私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

ツイート記事(20231230~)

2024年01月27日 07時54分45秒 | その他
◇ツイート記事(20231230~)◇

<12月30日>
◇エックス(ツイッター)はどうも気に入らないので、それに少し似た形で切れ端のような文章を書いてみようと思います。
 やり方は、ブログ記事の形で、記事の最後に順番に追記していく方法でやってみようと思います。
 内容は悟りから世情、個人的なことなど、何でも書いていく予定です。

◇例の注射の件
 例の注射に関する情報が、あちこちで表面に出てきているようですね。
 情報はいくらでもありますが、例えば次のものがあります(及川さんは有名な宗教組織の有力な信奉者のようなので、どうかなぁというところはありますが^^;)。
 https://twitter.com/oikawa_yukihisa/status/1737094523539595336
 リンクはこれです。

◇陰謀論
 注射のことについて触れたので、陰謀論まで話を広げましょうか。
 例のウイルスや注射についての情報を辿っていくと、どうしても陰謀論にぶち当たってしまいます。
 私も少し前までは、陰謀論なんて一部の情報弱者の戯言だと考えていました。
 しかし、事の展開を眺めていると、その裏の大きな意図の存在を考えざるを得ないと思っています。
 
 これまでのところは、その意図の影響(コントロール)がある程度効いてきたのかもしれないと思います。
 しかし、ここから先はどうなんだろうと考えています。
 おそらく、コントロール不能になるのではないかと。

<2024年1月1日>
◇あけましておめでとうございます(^O^)

◇真剣に生きる
 多くの方々は生きる真剣さが足りません。
 皆、損得やどう見られるか等の表面的なことばかり考えていて、自分がどう生きたいのか、何をやりたいのかを見てません。
 それで本当にいいのでしょうか。
 本当にそのままで死んでしまっていいのでしょうか。
 
 仕方ないことですが、失敗を繰り返してしまうのは、後悔することの辛さをまだわかってないのでしょう。
 その辛さをわかるまで繰り返すしかないのでしょう。

◇悟りという現象
 悟りという現象は、おそらく、それなりの経験をやりこなした上で、この地球で人という存在をやる中でしか起こらないものなのかもしれないと考えています。
 意識がそれなりに明確になり、しっかりとした人格を持ち、人として活動をしていく中でしか起こらないのではないかと。

<1月2日>
◇陰謀論の補足
 暮れに陰謀論について書いたのですが、余りに大雑把に書いてしまっため、いろいろ御幣がありそうで、ちょっと補足します。
 陰謀論には、例の注射に関するもののようにかなり現実的なものから、妄信や妄想の類まで雑多のものがあります。

 例えば、昨日の能登半島の地震について人工地震だろうなんて言う人もいて、この類も陰謀論の一種になっています。
 私は人工地震説は妄信の類だと考えています。
 なぜなら、現在の人類の科学技術の水準からして、人に気づかれないように大規模な地震を起こす程の技術はまだ存在しないと思うからです(私は学生時代や前職の仕事柄、人類の先端の科学技術の内容や水準についてよく知っているからわかるですが)。
 また、もし仮に地震が人工的なものだったら、地震波の波形が不自然なものになるため、専門家たちが直ぐに気づくはずです。

<1月3日>
◇いろいろ起こりますね
 年末の吉本芸人騒動から、能登地震、おまけに飛行機衝突事故まで。
 政治家の裏金問題もありましたし、その前は例のアイドル事務所問題もありました。
 一つは情報が明るみになるという展開が続いているようですね。
 地震は、日本は地震火山列島ですから、しょうがないと言えばしょうがないことです。
 それでも、やっていくしかない。
 
 飛行機事故はなんなんでしょうね。
 おそらく、ミスが原因なのでしょうね。
 個人的には、ひょっとすると民衆の幼稚化に伴う、人材レベルの低下の影響かもしれないと考えています。
 
 その他の将来的な具体的リスクとして、私は近いうちに日本に原油危機が起こる可能性があると考えています。
 中東の情勢は収まるどころか、悪化の一途であるのに、日本の原油の殆どが中東からの輸入ですから。

 がんばりましょう!

