私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

どうして解脱を求めるのか

2015年03月31日 21時21分27秒 | 悟り
◇どうして解脱を求めるのか◇

人はどうして解脱を求めるのでしょうか。
それは、苦しいからです。
消えてしまいたいくらい苦しいから、解脱を求めるのです。

また、人はどうして解脱するのでしょうか。
それは、私という存在そのものが苦であることに気づいたからです。
それに気づいたなら、解脱するしかないのです。

幸せな人には、解脱は不要なのです。
また、幸福を追い求める人にも、解脱は不要なのです。


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あなたの内面の葛藤に気づいてください

2015年03月28日 21時57分44秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇あなたの内面の葛藤に気づいてください◇

私たちはみな、内面の奥深くで自分を束縛や制限をかけています。
その束縛や制限は、多くの場合、具体的ないくつかの言葉や概念によってなされています。
その内容は、人によって様々です。
自分を抑えるためのものだったり、自分を律するためのものであったり、自分を奮い立たせるためのものなど、本当にいろいろです。
それらは、言わば、自分に対する安全装置のようなものです。
あるいは、自分に対する囚われと言うこともできます。

ちなみに、私(慧空)の場合は、
・人としてちゃんと生きなきゃいけない
・何かしていないといけない(何もしないのはよくない)
・人に迷惑をかけちゃいけない
等の囚われが働いていました。

これらの囚われは、内面の深い所で作用していることが多いため、意図してそれを手放そうとしてもなかなか難しいです。
しかし、深い悟りに入っていく過程では、何らかの形でこれらの囚われも手放していくことになります。

その際の手放しの道は、二つの道があります。
それらの囚われは、自分に対する束縛や制限等になりますので、内面に強い葛藤やそれによる苦しみを生じさせます。
いずれの道も、その葛藤や苦しみが手放しのヒントになります。

一つ目の道は、日常を生きる中で、束縛や制限等による内面の葛藤や苦しみに気づき、その葛藤や苦しみと向き合っていく道、あるいは受け入れて、自分を許していく道です。
もう一つの道は、自覚の道です。
内面に起こる葛藤や苦しみを自覚し、それを手掛かりに、自分に対する束縛や制限等に気づいていく道です。
ただし、多くの方の場合、その二つの道のいずれか一方を通ると言うよりは、どちらかに重心が偏ることはあるでしょうが、二つの道をほぼ同時に進んでいかれるのだろうと思います。

あなたの内面に起きる葛藤や苦しみは、貴重な貴重な導きであり、ヒントです。
否定的に捉えるのではなく、できるだけ肯定的に捉えながら、歩んで頂きたいと思います。


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何かを求める衝動に気づく

2015年03月27日 08時28分16秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇何かを求める衝動に気づく◇

私という存在である自我に関する表現の一つとして、それは衝動そのものである言うことができます。
衝動そのもの、あるいは衝動の連鎖そのもの、それが自我です。

私という自我は、常に何かを探し求め、追い求めています。
その何かを求める衝動が自我です。

そのような自我の変遷の過程で、これはという何かを手に入れることがあります。
そのときには、喜びも生じますし、思わずそれを誰かに伝えたくもなります。
「これだ」などと言ったりしながら、伝えようとします。

しかし、そうやって手に入れた「何か」も、自我がつくる考えであり、幻なのです。
やっと手に入れたという喜びの余り、それが幻だということに目が直ぐには向きませんが、いずれ気づくときがきます。
「これでもなかった」と。
そして、また探し始めるのです。

何かを手に入れる等の結果や結末にばかり目が行っていると、気づくことができません。
ヒントは、何かを探し求めているその衝動にあります。
あるいは、何かを「これだ」と掴むその自我の衝動にヒントがあります。

あなたの視線を、探し求めているその対象から自分自身に戻してください。
そして、何かを探し求める自分のその衝動に気づいてください。
延々と彷徨っている自分自身の姿に気づいてください。

気づくと、終わります。


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夢に関連したメモ(夢の中は別人か)

2015年03月25日 13時07分34秒 | 個人的なこと
◇夢に関連したメモ(夢の中は別人か)◇

今朝方見た夢の体験で、ちょっと面白いことが分かったのでメモしておきたいと思います。

今朝見た夢では、夢の中の主人公に完全に入り込んだ状態と、その主人公から微妙に乖離した意識がある状態との二つの状態の間を揺れ動きつつ、夢を見続けました。
主人公は、古い家の一室に引きこもるような感じで生活している男性でした。
年齢はいまの私と同じくらいか、少し若い感じで、少し痩せている感じでした。
名前もちゃんとありました。
忘れてしまったので、仮に古谷守にします。

