私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

考えでなく「私」に意識を集中する

2015年09月30日 07時00分09秒 | 悟り
◇考えでなく「私」に意識を集中する◇

多くの方は、覚者たちも含めて、何か特定の考えに関して「こうだ」とか、「これが真実だ」等の主張をします。
中には、すべてオッケーだと言いながら、その一方で「こうだ」と何かを主張します。
そう言っているご本人には、その不自然さやひっかかりは何も感じないようです。

どうしてそれ程までに、不自然さや違和感を感じないで過ごせるのでしょう。

それは、そのような方々の意識のあり方に理由があります。
そのような方々は、考えに意識が向けられ、集中しているのです。
だから、自分が特定の考えを握り締めていることに違和感も感じないし、気づくこともできないのです。

考えではなく、「私」に意識を向け、集中して頂きたいと思います。

考えを握っていると、自ずとその考えを外に向けて主張したくなります。
主張しないまでも、心の中の「こうだ」という想いが繰り返し起こってきます。
また、それを誰かに否定されると、怒りも起こってきます。

「私」に意識を向け、考えを握り締めている自分、あるいは自分自身の姿に気づいて頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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意志を持って悟りの道を歩め

2015年09月28日 09時51分03秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇意志を持って悟りの道を歩め◇

今朝、久し振りにピンと来るものがありしたので、それについて書きたいと思います。
ピンとの来たのは、意志の力と悟りとの関係についてです。
これまで両者の間に関係は無いことは無いとは思っていたのですが、どう関係しているのかがいまひとつスッキリしていませんでした。
それが、今朝私なりにハッキリとしました。

おそらく、何らかの悟りに至る方のおそらく大半が積極的に悟りを意図することなく、それに至られるんだろうと思います。
私も、小悟(明け渡し)に至るときは、悟りのことなど全く意識してなかったのに、突然悟りの方からやってきたという感じでした。
そういうこともあって、悟りとは求めてもどうにかなるものではなく、求める心がむしろ邪魔になる等と言われるのだろうと思うのです。

確かに、悟りは意図するものではなく、訪れるものという部分はあるんだと思います。
しかし、意図して追求していくものであるという部分も確かにあるのです。
私自身、小悟については半分くらいは悟りの方から勝手にやってきたという感じではありましたが、小悟以降の悟りは、意志の力を持って積極的に追求した結果であると思っています。

前置きはこの辺にして、本題に入っていきたいと思います。

悟る、あるいは悟りの道を進んでいくということは、私という存在である自我が握り締めている囚われ(考え)に気づいてそれを手放していくことなのです。
どうして迷いや迷いの衝動が起こってくるのかというと、自我が握り締めている囚われが起こってくる現象に反応して、その迷いの衝動を引き起こしているのです。
そして、その囚われをわざわざ握り締めているのは、私という自我なのです。

繰り返します。
囚われを握るのは、「私」がわざわざやっていることなのです。

「私」がやっていることなら、囚われを手放すことだって、その気になれば「私」に出来ることなのです。

つまり、「自分はもう囚われを手放していくんだ」という強い意志があれば、手放していくんです。
これは、実に単純で簡単なことなのです。

そうなると、何かの考えを掴んで、外に向かって「これだ」か、「こうだ」と主張している、あるいはそう考えている自分自身に気づくようになるのです。
あるいは、思わず何かを求めて外側に彷徨い出そうとしている自分自身の衝動や姿に気づくようになるのです。


そして、もう一つ申し上げておきたいことは、悟りの意志と自覚との関係です。

自覚をやっていくときの要は、なんと言っても、意志の力なのです。

もう一度、ご自分の悟りへの意志について確かめてみて頂きたいと思います。


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セッションの報告など

2015年09月28日 08時21分15秒 | その他
◇セッションの報告など◇

まず、先日19日(土)のスカイプ雑談会の報告を。
参加者は私を含めて5名でした。
前回に続いて、アドバイタ系の方がご参加くださったので、アドバイタ系の方と私(あるいは、私たち)との認識や理解の違い関連してお話しすることができました。
まあ、ぶっちゃけ、いくらお話しても平行線な訳なのですが、お話しできて楽しかったです。

