私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

ツイート記事(20240203~)

2024年02月29日 09時11分41秒 | その他
◇ツイート記事(20240203~)◇

<2月3日>
◇輪廻、運命
 最近、この周辺のことについて少し理解が進んでいます。
 積極的に追及している訳ではないのですが、なぜか理解が進んでいきます。

 例えば、この世、あの世、過去未来を含めた世界観には、階層がありそうであること。
 輪廻にも階層がありそうであること。
 運命と呼ばれるものもありそうであり、極一部の例外の除いて皆、大筋はその運命に沿って生き、死んでいっているようであること。
 表面的な生き方をしていては、流されるようにして運命通りの展開になってしまうのであろうこと。
 意識的に生きることで、ある程度運命を変えられるのであろうこと。
 例えば、やったやられた(加害者、被害者)の関係や、親子等の依存関係の連鎖から抜け出していくときなどは、運命を変えている可能性があること。
 また、悟りの行程において、前世を含めてまだ到達していない領域に入っていくときは、運命から外れた展開となっている可能性があること。


<2月7日>
◇時代のターニングポイント
 先日、2025年7月5日についてスピ系の一部がいろいろと言っている件について触れました。
 そして、私はそれは今回も大外れになるだろうと書きました。
 基本的には大外れし、何事もなかったの如く過ぎていくだろうと考えています。

 でも、ふと以前のことを思い返してみたんです。
 2000年になるときや、2012年末のマヤ暦終了のときなどを。
 確かに、彼らが言っていたような変化は起きなかったし、彼らの主張は大外れだった訳なのですが、
 かなり大きな時間スケールで見たとき、その時期の辺りから時代の転換期に入っていることは間違いないんだなぁと思ったのです。
 思い返すと、経済も文化も、各国の政治、科学工業技術等々、どれももう飽和していて、終わっている感が出て来始めたのがこの辺りの時期なのです。
 
 それで、今回のスピ系民の盛り上がりの様子は、過去の2000年、2012年のときよりも明らかに大きく、雨後の筍の如く、至る所でその手のことを言い出している状況でして、
 この様子からして、その時代の転換がそろそろクライマックスを迎えつつあるのかも知れないなぁと思ったのです。
 
 そうするともしかして、2025年のタイミングで、世界経済の崩壊や大混乱、国民統治の崩壊や混乱、価値観の転換などが起こる可能性が無いことも無いのかなぁと、思ったりするのです。
 どうなんでしょうねぇ。

<2月9日>
◇地位が上がる程劣化が酷い
 私は、ここ20年程度の間で民衆の幼稚化が急速に進んでいると考えています。
 特にここ数年の劣化速度は想定外のものだと感じています。
 その劣化ですが、管理ポストや経営ポスト、あるいは政治家、タレントなど、上に行く程、あるいは目立つ人程、劣化の度合いが大きいです。
 そういう方々は、表面的な欲が強いのでそういうポストまで行くのであって、落ちやすいというか劣化しやすいという傾向があります。

 で、何が言いたいのかと言うと、
 昨今の劣化ぶりが余りに酷いので、大きな組織や複雑な組織の運営が困難になってきているのではないかと考えています。
 中国やロシアは国家自体がもうそなっているし、米国も急激にダメになってきているし、わが国も言わずもがなです。
 種々の有力企業についても、まだ余り情報は表には出てきていませんが、そろそろ限界に来ているのではないかと考えています。

 個人的には、もう終わりにして次行こうや、という感じなのですがw

◇神と囚われ
 ちょっと気が向いたので、余り触れない話題について書いてみます。
 神となると囚われなど持っていないだろうと考えがちですが、殆どの神は、良い悪い等の二元の囚われの中にいる存在です。
 ああしろ、こうしろとか、何々は良くないなどと言う存在は、ばっちり二元の囚われの中の存在です。
 そもそも二元の囚われから外れている神は存在するのか?
 この点について、私はよくわかりませんが、この世の悟りに二元の囚われから外れた階層(小悟、大悟)があることから、あちらの世界にもそれに対応する階層があるのかもしれないと考えています。

<2月12日>
◇一人に複数の意識存在
 最近なぜか、悟りとは関係の無い、むしろ邪魔になるようなことを書いておりまして、ごめんなさい。
 と言いながら、今日も書きますw

