私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

意識に関する考察(6)ー主客の統合についてー

2023年06月11日 16時14分18秒 | 私の成り立ち
◇意識に関する考察(6)ー主客の統合についてー◇

意識に関する考察に関する記事は、前回の記事で終わりにしたつもりだったのですが、悟りの過程で起こる主客の統合について改めて考えていて、さらに整理がついたといいますか、ハッキリとしてきたところがありますので、記事にしてみたいと思います。

前回までの記事で、私という存在は意識(正確にはパッ、パッ、パッと連鎖的に生じる識の連鎖)であり、そのひとつひとつの識に、その識を認識する自己認識という要素が一体的に含まれていることを書きました。
そして、そもそも主客という概念は誤解であり、その自己認識が私という自我の主体的感覚の源泉であり、そこから客体的感覚も派生していることを書きました。

主客の概念が誤解であることがハッキリしたので、「観るものは観られるもの」等の主客の統合は悟りの本筋ではないだろうと考え、もういいやという具合に追及することなく、ほったらかしにしていました。
ところがつい先日、「梵我一如」や禅の悟りについて改めて考えていて、主客の統合が悟りの行程における誰しもが通る重要なポイントになっていること、その体験に伴う理解にバリエーションがあること、そのバリエーションの原因が明確になってきました。
今回の記事では、この辺りことを書いてみようと思います。

まず、どうして主客の統合が悟りの行程の誰しもが通る重要な通過ポイントなのかについて。

悟りの行程を歩み始める前は、誰しも主体と客体がある世界観にどっぷりと浸って生きてい訳です。
しかし、主客の概念や感覚は、上記の通り我々の誤解又は錯覚なのです。
このため、悟りの行程を歩んでいけば、いずれその誤解又は錯覚に気づいたり、思い込みが剥がれ落ちるときが来るという訳です。


主客の統合体験から得る理解のバリエーションとその原因について。

主客の統合体験をしたときは、その体験に伴って自我又は自我感覚の欠落感(正確には急激な希薄化)が生じるため、その自我感覚の変化に注意が向きやすくなり、素直にそれを表現することが多いと思います。
例えば、「観るものは観られるもの」、「主体がなく客体(対象)だけがある」、「ことがらだけがある」などと表現する人が多いと思います。
また中には、「私はいない」と表現する人もいると思います。
このときの表現には、どうしてもバリエーションが生じやすいものだろうと思います。
表現の奥にあるその人が得た理解の内容が重要であると思います。

この主客の統合体験から得られる理解には、いくつかのバリエーションがあります。
一つ目の例は、上に書いた私(慧空)の理解(悟り)です。
ポイントは、私と世界と意識(正確には自己認識作用を持った識の連鎖)とがイコールの関係「私=意識=世界」になっていることです。
そして重要なところとして、この理解には自ずと一切に絶対(実体)が無いという理解が伴っていることです。

二つ目の例は、ウパニシャッドの系列の「梵我一如」という悟りです。
梵我一如の意味は、我は私という自我のことで、梵はこの世界を生じさせているモノ(法と言ったりもするようです)のことで、その梵と私が一つの同じものだという意味です。
ここで特筆すべきは梵の捉え方で、梵を恒久不滅な実存としている点です。
また、この梵我一如という理解では、梵と我を合わせて意識(一部には、意識に含まれる自己認識作用に関する理解に到達している例もあるようです)と言ったりもするようです。

私である我を意識と理解する点は、上記の一つ目の例である私の理解と類似していますが、少なくとも梵を絶対のものとして捉えてしまっている点が大きく異なっています。
絶対のものなどどこにも無いのに、恒久不滅なものとして梵を掲げてしまっている点で誤っています。
この誤りは、絶対的なものに対する執着が原因です。

三つ目の例は、禅系の悟りです。
一概に禅系の悟りと言っても結構な幅があるようで、明確にこれだと指摘するのは難しいのですが、心身脱落(私が外野から眺めてわかった範囲のものですが)のあたりを例としたいと思います。
どういう悟りか、エイヤッとまとめると、自我の脱落(私が無い)を一番のポイントとしていて、対象だけになる、あるいはことがらだけになるという悟りのようです。

この悟りも、「対象だけになる」等の様子から主体の急激な欠落又は欠落感を伴うもので、主客の統合体験の一種であると考えられます。
しかし、少なくともそのポイントとしてる点「自我の脱落(私が無い)」で、上記の一つ目の例である私の理解と大きく異なっています。
正しくは、私という自我は実体が無いのであって、私が無いというのは誤りなのです。

