私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

本心、カルマ、囚われ、運命と自由意志など(2)

2024年12月29日 14時56分17秒 | エッセイ

◇本心、カルマ、囚われ、運命と自由意志など(2)◇

 

((1)の続きです。)

 

前回の記事は、運命と自由意志の周辺について書こうとしているところで力尽きてしまいました。

今回は、その続きをどこまで書けるか、チャレンジしてみようと思います。

 

改めて最初に書いておきますと、運命と言うものがどういうものか、あるのか否か、また自由意志というものがどういうものか、あるのか否か等のものごとの本質的、核心的なことについては、不可知であり、誰であっても、絶対に、わかりません。

ここでは、それを承知で、核心には迫れないまでもその上っ面ぐらいはかすめられないかと考え、考察を行っています。

 

運命、自由意志があるのかないのかについては、私としては、それらがあると考えた方が辻褄が合うというか、納得できる部分が多いと考えています。

ですから、ここではそれらがあると考えた上で、話を進めていきます。

 

運命について、おそらくこれは間違いないだろうと考えている部分があるのですが、それは何かと言うと、階層性です。

階層構造と言うと、本心やカルマ、囚われ等についても、類似していて、大きな階層性の中に、さらに小さな階層性があり、しかもその各階層が複雑に関連していて、全体として非常に複雑な階層構造になっているのだろうと考えています。

そして、その本心やカルマ、囚われ、運命等の複雑な階層構造は、存在(具体的には人です)の意識の成長段階と関連しているのだろうと考えています。

例えば、運命について考えると、そのような複雑な階層構造に含まれるすべての運命要素が同じように作用するのではなく、運命の階層構造における、その存在の意識の成長段階に対応した階層の運命要素がその存在の運命としてより強く作用するのだろうと考えています。

つまり、存在の意識の成長段階の違いによって、その存在に主導的に作用する運命や本心、カルマ、囚われ等の階層が変化するということです。

幼い存在には、階層構造の全体の中の幼い意識に対応する運命等が主導的に作用し、より成長した存在には、階層構造の全体の中のより成長した意識に対応する運命等が主導的に作用するということです。

 

かなり抽象的な話なので、図にして説明した方がいいのでしょうが、そこまで手が回りません、すみません。

今回はなんとか文章のみで、説明してみようと考えています。

 

次に、運命と自由意志の関係について考察したいと思います。

私は、私たちの行動や人生は、運命と自由意志が互いに影響し合う狭間において織りなされているのだろうと考えています。

運命は、前述のように複雑な階層構造になっているのですが、各階層ごとに、この世界に生まれる前に自分で決めた(設定した)部分と、過去の経験等に応じて半ば自動的に決まる部分とがある可能性があるのだろうと考えています。

さらに、運命には、各階層ごとに、変えられない部分と、その他に、自由意志によるある程度の選択の自由度や、自由意志により変えられる部分があるのだろうと考えています。

運命に含まれる生まれる前に自分で決めた部分は、後述する本心と関連しているのだろうと考えています。

 

自由意志には、存在あるいは生物としての本能と関係している基礎的あるいは機能的な要素(これを基礎的要素と言うこととします)と、精神的な欲求に関連する(これを精神的欲求要素と言うこととします)と、さらには本心に関連する要素(これを本心的要素と言うこととします)が含まれると考えています。

基礎的要素は、典型的には生物としての生存本能と関連する要素で、基本的な食欲、排泄欲等です。

精神的欲求要素は、損得や喜怒哀楽などに関する基本的な欲求です。

本心は、広い意味では精神的な要素ですが、表面的な欲に関するものを精神的欲求要素として、それに含まれないより深淵な部分を本心とすることにしました。

 

で何が言いたいのかですが。

今回の記事を書いていて、私自身もよりハッキリしてきた部分があるのですが、存在の意識(自我と言ってもいいです)の成長に関してもっとも重要な要素が、おそらく、本心、あるいは本心に対する取り組みなのです。

本心も複雑な階層構造を有しているのですが、本心がしっかりと形成されてゆくのに伴って意識が成長していき、さらに、その形成された本心のより深淵な部分と向き合い、取り組むようになるに従って、意識が成長していくのだろうと考えています。