 私は、夢の中で身体の無い意識だけの存在になっている夢をちょくちょく見るのですが、
 あるとき、意識だけの存在から、その目の前にいた男性(中年男性です)に入って同化し、そのまま暫くいた後、またその男性の外に出て、意識だけの存在になったことがあります。
 このことから、一人の人間に複数の意識存在が入りことがあるのではないかと考えています。
 その夢の中で、私がその男性に入る前も、その男性は普通に生きていましたら、既に意識要素が入っていたのだろうと思うからです。

 ちなみに、私が夢の中でその男性に入ったときどうだったかと言いますと、入った瞬間同化してしまって、その男性としての活動が始まったのです。
 ただ、その男性の中に入る前の意識だけの状態とき、私はその男性を見て、これは誰なんだと思ったのです。
 そして、これは誰なんだと考えながら、その男性の中に入ったのです。
 入って同化しても、「誰なんだ」という自問は続いていました。
 その男性には、ちゃんと名前もあり、男性なりの記憶も全部あったのですが、「誰なんだ」と衝動的に問い続けていました。
 その誰なんだという問いは、男性の外に出て意識だけの状態になっても続いていて、その後、目が覚めた後も続いていました。

 この夢は、大分前にブログ記事に書いてありますので、興味のある方はどうぞです。
 リンクは、これです。

 そうすると、今のこの私の身体にも、複数の意識存在が入っている可能性があるのかもという訳です。
 気持ち悪い話ですが、無いことも無いような、、、
 わからんことだらけですw

<2月21日>
◇ウォークイン、身体に途中から意識が入る
 上の2月12日のツイート記事で、私の夢の中の経験から、一つの身体に複数の意識が入る可能性について書きました。
 その夢からは、既に意識が入って生きている身体に、途中から別の意識が入ったり出たりする可能性があるということも読み取れることに気づきました。
 その夢についてよく考えれば直ぐに気が付くことなのですが、今までどこかで否定していたというか、避けていたようです。
 スピ関連で、大分前に確かウォークインというのを聞いたことがあったのですが、そのときは余り気に留めず、今まで忘れていました。

 しかし、自分がどうしてウォークインの夢を見るのか?
 ひょっとして、過去生でそういう経験があったのか?
 あるいは、今の私がまさにそれの可能性もあるのか?

 実は私、6歳の頃に親の留守に日本酒をたらふく飲んで死にかけたことがあるんですよねぇ。
 血圧測定不能で、瞳孔反射も無くなって、心臓も止まりかけてたそうです。
 よくわからないし、気持ち悪い感じですが、もし仮にそうでも、このままいくしかありませんw

<2月25日>
◇胎内記憶
 最近の傾向か、胎内記憶を話す子供たちが増えているようで、いろいろなことを具体的に話すので、それが面白くて、絵本作家ののぶみさんのyoutubeをよく観てます。
 実は、私もほんの少しですが胎内記憶があるんです。
 正確に言うと、小さい頃、胎内記憶に関連した夢を何度も見ていたのですが、悟ってからその夢が胎内記憶に関連したものだとわかりました。

 どういう内容かと言うと、
 生まれる前に、生まれる家の様子を、杖を持った白い髭のおじいさんと一緒に雲に乗って見に来た夢を中学生か、高校生の頃に何度か見たことがあります。
 白い大きな蛇がいつも付いてきていました。
 それと、10歳くらいまで何度も繰り返し見ていた夢で、
 母の胎内で歩こうとしているのだけど、子宮の壁がぶよぶよしていて思うように歩けなくてイライラしていたり、
 ぶよぶよの壁が邪魔で足で何度も押しやろうとするのだけど上手くいかずイライラしていたり、
 反対にそのぶよぶよの壁が妙に心地よくて足や手で触っていたりしている夢があります。
 それと小さい頃に、胎内で気持ちよくぷかーんと浮かんでいる夢も何度も見ていたように思います。

 だからどうしたっていう話ですw

<2月26日>
◇民衆の怒り
 世界各地でやっと民衆が怒り始めたというか、怒りが報道されたり、目に見えるようになってきたように思います。
 欧州のめちゃくちゃな農業政策に農民たちが怒っていたり、
 中国でもさすがに各地で民衆が怒り始めているようです。
 アメリカでも、トランプ人気は民衆の怒りによるものだと思います(トランプになれば別の問題が出てくるだけですが)。
 我が国でも、裏金問題についてはさすがに皆な怒れるようです。