私という自我に対する正しい理解は、実に微妙であり、実体が無いのはハッキリしていますが、有るか無いについてはどちらとも言えないのです。
しかし、悟りを進めていくためには、何らかのやり方で「私」に意識を向けることになりますから、無いよりも有るという観点に立って「私」に意識を向けた方がやりやすいだろうと思います。

禅では、「自我の脱落」が伝統となってしまっている中、修行が行われるため、「私」に対する着眼も追及も不十分のまま、急激な自我感覚の変化に遭遇します。
このため、自我が滅したと誤解し、嵌まり込んでしまい、その後の「私」に対する追及も進みません。
対象だけになったと言いながら、その対象に関する認識が起こっているはずなのに、それに対する着眼や追及が起こらないのです。
そうなる原因は、伝統となってしまっている自我の脱落という形への依存や執着です。
あるいは、伝統そのものに対する依存、執着が原因と言ってもいいです(この点はウパニシャッドの系列にいる人々も同じです)。


読み返してみて、書きにくい内容を一気に書いたのであちこち粗削りな内容になっていますね^^;
後日、加筆、修正するかもしれません。

意識の成り立ちと主客の統合について書いていたら、ウパニシャッドの悟り、禅の悟りに対する批判記事のようになってしまいました^^;
記事を分けようかとも思ったのですが、まとめて書いた方が微妙な部分についてわかりやすいところもあるかと考え、まとめて書きました。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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意識に関する考察(5)ー続々・自己認識と主客の問題についてー

2023年03月09日 10時12分37秒 | 私の成り立ち
◇意識に関する考察(5)ー続々・自己認識と主客の問題についてー◇

前回の記事「意識に関する考察(4)ー続・自己認識と主客の問題についてー」の続きです。

前回の記事では、我々が日常的に得ている主客の感覚や認識は、誤解であり幻想であろうと書きました。
今回は、これまで書いた一連の記事のまとめ的なものを書こうと思います。

まず、今回の考察での結論をまとめます。
何かを認識するという現象には、その何かに関する認識現象(例えば、目の前のパソコン画面を目で見たときの画像に関する認識)の他に、その認識そのものを認識する現象(これをここでは自己認識と言っています)が同時かつ一体に含まれている。
例えば、私(主体)がパソコン画面(客体)を認識しているというような、我々の日常的な主客の感覚や認識は、誤解あるいは幻想であり、本質的なものではない。
認識という現象の本質には、自己認識という現象が含まれており、それが私という自我の主体性に関する感覚や、この世界の物質的な存在感の源泉であり、核心部分になっている。

また、私を含むこの世界は、ひとコマ、ひとコマの意識(認識と言ってもいいです)が映画フィルムのように連鎖的に連なったようなものと捉えることができ、この意識の展開のひとコマひとコマにおいて、言わば主体的な要素に相当する自己認識と、その客体的な要素に相当する認識とが言わば表裏一体に統合された状態で常に生じている。

以前、「自我の二相性と主客の統合」という記事では、自我には二つの相があり、私(主体)と対象(客体)とが分離したように感じる相と、主客が統合しているように感じる相とがあると書きました。
上記の観点から、この記事の自我の捉え方は、私の理解不足のため、未熟で筋の良くないものとなっています。
すみません。
記事は、一応その時点では私の理解に沿ったものになっておりますので、削除せずに残します(後で、記事の最後に補足コメントを付けるかもしれません)。

主客の概念そのものが誤解であり、本質的なものではありませんから、主客の統合というような現象はあり得ないのです。
悟りが深まる過程で、意識の集中力の高まりに伴い、私という自我感覚の欠落感が生じることで、私が対象と一体になったかのような「観るものは観られるもの」という錯覚が生じているに過ぎません。
主体的な要素に相当する自己認識と、客体的な要素に相当する認識とは、意識の展開の中で、分離することなく常に一体に生じています。

これで、今回の一連の記事を終わりにしたいと思います。


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意識に関する考察(4)ー続・自己認識と主客の問題についてー

