私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

悟りと合理性

2023年08月27日 13時59分09秒 | 悟り
◇悟りと合理性◇

今回は、悟りと合理性について書いてみたいと思います。

私という存在は意識であり、この世界そのものなのですが、その意識は意外なほど合理的に出来ています。
おそらく正しくは、もともとの意識の特性として合理性に相当するものが先にあって、そこから我々の考える合理性という概念が生じたのだろうと思います。

ともあれ、私という意識は合理的に出来ています。
そのため、自ずと悟りにも合理性があり、理に適っているか否かという観点は、悟りの行程を歩む際にも非常に役に立ちます。

例えば、「悟りとは私(自我)を滅することである」なんてことがよく言われますが、理の観点から観れば、自我を滅するということが理に適っておらず、そもそもあり得ないことであることがわかるのです。
あるいは、理の観点が育っていれば、自我を滅しようとするのは筋が悪い、もっと言えば無理筋であることがわかるのです。

私たちは、どうして迷うのか。
それは、私という存在の根本に迷いの衝動があるからです。
その迷いの衝動が、考えを自らに囚われとして握り締めさせることで、起こってくる現象にその囚われが連鎖的に反応するからです。
根本の迷いの衝動とは、苦を何とかしようとする、苦から抜け出そうとする衝動です。
私という存在の根本では、この迷いの衝動が激しく振動するように常にうごめいています。

ですから、悟りの行程を歩む際は、まずは自らが握り締めている囚われを手放していくことになります。
その際、自覚等のやり方で私に意識を向けることで、自らが握り締めてしる囚われに気づきやすくなります。
自らが握り締めている囚われに気づけば、解けるようして囚われの手放しが生じます。

そして、凡そすべての囚われを手放し切ると、私という存在の根本と向き合うことになります。
その際も、自覚等のやり方で私に意識を向けることで、自らに生じている迷い衝動に気づきやすくなります。
その衝動に気づくことができれば、迷いの衝動がすっと収まります。
これが解脱です。

理に適っているか否か、理の観点から違和感はないか、本当に納得できたか否か等、自分をごまかさないよう慎重に確認し、歩んでいただきたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
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輪廻に関する考察ー輪廻はあるか、解脱後はー

2023年08月20日 16時42分22秒 | エッセイ
◇輪廻に関する考察ー輪廻はあるか、解脱後はー◇


今回は、輪廻について私なりに考察を書いてみたいと思います。

まず最初にハッキリと申し上げておきたいことがあります。
輪廻があるのか無いのか、あるとしたらどんなものなのか等、輪廻に関する我々の疑問はいろいろありますが、輪廻があるのか否か等の核心部分に関することは、決して誰にもわからないのです。

まず初めに、輪廻はあるのかついて。
結論から言いますと、輪廻はおそらくあるのだろうと考えています。
正確には、あると考えた方がいろいろと辻褄が合い、妥当であると考えています。

そう考える理由について。
一番の理由は、人の意識のバリエーションを見ていると、意識の成長度の違いを考えざるを得えないと考えるからです。
二番目の理由は、私自身の個人的な経験によるものです。
例えば、6、7歳の頃生まれて初めて「悟り」という言葉を聞いたときに、その言葉に対して強く興味を示す反応が起きたのですが、生まれて初めて聞いた言葉に対する反応としては余りにも不自然なので、「悟り」という言葉や概念に対して前世的な何かを既に持っていたのではないかと考えています。
他の例としては、私は18か19歳の頃に、物理学や宇宙の根源について考えていて、理屈や論理の根本的な限界や、わかる(知る)ということの根本的な限界について理解したのですが、そのようなことを今世の経験だけで理解するのは難しいだろうと考えています。

輪廻する個別の魂等の存在について。
これは、輪廻があるとした場合、個別の魂があってそれが輪廻していくのか、それとも魂の集合体のようなものがあって、その集合体から派生した魂が1回又は複数回輪廻し、その集合体に戻るのかということです。
これについては、輪廻があるなら間違いなく前者だろうと考えています。
そう考える理由は、意識の成長は、個々の経験によるものであり、無数の世を要して継続的に続いていくものと考えた方が妥当だからです。

始まりと終わりについて。
人の意識について、その成長性という本質的な特性があると考えざるを得ないという観点から、輪廻の繰り返しには、意識の成長という時間的方向性(非対称性)があると考えざるを得ないと考えます。
そうすると少なくとも、輪廻、意識(存在)にはそれの始まりがあると考えざるを得ないと考えます。

では、終わりについてはどうか。
意識の成長について、私は悟りの行程は意識の成長の最終段階であり、それは必然的なものであるだろうと考えています。
ですから、解脱により、輪廻についても、意識(存在)としても何らかの終わりがあるのではないかと考えています。

解脱後のいくつかの可能性に関する検討。

解脱後は、そのまま輪廻を繰り返す。
これはなんとなく無さそうな気がします。

再度、初めに戻る。
これも違うような気がします。

これまでと全く異なった輪廻が始まる。
これは無いです(なんとなく確信あり)。

肉体の死に伴って消滅する。
個人的にはそうあってほしいと思っていますが、これもどうなるかわかりません。



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私が無いと言うのも、私があると言うのも間違い

2023年08月19日 20時24分33秒 | 悟り
◇私が無いと言うのも、私があると言うのも間違い◇


私が無いと言っても間違いであり、私があると言っても間違いなのです。
私には実体が無いと言うのが正解なのです。

大悟まで至ると、このあたりことが凡そスッキリとわかって来ます。
腑に落ちてしまえば、とてもシンプルかつ当たり前のことなのですが、簡単なことではありません。
見当違いやわかったつもりなど、何度も何度も(おそらく何世も何世も)繰り返し、やっとわかることなのだろうと思います。

なお、ある無しの問題は、私に限ったことではありません。
一切のことがらについてそうなのです。
私を含む一切のことがらについて、あるとも言えないし、無いとも言えないのです。
実体が無いと言うが正しいのです。



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そもそも私とそれ以外の事象を分けられるのか

2023年08月17日 20時14分40秒 | 悟り
今日も、「私が無い」と言う覚者たちへの批判記事を書きますw
もうね、これはライフワークですね(^O^)


◇そもそも私とそれ以外の事象を分けられるのか◇


悟って私が無くなったなどとたわけたことを言っているものは、何が足りないのかと言うと、私という意識に対する追及が足りないのです。

この世界の事象について、そもそも、私というものと、それ以外の事象とを分けられるものなのか。
私無しに(特に、私に含まれる認識作用無しに)、この世界の事象が成立し得るものなのか。

軽はずみに「私は滅した(悟った)」などと言ってしまう前に、まずはこのあたりのことをもっと追及し、確かめるべきなのです。



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