◇悟り階層と特徴について◇
掲示板に久しぶりに少しまとまった文章を書いたので、それを少し編集してブログに残しておこうと思います。
悟りには階層があり、順番があります。
どうしても順番にやっていくしかありません。
そして、各階層ごとに特徴があります。
その特徴とは、各階層ごとに意識の表面に現れてきやすい囚われや感覚があり、それによるものなのです。
その囚われや感覚を形または状態と言ってもいいです。
覚者たちは、その自分が属する階層に応じた囚われや感覚を言葉にして表現します。
最初の階層では、愛や幸福、光、ワンネスなどそういう言葉が出てきやすいです。
中には、神という言葉を発する人もいるでしょう。
この階層は、まだ悟りには到達しておらず、未悟です。
まだまだ囚われも多く、思考も多いです。
良い悪い等の二元の囚われも残っています。
しかし、本人は自分の囚われや思考に気づかず、自分の自我が消滅したなどと言いだします。
さらに囚われが減ると、それに伴って思考も減ってきます。
そうすると、雑念の雲が晴れるようにして、観照意識が表面に出てくるようになります。
その観照意識がしっかりと確立すると、小悟となります。
この階層は、観照意識が立ち上がることにより生じる感覚が特徴です。
この階層にいる覚者たちは、その感覚や状態を「今」とか、「ただ観ている」とか、
「気づき」とか、そのような言葉で表現しようとします。
「真我」という言葉を使う人も多いです。
この階層にいる有名な覚者としては、ラマナ、プンジャン等がいます。
他ににもいるでしょうが、私は悟り業界のことを余り知らないので、分かりません。
小悟は囚われが減ったとは言え、まだまだ多くの囚われが残っています。
彼らには、まだ自分が「これだ」と掴んでいる囚われがあるのです。
そして、その掴んでいるものが言葉になって出てきます。
「これだ」と言って主張となる訳です。
上に挙げた、「今」、「だた観ている」、「気づき」等の言葉が、まさに彼らの囚われなのです。
彼らの囚われは、それだけではありません。
彼らには「こうあるべき」等の種々の囚われがまだまだあり、彼らの言動が注意深く観ていると、その囚われに関連した言葉や概念が必ず出てきます。
「こうだ」という強い口調とともに。
彼らには、まだ自分が握りしめている囚われに関連した、何らかの具体的な概念の主張があるのです。
その主張は、彼ら自身も気づかないし、ましてや普通の人は気づきません。
どうして自らの囚われに気づけないのか。
それは、彼らが余りにも当たり前のこととしてしまっているため、それが盲点となり、気づけないのです。
囚われとは、そういうものなのです。
別の言い方をすると、彼らは「今だ」などと認識し、主張しているその主張に対する吟味が足りないのです。
本当にそうなのかという吟味が足りないのです。
自らの主張に気づき、それに対して徹底的に検証し、吟味していくと、 一切のことがらに根拠がなく、また何も知り得ないという分かってきます。
また、一切のこと、この世界そのものである私という存在が意識(識と言ってもいいです)の連鎖的な展開であることが分かってきます。
これが大悟となります。
大悟まで来ると、私という存在を含めて一切に「これだ」ということが何も無いことが分かっていますから、
何か具体的な概念を主張することも無くなります。
軽はずみ「今」などと言うことも無くなります。
「観るものは観られるもの」は、小悟階層から大悟階層に到達する途中で体験するものなのです。
囚われがさらに減り、それに伴って思考が相当減ってくると、より深い観照意識が表面化するとともに、「観ている」という視点の欠落(正確には、欠落感)や、自我感覚の欠落(正確には欠落感)が生じ、主体が落ちて観ている対象だけになる意識状態が生じます。
それを「観るものは観られるもの」と言います。
観るものは観られるもの」を体験するところまで来ると、自我感覚の喪失感が激しく、またその体験の日常感覚とのギャップの激しさもあり、殆どの人は、自分の自我は消滅したと思ってしまうのだろうと思います。
ましてや、その先の大悟に至ると、自我感覚はさらに希薄になりますから、自分の自我は完全に滅したと思ってしまうのだと思います。
それでも自我は残っています。
希薄になりながらも、残っているのです。
最後の悟りである解脱へ至るには、希薄になった私という自我をもう一度捉え直し、「苦」に直面する必要があります。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