2023年02月25日 10時01分35秒 | 私の成り立ち
◇意識に関する考察(4)ー続・自己認識と主客の問題についてー◇

前回の記事「意識に関する考察(3)ー自己認識と主客の問題についてー」の続きです。

前回の記事では、自己認識に主客の構造を当てはめてみました。
そして、何かを認識するという現象が起こったとき、その認識である客体的な要素と、その認識そのものを認識する主体的な要素である自己認識が一体かつ同時に起こっていると書きました。

私はこのブログで、私(世界と言ってもいいですが)とは連鎖的な意識の展開であると繰り返し書いておりますが、上記の観点からこの意識の展開について考えると、その展開のひとコマひとコマにおいて、主体的な要素である自己認識と、客体的な要素でさる認識とが言わば表裏一体に統合された状態で常に生じているということになります。

私は、この自己認識という現象が私という自我あるいは主体性に関する感覚の源泉であり、核心部分だろうと考えています。
さらに言えば、この自己認識という現象が、自分自身を含めたこの世界の物質的な存在感の源泉になっているのだろうと考えています。

自己認識はその対象が自分自身の認識ではありますが、認識する現象の特性が自我の主体的な感覚を生じさせているのではないかと考えています。
主体、客体の概念は本質的なものではなく、誤解であり、幻想であると考えています。
敢えて主体という概念を取り入れるなら、自己認識が主体的な現象に相当し、その自己認識の認識対象である認識(例えば、パソコン画面を見て認識したときのパソコン画面に関する認識)が客体ということになるのだろう考えています。
つまり、客体は、物質的な要素のあるパソコン画面ではなく、パソコン画面に関する認識なのだろうと考えています。
また、主体は、自分自身の目や身体等の物質的なものではなく、自己認識なのだろうと考えています。


まだ書きたいことがまとまり切れてないので、続きを書く予定です。


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意識に関する考察(3)ー自己認識と主客の問題についてー

2023年02月23日 09時22分33秒 | 私の成り立ち
◇意識に関する考察(3)ー自己認識と主客の問題についてー◇

前回の記事「意識に関する考察(2)ー自己認識と観照意識ー」の続きです。
いろいろバタバタと忙しく、ほったらかしている間に随分時間が経ってしまいました。

自己認識と主客の関係は、当初簡単に整理して説明できることだと考えていました。
忙しくしていて考える暇もなかったのですが、やっと最近になってハッキリとしてきました。

以前、「自我の二相性と主客の統合」という記事を書いたのですが、この記事に書いた主客の捉え方を大きく修正する必要があるようです。
私自身、まだ整理し切れてないところもありますが、取り敢えず記事にしてみようと思います。

まず最初に、主客に関する普通の捉え方についての確認です。
主体とは何かを認識する私という自己のことであり、客体とはその認識対象のことです。
例えば、私が目の前のパソコン画面を見ているとき、パソコン画面が客体となります。

次に自己認識についてのおさらいです。
自己認識とは、私が何かを認識しているとき、その認識そのものを認識するという現象のことです。

では、この自己認識という現象に主客の構造を当てはめてみます。
この場合、自己認識によって認識する側が主体となり、認識される側の認識が客体となります。
例えば、私がパソコン画面を見ていて、パソコン画面に関する認識が起こっているとき、パソコン画面に関する認識が自己認識の対象である客体となり、主体はそれを認識している自己認識となります。

以前の記事で、私という存在そのものである意識(これを認識と言ってもいいですが)は、何かの意識(認識)が起こってきたときに、その認識と、その認識そのものを認識する自己認識という現象が一体となって常に起こっていると書きました。
これに上記の主客の関係を当てはめると、連鎖的に起こる意識の展開において、何かを認識する認識する客体的な要素と、それを認識する自己認識である主体的な要素とが常に表裏一体となって起こっているというになります。

だからどうなのと言いたくなるような尻切れトンボの状態ですが、今回はここまでとします。
おそらく、また続きを書きます。


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意識に関する考察(2)ー自己認識と観照意識ー

2022年09月02日 16時36分01秒 | 私の成り立ち
◇意識に関する考察(2)ー自己認識と観照意識ー◇

前回の記事「意識に関する考察(1)ー自己認識についてー」の続きです。
また少しわかったことがありましたので、書いておきたいと思います。

前回の記事では、私という意識の本質的要素に自己認識があり、これは何かを認識するという現象に一体となっていると書きました。
つまり、認識という現象には、例えば視覚を通してPC画面を認識したとき、認識の内容に関する要素(PC画面に関する認識)と、その認識自体を認識する自己認識とが一体に含まれていると書きました。

