人間はこの世にあって、誰もが幸せであることを願っています。しかし、現実の人生の中では、いろいろ不安や悩み事が生じたりしてきます。
「迷い本来なし」と、喝破できれば問題はないのだが、そう簡単なことではない。
しかし、「迷い本来なし」と喝破できない人のために、ここにいい話があります。
すなわち、「迷いはどこから来たか?」という話であります。
普通、わたしたちは自分が歓迎すべからざる嫌なことが起きたり、また、他を非難するような心を起こすとき、自分は駄目だと思ってしまう。
ところが、そういう迷いは自分が駄目だからではなく、「本来仏であるからだ」ということが「神真理を告げ給う」の中に書かれています。それを概略すれば次の如くなります。
○神は自分の素晴らしさを表現せずにはいられない。
作曲家は自分のうちにすでに持っているところの素晴らしい音楽を外に表現せずにはいられないように。また歌手が自分の素晴らしい声で、歌を歌わずにはいられないように。
○神は、ご自身の素晴らしさを表現するための精神的基礎工事として、人間に時間空間の観念を与え、光の波動を物質的具体的存在として感ずるようにせられた。これは、神の素晴らしさを表現するためのキャンパスであり、地上天国建設の第一歩である。
○光の波を物質的具体的存在として感じる、すなわち「物質あり」と感じる精神的基礎工事が、別の面から言えば迷いの発生ということにもなる。
以上をわかりやすく簡単に言えば、本来仏である人間が、あえて迷いを覚悟の上で、地上天国建設のために地球に降り立った、それが地球上のわたしたち人間である。ということになるのではと思います。
わたしたちは、迷う。
しかし、迷ってもそれは迷っているのではなく、地上天国建設の一歩一歩である。
わたしたちは、迷ったから地球に生まれたのではなく、一人一人が、地上天国建設という使命をいただいて、この地上に誕生してきているんですね。そう思うと、なんだか晴れ晴れとしたうれしい気持ちになってきませんか。
昨日、伊吹山に登ったのですが、伊吹山は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のヤマタノオロチ退治の神話で有名なところです。そして、眼下に広がる琵琶湖を眺めながら、日本武尊に思いを馳せつつ、そんなことを思い、とってもうれしくなってきたのでした。ありがとうございます。
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おお! おお!
(帰りに百名水である泉神社湧水を汲み行き、その神社の境内にあった杉。樹齢の記載なし)
「迷い本来なし」と、喝破できれば問題はないのだが、そう簡単なことではない。
しかし、「迷い本来なし」と喝破できない人のために、ここにいい話があります。
すなわち、「迷いはどこから来たか?」という話であります。
普通、わたしたちは自分が歓迎すべからざる嫌なことが起きたり、また、他を非難するような心を起こすとき、自分は駄目だと思ってしまう。
ところが、そういう迷いは自分が駄目だからではなく、「本来仏であるからだ」ということが「神真理を告げ給う」の中に書かれています。それを概略すれば次の如くなります。
○神は自分の素晴らしさを表現せずにはいられない。
作曲家は自分のうちにすでに持っているところの素晴らしい音楽を外に表現せずにはいられないように。また歌手が自分の素晴らしい声で、歌を歌わずにはいられないように。
○神は、ご自身の素晴らしさを表現するための精神的基礎工事として、人間に時間空間の観念を与え、光の波動を物質的具体的存在として感ずるようにせられた。これは、神の素晴らしさを表現するためのキャンパスであり、地上天国建設の第一歩である。
○光の波を物質的具体的存在として感じる、すなわち「物質あり」と感じる精神的基礎工事が、別の面から言えば迷いの発生ということにもなる。
以上をわかりやすく簡単に言えば、本来仏である人間が、あえて迷いを覚悟の上で、地上天国建設のために地球に降り立った、それが地球上のわたしたち人間である。ということになるのではと思います。
わたしたちは、迷う。
しかし、迷ってもそれは迷っているのではなく、地上天国建設の一歩一歩である。
わたしたちは、迷ったから地球に生まれたのではなく、一人一人が、地上天国建設という使命をいただいて、この地上に誕生してきているんですね。そう思うと、なんだか晴れ晴れとしたうれしい気持ちになってきませんか。
昨日、伊吹山に登ったのですが、伊吹山は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のヤマタノオロチ退治の神話で有名なところです。そして、眼下に広がる琵琶湖を眺めながら、日本武尊に思いを馳せつつ、そんなことを思い、とってもうれしくなってきたのでした。ありがとうございます。
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おお! おお!
