私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

良い悪いについて

2014年03月31日 16時41分43秒 | 悟り
◇良い悪いについて◇

精神世界のことを少し知った方は、この世界には本来、良い悪いはないと言います。
善悪は相対概念に過ぎないと。
しかし、そう言っている方の多くは実際のところ、相変わらずいろんな考えをあれこれとつくりだし、掴もうとします。
何かに成ろうとしてみたり、ここはこうした方がいい、あそこはこうなった方がいい、それはこうあるべきだと言い、まったく忙しい限りです。
端で見ていると、その姿は善悪に囚われているとしか言いようがありません。

どうしてそうなるのでしょう。

それは、善悪が考えであるということがまだ附に落ちてないのです。
頭で理解しているだけなのです。

すべてが私のつくった考えなんだと本当に理解できれば、すべてオッケーになるはずなのです。
このままでオッケーになるはずなのです。
このままでオッケーになれば、わざわざ何かに成ろうとする必要も、何かを変える必要もなくなります。

私たちは、何かに成ろうとか、ああしよう、こうしようという考えを延々とつくり続けています。
どういう考えをつくり、どの考えを選択しようと、本質的な違いは何もないのに。
その姿はまるで、同じ場所で往ったり来たりを繰り返す囚われた動物のようです。

それに早く気づいて頂きたいと思います。


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悟りとは私に対する体験的理解です

2014年03月29日 11時00分26秒 | エッセイ
◇悟りとは私に対する体験的理解です◇

一部に悟りは体験ではないとか、体験では悟れない等の誤解があるようですので、一言申し上げたいと思います。

悟りとは、私という存在に対する理解であり、その理解とは紛れもなく私自身の主観的かつ体験的理解なのです。
実際にそれを体験し、それがここにあるから理解できるのです。

これはどの段階の悟りでもすべて同じです。

ただ、各段階の悟りのゲートを潜るときに人によっては様々な現象を伴う場合があるようです。
大きな現象を伴う人、それが殆どない人、様々なのです。


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近況報告など

2014年03月24日 12時50分34秒 | 個人的なこと

ここ数日、花粉症の影響による体調悪化もあって、自我が薄くなっています。
何も考えず、殆どなにもせず、ボーッとしています。
思考が展開できないので、記事も書けませんし、書く気も起こりません。


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すべてを疑ってください

2014年03月21日 11時53分12秒 | エッセイ
◇すべてを疑ってください◇

人はすぐに何かを信じ、それにすがり付こうとします。

それが何であれ、それはあなたの自我がつくった考えであり、幻想です。

そのあなたが執着しているものを、もう一度しっかりと見つめてください。

それが本当に真理なのか、追求してください。

安易に妥協せず、徹底的に疑ってください。

「それは真理なのか」、「それは何なのか」という問いを徹底的にぶつけてみてください。

いずれきっと、あなたの自我がつくった虚構が破られるでしょう。

また、あなたは問いそのものがあなた自身であることに気づくかもしれません。


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ある思索(2)

2014年03月20日 14時14分23秒 | エッセイ
◇ある思索(2)◇

この記事は、3月17日の記事の続きですが、結論だけ簡単に書かせていただきます。


すべては私という自我がつくった考えであり、幻なのです。

例えどんなこと、どんな対象であってもすべてそうなのです。


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主導権は自我にある

2014年03月18日 16時32分10秒 | エッセイ
◇主導権は自我にある◇

悟りの世界では、自我は邪魔なもの等の雰囲気があるような気がします。
悟りの道が、結果として自我を滅していくことになるので、そのような雰囲気というか風潮が生じやすいのかも知れません。

しかし、そのような風潮には大きな誤解が含まれている可能性があるのです。
どういうことかと言いますと、私という存在の展開の方向性を決めているのは常に自我なのです。
例えば、今世で金持ちになる、出世する、有名になる、さらには悟りを得るなども、自我がその意思により決定した展開なのです。