今日は土砂降りの雨が降って農作業が出来ないので、その周辺のことについて考えていました。
具体的には、自己認識を主客の観点からどう捉えればいいのかについて考えていました。
その中で、自己認識とは何だろうと改めて考えていたとき、閃きました。

自己認識とは、観照意識なんだということがわかりました。

これは私にとって余りにも当たり前なことなのですが、どういう訳か今までこの二つが繋がっていませんでした。

自己認識と主客の問題については、もう少し整理して記事に書きたいと思います。


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意識に関する考察(1)ー自己認識についてー

2022年08月31日 10時31分02秒 | 私の成り立ち
◇意識に関する考察(1)ー自己認識についてー◇

ここ何カ月か、自我(意識)の本質について時々ですが考えています。
正直なところ、私自身も自我の本質についてまだまだよくわからないところがありまして、最終的な悟りに至ってもう8年にもなるのに未だにその理解が少しずつ進むようです。
全てのことに根拠はなく、完全に解明することは不可能であることはわかってはいるのですが、自我の本質についてまだ興味があるようで、眠れない夜や明け方早くに目が覚めたときなどに考えています。
例えば、今年4月の記事「自我の本質と自己認識」に書いた自我の本質的な要素に自己認識が含まれているという理解は、割と最近になってハッキリとしてきたものです。

4月の記事では、私たち自我の本質的な仕組みとして、何か認識が起こったときに、それと同時に、その認識を認識するという自己認識が起こっているということを書きました。
これは例えば、目の前のPCの画面を認識したとき、それと同時に、その画面を認識している認識を認識するという自己認識が起こっているということです。
このときは、PC画面の認識と自己認識を分けて捉えていました。

その周辺のことを夕べも考えていたのですが、その結果、PC画面の認識と自己認識は分けて捉えるより、一つの認識として捉えるべきだということがわかってきました。
つまり、私たちに起こっている認識という現象は、PC画面等のその内容に関する要素と、認識自体を認識している自己認識要素とが一体になって含まれていると捉えるべきだということがわかってきました。

私という意識は、映画フィルムのようにパッパッパッと展開する識の連鎖として捉えることができます。
認識に含まれる自己認識という要素は、このように私という意識を微細単位まで分解して観たときも、ひとつひとつの識に含まれています。
私という自我の他の本質的な要素として、自由意志がありますが、意識を識のレベルまで分解すると、自由意志に関連する要素は影を潜めて観えなくなるので、この点で自己認識と自由意志とは異なっています。


これがわかったらと言ってどうってことはないのですw
何かもっと面白いことがわかったり、言えたらいいのですがw
また何か理解が進みましたら書いてみたいと思います。


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自由意志の不思議

2022年05月15日 13時16分44秒 | 私の成り立ち
◇自由意志の不思議◇

自由意志については、このブログでも何回か書いたことがあるのですが、もう一度改めて書いてみようと思います。

自由意志、発意と言ってもいいですが、これは自我の本質的要素の一つになっています。
しかし、本質的要素であるにも関わらず、捉えるのが非常に困難であり、また誤解も多く(むしろ誤解ばかり)、とても難しくやっかいなものです。
今回の記事では、そういう自由意志の不思議さについて書いてみたいと思います。

自由意志について、日常的な素直な感覚を言えば、自分には自由な意志が実感としてあると思います。
手や足は自分の思った通り動かせるし、頭の中で考えごとをするときも自由に考えを巡らせることができます。
これは極めて重要かつ本質的なことであり、この観点からは自由意志はあると考えるのが妥当だと思われます。

では次に、私という意識を微細要素に分解して観たときどうなるかについて説明したいと思います。
私という意識は、連鎖的に展開する識の連鎖として捉えることができます。
識とは、意識の識であり、六根(五感と意)に関連した認識の最小単位のことです。
この識が、映画のフィルム映像のように断続的にパッ、パッ、パッと止めどなく連鎖的に展開していくことで、私という意識が繰り広げられていくようになっています。
ちなみに、識と識との間の時間間隔は、体感的な数値ですが数十から千分の一秒くらいの間隔だろうと考えています(これは私の感覚に基づくものです)。

このような観点から私という意識を観たとき、識はパッ、パッ、パッとフィルム映画のように連鎖的にただ展開していくだけですので、そこには自由意志が介在する余地がなく、自由意志は幻想のように思えます。
もっと明確に言うとすると、この観点からは自由意志は存在せず、幻想であると考えるのが妥当だと思われます。