そして、運命の複雑な階層構造におけて、どの階層の運命要素が主導的に働くのかが、本心がどの階層まで形成されたか、さらには、本心の階層構造においてどの階層の本心要素に向き合い、取り組めているかによって決まるのではないかと考えています。

 

存在あるいは人として意識が幼いうちは、本心も未熟です。

それでも自由意志はありますが、その自由意志のうち、基礎的要素や精神的欲求要素が大きな割合を占めていて、深淵さが薄く、動物的です。

ですから、表面的な損得勘定や欲に基づいて考え行動しますから、行動や人生の軌跡も、有り勝ちなパターンとなりやすいです。

このような人は、運命の階層構造についても浅い階層の運命要素が主導的に働いており、その階層の運命要素と、その人の人生を比較すると、その運命要素通りに生きているように見えるのではないかと考えています。

 

本心がしっかりと形成され、意識がそれなりに成長してくると、自由意志の要素として、本心がそれなりの影響力を有するようになります。

このような人は、生物的な基礎的要素や、表面的な損得勘定だけでなく、本心によって考え、行動するようになりますから、行動や人生の軌跡も、より複雑なパターンとなりやすいです。

運命の階層構造における主導的に働く運命要素ついても、より深い階層の運命要素が主導的に働くようになり、その人の人生を観るときは、より深い階層の運命要素と本心の両方の影響を考慮する必要があります。

 

そして、しっかりと形成された本心に取り組むようになると、自由意志の要素として、本心がさらに影響力を有するようになります。

おそらく、この段階になって、運命に含まれる自分で決めた部分に取り組めるようになるのではないかと考えています。

この段階になると、本心に基づいて考え行動した結果と、生まれる前に自分で決めておいた運命が重なり合うような現象が起こるのではないかと考えています。

 

さらに、さらに本心に対する取り組みが進むようになると、社会通念や良い悪い等の二元的な囚われの手放し、解消が進むようになり、自由意志による選択の幅がさらに拡大するとともに、本心への取り組みがさらに深まっていくのだろうと考えています。

 

と、ここまでなんとか書いてきましたが、やっぱりこの考察は難しく、現時点ではこの程度が精一杯のようです。

また何か進展があれば、関連記事を書きたいと思います。

 

◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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ツイート記事(20241207~)

2024年12月27日 09時22分02秒 | その他

◇ツイート記事(20241207~)◇

 

<12月7日>

◇世界の不安定化が進む

世界中で種々の要因で不安定化が進んでいますね。
それに伴って、これまで隠されてきた情報が明るみに出て来ているますね。
この流れは、来年に向けてどんどん拡大していくのだろうと考えています。
 
私はこの展開の中で、おそらく数か月以内の時期に、まずは、コ〇〇や、そらに対するワ〇〇ンに関する情報がオープンになるのではないかと見ています。
既に、次期トラン政権への移行に関連した動きの中で、それらに関する調査報告や、議会証言が出始めていますが、まだまだ序の口だろうと思っています。
いずれ、驚愕の真実が明るみに出るだろうと思っています。
 
それを知ったとき、世界中の民衆がどう反応するか。
それによって、大変なことになる可能性があると考えています。
 
我々を取り巻く種々のニュースの中で、今一番重要な情報は何かと言うと、私はワ〇〇ンに関する情報だと考えています。
早くワ〇〇ンに関する真実を公開し、効果に比べてリスクばかりが高いワ〇〇ンの実施を、早く止めるべきだと考えています。
 
ですから、世界中の政治家や言論人について、彼らが何を考えていて、どういう立場の人物かを評価するとき、彼らがワ〇〇ンについてどういう立場を取っているか、が最もわかりやすく、確かなリトマス試験紙になると考えています。
要するに、ワ〇〇ンについて反対なら、取り敢えずはオッケーで、
ワ〇〇ンについて賛成や中立は問題外で、何も立場を表明しないのもアウトなのです。
 