この夢の記憶に残っているところの最初の部分は、私は古谷守に完全になりきっていたんです。
ところが、観照意識のような意識が夢の中でうっすらと目を覚ますようにして、あるいは、何らかの意識が幽体離脱のようにして古谷守から抜け出すようにして、夢の中で古谷守とは別個の意識が生じたのです。
この別個の意識が生じているときは、意識の中心はこの別個の意識にあり、その意識から、古谷守がいる夢の風景を観ている状態なのです。

そして、その別個の意識から、夢の中の古谷守を見て、「これ」は誰なんだと思ったのです。
その別個の意識自身は、普段の「慧空」だという認識がうっすらとあったんです。
それについては疑いが無かったのです。
それで、その古谷守とは一体誰なんだととても気になったのです。

でも、「誰だ」、「誰だなんだ」と考えながらも、また夢の中で古谷守に同化してしまったんです。
その「誰だ」という思いは、古谷守に同化した状態でも続いていました。
古谷守に同化した状態で、「自分は誰なのか」と自問していました。
面白いことに、古谷守に同化しているときは、普段の「慧空」の記憶や認識はありませんでした。
完全に古谷守になりきっていました。
それでも、「自分は誰なのか」と自問を続けていました。

そして、そうやって自問しているところで、夢から完全に目が覚めました。
目が覚めても、「自分は誰なのか」という自問は続いていました。

それで改めて思ったのです。
自分は、自分のことを「慧空だ」と思っているのだけど、そこには確かな根拠などなく、非常に不確かなものなんだなと。
敢えて言えば、私は「慧空」という人間ではなく、意識の連鎖なんだろうなと。
そして、その意識の連鎖という認識もまた幻なんだろうなと。

この夢の体験によって、分かったこともありました。
古谷守は、この普段の「慧空」とは全く別の存在だったということです。
両者の間に記憶等の繋がりは全くありませんでした。
古谷守には、「慧空」とは独立して、古谷守という記憶や世界がありました。
また、古谷守にもこの「慧空」と全く同じような感覚で肉体がちゃんとありました。
トイレでおしっこをしたのですが、そのときの感覚もまったく同じでした。

それで、輪廻が本当にあるのかどうかは知りませんが、もしあるとしたら、それは、夕べ私が夢の中で経験したこと、つまり意識だけの状態から古谷守に同化した状態になる経験と同じようなものなのかも知れないと思ったのでした。

以上、ちょっと奇妙な夢のお話しでした。(^o^)


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いつも見守っている

2015年03月24日 23時00分19秒 | 悟り
◇いつも見守っている◇

あなたのことをいつも見守っている存在があります。

あなたが喜ぶ姿も、辛く苦しむ姿も、そして頑張っている姿も。

いつもあなたと一緒に、感じ、感動している存在があります。

そのことに気づいてください。

そして、その愛を受け取ってください。


あなたも、そしてそれを見守っているあなた自身も、ひとつです。

もうそれ以上、自分で自分を責めないでください。

自分を許してください。

自分を受け入れてください。

そして、その溢れる愛を受け取ってください。


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世界の中心に気づく

2015年03月24日 09時08分10秒 | 悟り
◇世界の中心に気づく◇

この世界の中心とは、どこでしょう。
それは、「私」です。
私たち個々の存在それぞれが、それぞれの世界の中心なのです。

あなた自身が、あなたの世界の中心であり、主人公なのです。
主人公は、あなた一人だけなのです。

早くそのことに気づいてください。

神や何か絶対的なものが中心にある訳ではないのです。
この肉体をまとったこの「私」が中心なのです。

あなた自身が世界の中心であり、たった一人の主人公なのですから、誰か他の人を主人公にしないでください。
あなたが主人公なのですから、他の人をうらやむ必要はないのです。
また、他の人の言動等に翻弄される必要もないのです。

感情や思考等の考えについても同様です。
感情や思考に翻弄されたり、深刻になるのは馬鹿げています。

「これは許せない」と思い、怒っているのは誰ですか?
「これは困った」、「大変だ」と思い、深刻になっているのは誰ですか?

あなたでしょ?
世界の中心にいる「あなた」がそう考えているのでしょ?