(帰りに百名水である泉神社湧水を汲み行き、その神社の境内にあった杉。樹齢の記載なし)
おっちょこちょいの私は、ただいま公案の思案中であります。ところで、ひとことで「迷い」といってもいろいろなものがあとるとおもいますが、
まず最初におもいうかぶのは、人間はほんとうに神の子なのか。すでに円満完全であるのなら、今のままでよいのか。永遠不滅の命というのはほんとうなのか、といったような信仰上の迷いであります。
次におもいうかぶのが、自分はこれからどのように生きていくべきなのか。自分の将来は今の延長でよいのか、といった未来にたいする迷いであります。
そして最後におもいうかぶのが、自分はこれでよいのか。自分の人生には何かたりないものがあるのではないか、という現状にたいする迷いであります。
私が重視するのは、三番目の「現状にたいする迷い」であります。自分の人生には何か大事なものが欠けているのではないか、という迷いであります。この迷いがあるために、多くの人は「虚しさ」や「疎外感」を味わうようになりますね。
そして、これが重要なのでありますが、結果として、いつも何かしらの「軽い抑うつ感」にさいなまれるということになっているようにおもうのであります。この「軽い抑うつ感」こそが迷いの正体なのではなのかとおもうような次第であります。
で、浮雲さんは「本来仏であるはずの人間が、あえて迷いを覚悟の上で、地上天国建設のために地球に降り立った」と書いておられますが、たしかにそのとおりなのであります。しかし私は、この「軽い抑うつ感」というのが大キライなのであります。なんとしても、こうした現状からは脱却したいのであります。
そこで何か妙案はないかと考えておったところが、「ドリーミング」という言葉がうかんできて、これこそが公案の答えであり、現状脱却のためのキーワードなのではないかとおもい、ソワソワ、ワクワクしてきたような次第でして、何とかこの思いを表現しようということで、掲示板に「すべての物事は縁によって起こる」の①と②を書いて、今もヨタヨタしながら続きを書こうとしているところなのであります。
掲示板の先行きがどのような展開になるのか、自分でもかいもく見当がつきかねておりますが、浮雲さんのかけたハシゴにおっかなびっくり登りはじめたといったところであります。途中でにっちもさっちも行かなくなったときは、どうか助けてやってくださいまし。
迷いは、どこから来たか?
そして、どうしたら、この苦しみや悲しみから抜け出せるか?
話としても興味あるし、時には切実でもありますね。
ドリーミング、初めて聞く言葉ですが、これからの掲示板の記事を楽しみにしています。
ええっ? 「助けてやってくださいまし」ですって?
初心者様の、えへへ、という顔が見えるようですよ。
そうは問屋が卸すもんですか。うっしっし~。
『身体知3』を読ませてもらいましたが、びっくりでしたよ。
わたしも若い頃には、深いものを感じさせられて、けっこう「無門関解釈」読んでいましたが、結局は面白いだけで終わってしまいました。自分がそうだったせいか、谷口雅春先生のあの本も、たいがいの人にとっては禅のパフォーマンスを面白がる程度で終わってしまうような気がしますが、初心者様のような人は初めてです。
あの話は、体験談のように、もう少し詳しく聞かせてほしいと思いますので、また、気が向いたときに、ぜひ聞かせてください。ありがとうございます。