<1月4日>
◇私には仲間がいる
 最近になってより強く思うというか、感じることですが、
 私には、深い友情と信頼を伴った古い友人や仲間がいるような気がするのです。
 家族や親兄弟はもちろんそうですが、それ以外にもです。
 古いと言っても、相当な古さです。
 今世のことではありません。
  
 いつもの戯言だと思って流してくださいw

<1月5日>
◇コントロールアウト
 私たち人のやることは、いずれは対応不能となり崩壊します。
 どんなことも全てです。
 一番簡単な例は、治水です。
 堤防やダムを作って治水していますが、いずれ必ず想定外のことが起こり、崩壊します。

 経済やそのシステムについてもそうです。
 国民を治めるシステムについてもそうです。

 私は、もしかするとそれらの崩壊が近づいている可能性があると考えています。
 崩壊や混乱が始まるとしたら、世界中でほぼ同時期に起こるのだろうと考えています。
 但しその場合でも、民衆の幼稚な国から順番に起こっていき、その混乱の度合いも大きくなると考えています。

<1月11日>
◇どんな困難でも受けて立つ覚悟
 困難はできれば避けたいという気持ちはわかります。
 私も同じです。
 
 でもこれは、人生を生きていく上で必要なことだと思います。
 芯の部分で腹が座ってないと、自分の本心に向き合うことさえ難しくなりますから。

<1月20日>
◇夢の中でも悟っている
 今まで余り気にしていなかったのですが、私は夢の中でもやっぱり悟っているのです。

 それで気になるのは、死ぬときのことです。
 これ以上どうこうすることもできないし、どうこうする気もないのですが、どうしてもちょっと気になる。
 できればもうこれ以上はやりたくないなぁという気持ちと、この意識の状態で死んだとき、この意識がどうなるのかという好奇心ですね。

◇TKさん
 今日はふと、TKさんのことを思い出し、どうしているのかと思い、ネットで検索したり、私の掲示板の過去ログを読み返したりしていました。
 TKさんと私がやり取りした掲示板のスレッドは、これです。
 興味のある方は、このスレッドを開いて「TK」で検索(コントロールキー+Fキー)してみてください。
 面白い方には面白いやり取りだと思います。
 
 TKさん、どうしているのでしょうね。
 ネットで検索しても殆どヒットしないんですよねぇ。
 もしご存知の方がおられたら、教えていただければと思います。

<1月22日>
◇2025年7月5日のこと
 一部で話題になっているようですね。
 なんとNASAからも情報が流れているという話まで出ているようです。
 まだご存知ない方で気になる方は、ネットで「2025年7月5日」というキーワードで検索してみてください。

 私としてはまたかという感じでして、今回もまず大外れになるだろうと考えています。
 スピ関連の複数方面で同じような話が出ているようで、それに関してはおそらく何らかの情報ソースがあるのだろうと考えています。
 もう少し具体的に書くと、何らかの存在(四次元的存在とでもいいましょうか)が複数ルートでそのような情報を流しているのだろうと考えています。
 ここが重要なところなのですが、そのような情報はまず外れるんです。
 なお、NASAからも情報が流れているというのは、ガセネタでしょう。
 真に受けたり、振り回されないようにする必要があります。
 
 そんな得体の知れない情報よりも、現実に則して情報を収集し、その情報に基づいて自分の頭で考えた方がよっぽど信頼性が高いです。
 例えば、明日の天気について、占いや得体の知れない情報に頼るより、経験に則して明日の天気を自分で予測した方がはるかに当たるということです。

<1月25日>
◇農園コミュニティー
 今日なぜかふと、農園コミュニティーという言葉が頭に浮かんできて、そう言えば以前、このブログにそんな記事を書いなぁと思い、その記事を読み返しました(その記事はこれです)。
 私は今、生活のためと、近い将来訪れる可能性のある危機的状況に対する備えのために農業に取り組んでいるのですが、その先にはその農園コミュニティーがあるのかも知れなぁと思いました。
 農園コミュニティーの記事を書いた凡そ10年前は、まだ悟った直ぐ後で、どうやって生きて行こうか、何をして生きて行こうかと模索している最中でした。
 でも、その時に既に、将来のビジョンは定まっていたのかもしれないなぁと思いました。