 どの国の政府も政治も、劣化が酷く、幼稚でめちゃくちゃになってきています。
 民衆も劣化しているのですが、それより政府や政治の劣化度合いが遥かに凌いでいて、民衆もさすがに「おかしいぞ」と思うようになったのだと思います。
 かと言って、政府や政治の側としては方向性はもう決まっていて、今更後戻りはできないでしょうから、どうなっていくのでしょうね。
 このまま行って、最終的には統治崩壊まで行ってしまうのかもしれないと考えています。
 
 今回のターン(二千年程度、ひょっとするとそれ以上か)は、どう転んでももう詰んでいるのだと思います。

 早く、次行こうや!w 

 余談です(ここは余談ばっかりですがw)。 
 社会構造が崩れるときって、下からじゃなく上から崩れていくんですね。
 物理的な構造なら下から崩れるのが普通ですが、社会の場合は上からなんですね。
 きっとこれは、社会的な法則ですね。

<2月29日>
◇地球という場所について
 私は、おそらく地球で人という存在をするということは極めて特別なことなのだろうと考えています。
 しかし、実際にここで人という存在をやるのは非常に困難なことであり、それなりに成長した存在でも難しく、失敗を重ねてしまうことが多いのだろうと考えています。
 務所暮らしや、アル中、薬中など、ろくでないしと言われる人々も、実は以前は〇〇と呼ばれていたなんてこともあるのではないかと考えています。
 
 もう少し踏み込んで言うと、
 悟りという現象は、ひょっとするとここ地球で人という存在をやる中でしか起こらない可能性があると考えています。
 すべての存在は、ここに来ることになるのではないかと。

 
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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なぜ悪行はいけないのか

2024年02月25日 14時34分57秒 | エッセイ
◇なぜ悪行はいけないのか◇


今回は、なぜ悪行はいけないのかについて、私の考えを書いてみます。

善悪も囚われですから、本来、行いついても善い、悪いはありません。
これは間違いありません。

ではなぜ、悪行はいけないのか。

私は、人として生まれてくる存在は、性分として善的志向を持っていると考えています。
人々の行いを善悪の観点から観れば、実際に表出する行いは種々あります。
しかし、実のところは、誰しも出来れば悪いことではなく、善いことをしたいという想いを持っていると考えています。
どんなに悪いことをしている人でも、本心はそうなのだと考えています。

ところが、実際に生きていく中では、表面的な欲や価値観、そこから派生する損得勘定や感情等に流され、本心に反する行いをしてしまうことが多々あります。
生きることは難しく、仕方のないことでもありますが、本心に背くと、自分が自分を許せず、深い後悔と自責の念に苦しむことになると考えています。
そして、その苦しみは、途方も無く深く、重いものになり得ると考えています。

その本人の意識の表層では、後悔や自責について自覚が薄いことがあります。
しかし、意識の深層では、後悔や自責の念が深く刻まれており、いずれそれらが表出し、途方も無い苦しみを抱えることになると考えています。

そして、その苦しみの行程は、幾世にもわたるものになるのだろうと考えています。



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肯定と否定

2024年02月22日 09時23分33秒 | エッセイ
◇肯定と否定◇


今回は、肯定と否定について書いてみます。

ものごとに対するアプローチとして、肯定的アプローチと否定的なアプローチがあります。
両者を比べると、イメージ的にも肯定の方がいいですし、受け入れやすいです。
否定はどうしても、辛く、受け入れ難い。
そのため、否定はどうしても受けが悪いです。

また、両者の特性として、肯定は女性的あるいは母性的であり、否定は男性的あるいは父性的であると言うこともできます。
昨今は社会的にも男性性不在あるいは父性不在の時代となっていて、否定的アプローチに対する風当たりが強いです。

悟りの世界でも、良い悪い等の二元の囚われが落ちる小悟の辺りまでは肯定的アプローチが有効であり、またその階層周辺に属する人々の数も多いことから、どうしても肯定派が優勢となりやすいです。