次に、昨日17日(日)の雑談会について。
参加者は私を含めて9名でした(私の家内と息子も含まれています)。
お子さんを連れてこられた方がおられ、うちの息子を含めて、小学生の男の子が二名いました。
雑談会と言っても、どうしても悟りや自覚関連の話題がメインになってしまいました。(^o^)
講話形式よりも雑談会形式の方が、参加くださる方も気楽にいろんなことを話せていいのかも知れないなぁと思いました。
次回からは、講話はやめて、雑談だけ、あるいは雑談と個人セッションの組み合わせにしようかとも思っています。
お菓子は、みなさん余り食べないので無くてもいいのかなぁと思いました。
(うちの息子は、普段お菓子を制限されているので、ここぞとばかり、ずっと食べてましたが、(^o^))

次回の雑談会は、週末に開こうとすると、10月後半の週末が予定で塞がっているので、11月上旬になりそうな感じです。
日程等を決めたら、近日中にここに公表しますね。

私の日々の暮らしは、相変わらずです。
仕事も、福祉施設での仕事を続けています。
仕事がしんどいので職場に行くのは毎日嫌々行っている感じなのですが、職場にいくと、一生懸命仕事してしまい、クタクタになって帰ってくるという毎日です。
職場に行くのはしんどいので嫌なのですが、でも職場は好きなようで、よく分からない感じです。
施設を利用している利用者の方々に対しても、お世話がとても大変だったりするので、うっとうしい面倒な人たちだと思う反面(とっとと死ねと思うときもあります、(^o^))、涙が溢れるほどの愛おしさを感じていたり、とても複雑です。
ホント自分でも、なぜ自分がこの仕事をしているのかがよく分かりません。

こんな感じでやっています。
また報告しますね。


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「私」に対する極限の集中

2015年09月26日 07時06分40秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇「私」に対する極限の集中◇

何かに集中したり、没頭される方はおられると思いますが、「私」に集中したことのある方は殆どおられないのだろうと思います。
ましてや、極限まで高められた集中度で「私」に集中したことのある方はゼロに等しいくらいおられないのだろうと思います。

これ以上は無いという極限の集中度で「私」に集中すると何か起こるのか、興味を感じませんか?
興味を感じられる方は、ぜひやってみて頂きたいと思います。

やられるときは、ちょっとしたコツがあります。
「私」に向けて意識を集中すると、急速に思考が抑制され、思考が止まるか、殆ど止まった状態になっていきます。
そのままだと、意識の集中の焦点である肝心の「私」も消えてしまったり、うつろになってしまいます。
そこで、どうするかと言うますと、内面の中心に「私」という考え(思考と言ってもいいです)を積極的につくりながら、その「私」に向けて意識の集中をさらに高めていくのです。
意識の集中がさらに高まると、さらに思考が抑制され、「私」が消えそうになりますから、そこでまた、力を振り絞るようにして「私」という考えを中心につくりながら、その「私」に集中します。
そうやって、自分自身があたかも「私」の中心に食い込んでいくネジになるような感覚で、「私」のより中心に向けて集中を極限まで高めていきます。

試しにちょっとやってみて頂きたいと思います。
(はい、どうぞ(^^)/)

どうですか?
うまくやれましたか?
ちょっと難しかったですか?^^


えっ?
何が起こるのかってぇ?

「私」に対して本当に極限まで集中を高められたなら、その人なりの何か変化が起きるはずだと思います。
何かの気づきが起こる方がおられるかもしれませんし、大悟が起こる方もおられるかもしれません。
何が起こるか、それはやってみてのお楽しみです。(^o^)


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ただ独り歩め

2015年09月25日 21時16分55秒 | エッセイ
◇ただ独り歩め◇

あなたと私は別個の存在であり、異なる過去があり、歩む道も異なっています。
あなたが歩む道はあなただけが歩む道であり、私が歩む道も私だけが歩む道です。

誰しもみな、自らの道をただ独り歩んでいます。
にもかかわらず多くの方は、その自覚がなく、道連れを求め、何かに縋り付こうとします。
また、他人の道に目移りもします。

そうだから、迷ってしまうのです。

自分は、自分の道を歩むんだと腹を括って頂きたいと思います。
あなた自身の道に真っ正面から取り組んで頂きたいと思います。
挑んで頂きたいと思います。

悔いの無いよう、精一杯取り組んで頂きたいと思います。


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悟りの道中と苦楽観の変遷

2015年09月24日 20時58分01秒 | 悟り
◇悟りの道中と苦楽観の変遷◇

今日は悟りの道中と苦楽観の変遷について書いてみたいと思います。
多くの方はご理解も頂けないでしょうし、むしろ反発されることでしょうが、何かピンと来られる方だけにお読み頂ければそれで結構です。

