少し前の記事で、「電子のような小さな質点がいくら集まっても、線や面や立体を構成できない」という谷口雅春先生のご文章を書かせてもらったが、その後、その電子の大きさと、隣あった電子との間隔はどの位か知りたくなってインターネットで検索して調べて見た。そして、Eテレの科学講座のテキストの中でこんなことが書かれていた。
○原子の種類によって、原子核や原子全体の大きさは様々です。例えばヘリウム原子の場合、野球場をヘリウム原子全体の大きさだとすると、原子核は中央にある二塁ベースに乗せた米粒ほどの大きさになります。そして、周辺にある電子は、それよりもかなり小さい大きさです。
このように書かれていた。つまり1個のヘリウム原子の大きさを野球場の大きさとすると、その原始核の大きさは米粒の大きさだと云うのである。ということは、ヘリウム原子がいくら密集していても、米粒ほどの大きさの原子核はそれぞれ野球場一つ分の距離を隔てて点在していることになる。
野球場では大きすぎるので、もう少しスケールを小さくして原子1個の大きさを畳2枚分(一坪)の大きさとしたら、原子核の大きさは人の眼でかろうじて見えるぐらいの大きさだろうか。なるほど、これならたしかに、いくら原子が集まっているといっても、面や線や立体を構成するのは不可能に違いない。そうすると、やはり私たちはあるはずのない面や立体を見ていることになる。
となれば、量子論が唱える「自然界に客観的事実はない、それは見る心によって変化する」ということもうなづける。しかし、それに対してアインシュタインは「だったら、月は私たちが見るから在り、私たちが見なかったらないのか?そんなはずはない。私たちが見なくても(客観的事実として)、月はあるはずだ!」と、疑問を呈した。
そのアインシュタインの疑問に対して、生長の家ならどう答えるだろうか。多分、以下のように答えるのではないかと思う。
私たちが見ている月は、放送局からの眼に見えない電波がテレビジョン装置に触れて月の映像を映し出すのと同じように、神のアイディアによる月の理念――神のいのちの振動が、私たち人間のいのちに触れ、いのちを刺激し、そして脳髄受信装置を経由して、視覚的映像となって月がそこにあるかのごとく見える。それは視覚神経を通し、脳髄によって(見る道具)、あるいは見る心によって翻訳再生された月だから、私たち人間が見なければ月はない。それは見る道具と、見る心によって変化する月であって、月そのものではない。その意味からいえば、量子論が正しい。
しかし、アインシュタインが「私たちが見なくても月は在る筈だ」と言ったように、確かに月はあるだろう。私たちが月を見るのは、夢遊病者が幻覚を見ているのとは違う。しかし、「私たちが見なくても在る月」とは、見る道具や、見る心によって翻訳再生された月でなく、神のいのちが想念した「月」なるアイディアである。その月は私たちが見ているような物質的な月ではなく、神のいのちの響きである。これが「私たちが見なくても在る月」である。
そして、同時に私たち人間の本質も神のアイディアであり神のいのちの響きであり、存在の奥底において月(万物)と私たちとは一体であるから、私たちは「そこに月がある」と認識できる。月と私たちがまったく別のものであったら、月がそこにあると認識することもできないし、「月が美しい」などということはあり得ない。月がそこにあると認識し、美しいと感じることが出来るのは、別々に見えて、存在の奥底において、一体であるからである。
と、生長の家ではおよそこのように教えられているのですが、アインシュタイン博士はどう思いますか?
話に聞くところによると、博士は5歳の幼い頃、父からコンパスをプレゼントされ、そのコンパスの針が、手で触れもしないのに北の方角を指し示すのを見て、「この世には目に見えない不思議な力がある」と感じさせられ、神秘な感に打たれたそうですね。そして「それが私の生涯を決定した」と。わたしはこの話にとても感動し、博士が大好きになりました。そんな博士なら、わたしが、このような生長の家の教えに惹かれるのもきっと御理解いただけると思います。それではアインシュタイン博士、またいつの日かおめにかかれますように。
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