◇唯識について◇
ついさっき、頭の中に「唯識」というキーワードが浮かんできたので、それをネットで検索したら、それについてウィキサイトに詳しく書かれていました。
正直、驚きました。
自我や真我について私が体験と直感により理解したものが、大凡そっくりそのまま書かれてましたから。
それと過去この地球に生まれてきた数多くの存在の中で、自我や真我の本質についてそれらが何たるかを理解している存在は極めて少数なんではないかと思ってましたから(これぞ井の中の蛙です、大いに笑ってやって下さい、(^o^))。
自我は考え(認識)そのものであるということも、真我は考えである自我を誘起させる種であるとともに、自我が抱え込んだ考え(執着)を溜め込むタンクであるということも書かれてました。
また、真我が自我に強く関与する部分と、それ以外の部分の二重構造を有しているということも書かれてました(正直、これには本当に驚きました)。
しかもそれが、ネットサイトに実に簡便に書かれていることにも大変驚きました。
そのような驚きと、私の理解はそれで合っているだという確信と、自分でもよく分からない戸惑いとともに、この記事を書いています。
わざわざ私が自我や真我について伝えようとする必要はないのかも知れないなあとか、いやいやそれを頭ではなく実体験として理解しているものが伝える意義があるのかもとか、いろいろ考えたりして(笑)
それと、私は過去世で仏教経典を学んだことがあるのかもなどというたわいのない空想もしたりして(笑)。
何か分かったらまた書きますね。(^^)
<補足です>
唯識論には、すべてが考え(識)ではなく、根幹部には考えではない実体があるという立場があるようですが、私の理解は、そうではなくすべて考えであるというものです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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ついさっき、頭の中に「唯識」というキーワードが浮かんできたので、それをネットで検索したら、それについてウィキサイトに詳しく書かれていました。
正直、驚きました。
自我や真我について私が体験と直感により理解したものが、大凡そっくりそのまま書かれてましたから。
それと過去この地球に生まれてきた数多くの存在の中で、自我や真我の本質についてそれらが何たるかを理解している存在は極めて少数なんではないかと思ってましたから(これぞ井の中の蛙です、大いに笑ってやって下さい、(^o^))。
自我は考え(認識)そのものであるということも、真我は考えである自我を誘起させる種であるとともに、自我が抱え込んだ考え(執着)を溜め込むタンクであるということも書かれてました。
また、真我が自我に強く関与する部分と、それ以外の部分の二重構造を有しているということも書かれてました(正直、これには本当に驚きました)。
しかもそれが、ネットサイトに実に簡便に書かれていることにも大変驚きました。
そのような驚きと、私の理解はそれで合っているだという確信と、自分でもよく分からない戸惑いとともに、この記事を書いています。
わざわざ私が自我や真我について伝えようとする必要はないのかも知れないなあとか、いやいやそれを頭ではなく実体験として理解しているものが伝える意義があるのかもとか、いろいろ考えたりして(笑)
それと、私は過去世で仏教経典を学んだことがあるのかもなどというたわいのない空想もしたりして(笑)。
何か分かったらまた書きますね。(^^)
<補足です>
唯識論には、すべてが考え(識)ではなく、根幹部には考えではない実体があるという立場があるようですが、私の理解は、そうではなくすべて考えであるというものです。
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