しかしそもそものところ、悟りの行程を含めた私たち人の営みは、あれでもない、これでもないという具合に選択肢を全部潰していく否定的行程なのです。

あれもこれも、やってみないとわからない。
でも結果はいつも、「これじゃない」となる。
残念ながら、「これだ」というものが一つも残らない。

そして、あれでもなかった、これでもなかったという具合に全てにバッテンが付いて、やっと諦めが付くようになる。
人の営みとは、そういうものなのです。


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悟りと覚悟

2024年02月21日 12時21分16秒 | 悟り
◇悟りと覚悟◇


悟りよりもまず先に、生きること、人生への取り組みがあります。
悟りは、生きるという営みの中の一要素に過ぎません。

ですから、悟り云々の前に、如何に生きるか、生きる姿勢が重要です。
私はこの点について、自身の本心に向き合って生きることが大切だと繰り返し書いてきました。
しかし、それは実際にはなかなか難しいようです。

どうして難しいのか。
何が難しくしているのか。
もっと言えば、何が足りないのか。

私は、次の二つに集約されるのではないかと考えています。
一つは、後悔しないという決意(あるいは、後悔しないようにするという決意)。
もう一つは、どんな人生になろうと受けて立つ覚悟(あるいは、どんな人生でも受けて立つ覚悟)。

特に、上の二つ目の覚悟が要になっていると考えています。

多くの方々は、その覚悟が足りないのです。
覚悟が足りないから、本心にも向き合えないし、生き方も定まらないのです。
だから、生き切れないし、死に切れない。

とは言え、これもまた難しいことです。


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滅尽定と入滅とその関連(2)

2024年02月12日 09時50分47秒 | エッセイ
◇滅尽定と入滅とその関連(2)◇


前回記事の続きです。

私とは、パッ、パッ、パッと断続的かつ連鎖的に連なる識の連鎖として捉えることができます。
この識の連鎖という観点から見たとき、それは否応なく自動的に展開していきますから、そこには自由意志を含めて自我の存在も無いかのように感じられます。
しかし、だからと言って自我は無いと考えてしまうのは、私は間違いであり、大切な要素を見落としてしまうことになると考えています(かと言って、自我があると言うのもまた間違いなのですが)。

識の展開、自我の活動、どちらも幻ですが、私は、自我の活動が識の展開に大きく影響を与えているのではないかと考えています。
以前の記事で、各コマを構成するひとつひとつの識には、その識そのものを認識する自己認識機能が含まれており、それが自我の主体感覚の源泉であるということを書いたことがあります。
また、私という存在の重要な要素として自由意志がありますが、その自由意志は、私という存在をミクロに拡大して微小な識の展開として見たときは存在しないかの如く姿を消してしまうことも書いたことがあります。

私は、私という意識には二つの相があり、その各相の要素が互いに複雑に関係し、作用し合うことで、私という存在が成り立っているのではないかと考えています。
ここで、一つ目の相は通常の意識感覚の相であり、自由意志を認識できる相です。
もう一つの相は、私という存在を識の展開としてミクロに見たときの相です。
もう少し具体的に言いますと、自我の活動、特にその自由意志が識の展開に作用するということが、あるいはそのような構造が、上記の自己認識機能に加え、私という存在の極めて本質的な要素になっているのではないかと考えています。

一旦話を識の展開に戻します。

私は、パッ、パッ、パッと識が起こって来るとき、それを誘発する種のようなものがある可能性があると考えています。
その種に含まれるものとしては、一番分かりやすい例は囚われ(執着と言ってもいいです)です。
なぜなら、何か現象が起こってきたとき、その現象に関連する囚われがあれば、現象に囚われが反応して思考を誘発するからです。
その他、種には、記憶(あるいは、記憶のようなもの)も含まれます。

この種と識の展開との関係において、識の展開が継続するためには、識を誘発する種の供給、あるいは種へのエネルギーの供給を持続的に行う必要があるのではないかと、私は考えています。
この考えは、私自身が囚われを手放し、悟っていく、あるいは悟りを深めていく過程で感じた実感によるものと、悟りの行程に入る前の自分自身の様子を思い出して観察した結果によるものです。

多くの方々は、ジャングルジムのように絡み合った多数の囚われ(種)を握りしめており、起こってきた現象に対し、それに関連する囚われが連鎖的に反応し、無数の思考が誘発されます。
それが囚われの手放しが生じ始めると、起こってきた現象に反応する囚われが減ったり、囚われが薄くなり、それによって、囚われにより誘発される思考の量や強さも減少し、絡み合った囚われのジャングルジムが崩壊し始めます。
こうしたことから、私は、種によって無数の思考である識が誘発されることで、次回以降のコマの識を誘発する種を供給する、あるいは囚われを握り直すようにして種にエネルギーを供給するような作用が生じているのではないかと考えています。