まだ悟りを知らない普通の方は、肉体的又は精神的な楽(快でもいいですが)を求めて生きておられます。
そのため、そのような方が悟りの道に入られるとき、多くの場合、生きることに関連して起こる苦と何らかの形で向き合うこととなります。
苦と向き合う訳ですから、苦しみを感じる訳です。
そして、その苦しみと向き合う過程で小悟(明け渡し等)が生じることがあります。

なお、このときに向き合うことになる苦は、生きることに関連した苦であり、まだ表面的で浅いものです。
この段階で一切皆苦を悟る方がおられると思いますが、それは生きることに関連した苦に対する理解です。
つまり、生きることは苦であるということを理解したに過ぎません。

この段階を経ると、多くの場合、一時的に楽に対する感覚や理解が前面に出てくる段階が訪れます。
その楽に対する感覚や理解があまりに魅力的であるため、多くの方は、その感覚や理解を掴んでしまい、そこに留まってしまいます。

この段階の特徴は、生きることに関連して起こる過剰な雑念が軽減されるため、智慧が利くようになることです。
しかし、この段階で得られる楽に対する感覚や理解に溺れてしまうと、智慧も鈍ってしまいます。
そのような楽に対する感覚や理解に溺れることなく、またそれを掴まない方だけが、先へ進んでいくことになります。

そのような楽に対する感覚や理解を掴まなければ、それ程時間を経ずに、その段階を抜けていくことになります。
そうすると、前面に出ていた楽に対する感覚や理解はなりを潜め、ものごとを淡々と観、感じるようになっていきます。
中には、苦楽や良い悪い等を含めた二元の考えは、すべてものごとの一面を捉えたものであり、全体で観るとニュートラル(中庸)であるということに気づく方がおられるだろうと思います。

しかし、仮にニュートラルを理解しても、それで終わりではありません。
ニュートラルの理解も、まだ途中なのです。

ニュートラルの理解や深い観照意識が目覚めた階層をさらに進んでいくと、依然として苦しんでいる自分自身の姿に気づくようになります。
ここに到達して初めて、私という存在の根本である苦(存在苦と言ってもいいです)に気づくようになります。

そして、最終的には、私という存在の根本が苦であること、存在そのものが苦であることを理解するようになります。
この理解が、本当の一切皆苦の理解です。

私という存在の根本が苦であるということが本当に分かれば、苦をどうにかしようとする迷いの衝動が停止します。
これが最終的な悟りである解脱の悟りです。

ザッと書きましたが、これが悟りの道中の苦楽に対する感覚や理解の変遷です。
なお、多くの方の場合、ニュートラルの理解や深い観照意識が目覚めた階層から根本的な苦である存在苦に対する気づきが起こるまでのいずれかの過程で、観るものは観られるものの悟りである大悟、及び、一切は私の考えであることを悟る空の理解を得ることとなります。


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楽に流されない

2015年09月23日 10時26分13秒 | 悟り
◇楽に流されない◇

私たちは直ぐに、表面的に楽な方、楽しい方に流されてしまいます。
自分の進路を決めるときもそうですし、仕事や何かの課題に取り組むときもそうです。
中には、如何に楽をするかばかりを考えている人もいます。

あなたは本当にそれでいいのでしょうか。
本当にそれで納得できているのでしょうか。
流され、逃げてばかり、また妥協ばかりの人生で、あなたは本当に納得できるのでしょうか。

楽という感覚は、私たちを迷わせる霧や雲のようなものです。
自分がどうしたいのかというあなたの本心は、そのような霧や雲に遮られたあなたの内面の奥深くにあります。

表面的な霧や雲に惑わされずに、自分はどうしたいのかというあなたの本心を見つめて頂きたいと思いま
す。
そして、そのあなたの本心の観点から、あなたの人生に取り組んで頂きたいと思います。
安易に楽に流されるのではなく、また苦から逃げるのでもなく、本心の観点からあなたの人生に挑んで頂きたいと思います。

どうか、あなたの本心に着目し、大切にして頂きたいと思います。

本心を大切にして人生に取り組むとき、あなたは大変さや困難を感じるだろうと思います。
苦しみや恐れも感じるでしょう。

しかし、「もう逃げない」と腹を括って頂きたいと思います。
覚悟して頂きたい思います。


本心が導く人生は、多くの場合、そんな特別な人生ではありません。
有り触れた普通の人生だろうと思います。
多くの場合、あなたが本心から取り組もうとすることは、そんな有り触れた普通の営みの中にあります。