このように自由意志は、日常的な観点(マクロの観点)だとしっかりと実感できるのに、私という意識を微細に観たとき(ミクロの観点)、その関連する要素を含めて姿を消してしまうのです。

ここで大切なことは、いずれのか一方の観点が間違っているのではなく、おそらくどちらの観点も正しいと考えるべきだということです。
ここが自由意志の不思議なところであり、難しく、誤解も生じやすいところだと思います。


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自我の本質と自己認識

2022年04月15日 08時45分13秒 | 私の成り立ち
◇自我の本質と自己認識◇

私という自我は本当に不思議なものなのですが、その仕組みや、それが何故起こったのかについては誰も知り得ません。
これは間違いありません。
さらに、一切のことがらに実体がありませんから、私という自我にも実体はありません。
私という幻のような現象が起こっているに過ぎません。

そんな捉えどころのない自我について、本来切れないものを私なりに無理やり切ってみたいと思いますw

自我の本質について一言に集約するなら、私は自己認識だと考えています。
自己認識とは、認識が認識を認識する、あるいは、あたかも私があるように感じる(自我感覚)ことです。
認識が認識を認識するとは、目が目を見る、あるいはカメラがカメラを撮影するようなものであり、理屈で説明しようとしても無理です。
しかし、自我という現象には本質的にそのような要素が含まれているようです(あるいは、含まれているように感じます)。

次に、自己認識とその機能要素について考えてみたいと思います。
自己認識が起こるために必要な機能要素は何かと、私なりに考えた訳です。

その機能要素は三つあると考えています。
一つ目は、持続性を有する観点。
二つ目は、その観点に基づく何らかの認識。
三つ目は、その観点と関連付けられた記憶。

しかし、このように要素に分解すると、大切な何かが抜け落ちしてしまうようです。
何かが足りないのですが、その何かを見つけようしてもおそらく無理なのでしょう。
残念ながら、私の刃では切れ味が足りなかったようですですw


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自我の二相性と主客の統合

2022年04月14日 21時37分04秒 | 私の成り立ち
◇自我の二相性と主客の統合◇

今回は、私という自我の二相性について書いてみたいと思います。

私という自我には、二つの相があります。

一つ目の相は、日常的に私たちが感じている自我の相です。
この相は、私という主体と、その主体の対象となる客体とが分離している相です。
つまり、音や光、感触と言った知覚の対象とは別に、それらを知覚する主体がある、正確にはあるように感じる相です。

二つ目の相は、私という主体と、その対象となる客体とが統合している、正確には統合しているように感じる相です。
この相は、悟りの行程を無常、無我を理解できる付近まで進むと経験するようになりますし、悟らずとも意識の集中が極まってくると経験することがあるのだろうと思います。
この相を経験すると、認識が無いとか、自我が無い等の誤解が生じやすいのですが、起こってきたことを認識しているのですから、認識も自我も消えずに残っています。
この相では、主体は起こってくること(客体)と一体化し、それそのものとなって起こってきます。
認識が無い等の誤解が生じやすいのは、この影響もあるかも知れません。

私がこのブログに書いている「私とは識の連鎖である」は、二つ目の相における観点によるものです。


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なぜ小悟は幸福なのか

2015年03月10日 11時16分39秒 | 私の成り立ち
◇なぜ小悟は幸福なのか◇

なぜ、小悟(天界の悟り階層)が幸福で喜びに満ちているのか、について書きます。
悟りを知らない普通の人は、腹(丹田)が優位となっています。
腹は、欲望や堅い感情、それに伴う思考や衝動と関係しているため、日常の感覚もそうなりやすいのです。

それが、明け渡しによりハートが開くことで、丹田よりもハートの反応が優位になるのです。
ハートは、柔らかな感情や、それに伴う思考や衝動と関係しているため、ハートが優位になることで、ポジティブになり陽気になったり、喜びや幸福感が前面に出てくるのです。

彼らが好む、「ひとつのもの」、「全体」、「愛」、「感謝」、「真我」等は、ハートに共鳴しやすい言葉(概念)なのです。

これが、小悟から大悟へ移行すると、多くの場合、一変します。
それは、大悟に伴うハートの消滅が大きく影響しています。
愛や幸福感はトーンを落とし、淡々とした、しかしシャープに引き締まった平穏さが前面に出て来ます。
これは、ハートに代わり頭部にある観照意識が優位となることと関係しています。