なぜなら、私を中心としたこの世界は、そもそものところ、自我が分別によりつくった考えにより展開された世界だからです。

但し、自我がつくった考えがすべてリアルタイムで直に世界に反映される訳ではないのです。
ここが自我の自我たる所以でもあります。
自我(分別)が成立するためのには、不可避的に自我に意思実現の不完全性が内包されている必要があるのです。
自我がつくった考えは、リアルタイムで直に世界に反映されるものと、執着として真我に一旦溜められて所定時間経過した後(来世持ち越しのケースも多いです)、世界に反映されるものとがあるのです。
そして、各瞬間の世界は、過去に蓄積された執着に基づいて真我が展開する世界のベースの上に、リアルタイムで自我がつくった考えが重ね合わされるようにして構成されます。
ここに、自我の意思実現の不完全性の原理があります。
しかし念のため繰り返しますと、真我が反映する執着も、もともとは自我が過去につくった考えですから、この世界を構成する考えは、すべて自我がつくった考えなのです。

それで、私が言いたいのはこういうことなのです。

根本的には、自我がつくる考えがすべてなのだということです。
この世界をつくっているのは、自我の考えなんだということです。
どうしたいのか、どうなりたいのか、それを決定するのは自我なんだというこです。
その主導権は常に自我にあるんだということです。
主導権を握っているのは真我ではないんだということです。

そして、自我を放棄して私という存在を終わらせるときの選択権も、自我にあるんだということです。


なんと素晴らしき、私、自我!!!


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ある思索(1)

2014年03月17日 14時18分16秒 | エッセイ
◇ある思索(1)◇

以前からそうなのですが、どうしても気になってしまうことがあります。
それ以外のことについてはほぼ納得したのですが、それだげが気になったままなんです。

それは、解脱後のことです。
お釈迦さまは解脱されたようだけど、その後どうなったのかということです。

現段階の認識でおそらく間違いないだろうと思うのは、解脱後は私という個の意識は消滅するのだろうということです。
私という存在の本質は、執着(真我)と分別(自我)から成っていますから、その両方が無くなれば、私という存在も消滅するはずなのです。

それじゃあ、そういうことでいいじゃないか、それ以上追求する必要もないよと言われそうで、私自身もそう思わないでもないのですが、何となくスッキリしないというか、気になるのです。

それと、この思索はとても微妙であり、また危うさをはらんでいるので、追求することに抵抗を感じるところもあり、この点でも微妙なのです。
なぜなら、私という自我が起こすすべての考えを放棄しようとしている一方で、思索を続けている訳ですから、これは大いに矛盾した行為なのです。

それでもやはり気になるのです。

この思索に関する一つのヒントは、お釈迦さまという存在は解脱により消滅したかもしれないが、こうしてお釈迦さまに意識を向けている私(慧空)は、ここに存在しているという、この点にあるのかもしれないと思ったりしています。

どういうことかと言いますと、真我の観点で私(慧空)がAさんという存在に意識を向けるとき、私という存在は不在となり、Aさんそのものが私となります。
このとき、Aさんは私そのものなのです。
しかしその一方で、もし解脱により私(慧空)が消滅したとしても、おそらく、Aさんという存在は私(慧空)と一緒に消えてしまうことなくそのまま残るのです。

このことは何を意味しているのでだろうと思うのです。
これはひょっとすると、私(慧空)という意識が解脱により消滅しても、私(慧空)の何らかの存在要素がAさんとして残るのではないかと思わないでもないのです。
しかし、この感覚がいま一つハッキリしないのです。


取りあえず文章として書いてみましたが、結論というか手掛かりというか、納得のいくものはまだ得られていません。
ひょっとすると、私という個の意識では到達不可能な領域なのかも知れないと思ったりもしています。
また何か思い付いたら書きたいと思っています。


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わたしはもう

2014年03月15日 13時56分23秒 | エッセイ
◇わたしはもう◇


わたしはもう、何も欲しいとは思わない。
なぜなら、どれも手にしても違いはないことが分かったから。

わたしもう、どんな存在も羨みはしない。
なぜなら、彼とわたしの違いは選択している考えの違いだけだと知っているから。

わたしはもう、自らの意思を展開するのを放棄する。
なぜなら、光という幻想を追い求めていたことが分かったから。

わたしはもう、すべての考えを手放し、何も選択しないことにした。
なぜなら、考えそのものに飽きたから。

そしてわたしは、すべてを放棄することにした。
なぜなら、それがすべてを手に入れる唯一の方法だと分かったから。



* * * * * * * * * *



上の文章の最後の部分は、それまでの部分を書き終えた後、ふっと気づいたことです。
私という存在にとってとても大きな気づきとなりました。
すべての存在たち、そして私自身に感謝です。