<1月27日>
◇まさか予知夢w
夕べ妙な夢を見またんです。
中国が崩壊する夢なんです。
夢の内容は、私は身体の無い意識だけの存在になっていて、中国の金融システムがコントロール不能になり、街で人民の暴動や混乱が始まっており、建物の中の一室で、中国共産党幹部(習近平だったかどうかは覚えてません)が諦めた様子で、「もうどうしようもない」と言っているのを、その部屋で見ているところで目が覚めました。

私はチャネリングや予知夢のようなものがあることは知っていますが、余りにも信頼性が低いため、相手にしないようにしています。
自分が予知夢のような夢を見るのは初めてなので、メモとして書いておくことにしました。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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目を覚ませ

2024年01月13日 08時52分48秒 | 生きるヒント
◇目を覚ませ◇


自分は何をしようとして生まれてきたのか、思い出せ。

目を覚ませ。

自分にとって何が一番大切なのか。

これでよかったのか、このままでいいのか。

同じ失敗を繰り返してないか、後悔を重ねてないか。

死ぬときに、自分はよくやったと言えるのか。

自分をごまかすな。

妥協するな。


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教団と悟り

2024年01月08日 08時54分26秒 | エッセイ
◇教団と悟り◇


ツイッター記事で軽く書こうかと思って書き始めたのですが、単独記事として書くことにしました。
これは、仏教系を含めた方々に対する批判です。


教団内にいて深い悟り、特に解脱が生じ得るものなのかについて、私は非常に困難だろうと考えています。
無理と言ってもいいのではないかと考えています。
主に仏教系の教団を念頭に言っています。
大乗だけでなく、上座部も含めての話です。

それはなぜかと言いますと。
第一に、教団に対する依存があるはずであり、それが邪魔になります。
教団に守られ、依存している状態でやれるほど甘いものではない。

第二に、教団に属するような方は、釈迦に対することを含め、仏典や先人の言動を含めた教団の伝統に関する囚われが強すぎるのです。
それらをフラットに見れず、信じ込んでしまったり、頼ってしまうのです。
教団の教えが合っているという根拠など何処にも無いのにです。


と、ここで私が何を言っても無駄でしょうが。


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夢、現実、転生

2024年01月07日 10時26分41秒 | エッセイ
◇夢、現実、転生◇


首記のテーマについて、とりとめのない文章を書いてみようと思います。
おそらく、上手くまとまらず、何が言いたいのかわかりにくい内容になりそうですが、取り敢えず書いてみます。

最近、自分の夢を観察していてよく思うことがあります。
それは、夢の中の私の人格特性における表面的な部分は夢によって多少の変化がありますが(行動的だったり、人前に出ていくタイプだったり、その反対だったり等)、コアの部分はどの夢の中でも同じだし、この現実世界の私とも同じだということです。
基本的にお人好しで、真面目なんです。
でも、芯の部分はこうだという譲れない部分がしっかりあって、そこはとても骨っぽいんです。

ここで一つ思ったことありまして。
それは、私の人格特性のコアの部分は、現実と夢だけではなく、転生に関しても継続していくのではないかと思ったのです。
但し、そのコアの部分も経験や精神の成長に伴って少しずつ変化していくのではないかと。

さらに話を続けます。
それと私は、身体が無く、存在だけ(魂だけ?)になっている夢をちょくちょく見るんです。
存在だけになっているときは、空間にポツンの自分の視点というか意識があって、そこからうつろ気な意識で世界を観ているのです。
それでも、思考もある程度は働いていて、観たものについてああだこうだと考えたり、空間中で自分の位置を移動させたりできるのです。
この存在だけのときも、人格のようなものがあるようなのです。