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「いま」という幻想

2015年09月16日 08時22分44秒 | 悟り
◇「いま」という幻想◇

悟りの道中で、「いま」を捉えたような感覚や理解が生じることは確かにあります。
その感覚や理解を得た方は、「いましかない」とか、「いまが永遠に続いている」などと言ったりします。

しかしです。
その「いま」というのも、「私」の考えなのです。
「いま」と考えているのは、誰でしょうか。
「いま」を認識しているは、誰でしょうか。
そう考えているのは、「私」でしょう?

「いま」という感覚や理解にフォーカスするのではなく、刻々と営まれている「私」という存在の意識の活動や推移にもっと着目して頂きたいと思います。
起こってきた現象に対し、自分自身の内面でどのような反応や活動が起こっているのかについて、もっと意識を向けて頂きたいと思います。

また、「いま」を外に向けて主張している自分自身の姿をよく観て頂きたいと思います。
どうして「いま」を外に向けて主張しようとするのかをよく観て頂きたいと思います。
さらには、「いま」が本当に確かなものなのかどうか、よくよく検討して頂きたいと思います。

果たして、何かを取り上げて、それが「ある」ということができるものなのでしょうか。
「ある」という根拠はどこにあるのでしょうか。

敢えて「ある」と言うのなら、「何かがある」というより、その何かに対する「認識」があると言った方が自然ではありませんか?

そして、その「認識」そのものが「私」ではありませんか?

「いま」という幻想に囚われないで頂きたいと思います。


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根源的な衝動について

2015年09月15日 17時28分07秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇根源的な衝動について◇

ここでいう根源的な衝動とは、私という存在にある根本的な苦に対して、それをなんとかしようして起こるものでり、私という自我を延々と突き動かしている原動力です。
最終的な悟りに至る瞬間には、自らのこの衝動に気づくことになります。

この衝動に気づくためには、ありのままの自分自身の姿を受け入れ、しっかりと観る必要があります。
苦しみに悶え、それをどうにかしようとしてジタバタしている格好の悪い自分自身の姿から目を背けず、それをしっかりと観る必要があります。

あなた自身に、どのように苦が起こり、そして苦にまみれ、また苦に対してどのような反応や衝動が起こっているのか、しっかりと観てください。


あなたは、自分で気づいておられないかも知れませんが、起こってきた苦に対して、延々とそれを何とかしようとして右往左往と奔走しています。

どうして、そのような苦をなんどかしようとする衝動が起こり続けるのでしょう。

それは、あなたという存在の根源的な部分に、「苦をなんとかしないといけない」とか、「苦がなんとかなるはずだ」等の深い思い込みがあるのです。
その思い込みである囚われが、「苦」という現象に対してあなたを延々と反応させ、突き動かしているのです。

そのことに気づいて頂きたいと思います。


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現象に囚われが反応する瞬間を捉える

2015年09月14日 08時45分21秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇現象に囚われが反応する瞬間を捉える◇

悟りを深めるとは囚われを手放していくことです。
自覚はそのための手段です。

ですから、自分自身に徹底的に意識を向け、起こってきた現象に囚われが反応し、感情や思考、衝動が起こる瞬間を捉えてください。

例えば、強い怒りはまず間違いなく、あなたが握り締めている囚われの反応によって生じています。
走りだそうとする怒りの衝動に無自覚に呑まれてしまうのではなく、自らの意識に、自覚の杭を打ち込んでください。
そして、どうして自分は怒っているのか、自分の内面にどういう考えの反応が起こり、怒りが引き起こされているのかを、自覚の観点でしっかりと観てください。

意に反する現象が起こると、それに連動して怒りが生じることが多いです。
これは至極当たり前のことであり、それだからこそ、怒りが生じる本質的なプロセスが見過ごされています。
当たり前のこととして見くびらないで、どうして自分に怒りが起こっているのかを自覚の観点から追求して頂きたいと思います。
怒りが起こっている現場を自覚の目で捉えて頂きたいと思います。