<12月27日>
◇マスコミの崩壊
先の兵庫県知事騒動に続いて、今回の中居騒動ですが、いよいよマスコミの崩壊が始まったように思います。
今回の中居騒動は、もちろん中居本人の問題が一番大きいのですが、テレビ局の人間も相当かかわっており、この問題はテレビ局や業界全体にまで波及するだろうと考えています。
 
おそらくこの動きはどんどん加速していき、来年中にさらに大きな変化や崩壊に繋がっていくだろうと見ています。
目先の本丸は、コ〇ナのワ〇〇ンの闇情報がいつ暴かれるかだと考えています。
これもおそらく、来年中に起こるのではないかと考えています。
 
ちなにみ、国内的な最大の闇情報は、財務省の会計に関するものだと考えています。
もしかしたら、これも来年中に明るみになる可能性があると考えています。
その頃には、現行の世界経済システムも崩壊するのだろうと考えています。
 
 
 
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本心、カルマ、囚われ、運命と自由意志など(1)

2024年12月21日 21時05分24秒 | エッセイ

◇本心、カルマ、囚われ、運命と自由意志など(1)◇

 

この世界の謎だらけでなのですが、本当に知りたいポイントである核心的なことがらについては、私たちは何ひとつ知り得ないのです。

これは厳然たるものであり、どうしようもないことなのです。

ですが、解脱したなどと言っている私自身もどうしても気になり、未だについ考えを巡らせてしまいます。

 

今回は、そんな私がここ2、3ヵ月時折考えていることについて書いてみたいと思います。

 

まずは、本心、カルマ、囚われについて。

最近わかってきたのですが、本心とカルマと囚われは互いに関連しているようなのです。

これらの三つのものは、互いに重なった共通する部分を有しながら、互いに少しずつずれた要素を含んでいるようなのです。

カルマという概念は種々に広がりを有していて、具体的に特定するのは不可能なのですが、本心とカルマは実質的に多くの部分において共通しているのではないかと考えています。

つまり、本心に取り組むという意味合いと、カルマに取り組むという意味合いはかなりの部分で共通している可能性があると考えています。

 

これがわかったからと言って、特にいいことがあるわけではなく、凄いことでもないのですがw

もしもうあと何歩か考察を進められたら、もう少し何か具体的なことがわかる可能性もあるのではないかとは考えているのですが、現在のところは、まだまだ考察の始まりのところという感じです。

 

それと、本心、カルマ、囚われと、意識(自我)の成長や悟りとの関係についても考えておりまして、その辺りのことも少し書きますと。

意識の成長段階は大きくわけて二つの段階に分けられるのだろうと考えています。

前半の段階は、意識(自我)を作っていく行程です。

この段階では、カルマや囚われを、追加、解消しながら増やしていく行程です。

これによって、しっかりとした意識(自我)が形成されます。

なお、昔の記事にも書いたことがありますが、自我の一部は、ジャングルジムのように互いに関連付けられた多数の囚われによって構成されています。

 

後半の段階は、前半の段階で作られた意識(自我)により、自らを解体していく行程です。

その取り組みにより、カルマや囚われの解消や手放しが起こるにつれ、意識(自我)がより洗練され、先鋭化されつつ、意識(自我)のさらなる成長に繋がっていくのだろうと考えています。

そして、その行程がある程度進んだ段階で、悟りの行程へと移行していくのだろうと考えています。

 

そして、これらの行程において、自覚とはどのような作用、効果があり得るのかについても考えています。

自覚の有効な作用、効果が得られるのは、後半の段階においてであろうと考えています。

特に、囚われの手放しを中心とした、意識(自我)の解体に対して有効に作用するのだろうと考えています。

 

本心、カルマ、囚われについては、現段階である程度具体的に語れるのはこの程度です。

 

次に、運命と自由意志の周辺について。

 

運命と自由意志の問題は、要するに人生は決定論か否かということです。

いくら考えても結論も出ないし、理解も殆ど進まないのに、どうしても考えてしまいます。

他の多くの人たちの人生を見ていると、運命というものがあるのなら、その運命通りに生きて死んで行っているように見える例が時々あるのです。

もっと言えば、この世界の殆どの人は、運命通りに生きて死んで行っているのかも知れないと思うのです。

では、自分(慧空)はどうなんだ、ということになるのです。

自分は彼らと違うのではないか、それなりに自由意志による人生の選択を行っていると考えたりしているのですが、突き詰めて考えると、自分と彼らの違いは無いこともないが、それが人生の選択の有無に関係するような本質的なものかどうかは、怪しい限りだし、根拠も無いと考えたりもしています。