「私」が考えていることなのに、自分の考えに翻弄されていたんだ、ということに気づいてください。


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死と向き合って生きる

2015年03月21日 14時42分16秒 | エッセイ
◇死と向き合って生きる◇

死が身近にある人は恵まれています。

死と向き合えば、自ずと自分がまだ生きていることに目が向くからです。


あなたはまだ生きています。

まだ時間があるのです。

どうか、悔いの無いよう生きて頂きたい。


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生きるしかない

2015年03月21日 09時00分25秒 | エッセイ
◇生きるしかない◇

生きてるんだから、四の五の言わずに生きるしかないんです。

今さら、自分は生まれてきたくなかったなどと泣き言を言ったってどうしようもないんです。

腹を括って、自分が生きてるという事実を受け止めるしかないんです。

要するに、生きていくしかないんです。

腹を括って頂きたい。

そして、人生をその視点から改めて見て頂きたい。

さあ、あなたはどう生きますか。


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悟りに逃げていないか

2015年03月20日 20時31分19秒 | 悟り
◇悟りに逃げていないか◇

人生から逃げて、悟りに逃げていないか。

ここは、とても大切なところだと思います。
逃げていないか、慎重に慎重に自分のことを確認して頂きたいと思います。


自分は十分にやったと確信を持って言えるのだろうか。

矢尽き、刃折れるまでやったと言えるのだろうか。

本当に悔いは無いと言えるのだろうか。


自分の心に問うてみて頂きたいと思うのです。

悟りは逃げ道ではありません。


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個人的なこと(ネットと融合?)

2015年03月20日 14時20分42秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(ネットと融合?)◇

ちょっとオカシナことを書きますので、適当にスルーしてください。

最近どうも、パソコンの前に座っていると、パソコンやネットと自分の意識が融合していくような、あるいは、自分の意識がPC画面を介してネットの中に入り込んでいくような感覚になるんです。
そうなると、思考は完全に停止してしまい、ぽかーんと空っぽになってしまいます。
そのときは、ネットだけじゃなく、すべてと融け合っているかのようになっています。

なんなのでしょうねぇ(笑)。

いまも、一文書いてはぽかーんとなり、また書いてはぽかーんとなるを繰り返しています。

それと、最近になって特にそうなのですが、ネット上に書かれた文章等を読むと、ネットを介してその文章を書いた相手の意識を感じるようになってきているようなのです。

コイツ、大丈夫かと思われる方もおられるでしょうね(^o^)
大丈夫です。
意外なほど冷静であり、しらふです(^o^)

それで、ひょっとしたら今後、ネットを介して人々の覚醒や悟りが飛躍的に起こる可能性があるのではないかと思ったりもしています。


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ただ受け取ればいい

2015年03月19日 09時09分34秒 | 悟り
◇ただ受け取ればいい◇

あなた自身のことはもちろん、あなたを中心としたこの世界のことは、すべてあなたのためにあります。
それらのことは、あなただけのために起こってきたことであり、あなただけに与えられたものです。

ただ受け取ればいいのです。
それだけでいい。

どこまで無いものねだりを続ければ気が済むのでしょう。

受け取ればそれで終わるのです。

何も恐れることはありません。

受け取ってください。


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個人的なこと(夢と現実の境界)

2015年03月17日 08時20分04秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(夢と現実の境界)◇

最近の傾向として、夢と現実の境界が少しずつ曖昧になってきています。
ここ2、3ヶ月、特にそうなってきた感じです。

完全に目が覚めているときも、現実感が薄いというか、夢の中にいるような感じがするのですが、入眠時の前後と、脱眠時の前後の30分から1時間くらいはいつも、夢と現実の境界にいて、夢と現実を交互に垣間見るような感じになります。
入眠の直前や脱眠の直後は、身体の感覚は無くなりますし、夢と現実の区別が付かないこともよくあります。
また、昼間でも何もしないでぼーっとしてると、自然と意識が後退していき、夢と現実が混ざり合っていきます。
夢と現実の間には何ら本質的な違いは無い、とつくづく思っています。

「夢と現実の間には何ら違いは無い」、どうやら私はこれが言いたかったようです。(^^)

死後の世界は、夢の世界と同じようなものだろうと思います。
何らかの形で、死後も私という自我の意識は継続します。
断言はできませんが、まあ間違い無いだろうと思います。