それで、少しピンと来たのです。
夢の中で身体が無く存在だけになっているときは、人格特性についてはコアの部分だけになっているのではないか思ったのです。

但し、存在だけになっているときは、身体があるときと比べて、自分に関する意識や感覚がかなりぼんやりとしていて薄いのです。
この現実世界の自分のような明確かつ詳細な記憶等も無いのです。
夢の中で、存在だけになっている状態から、その近くに居た人(知らない中年男性)の身体に入って同化した状態になり、さらにその身体の外に出て存在だけの状態に戻ったことがあるのですが、身体に入って同化しているときはハッキリと自分に関する意識や感覚があるのですが、存在だけになるとそれらが急に希薄になるのです。
記憶等に関しても、存在だけのときはハッキリとした記憶のようなものが無いのに、身体に入った瞬間、その身体に基づく記憶がハッキリとあるようなり、身体から出ると直ぐにその記憶が無くなるのです。

何が言いたいのかと言いますと、私という存在には、身体がある状態と、身体が無い状態とがありそうなのです。
少なくとも、夢の中ではそのようです。
死後の世界はどうなんでしょうね。
おそらく、死後の世界も夢の世界の延長線みたいなものなのではないかとは思いますが、こればかりは死んでみないとわかりませんw

この関連については、また角度を変えて書いてみたいと考えています。
意識の発生、涅槃や解脱も含めて考えると謎が深まるばかりですが、私たちが全く触れられないということはなく、ある程度は触れる余地もあり、知り得る部分もあると考えています。


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精神の成長と恐怖心

2024年01月04日 14時22分02秒 | 悟り
◇精神の成長と恐怖心◇


精神の成長度と恐怖心には相関があります。
精神が成長するに連れ、種々の恐怖心も薄くなっていきます。
恐怖心が強いうちはまだまだ子供であり、精神的に独り立ちもできません。

精神が成長し、大人になり、諸々のことを経験すると、自ずと悟りの道に入っていきます。
それでも、最初の頃はまだいくつかの恐怖心を残しています。
死に対する恐れや、得体の知れないものに対する恐れや、存在が消滅することへの恐れなどです。

上に具体的に挙げた三つのうち、意外にしぶとく残るのが実は二つ目の恐れなのかも知れないと思います。
その二つ目の恐れの有無を確かめる方法があります。
それは独りきりで暗闇で行う瞑想です。

それをやっていると、突然自己の妄想が渦を巻くように拡大し、耐えられない程の恐怖心が起こることがあります。
瞑想をやってみて、自分は大丈夫だと思っていても、続けているうち、突如としてそのような恐怖心に襲われることがあります。

恐れは自身の心の中に潜んでいます。
腹を括って自己に意識を向け続けることで、乗り越えることができます。


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予定された覚醒

2024年01月04日 09時10分03秒 | 悟り
◇予定された覚醒◇


悟りに入る切っ掛けの一つに覚醒があります。
その覚醒には、ひょっとすると予め予定されたものがあるのではないかと考えています。
時限装置が起動するようにしてあるタイミング、あるいはある状況が訪れると、自発的に覚醒が起こるというような。

例えば、2012年の暮れに私自身に起こった明け渡しも、その可能性があると考えています。
あのとき、2012年が終わりに近づいた頃、ネットでチラッと見たマヤ暦の終わりのことがなぜか急に気になりだし、急にソワソワし始めたのを覚えています。
そして、明け渡しが起こる何日か前からデジャブが起こっているかのような体験や妙な心理状態となり、その日を迎えました。

また、もしそのような予定された覚醒があるとすれば、それは前世の悟りと関係しているのではないかと考えています。
おそらく、前世で悟った悟り階層までは、今世でも割とすんなりと到達するのだろうと考えています。
そして、そのタイミングもある程度予定されて生まれてきている可能性があると。

なぜこのタイミングで、私がこのような話題を記事に書くのか。
ひょっとすると、このタイミングで、この日本に、予定された覚醒が訪れようとしている方々が複数おられるのではないか、というインスピレーションが今さっき起こったのです。
私の言うことは、いつものように当てにはなりませんが(笑)。