 

話がぐちゃぐちゃしてこんがらがってしまいそうです(すみません)。

書きながら考えているところもありまして(-_-;)

 

一気に本質的なところを見よう、わかろうとすると、直ぐに不可知の壁にぶち当たってしまいます。

焦ってはいけません。

核心的なことはわからずとも、もう少しはわかることがあるはずです。

欲張らず、論理展開と推論を慎重にちびりちびりと進める必要があります。

 

着眼のポイントとしては、普通の人々と、それなりに悟った人の間には、それなりに違いがあり、その違いが人生の営みにも反映されているのだろうと思うのです。

まずは、この辺りのことを整理して、運命との関連について何かわかることはないかを探りたいと思います。

 

((2)に続きます)

 

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youtubeライブのご案内とご報告20241215

2024年12月16日 10時49分23秒 | その他

◇youtubeライブのご案内20241215◇

 

月1回程度の頻度で、youtubeライブをやってみようと思います。

どうぞ気軽にご視聴ください(^O^)

 

 〇配信日時   2024年12月15日20時開始、21時頃終了予定

 〇配信方法   音声だけのライブ配信です

         無料です(どなたでもご視聴いただけます)

         チャットとコメント欄をオープンにします

 〇話す内容   悟りから世間話まで何でも話していきます

         基本的にチャットの書き込みとやり取りしながら、話していこうと思っています

         ご質問や、ご希望の話題、ご意見など、なんでもチャットに書き込んでください

         それらを、このブログ記事のコメント欄に書き込んでいただいても結構です

 〇配信サイト  下記のリンクからyoutubeサイトにアクセスください

         慧空チャンネルライブサイト

 

<15日ライブの内容予定>

前回のライブで、本心についてお話ししましたので、その流れで、次回も本心について、私自身の体験からお話ししようかと考えています。

その他、ご希望等がありましたら、コメント等(メールも可)でご連絡ください。

 

<15日ライブのご報告>

今回のライブでは、予定通り、本心について、私の体験に基づいてお話ししました。

約8名の方にご視聴いただきました。

ありがとうございました。

 

次回の内容は、特にご希望がないようでしたら、自覚の基本についてお話しする予定です。

次回は、特にご希望がないようでしたら、来年1月の19日(日)の夜にしようかと考えています。

 

 

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無我、非有非無、無根について再考する

2024年12月08日 11時44分57秒 | 悟り

◇無我、非有非無、無根について再考する◇

 

少し前の記事で、無我、非有非無、無根は同義であるというようなことを書きました。

しかし、よくよく考えてみて、これらを同義と言うには無理があるということがわかってきました。

今回の記事では、その辺りのことを書いてみようと思います。

念のため再度、これらの意味を書いておくと、下記のようになります。

無我は、一切に実体が無い。

非有非無は、一切について有るとも無いとも言えない。

無根は、一切について根拠が無い。

 

余談ですが、今回改めて無我について考えていて、無我が一切に実体が無いという意味なのなら、無我じゃなく、「無実」と言った方がいいなぁと考えていたところ、

「無実」 ⇒ 「実が無い」

と連想して、これって「空」と同じ意味だな、と改めて納得した次第です。

「無我」、「無実」、「空」は、意味として同じなのだと納得した次第です。

 

さらに余談ですが、じゃあ、悟りの用語として、無我でも空でもいいのかというと、私はやはり、無我にも、空にも違和感を感じるのです。

一切に実体が無いと言うのなら、「無我」ではなく「無実」という言葉を使うのが一番しっくりくると思うのです。

よって今後は、無我ではなく、無実という言葉を使っていこうかと考えています。

 

本題に戻って。

無実(無我)、非有非無、無根に改めて考えていて、これらの意味の広がりは互いに重なっている部分はあるのだけど、それぞれの意味の中心が少しずつずれていることがわかったのです。