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虚無感について

2014年03月15日 09時36分30秒 | エッセイ
◇虚無感について◇

最近なんとなく思うことですが、私という存在の終わりが近づいている人は、何らかの強い虚無感を抱えておられるケースが多いのかも知れないと思っています。
そういう私自身も、強い虚無感を抱えて生きてきており、思春期にはすべてが無意味に感じられ、いつも死ぬことを考えていました。

安易に虚無感を肯定するのは危険ですが、虚無に対する感覚は自分自身への深い悟りのサインであり、入り口である可能性があると思うのです。
なぜなら、「虚無」は私という存在の本質に非常に近い感覚であり、またこれ以上ない純粋さの現れだからです。

しかし、この感覚は危険なのです。
この感覚に溺れると、死に至ることもあり、一つの人生をあたかも無駄なものにしてしまうこともあります。

虚無に目覚められた方は、どうかその感覚に溺れることなく、虚無と向き合っていただきたいと思います。
あなたが目指している終着点は、すぐそこかも知れません。
そう申し上げたい。


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私という存在の起こり

2014年03月14日 12時02分15秒 | 私の成り立ち
◇私という存在の起こり◇

私という存在が生じたときのことについて書いてみたいと思います。

私という存在は、私たちの知り得ない何らかの要因により生じました。
私という存在が生じたその要因については、どのような存在であろうと決して知り得ないのです。
私という存在は、考えの世界の存在であるとともに、考えそのものですから、考えの世界のことしか知り得ないのです。
私という考えの世界がどうして生じたとか、考えの世界の外側があるのか等の疑問に対する解答は、決して得られることはありません。

私という存在が生じたとき、まだハッキリしないおぼろげな「私」という自意識(考えというより感覚と言った方が近いか)だけがありました。
私という存在は「私」という自意識と同時に生じたのです。
この自意識を個の意識である自我と言ってもいいですが、客体の認識がまだですから、ハッキリとした自我に至っていない段階です。
私という自意識が何か分別を起こし、何らかの考えである客体に接したとき、ハッキリとした自我が生じます。
私という存在は本質的に個の意識(自我)と全体意識(真我)の二面性を有しているため、私という存在が生じたときに自我と共に真我も同時に生じました。
但しこの時点では、私という存在が生じたばかりなので、真我はまだ何もない空っぽの状態です。

ここで、真我は私という存在の無意識の領域を担っています。
また、私という存在は私を中心としたこの世界そのものであり、真我はこの世界のベースとなる構成やその時間展開をつくりだす役目を担っています。
さらに、真我は自我がつくりだし、握りしめた考えである執着を溜める役目と、溜められた執着を反映させる役目を担っています。
具体的には、真我は、自我により溜め込まれた執着をもとに世界のベース構造を展開させるようになっています。
これに対し、自我はその活動により、新たな考えをつくりだし、選択し、握りしめ、溜め込んでいきます。
私という存在がなぜこのような構造になっているのか、私(慧空)自身も疑問であり興味があるのですが、これは、私という存在である考えそのものの構成についての疑問であり、その解答が得られることはないのだろうと思っています。

私という存在が生じたとき、私という世界のベースを担っている真我が空っぽですから、私という存在である世界は、基本的に何も無い暗闇なのです。
このとき、自我の生成である分別を誘発する執着が限りなくゼロの状態ですから、自我が顕在化することは余りなく、殆どを真我として過ごします。
そして、延々と続く真我の眠りの中でうっすらと目を覚ますようにして、自我が時折顕在化します。
自我が顕在化したとき、そこは何もない暗闇なのです。

ここまで読まれて、この暗闇の世界は私が先日ここに書いた梵天界と同じだと思われることと思います。
その通りでして、私という存在が生まれた直後の世界は、梵天界と同じか、あるいは同じような世界なのです(私自身は、実質的に同じだろうと考えています)。

