんな状態でもいいのです。

存在しているだけで十分なのです。

それなのに私たちはあれこれと考え、基準や制限に囚われ、そして苦しみます。

周りの人たちを、自分を、許してください。

そして、ありのままの姿を受け入れてください。


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個人的なこと(入眠時の夢の観察)

2014年06月10日 10時28分35秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(入眠時の夢の観察)◇

この話題は悟りにはまったく関係ないことなので、この点ご了承ください。

最近、自我の意識がある程度目覚めたまま入眠状態に移行してしまうことがよく起こるようになっています。
過去にその逆のパターンである、夢の中で自我の意識がある程度目覚めたまま夢から目が覚めるということはたまにあったのですが、このような現象をハッキリと自覚するようになったのは1ヶ月ほど前からなのです。

どんな感じかといいますと。
布団で目を閉じて横になっているとき、自我の意識が目覚めたまま夢を見始めるのです。
そのとき、自我の意識は目覚めてますから、それが夢であることは認識していてるのです。
自分が目を開けて肉眼で何かを見ているのではないかと思う程、リアルな映像が見えるのです。
ですが、意識がもうろうとしてますので、夢と現実の区別がハッキリできずやや混乱してしまい、「アレ、アレ?」と不思議に思いながら夢を観察するという感じです。
あまりあれこれと意識を使っていると、目が覚めてしまいます。
面白いので毎晩、入眠時の夢の観察をやっています。

それでこんなことも考えています。
眠りと死は類似した現象だと思いますので、死ぬときに自我の意識が目覚めたまま死んでいけないかと思っています。
面白そうでしょ。(^o^)

また何か分かったら書きますね。(^^)


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悟りと概念

2014年06月09日 14時17分48秒 | 悟り
◇悟りと概念◇

ご理解頂くのは簡単ではありませんが、悟りには深さがあり、階梯構造があります。
その階梯は大きく分けて四段階になっていて、各階梯ごとに特徴があります。

そして、各階梯の悟りを得た人は、自分の悟りを誰かに伝えようと悟りを概念化し、表現しようとします。
そのときに、どういう概念を使って表現するかで、その人がどの階梯の悟りを得ているのかを大凡知ることができます。

また、こんなことも言えます。
少し意地の悪い言い方ですが、何らかの概念を使って自分の悟りを表現しているうちは、まだ途中であり、先があるのです。

最後の解脱階層の悟りになると、それを表現するための概念が無くなるのです。
どんな概念を使ってもそれを表現することはできないのです。

もしあなたが何らかの悟りを得ておられる方なら、あなたが悟りに対して使おうとしているその概念(言葉)を改めて見てください。
そして、あなたがその概念を掴んでいることに気づいてください。


なお、最後まで達すること、達しないことに良い悪いはありません。
達する、達しない、すべて良しです。(^^)


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近況など

2014年06月06日 09時13分58秒 | 個人的なこと
近況などを書かせていただきます。

ここのところ記事の更新が滞り気味になっててすみません。
書きたい内容が思い浮かばないのと、何もやる気がせず、一日中ぼーっと過ごしています。
唯一やっていることと言えば、最近知った海外の無料アニメ動画サイト(著作権に関する違法動画です、苦笑)で過去のアニメを延々と観てます。

それでも、仕事(私一人の個人事業です)は、今年8月を目処に終わらせるべく、少しずつ作業を進めています。
本当にゆっくりとしたナメクジが進むよりも遅い速度です。(^o^)
仕事を終わらせた後は、当分は(おそらく、私の貯蓄が無くなるまでは)何もせず家にいることになるのだろうと思っています(貯蓄はそう長くは持ちません、笑)。
家内は普通の感覚を持った普通の人ですから、いろいろ大変だろうと思っています。

でも例え何があっても大丈夫なのです。
すべてはなるようになっていきますから。

もちろん、私も苦しみや苛立ち等の感情は起こってきます。
正直に言いまして、いまの私を取り巻く状況は常識的な感覚からして困難で苦しい状況ですので。
でも私はもう何も考えを掴みませんので、苦しみについてもそれに囚われることなく流れていきます。
ですから、苦しみがそれ程大きく増大することはありません。
状況が変わりませんから苦しみも繰り返し起こってくるのですが、それが起こってきても比較的直ぐに流れていき、その後はまた平穏の中に入ります。

いまの私は、苦しみに限らず、起こってくる喜びや他の考え、出来事なども、それらを掴むことなく、それらの流れの中に、流れのままに生きているという感じです。


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