掲示板に久しぶりに少しまとまった文章を書いたので、それを少し編集してブログに残しておこうと思います。
悟りには階層があり、順番があります。
どうしても順番にやっていくしかありません。
そして、各階層ごとに特徴があります。
その特徴とは、各階層ごとに意識の表面に現れてきやすい囚われや感覚があり、それによるものなのです。
その囚われや感覚を形または状態と言ってもいいです。
覚者たちは、その自分が属する階層に応じた囚われや感覚を言葉にして表現します。
最初の階層では、愛や幸福、光、ワンネスなどそういう言葉が出てきやすいです。
中には、神という言葉を発する人もいるでしょう。
この階層は、まだ悟りには到達しておらず、未悟です。
まだまだ囚われも多く、思考も多いです。
良い悪い等の二元の囚われも残っています。
しかし、本人は自分の囚われや思考に気づかず、自分の自我が消滅したなどと言いだします。
さらに囚われが減ると、それに伴って思考も減ってきます。
そうすると、雑念の雲が晴れるようにして、観照意識が表面に出てくるようになります。
その観照意識がしっかりと確立すると、小悟となります。
この階層は、観照意識が立ち上がることにより生じる感覚が特徴です。
この階層にいる覚者たちは、その感覚や状態を「今」とか、「ただ観ている」とか、
「気づき」とか、そのような言葉で表現しようとします。
「真我」という言葉を使う人も多いです。
この階層にいる有名な覚者としては、ラマナ、プンジャン等がいます。
他ににもいるでしょうが、私は悟り業界のことを余り知らないので、分かりません。
小悟は囚われが減ったとは言え、まだまだ多くの囚われが残っています。
彼らには、まだ自分が「これだ」と掴んでいる囚われがあるのです。
そして、その掴んでいるものが言葉になって出てきます。
「これだ」と言って主張となる訳です。
上に挙げた、「今」、「だた観ている」、「気づき」等の言葉が、まさに彼らの囚われなのです。
彼らの囚われは、それだけではありません。
彼らには「こうあるべき」等の種々の囚われがまだまだあり、彼らの言動が注意深く観ていると、その囚われに関連した言葉や概念が必ず出てきます。
「こうだ」という強い口調とともに。
彼らには、まだ自分が握りしめている囚われに関連した、何らかの具体的な概念の主張があるのです。
その主張は、彼ら自身も気づかないし、ましてや普通の人は気づきません。
どうして自らの囚われに気づけないのか。
それは、彼らが余りにも当たり前のこととしてしまっているため、それが盲点となり、気づけないのです。
囚われとは、そういうものなのです。
別の言い方をすると、彼らは「今だ」などと認識し、主張しているその主張に対する吟味が足りないのです。
本当にそうなのかという吟味が足りないのです。
自らの主張に気づき、それに対して徹底的に検証し、吟味していくと、 一切のことがらに根拠がなく、また何も知り得ないという分かってきます。
また、一切のこと、この世界そのものである私という存在が意識(識と言ってもいいです)の連鎖的な展開であることが分かってきます。
これが大悟となります。
大悟まで来ると、私という存在を含めて一切に「これだ」ということが何も無いことが分かっていますから、
何か具体的な概念を主張することも無くなります。
軽はずみ「今」などと言うことも無くなります。
「観るものは観られるもの」は、小悟階層から大悟階層に到達する途中で体験するものなのです。
囚われがさらに減り、それに伴って思考が相当減ってくると、より深い観照意識が表面化するとともに、「観ている」という視点の欠落(正確には、欠落感)や、自我感覚の欠落(正確には欠落感)が生じ、主体が落ちて観ている対象だけになる意識状態が生じます。
それを「観るものは観られるもの」と言います。
観るものは観られるもの」を体験するところまで来ると、自我感覚の喪失感が激しく、またその体験の日常感覚とのギャップの激しさもあり、殆どの人は、自分の自我は消滅したと思ってしまうのだろうと思います。
ましてや、その先の大悟に至ると、自我感覚はさらに希薄になりますから、自分の自我は完全に滅したと思ってしまうのだと思います。
それでも自我は残っています。
希薄になりながらも、残っているのです。
最後の悟りである解脱へ至るには、希薄になった私という自我をもう一度捉え直し、「苦」に直面する必要があります。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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