怒りだけではありません。
起こってきた現実に対して、それをどうにかしようとして何らかの衝動があなたに起こるとき、そこでもあなたが握り締めている囚われが関与していることが多いです。
過ぎてしまったことに対し、「どうしてあんなことになってしまったのか」とか、「あんなことをしてしまったのか」等の考えが繰り返し生じ、過去を引き摺っているときは、間違い無く、そこには囚われが関与しています。

囚われは、その人の人格や世界観、そして人生のベースとなる部分をつくりだすものであり、いわばその人の存在としてのベースを構成しています。
ですから、囚われは、それを握りっている本人からすれば、余りにも当たり前のことであるため、それが自分が握り締めている考えであり、囚われであるということになかなか気づけないのです。

ですから、囚われに気づいていこうとするとき、自分が当たり前と思っていることに対して疑いの目を持つことが囚われに気づきにとても有効になります。
当たり前のことや、決まったことなど、何もないのです。

あらゆることがらに対し、疑いの目を持ち、自覚を実践して頂きたいと思います。


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根本苦に対する衝動と気づき

2015年09月12日 21時49分25秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇根本苦に対する衝動と気づき◇

今晩は、最終的な悟りに至らんとするまさにその瞬間に生じる気づきについて、改めて書いてみたいと思います。

私という存在の根っ子には、常に苦があります。
その苦は、常にあるものであり、どうしようもないもないものです。
その苦はどうしようもないものなのに、私という存在は、その苦を何とかしようしていつも駆けずり回っています。
私という存在には、その苦をなんとかしようする衝動が常に起こり続けています。

その苦をなんとかしようとして、走りだそうしている自分自身の意識の衝動に気づいてください。
どうにもならない苦をどうにかしようとして、闇雲に走りだそうとしている自分自身の愚かさに気づいてください。

どこに向けて、何を求めて、走りだそうというのでしょうか。
一度立ち止まり、冷静な目で、自分が何を求め、何処にいこうとしているのかをしっかりと観てください。

どこかにいい逃げ場はありそうですか?
どこにも逃げ場などないのではないですか?

仮にどこにも逃げ場がないことが分かっていても、それでもまだあなたの意識は苦をなんとかしようとして走りだそうとするでしょう。
その走りだそうとしている自分自身の姿を自覚の目で逃さないよう捉えてください。

そうすれば、延々と続いていたあなたの意識の衝動がスッと停止します。


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悟りの行程を三つに分ける

2015年09月11日 21時06分39秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇悟りの行程を三つに分ける◇

悟りを深めるとは、私という自我が握り締めている考えである囚われを手放していくことです。
囚われが薄くなると、その分悟りが深まり、囚われが一つ減ると悟りの行程を一歩進むことになります。
そして、囚われがすべて無くなると、最終的な悟りである解脱の悟りということになります。

悟りの行程は、おおよそ三つの部分的な行程に分けることができます。
また、囚われの手放しは、大体で言いますと、外側、つまり浅い部分から順に手放しが起きていきます。
このため、一番目の行程では、最も外側の囚われに対する手放しがなさます。
一番目の行程で、その人が握り締めている外側の囚われについてある程度の割合で手放しがなされると、自ずと小悟の悟りが生じるようになっています。

具体的には、社会の状況な仕組みについて、「こうあるべきだ」とか、「これが正しい」等の考えは、外側の囚われが関係しています。
また、他人に対して、「あいつは間違っている」とか、「あいつは悪いやつだ」等の考えも、外側の囚われが関係しています。
また、自分の個性や境遇に対する不平不満や他人との比較等も、外側の囚われが関係しています。

この一番目の行程をさらに進み、このような外側の囚われの大半を手放していくと、手放しの対象が外側の囚われから内側の囚われへと徐々に変化していきます。
これに伴って、悟りの行程も一番目の行程から二番目の行程へと移行していきます。

二番目の行程では、主に内側、つまり自分自身に関する囚われを手放していくことになります。
皆さんはなかなか気づかれないかも知れませんが、私たちは、自分自身に対して、「こんなことはやっちゃいけない」とか、「こうあるべきだ」等の沢山の囚われを持っています。
そして、その囚われにより自分自身を縛り付け、抑制しているのです。
この行程では、そのようながんじがらめになっている自分自身の姿に向き合い、ありのままの自分自身を受け入れていく、自分自身を許していくことになります。

