私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

「ただ観る」という意識の状態について

2017年03月28日 18時02分34秒 | 悟り
今朝ネットを見ていたら、久しぶりに記事を書いてみようという気になりました。(^^)


◇「ただ観る」という意識の状態について◇


「ただ観る」という意識の状態について、あまりに漠然とした理解や誤解が多いようなので、私なりの説明を書いてみようと思います。

「ただ観る」という状態とは、その言葉の通り、あらゆる現象をただ観ている意識の状態をいうのですが、これだけでは余りに曖昧な訳です。
このただ観ている状態は、思考が抑制されてくれば自ずと表面に現れてくるものであり、それ程めずらしいものではありません。
この状態のことを真我や純粋理性と結び付け究極であるかのような理解をしてしまう方々がいますが、それは誤解です。

「ただ観る」という状態は、まだ囚われや迷いの中なのです。
どういうことかと言いますと、「ただ観る」という意識の状態には、ただ観ている視点や意識の状態に対する囚われがあるのです。
もっと言えば、そこには、ただ観ているものについて何かがあるはずだという絶対的あるいは恒久的なものに対する強い囚われがあるのです。
そもそものところ、「ただ観る」という状態も、真我や純粋理性も含めて、絶対的なものや恒久的なものはないのです。

どこかから、「おまえの説明の方が曖昧だぞ!」という声が聞こえてきそうなので、もう少し具体的な点からも説明しておきます。
端的に言うと、「ただ観る」という状態は、観ている視点とその対象とがまだ分離しているのです。
つまり、まだ「視点」が落ちてない訳です。
自我の厚みが、まだ厚い訳なのです。

今度は、「じゃあ、「ただ観る」という状態の先はどういうものなんだよ!」という声が聞こえてきそうです。

その先にあるのが、一つは「観るものは観られるもの」の状態ということになる訳です。
「観るものは観られるもの」の状態では、観ている視点(主体)が落ち、その対象(客体)だけとなる訳です。

囚われが減り、それに伴って自我の厚みが薄くなれば、自ずとこういったことを経験するようになります。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


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読んで頂いてありがとうございました。

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コメント (7)
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