そして、さらに歩んでいくと、私という存在の本性である根本の苦を目の当たりにすることとなります。


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苦の根本について

2015年03月06日 09時25分11秒 | 私の成り立ち
◇苦の根本について◇

あまり苦のことについて書くと、私自身もそうですし、みなさんもうんざりされるだろうと思って控え気味にしていたのですが、少し書いておきますね。

私という存在は、連鎖的に発生する意識そのものであり、縁起そのものです。
その意識は、絶えず生滅変化を繰り返しています。
私という自我意識は、そのような生滅変化を繰り返す意識の一部としてその中に含まれています。
自我意識からすると、その生滅変化の様子はままならないものであり、絶えず起こるその生滅変化に付き合わされ、引きずり回されている訳です。

そこに私たち存在の苦の根本があります。

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意識と時間の周辺について

2015年03月06日 07時58分50秒 | 私の成り立ち
◇意識と時間の周辺について◇

意識と時間の周辺について、掲示板の方に少し文章を書いたので、それをブログにも残しておこうと思います。

基本は、時間も考え、つまり意識そのものであり、幻なのです。

自覚を進めていくと、いずれ、私とは意識そのものだと分かるときがきますが、さらに、意識とは何かについてさらに追求していくと、それがパッ、パッ、パッと断続的かつ連鎖的に起こっていることに気づくようになります。
その意識の連鎖が、縁起なのです。
つまり、意識とは縁起なのです。

縁起ですから、前後に何らかの因果性を有する連鎖的な起こりがある訳なのです。
つまり、そこには前と後という何らかの順番的な繋がりがある訳なのです。
その順番的な繋がりが、時間的な要素や感覚の根本的な出所になっています。

上で(注:掲示板の中の先に書いた文章のことを言っています)、未来予知は基本的に当たらないのは、未来を予知しようとするその意図の前提にその予知対象に対する不確実的要素が前提として入り込んでいるからだと書きました。
その説明はそれはそれでいいのですが、縁起の観点からもちょっと面白いことが言えるので、それを書いてみようと思います。

縁起というと、縁起は原因と結果の関係ですから、一義的あるいは一意的に決まったこれしか無いという
ひとつに決まったことの展開、連鎖を想像される方がおられるでしょうが、どうではそうではなのです。
どういうことかと言うと、縁起はパッパッパッと起こっていく連鎖なのですが、その各ステップ間に不可避的にある程度の不確実性が入り込んでいるようなのです。
どうやら、ことの展開の不確実性の由来は、その縁起の各ステップ間の不確実性にあるようなのです。

以上です。


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大悟をめぐるハートと明け渡しの関係など

2015年02月19日 11時18分06秒 | 私の成り立ち
◇大悟をめぐるハートと明け渡しの関係など◇

ある方からメールで質問を頂きまして、それに対するお答えをしたのですが、その内容を少し編集して、記事にしてみようと思います。
ご質問の大凡のポイントは、大悟を得るとき、ハートの中心にある「私」という感覚のコアに意識を集中すると、どうしてそのコアが消失するのかという点と、その周辺のことについてでした。

以下、私の回答です。

ご質問の件ですが、正直なところ、私もよく分からないところが多いのです。
ハッキリと分かっていることは、
大悟以前はハートの中心に私という感覚のコア(1センチくらい)があること、
そこに意識を徹底的に集中すると、あるとき、そのコアがこつ然と消失し、それに伴って、主客の統合、つまり「観るものは観られるもの」の悟り である大悟が起きるということ、
だけなのです。

ご質問のポイントである、コアがどうして溶けるのかについては、正直なところ、よく分からないのです。
ごめんなさい。

ただ、最近、明け渡しとの関係でちょっと分かったことがありました。
実は、よく言われる普通の明け渡しは、主に外側に向けての明け渡しなのです。
と言うことは、明け渡しにはもう一つあるのです。
それは、私自身を受け入れる内面に向けての明け渡しなのです。
どうやら、この私を受け入れる明け渡しと、大悟とが密接に関係しているようなのです。