今このタイミングで目覚めようとしている方は、ひょっとすると意外な程沢山の方がおられるのかも知れません。


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根源的な二つの謎(2)ー認識論の観点からー◇

2024年01月02日 13時38分32秒 | エッセイ
◇根源的な二つの謎(2)ー認識論の観点からー◇

前回記事の続きです。
私は、私自身を含めたこの世界の謎は根源的に次の二つに集約されると考えています。
一つは、この世界(宇宙と言ってもいいです)とは何なのか、なぜあるのかです。
もう一つは、私とは何なのか、なぜあるのかです。

一つ目の世界に関する謎は、自然現象に着目し、それは何なのかという問いを追求していけば必然的に突き当たるものです。
これに対し、二つ目の私に関する謎は、着目されにくく、捉えるのも難しく、余り問題として挙がりにくいものです。
唯物論の方々は、私という意識は物質的な自然現象として説明できるはずであり、根本的な謎ではないと捉えていると思います。
この点に関し、私は、私という意識は物質的な自然現象の上に成り立っているものではなく、物質的な自然現象として説明するのはまず不可能だと考えています。
わかりやすく言えば、これはコンピュータ技術により人レベルの意識を作れるか否かの話でして、私は作れないと考えています。
意識とは、人の技術で作り出せるようなものではないと強く思うのです。

こんな議論をしていると、唯物論やその反対側の方々から、根本的な謎が二つあるというのは、絶対違う、到底受け入れ難いという声が聞こえてきそうです。
その気持ちは私にもよくわかります。
何か気持ち悪いのです。
明確な理由がある訳ではありませんが、私も根本的な謎や命題は一つであるべきのような気がするのです。

ここからは、認識論の話になっていきます。
私たちは通常、目の前の物(例えばリンゴ)を見たとき、そのリンゴがそこに絶対的な物としてあると考えます。
しかし、よくよく考えると、リンゴが物質としてそこに存在しているという根拠は何処にもないのです。
むしろ、リンゴという物質があるというのは私たちの錯覚で、あるのはリンゴに関する私たちの認識だけなのかも知れないのです。

さらに、リンゴを見たとき、私たちは通常、そのリンゴ(対象物)とそれを見ている自分自身(認識者)とは別のものであると考えます。
この対象物と認識者が別ものであるという感覚は、至極当たり前のものではあるのですが、実はこれは私たちの錯覚によるものである可能性があるのです。
どういうことかと言いますと、何かを認識するという現象について突き詰めて考えていくと、認識の対象物と認識の主体(認識者)とを独立した別のものとして捉えなれなくなるのです。

もう少し具体的に説明するために、あなたがリンゴを見た瞬間に着目します。
リンゴを見た瞬間、そこには目に入ったリンゴに関する映像とそれに対する認識のみが存在し(なお、この映像とそれに対する認識は同時かつ一体のものです)、あなた自身に関するそれ以外の反応や認識は無いはずです。
あなた自身に関する肉体のことや、リンゴを見たことによって生じる反応に関する認識が生じるのは、リンゴを見た瞬間ではなく、それ以降のステップのことです。
つまり、リンゴを見た瞬間において、そこにはリンゴに関する認識のみがあり、対象となるリンゴとそれを見ている主体であるあなたとの区別は成り立たないのです。

まずはリンゴを見た瞬間にフォーカスして、主客の区別が成り立たないことを説明しましたが、リンゴを見た瞬間以降に生じる展開についても、同じことなのです。
我々の認識という現象は、連続して起こっているように感じますが、それは錯覚で、よく観察すると連続したものではなく、映画フィルムのコマの展開のように微小時間ステップ毎に切れていて、それがパッ、パッ、パッと連鎖的に連なって生じています。
その認識の展開のどのコマにおいても、上で説明したリンゴを見た瞬間のように主客の区別が成り立たないのです。

このように、認識論の観点から私を含むこの世界を観たとき、世界があって、その中に私があるというのは錯覚で、あるのは主客の区別の無い映画フィルムのコマのような認識の連鎖だけがあるのかも知れないのです。
つまり、あるのは私という意識の連鎖だけなのかも知れないのです。

だとすれば、根本的な謎は二つではなく、私という意識に関する一つのみになります。
もちろん断言はできませんが、私はおそらくそういうことなのだろうと考えています。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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