繰り返します。
自我が顕在化したとき、そこは何もない暗闇なのです。
延々と続く暗闇なのです。

ある時点で、私という自我は、延々と続く暗闇に耐えられなくなったのです。
耐えられないほど苦しくなったのです。
そして、その苦しみから逃れようとして考えを展開させはじめたのです。

私という存在は、そうやって始まったのです。


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梵天界について

2014年03月12日 14時23分16秒 | 私の成り立ち
◇梵天界について◇

つい最近になって梵天界のことについて少しずつ分かってきたことがあり、輪廻との関係で改めて考え直しています。
先日書いた悟りの階梯という記事の中では、悟りの階梯の第三の段階に到達した存在は、死後は梵天界へ行き、その後真我への執着の消滅と共に消滅すると書きました。
これは実はお釈迦さまが仰ったことなのです。

私も最初はお釈迦さまが仰ったことをそうなのかと受け入れていたのですが、実は本当にそうなのかと思わないでもなかったのです。
梵天界での経験で無明の迷いから本当に脱せられるのかと思ったのです。
そして、梵天界のことを理解するに連れ、ことはそう単純ではないように思い出したのです。

梵天界は「私」という感覚が落ち、真我に完全に覚醒した存在が行く世界ですから、梵天界の存在の感覚は、私たちの感覚からすると、私という自我の感覚よりも真我の感覚が主体となります。
また、真我以外に対する執着は既に解放されていますので、殆ど空っぽの真我だけがある世界です。
ですからそこは基本、何も無い暗闇なのです。
その暗闇の中で、空っぽの真我に附属した私という自我が時折顕在化するのです。
それはおそらく、途方もなく続く真我の眠りの中で、私という自我がうっすらと時折目を覚ます、そういう感覚なのです。

うっすらと目を覚ますように自我が顕在化したとき、そこは何も無い暗闇の世界なのです。
但し完全な暗闇という訳ではなく、あちらこちらと自我の意識を展開させれば、遠くの方に微かに感じる光が見える場合があるのだろうと思うのです。
あるいは、暗闇に耐えかねて自我が考えにより光をつくり出す場合もあるのだろうと思うのです。
そして、その光が、新たな迷い、つまり執着をつくり出してしまうことがあるのではないかと思うのです。
そしてさらに、その迷いによりこの現実世界へ再び生まれてくることがあるのではないかと思うのです。
このような迷いによりむしろ、梵天界を経て解脱に至るケースよりも、再び現実世界に生まれてくるケースの方が圧倒的に多いのではないかと思わないでもないのです。


賢き人よ、その肉体のあるうちに私という存在の本質を完全に理解し、すべての迷いを断ち切られんことを切に願います。


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苦しみは私の本質へのゲート

2014年03月11日 23時51分36秒 | エッセイ
◇苦しみは私の本質へのゲート◇

悟り世界では通常、幸福感、満足感、喜び等と、苦悩、不足感、おそれ等とは、相対的なものであり、それらは互いに対を成す等価なものであると考えられています。
しかし、この考えは本質的に間違っています。

幸福感等と苦悩等とは対をなす相対的なものではなく、苦悩等がベースにあり、幸福感等はそこから派生的に生じる感覚なのです。
あくまでもベースは、苦悩等なのです。

それはなぜか。

それは、私という存在の根底にある感覚(考え)が苦悩、不足感、おそれ等の否定的な感覚だからです。
私たちの知り得ぬ何らかの要因により私という存在が生じたとき、私は最初に苦悩等の否定的な感覚をつくったのです。
あるいは、つくってしまったのです。
私という存在は、まず最初に苦悩等の否定的な感覚(考え)をつくったため、その否定的な感覚から逃れようとして連鎖的に延々と考えをつくり続けているのです。
幸福感等の感覚は、その連鎖的につくり出される考えに含まれる一時的な過程でしかないのです。
私という存在の根っ子の感覚が苦悩等の否定的な感覚ですから、私という存在のベースとなる感覚も自ずと否定的な感覚の方に偏っているのです。
お釈迦さまは、このことを無明の迷いとか、一切皆苦等と言いました。

この文章を読まれた方は、この慧空という人はどうしてこんな暗い話題を記事に書くのかと思われるかもしれません。
でも私は、この記事を敢えて書くことによってお伝えしたいことがあるのです。