なぜなら、これらの要素に関する悟りや理解も、同時に起こるというには無理があり、かなりの部分で独立して起こっているのだろうと思うのです。

実際の私自身の体験からも、そうなのです。

私は、無根については19歳の頃には凡そ理解していたのですが、無実や非有非無の理解は全く無かったのです。

当時の私は、完全な物質主義者であり、種々の物体は実体として存在しているものと考えていました。

また、無実と非有非無との関係についても、大悟したときに無実についてはそれなりにしっかりと悟ったのですが、非有非無についてはまだぼんやりとした部分があったように思います。

 

で、何が言いたいのか。

仏教の系統では、解脱に関する悟り要素として、無常、無実(無我)、苦が挙げられている訳ですが、これらの悟り要素だけでは解脱には足りない要素があるのかも知れないと思うのです。

つまり、無常無実苦だけでは、非有非無、無根に関する要素がカバーし切れていないのではないかと思うのです。

また、仏教系の覚者の言っていることをちらちらと見ている印象からも、無実(無我)については言及する人はいるのだけど、非有非無については言及がないか、わかっていないような様子の人が多いように思うのです。

無根については、無実がわかってくれば自ずとわかるものでしょうが、非有非無についてはどうでしょう。

 

私たちは、必須の悟り要素として、非有非無についての再認識が必要なのかも知れません。

 

 

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幸福論と本心

2024年12月07日 14時19分33秒 | 生きるヒント

◇幸福論と本心◇

 

幸福論と本心というテーマで記事を書いてみたいと思います。

 

本心については、このブログである程度可能な範囲で具体的に書いていますので、まずは、幸福とは何かについて書くことから始めたいと思います。

 

幸福とは何か。

幸福については、大昔から皆さん、いろいろと考えがあるのだろうと思います。

しかし、よくよく考えてみると、幸福って捉えるのが難しく、やっかいな対象なのです。

そこを敢えて、切り込んでいき、本心というものが幸福の中心的な要素になっていることを可能な限り明らかにしたいと考えています。

 

典型的な幸福観では、お金、仕事や地位、パートナーや家庭など、条件や状態が幸福と関連付けられることが多いと思います。

確かに、それらにより感じられる幸福感はありますが、表面的であり、ここで言う幸福とは異なるものです。

幸福とは、こうなったら幸福になる等のように、形や条件がある訳でもなく、特定の状態というものでもないはずです。

ですから、幸福とは、それそのものが目的になることもないし、それが結果として達成されるようなものでもないのです。

 

では、幸福とは何なか、果たしてそれはあるのか。

ここまで来ると、まるで悟り論議のようです(笑)。

悟りに関する話と同じで、一切のことがらはあるとも無いとも言えませんから、究極的には、幸福についても、あるのか無いのかわからないのです。

また、一切のことがらは不可知ですから、幸福についても、それがどういうものかは、究極的にはわからないのです。

 

しかし、そう言ってしまうと余りにも実も蓋もないので、なんとか踏ん張って、もう少し核心に迫りたいと思います。

 

私が考える幸福論とは、こうです。

幸福というものがあるとすれば、それが目的になることもなく、結果としてそうなるものでもなく、得られたり、失ったりするものではないはずである、と私は考えるのです。

もしそれがあるのなら、常にあるべきものではないか、と。

つまり、生きるという過程そのものが幸福であるべきではないか、と。

即ち、人生における日々の取り組みそのものが幸福であるべきではないか、と。

 

ここで疑問となるのが、生きるという過程そのものが幸福であるとなら、幸福な人(あるいは、幸福そうな人)と、不幸な人(あるいは、不幸そうな人)がいるのはどうしてなのか、というところだと思います。

そこで要になるのが、本心であるという訳なのです。

自身の本心に向き合い、それに取り組むとき、その取り組みそのものが幸福になるのです。

 

 

(余談)

一応最後まで書いたのですが、どうもいまいちと言いますか、しっくりきません^^;

どうしようか、と考えてはみましたが、どうにもなりそうにないので、エイヤッとアップしてしまいますねw

どうも私は、幸福には余り興味が無いというか、意欲も湧かないようですw

 

 

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