そして、そのような内側の囚われの大半について手放しが起こると、「観るものは観られるもの」の悟りである大悟の悟りが自ずと生じるようになっています。

そしてさらに悟りの行程を歩み、自我が握り締めたおおよそすべての囚われの手放しがなされると、私という存在が考え(認識)そのもの、あるいは考え(認識)の連鎖そのものであるという理解が生じます。

そうするといよいよ、最終的な悟りに向けた最後の行程である三番目の行程に入っていくことになります。
この三番目の行程では、私という存在の根本にある「苦」と向き合うことになります。
あるいは、どうしようもない苦を抱え、それをどうにかしようとして奔走している自分自身の姿と向き合うことになります。
そして、苦に対するそれをどうにかしようとする衝動に気づき、その衝動が停止すると、最終的な悟りである解脱の悟りとなります。


それがなんだと言われそうですが(笑)、言いたいことは、悟りを深めるということは囚われを手放していくことだということと、囚われの手放しは外側から順に進んでいくものだということです。


最後に、囚われの手放しについて、その手放し方は複数のやり方があるのだろうと思っています。
例えば、一つは、その囚われに関連して起こってくる展開を経験し尽くすことです。
もう一つは、その囚われに関連して起こってくる展開を受け入れることです。
さらにもう一つは、自分自身の内面において、現象と囚われが反応して感情や思考や衝動が起こっているプロセスを自覚の観点で直視し、それに気づくことです。
囚われに反応している自分自身の姿に気づけば、その瞬間、囚われは根っ子から消失します。


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最終的な悟りへ至る最後のステップについて

2015年09月10日 22時43分33秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇最終的な悟りへ至る最後のステップについて◇

まず、最終的な悟りである解脱の悟りに至るためには、必ず通る必要がある二つのゲートがあります。
その一つ目のゲートは、ハートの消滅が起こる大悟のゲートです。
このゲートを通ると、その後暫くの間、ハートの消滅に伴って生じる自我感覚の欠落感により、「観るものは観られるもの」を実感することとなります。
二つ目のゲートは、私という存在を含めた一切のことがらは私の考えであるということに対するある程度の理解(私はこの理解を空の理解と呼んでいます)が生じるゲートです。

大悟と空の理解の両方の悟り要素が揃うと、私という存在は考え(認識)そのもの、あるいは考え(認識)の連鎖そのものであるということを本当に深く理解するようになります。
この段階で、縁起に関する理解も生じます。
なお、この段階に至って初めて大悟とする悟りの捉え方もあるのだろうと思っています。

ここまでは前置きであり、今回の本題はここからです。

上の大悟と空の理解が揃った段階に留まらずに、自覚等を通じて解脱に向けて悟りの行程を歩んでいくと、ちょっと意外なことに気づき始めることとなります。
何に気づくのかと言うと、相変わらず苦しんでいる自分自身の姿、あるいは自分自身が感じている苦しさに気づくのです。
その苦しみに気づいた方の中には、自分自身がまだなお、かなり深く、しかも執ような苦しみを感じていることに驚き、戸惑う方もおられるのではないかと思います。
それは、それ程意外であり、心外というか、落胆が生じるような苦しみなのです。

なお、その苦しみは、私という存在の根本から起こってくる苦しみなので、大悟や空の理解を掴んでしまい、その悟り段階に囚われている方には気づくことができません。
その悟り段階を手放し、内面に向けたさらなる悟りを追求される方のみが気づくことができるものなのです。

その苦しみに気づき始めた方は、最終的な悟りの側まで到達しておられるのだろうと思います。
今回の記事は、そのような方に対して何かヒントになればと思い、書いたものです。

その苦しみに気づき始めたポイントから、最終的な悟りに至るまでの過程について、とても微妙なものではありますが、私としては二つのステップがあるのだろうと思っています。

一つ目のステップは、一切は苦であるという理解が起こるステップです。
この理解が起こると、苦が当たり前であるというそれなりの理解が生じるので、肝が据わるというか、意識や感覚の面でハッキリとしたそれなりの変化が生じます。
中には、これを最終的な悟りであると誤解してしまう方もおられるのではないかと思っています。
実は、私(慧空)自身、一切皆苦の理解が起こったとき、ひょっとするとそれで悟りの行程が終わったのではないかと誤解しそうになったのです。

最終的な悟りである解脱の悟りに至るためには、起こってくる苦しみに対し、それを何とかしようとする衝動(特に強い衝動)が停止する必要があるのですが、一切皆苦を悟っても、その苦に対する衝動が完全には停止しないのです。