その伝えたいこととは、苦悩や不足感等にこそ、私という存在の本質へ向かうゲートがあるなのだというこです。
また、苦しみにしっかり向き合ってこそ、私という存在の本質に到達できるのだというこです。
なぜなら、私という存在の本質は苦悩そのものなのだから。

敢えて言います。
苦しみこそ、あなたご自身が得られた貴重な貴重なギフトなのです。
苦しみが大きければ大きいほど、貴重なギフトなのです。
そして、あなたがそのギフトを得られたということは、あなたがそのギフトを享受し得る存在だという証明なのです。

幸せの中には、私の本質へのゲートはないのです。
苦しみに中にこそ、私の本質へのゲートがあるのです。

苦しみは自ずと、あなたの意識をあなたの内面に振り向けさせます。
そして、あなたの心の勉強を推し進め、あなたを私の本質のゲートへ向かわせます。
これに対し、幸せは一時の休息にしか過ぎないのです。

苦悩の中におられる方は、つい苦しさに翻弄されてしまいがちです。
しかし、あなたがせっかく得られた貴重な貴重なギフトなのです。
どうか、しっかりと経験していただきたいと思います。
向き合っていただきたいと思います。
受けて立っていただきたいと思います。

そして、ぜひ私の本質へのゲートを潜っていただきたいと思います。
そのギフトを得られたあなたは、そのために生まれて来られた方なのだと思います。


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自覚は舟

2014年03月08日 09時54分39秒 | エッセイ
◇自覚は舟◇

自覚とは、私という自我に意識を向けることです。
また、自我がつくる考えを見守ることです。

この自覚を継続していくと、自ずと悟りの道を進んでいきます。
また自ずと、私という存在について知っていきます。

自覚とは、私という自我がつくる考えの海を渡り、私という存在の本質へ向かうための舟なのです。
ただ一つの舟なのです。

誰しも、この舟を持っており、乗ることができます。
舟があるのですから、ぜひ舟に乗って頂きたいと思います。
乗りさえすればいいのです。
舟に乗っていれば、いずれ私という存在の本質にたどり着きます。


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悟りとは自分を知っていくこと

2014年03月07日 10時48分47秒 | エッセイ
◇悟りとは自分を知っていくこと◇

悟りとは、自分を知っていくことです。
それは、すなわち「自覚」です。
これは私の結論です。

幸せになることでもなく、
楽になることでもなく、
自由になることでもなく、
愛でもなく、
喜びでもない。

ただただ自分を知っていくことなのです。
楽、愛、喜び、自由等は、その付属品として付いてくることもあるし、付いてこないこともあるというその程度のものです。
これらの感覚的な要素は、自我による感覚であるため、人や状況に依存しますし、不確かなものなのです。

とは言え、そこで遊ぶのもまた良しです。(^^)


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悟りの階梯(4)

2014年03月01日 09時55分51秒 | 悟りの階梯
◇悟りの階梯(4)◇

さらに昨日の続きです。

第四の段階は、真我も幻であると認識した段階です。

この段階において、「私は在る」という感覚のうち、「私」という感覚だけでなく、「在る」という感覚も消失します。
この感覚を敢えて表現すると、幻がふわっと存在しているような感覚になります。

この第四の段階と上の第三の段階の違いは、真我に対する理解のみです。
真我を幻であると理解し、真我に対する執着を手放しているか否かの違いです。
真我に対する執着を手放すことにより、実質的にすべての執着が解かれるため、上で書いた無明の迷いからも開放されます。

輪廻との関係については、肉体が滅ぶとき、真我に対するものも含めて、一切の執着が消失してますので、死後は肉体が滅ぶのに伴い、すべての存在要素が消滅します。

この段階へは、真我について行きつくところまで徹底的に理解することにより到達できます。
あるいは、私という存在を延々と展開している迷いの連鎖を絶てば至れます。


この記事の最後に。

悟りの道を歩む際の最大の原動力は、私という存在に対する探求心です。
悟りの道を進むに連れ、私が抱え込んでいた考えである執着が減り、私という存在に対する理解、つまり自覚だけが残るようになっていきます。
そして最後は、その自覚とともにすべてが消え去るのです。


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