さらに私は、識の連鎖が終わることなく延々と継続するのは、識を誘発する種の要素にその原因となるものが含まれているのではないかと考えています。
具体的には、上手く捉え切れないというか、表現できませんが、根本苦に対する衝動というか、性というか、囚われというか、そのような何かが種に含まれているのではないかと考えています。
そして、囚われに気づくことでそれが消失するように、解脱に伴い、種に含まれるそのようなものが消失するのではないかと考えています。
その消失により、識の展開は継続するための原動力を失い、段々と勢いを失い、最後は肉体の死に伴って停止する可能性があるのではないかと考えています。



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滅尽定と入滅とその関連(1)

2024年02月10日 11時11分30秒 | エッセイ
◇滅尽定と入滅とその関連(1)◇


首記のテーマについて、思い付くことを書いてみたいと思います。

死んだとき、できればもう終わりにしたい、これ以上はやりたくないという想いがありまして、入滅という現象の有無や可否について興味があります。
これ以上はもうどうすることもできないので、後はなるようになっていくだけなのはわかっているのですが、やっぱり興味があります。

ちなみに、ここで問題としているのは、死んだときに、そこで存在が終わって一切が消えるのか、それとも存在の展開が続いていくのかということです。
予め書いておきますと、結論は残念な程ハッキリしていて、いくら考えても死んだときにどうなるかは決してわからないのです。
どんなに悟っていても、またどんな能力を持っていても、死んだときにどうなるかは決して誰にもわからない。
知ったようにいろいろ言う人がいたり、それらしいことを書いた文献があったりもするようですが、そんなものは当てになりません。
ここでは、それを承知しながら、書いてみたいと思います。

私は、悟りに伴った意識の変化の様子と、滅尽定という現象が少し手掛かりになるかも知れないと考えています。
滅尽定とは、禅定の最深度であり、意識の展開が完全に停止した状態のことです。
涅槃と言ったりもします。

人が握り締めた囚われと悟りには相関があります。
囚われが減ると、自ずと悟りの行程に入り、囚われの減少に伴って悟りも進んでいきます。
また、囚われの量と意識の活動の様子にも相関があります。
囚われが多い程、それに関連した思考も多くなり、意識の活動も活発になります。

多くの方々は多数の囚われを握り締めており、しかもそれらの囚われがジャングルジムのように複雑に絡み合い、起こってきた現象に対して、絡み合った多数の囚われが複雑に反応を起こし、数えきれない程の思考を生じさせます。
意識の状態も活発で、忙しく常に思考を発生させているような状態です。
それが、二元の囚われが落ちる小悟階層に入る程度まで囚われが減ってくると、現象に反応する囚われが大きく減りますから、思考も急激に減っていき、意識の状態も落ち着いてきます。

すると、思考の発生が減ることにより、意識の活動に隙間が発生するようになります。
あるいは、意識の活動に発生する隙間に気づくようになる。
この隙間とは、本当に何もない完全な無であり、滅尽定の一種です。
この意識の活動の隙間である滅尽定は、0.1秒未満の非常に短いものから、おそらく軽く1分を超えるような長いものまであり、種々の長さで生じます。

私はこの滅尽定に着目しており、解脱者が死んだとき、滅尽定の状態になり、それがずーっと続く可能性があるのではないかと考えています。


あと、別の角度からもう少し書きたいと考えているのですが、どうもまとまりそうにないので、今回はここで一旦終わりとします。
できれば、囚われと種(業)の関連について書きたいと思っています。


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生きることは悟ることより難しい

2024年02月06日 09時31分53秒 | 悟り
◇生きることは悟ることより難しい◇


悟りというと、それがとても大きなものであり、人生の最終目標であるかのように考える方がおられますが、それは誤解です。

悟ることが人生の目的となることはありません。
あくまでも、生きることそのものが目的なのです。

悟りを余り過大に評価しないでください。
悟りは人生の営みに含まれる一要素に過ぎません。

悟りに崇高さを感じるのは、悟りが崇高だからではありません。
それは、生きることそのものの崇高さを感じているのです。

悟りに難しさを感じるのは、悟りが難しいからではありません。
それは、生きることそのものの難しさを感じているのです。

生きることは、悟ることより難しいのです。


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