そのため、二つ目のステップで、その苦に対する衝動を完全に停止させることになります。
どうすればその衝動が停止するのかと言うと、自覚により、自分自身を観ること、あるいは自分自身に意識を向けることにより、起こっている苦しみをなんとかしようしている自らの衝動、あるいは自らの姿に気づくことができれば、その衝動が停止するのです。

自らの衝動、あるいは自らの姿に気づいた瞬間、それまで延々と起こっていた苦に対する衝動がウソのようにスッと停止します。
そして、その瞬間、「これが最終的な悟りだ」、あるいは「これ以上の先は無い」等の感覚的な手応えというか、理解が生じます。
これが解脱の悟りです。

最終的な悟りに向かう際の要は、やはり「自覚」です。
「自覚」あるのみです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


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読んで頂いてありがとうございました。

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スカイプ雑談会(5回目)のご案内

2015年09月07日 19時07分43秒 | その他
◇スカイプ雑談会(5回目)のご案内◇

スカイプ雑談会の第5回目について、ご案内いたします。

 ◇開催日時 : 9月19日(土)午後8時30分から10時30分(少々の延長可能性有り)
            途中入退場、大丈夫です

 ◇参加費用 : 無料です

 ◇雑談会の趣旨 : なんでもありの単なる雑談会です
               しゃべったらダメなことは何もありません          

 ◇方法は、スカイプの音声通話(今回は画像は無しです)を使って行います
  なお、スカイプは、インターネットを使って無料でビデオ通話、音声通話、チャット等ができる大変ポピュラーで安全性の高い無料ソフトです
  このサイトから無料でダウロード及びインストールできます
  パソコンに対応したものや、各種スマホに対応したものが用意されています

 ◇参加要領等
  
  ・参加を希望される方は、下記のメールアドレスにメールでその旨をご連絡ください
   折り返し、私のスカイプIDをご連絡しますので、そのIDをスカイプID検索で検索して頂き、私のIDに宛に連絡リスト登録申請を送信してください
   既に私のスカイプIDをご存知の方は、スカイプチャットで参加希望のご連絡をいただいても結構です
   これで準備はオッケーです
   何らかの方法で既に参加の意志をお伝え頂いている方につきましては、再度のご連絡は不要です
   
    メールアドレスは、suiku☆xsj.biglobe.ne.jp(☆を@に替えて下さい)です
  
  ・雑談会当日は、開始予定時間の10分前になりましたら、スカイプのモードをオンラインモード(グリーンのモード)に切り替えてお待ちください
   時間になりましたら、こちらからコールいたしますので、そのコールを受信してください
  ・途中で送れて参加を希望される場合は、スカイプチャットで私のスカイプID宛に、参加したい旨をご連絡ください
   こちらから、コールいたします
  ・途中で退場される場合は、そのまま通話をお切りください

 ◇参加者定員 : 20人程度
             先着順で締め切らせていただきます
             と言いましても、定員オーバーとなることはまずないと思います
             1回目から4回目まで、参加者は私を含めて7名以下でしたから(^o^)
         
 ◇次回の日程等 : 次回のスカイプ雑談会は、まだ未定ですが10月中旬か下旬ころに開催したいと思っています
               日程が決まり次第、ここに書きます
               基本的には今後は、月に1回くらいのペースで続けていきたいと思っています


  それでは、ご連絡をお待ちしております


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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近況報告など

2015年09月01日 08時33分41秒 | 個人的なこと
◇近況報告など◇

最近は悟り関連の文章が余り出て来ないので、近況報告などをちょっと書いてみたいと思います。

まず、8月29日の講話セッションと、30日のスカイプ雑談会の報告から。

29日の講話セッションの参加者は、2組(実質は2人)でした。
同日の個人セッションの参加者は、1人でした(もともとの枠数も一枠)。
その後の雑談会の参加者は、私を含めて4人でした。
余談ですが、幼なじみだと仰る雑談会では男っぽい系(正確には、もと男気系でしょうか、笑)の方が二名来られ、雑談会の後、食事に行かれるとのことで、思わず付いていきたくなりました(笑)。
一緒に酒を呑んだら楽しいだろうななどと、久し振りに思いました(これは、いつか実現したいです、笑)。