なぜそう思ったのかと言うと、普通に言われる明け渡しを経験した人の多くは、私の場合も含めて、外側で起こる現象についてはほぼそれらを受け入れているため、平穏に観ているのですが、自分の内面から起こる感情や思考については、まだ受け入れが不完全で、自己否定したり、観て観ぬふりをしたり、どこかモヤモヤとしている人が多いのです。
ところが、大悟を経た人は、外側の事柄だけでなく、自分に対しても完全にオッケーを出している人が多いことに気づいたのです(私自身を含めて)。

それで、ああそうか、そういうことかと理解した訳なのです。
どうやら、ハートの中心にあるコアに意識を集中すると、それを意図せずとも、自分自身に対する受け入れが自ずと起こるようになっているようです。

それと、もう一つ分かったことは、明け渡しは、外に向けた明け渡しも、内に向けた明け渡しも、どちらも、ハートがポイントになっているということです。
外に向けた明け渡しに伴って、ハートが開き、それに伴ってクンダリニが起こって、クラウンチャクラも開くのですが、このとき、ハートが要になっているんです。
そして、内に向けた明け渡しに伴って、私という感覚のコアとともに、ハートがほぼ完全に消失するんです。

私としては、どうやら、自我が握り締めた考えの集合との関係で、ハートが二重構造になっているのだと思っています。
外側が扉状の構造で、その中にコアがあり、扉を開いて中のコアを消失させると、ハートがほぼ完全に消えてしまうという構造になっているように思います。

それと、「私」をしっかりと捉えた状態で大悟に突入することがとても重要であることは間違い無いようです。
なぜなら、大悟に至ると、本当に自我が薄くなってしまうので(ハートの感覚が無くなるのが大きいと思います)、「私」を捉えられていない人が大悟に至ると、「私」を完全に見失ってしまうのです。
現に、そうなっている人をネット上で見つけまして、その人の言っていることを読むと、「私」はもう完全に消失しているんだと思い込んでしまっていて、そこからもうどうにもならない様子なのです。
そうなると、袋小路から抜け出せなくなるのです。

以上です。


なお、誤解のないように書きますと、ハートも、その中心にあるコアも、有ると言えば有るのですが、そこは「私」と同じで、有ると言えば有るし、無いと言えば無いという、実体が無いものなのです。
あらゆることがらに、絶対や実体は無い、ここは大前提なのです。


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読んで頂いてありがとうございました。

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三つの苦

2015年01月31日 21時07分36秒 | 私の成り立ち
◇三つの苦◇

私という存在に起こってくる苦には、大きく分けて三つの苦があります。
但し、その三つが別々の苦という訳ではなく、順番に説明する一つ目と二つ目の苦は、三つ目の苦と同根であり、最後に説明する三つ目の苦を起源として引き起こされるということもできますし、三つ目の苦が態様を変えて表面に出てきたものということもできます。
なお、今回の記事では、苦という言葉ばかりが目につくでしょうが、そこはご辛抱ください(笑)。

一つ目の苦は、普通にただ起こってくる苦であり、受け取るだけの苦です。
私たちに普段何気なく起こっている思考や身体の反応や行動は、この一つ目の苦が起点になっていることが多いです。

具体的には、病苦に代表される痛い、苦しい等の比較的分かりやすいものはもちろん、腹が減ったいう感覚や、おしっこがしたいという感覚など、何かの欲求や衝動を引き起こすものはすべて苦です。
また、何かの音や目に見える景色を認識することも苦です(その音や景色に対する反応が起こりますし、その音や景色のことが気になったときはなどは、まさしく苦となります)。

この苦は、ただ起こってくるだけのものではありますが、雨のようにひっきりなしに起こってくるため、仮にどれかを避けたとしても、必ず別の苦を受けることになり、私という存在がある限り、何らかの苦は必ず受けることになります。
またこの苦は、基本的には、それが起こってきて、それに対する反応や対処があり、流れ去っていくという、ただそれだけのものですが、この苦に関連した握りしめた考え(執着、囚われ)があると、この苦をきっかけとして、次に説明する二つ目の苦が引き起こされることとなります。

二つ目の苦は、握りしめた考え(執着、囚われ)により誘発される苦であり、上記の一つ目の苦をきっかけとして引き起こされます。
この苦は、上記のように、一つ目の苦が起きたとき、その苦に関連した囚われがあると、それをきっかけにして引き起こされます。
例えば、こんな具合です。
ある女性が顔を何かにぶつけて怪我をしたとします。
顔を何かにぶつけたことの認識や、怪我をしたことの認識、それによる痛みの認識等は、一つ目の苦なのです。
そして、起こってきたそれらの一つ目の苦に対する反応や対処の展開は、それはそれで連鎖的に起こっていきます。
その一方、多くの女性は、顔は大事だという囚われも持っていますので、顔を怪我したという認識(一つ目の苦)をきっかけに、顔に対する囚われによる二つ目の苦が引き起こされる訳です。