どんな世界なのか、楽しみにしていてくださいな。


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みんな自分の道を歩いている

2015年03月14日 15時45分24秒 | エッセイ
◇みんな自分の道を歩いている◇

誰しもみんな、自分の道をしっかりと歩いています。
これは、善人も悪人もみな同じです。

みな、自分の道を歩くしかないのです。
どんなに嫌な道でも、その道を歩くしかないのです。

どのせその道を歩くしかないのなら、もっと前向きにしっかりと歩めばいいものを、多くの人は、他の人の道を自分の道を比べてみたり、自分の道を拒絶したりと、ふらふら、ふらふらとしています。

みなさん、自分の歩いている道に自信や確信が無いようです。
それはどうしてでしょう。

自分はこの道を歩くんだという決意と覚悟が足りないのです。

人と比較ばかりしていても、切りがありません。
それをいくらやっても、やるせなさや、劣等感や不満がつのるだけです。

自分の道を歩むしか無いんだ、ということに早く気づいて頂きたいと思います。


(偉そうなことを書きまして、すみません。
 そう言う私も相当ふらふらとしながら生きて来ました。
 そう思うと、ふらふらも必要な過程だったのかもしれません。)


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囚われから起こる私の意識に気づく

2015年03月14日 09時39分23秒 | 悟り
◇囚われから起こる私の意識に気づく◇

今日は、囚われと私という存在の意識との関係についての気づきのヒントを書いてみたいと思います。

私たちは何かの考えについてそれを主張しようとします。
どうしてそれを主張しようとするのでしょう。
そこには、その考えを主張しようする意思や衝動を引き起こしている囚われが隠れています。
そこには、その考えが正しいとか、良いものだという囚われがあるはずなのです。

また、私たちは自分の考えを否定されると腹を立てます。
どうしてそのような感情が起こるのでしょう。
そこにも、その感情を引き起こしている囚われが隠れています。

また、私たちはよく、何かの対象についてこうしたいとか、ああしたい等の衝動が起こります。
そこにも、そのような衝動を引き起こしている囚われが隠れています。

自分がこうなりたいとか、ああなりたい等の願望につていもそうです。
その願望の根っ子には囚われが隠れています。

では、それらの囚われが無ければどうなるでしょう。
囚われが無ければ、その囚われから誘発される意思、衝動、感情等は生じないのです。

ではもし、すべての囚われが手放されたらどうなるでしょう。
どうなるのか、興味津々になりませんか?(^^)


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「自由」にも囚われない

2015年03月13日 20時33分54秒 | 悟り
◇「自由」にも囚われない◇

悟りとは自由だとか、自由になっていくことだと言われることがあります。
自覚等により囚われの手放しが起こると、その囚われからの制限が外れることで自由になった感覚が生じますので、確かに悟りにはそういう側面はあります。

まずは、そうやって自由になった実感を味わわれたらいいと思います。
しかし、その自由にも注意をして頂きたいのです。
なぜなら、自由も考えであり概念なのです。
つまり、自由や自由な感じというのも、それ自体が囚われになることがあるのです。

取り立ててそれを過度に主張する方は、それに囚われている可能性が高いです。
そこには、自由が良いものだ等の囚われがあります。

また、こんなことも言えます。
その人が、何らかの自由を実感しているということは、そこには、その自由と言っていることに関連する何らかのことがらに対する複数の選択肢があり、それらの選択肢に対する選択の自由があるということです。
そしてその人が、それらの選択肢から自分の気に入った選択肢を自由に選んでいるということです。

その選択肢は、どういう基準に基づいて選択されているのでしょう。
多くの場合そこには、その選択肢を選択している基準に関する囚われが潜んでいます。

つまり多くの場合、自由には、まだ囚われが潜んでいるのです。
別の言い方をすると、囚われが、自由(つまり選択肢とその選択の自由)という錯覚(幻)を引き起こしているということもできるのかもしれません。

また、こんなことも言えるかもしれません。
あなたに、何かについてこうしようとか、ああしようという意思が生じたとします。
多くの場合そこには、その対象についてこうした方がいいとか、ああした方がいいという判断の基準となる囚われがあります。
つまり、こうしよう等の意思が先にあるのではなく、その意思を引き起こしている誘因となる囚われが先にあるのだと言うこともできるのです。

では、その意思の誘因となる囚われが無ければどうなるでしょう。
ここは非常に興味深い点だと思います。

自由も、意思も、そしてそれらを実感している私も、幻なのです。(^^)


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