次回の講話セッションは、9月27日(日)の午後2時から5時30分です。
次回は少し趣向を変えて、2時から5時30分までのすべてを雑談会にします。
お菓子、飲み物を飲みながら、何でも気楽に楽しくお話しできればと思っています。
正式には近いうちにまたここで案内しますが、もう参加を受け付けますので、参加される方は下記アドレスにメールでお申し込みください。
suiku☆xsj.biglobe.ne.jp(☆を@に替えて下さい)
場所は、いつもの勝どき駅近くのレンタルルームです(サロンのサイトはこちら)。

30日のスカイプ雑談会の参加者は、私を含めて7名でした。
非二元系の悟り系列におられたか、いまもまだおられる方(しかも人生の先輩)が参加くださり、私としては少し遠慮気味にお話しさせていただきました。
雑談会なのにとても真剣な雰囲気になり、私も真剣にお話しさせていただきました。
この雑談会の雰囲気は初めてのものでした。

次回の雑談会は、9月の中旬から下旬ころを予定しています。
決まりましたら、またここでお知らせいたします。
私が忘れてしまっていることがありますので、そういうときは、「9月の雑談会はいつなの?」と聞いて頂きたいと思います。

スカイプセッションの状況について。
スカイプセッションを始めたころの3、4ヶ月前は、定期的にご希望があり、それなりにセッションをやっていたのですが、スカイプセッションを有料から無料に変えたあたりから(2、3ヶ月前でしょうか)、ぷっつりとご希望が入らなくなっていました。
どうしてなのだろう、もしかして有料のままがよかったのかも、有料に戻そうかな、などと思いながら最近まで来ていました。
それが、なぜかここ3週間くらい前から、セッションのご希望がポツポツと入るようになり、いまは週に二人か、二人弱くらいのペースでセッションをさせて頂いています(電話でセッションをやらせて頂くこともあります)。
当分はこのまま様子を観ながらやってみようと思っています。

仕事のことも少し書きますね。
新しい仕事に就職して、二月ほどが経ちます。
仕事の内容は、ハッキリ言ってしんどい仕事なのですが、大分慣れてきました。
取りあえずは、定年の60歳くらいまではこのままそこで働き続けるのかなと思ったりしています。
その先も、身体が動くうちはそこで働くのかもしれないとも思っています。

正直、仕事はしんどいです。
働きたくないです。
でも、なぜか毎日職場に行き、職場にいくと、一生懸命働いてしまいます。
自分でも、どうして一生懸命やってしまうのか分からないのですが、なぜだか一生懸命やってしまうのです。
そのため、いつも疲れ果てています(笑)。
職場の普通の職員は、それなりに力を抜いて流しながら(ある意味、手を抜きながら)仕事をしています。
しかし、私はどうしても一生懸命やってしまうのです。
困った性分だと思います。

それで思い出したのですが、私は仕事についていつも一生懸命やってきたようです。
学生時代のアルバイトも、どうしてお前はそんなにやるのか、と周りに言われていました。
本当に困った性分です。
仕事との縁が切れるまで、これは続くのだろうと思っています。

心境の変化等についてですが、やはり、そういうものはもう無いようです。
このまま淡々とお迎えがくるのを待つだけのようです。
これがなかなか来ない!(^o^)

心境の変化ではないのですが、ちょっと面白い変化がありましたので、書いてみたいと思います。
それはFXトレードのことです。
じつは私は、いまでもまだFXトレードを、やめたり再開したりしながら、こちょこちょと続けてまして、損もしないし得もしないという状況が1年以上続いてました。
それがつい最近になって、超久し振りに、相場が読める手応えが蘇ってきたんです。
この8月後半にあった株や為替の世界的な暴落やその動きが手に取るように分かったんです。
実際にも少額ですが儲かりましたし。

いまは、「おっ!これはまたやれるのかもしれないぞ」という感じがしてまして、試しにまたちょぼちょぼと相場を観たり、トレードをやったりしています。
この状況をどう言えばいいのか、なんと説明、解釈すればいいのかと思っているのですが、まだよく分かりません。
ひょっとすると、先行していた悟りの感覚に、現実世界を生きる感覚がやっと追いついてきたというか、馴染んできたのかもしれないと思っています。
また、これはFXトレードに限らず、他のこと、日常生活や仕事等にも言えることなのかもしれないと思ったりもしています。

こんな感じで、私はいつも疲れ果てながら、元気があるのか無いのか分からない感じで生きてます。

また報告を書きますね。(^^)/


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。

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読んで頂いてありがとうございました。

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