この苦の元になる囚われの内容や、それにより引き起こされる苦の具体的な態様は本当に様々ですが、典型的には、その囚われの対象に対する満たされない欠乏感や、その対象を失うことに対する恐れや、その対象を失ったときの喪失感などです。
囚われの対象としては、本当にあらゆるものがその対象となり得ます。
典型的には、善し悪し、幸不幸、優劣等の二元的な囚われが多いですが、真理、真我、根源、空、神、悟り、そして「私」なども、その対象となります。

この二つ目の苦は、その握りしめた考えを手放すことにより解消することができます。
しかし現実には、私たちの人生においてこの苦は大変大きなウエイトを占めており、私たちの人生は、常にこの苦で満たされていると言っても過言ではありません。
私たちの人生の活動の多くの部分は、この苦に対する反応であり、この苦を巡る活動なのです。

三つ目の苦は、私という存在の根本にある苦のことです。
これについては、昨日の記事をお読み頂きたいと思います。
この苦と上記の一つ目の苦を特に分ける必要も無いのですが、一つ目の苦と三つ目の苦をひとつに包括した全体の苦のうちの、認識しやすいその表層部分が一つ目の苦に相当しており、認識しにくいその深層部分が三つ目の苦に相当しているという具合です。


こうやって苦について徹底的に書くと、自分でもイヤになります。(^_^;)
しかし、これが私という存在の営みであり、姿なのです。
まさに、私という存在は苦そのものというか、苦の連鎖そのものなのです。


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読んで頂いてありがとうございました。

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生死、夢、涅槃

2015年01月28日 12時00分47秒 | 私の成り立ち
◇生死、夢、涅槃◇

悟りには関係のないどうでもいいことですので、暇つぶし程度にお読み頂きたいと思います。

私たちの意識の状態には、意識が有る状態と、意識が全く無い状態の二つの状態があります。
私たちの意識はその大半が、意識が有る状態にあります。
意識が全く無い状態とは、一切の感覚も意識も無くなった完全な無我のことであり、涅槃です。

普段、私たちの意識は、その完全な無我である涅槃からパッパッパッと断続的かつ連鎖的に起こってきています。
しかし、皆さんなかなかそれに気づかれないのですが、時折、その涅槃が一定時間継続することがあるのです。
それは、深い瞑想でそうなる場合もありますし、ふとしたきっかけでそうなってしまうこともありますし、睡眠中にそうなっていることもあります(睡眠中は比較的よく起こっているようです)。
その涅槃が続く時間の長さは、1秒未満の非常に短い時間のときもありますし、1秒から数秒程度のときもありますし、数十秒から数分のときもあり、様々です。

そのように、涅槃からパッパッパッと生じている私たちの意識は、涅槃に落ちているとき以外は、当然ながら常に有るのです。
どういうことかと言いますと、私たちの意識は世界そのものですから、涅槃に落ちているとき以外は、常に何らかの世界があるのです。
そして、それに付随した私という自我の感覚も意識も常に有るのです。

目が覚めているときはこの現実世界の意識が起こり、眠りに入ったときは夢の世界の意識が起こります。
またそれと同様に、この現実世界に生まれてきたときは現実世界の意識が起こり、死を経た後は死後の世界の意識が起こるのです。
現実世界から死後の世界への切り替わりは、眠りに落ちたとき意識が現実世界から夢の世界に移行するのとまったく同じようにして起こります。
そうやって、私たちの意識の展開は、解脱により私という存在が消滅するまで、つまり私たちの認識している世界が完全に消滅するまで、生死を超えて延々と続いていきます。
私という自我と共に。


私がこんなことを言っても、コイツはまた馬鹿なことを言っていると思われる方が大半なのだと思います。
ぜひ、あなたが死ぬときに確かめて頂きたいと思います。
それで、もし本当にそうだったら、何とかして私(慧空)に、「あんたの言ったこと、本当だったよ」と知らせて頂きたいと思います(笑)。


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読んで頂いてありがとうございました。

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