気の向くままに

山、花、人生を讃える

すでに悟りを開いている仏である

2014年01月17日 | 信仰

少し前、わたしは今幸せだと書いた。必要なものは満たされていて、そして、死ぬまでにはきっと「嬉しくて仕方がない、有難くて仕方がない」という心境にまでなってやるぞと、そんな夢を持ち、希望を持ち、生きがいを感じていたからですが、しかし、昨年の12月に入った頃から、こんなことを考えはじめました。

 

自分は曲がりなりにも生長の家の教えを学んできた。これは間違いなく人を幸せにする素晴らしい教えだ。なのに、自分はこの程度か?もっともっと自分は素晴らしくなっていていいはずじゃないか?と。

 

そして年が改まり、あらたな気持ちで、『生命の実相』を読み始めていました。

そして、ある大切なことに気づかせてもらいました。

 

それは、とてもうれしい気付きでした。

 

私は今まで、「すでに神の子である実相」に少しでも近づこう、近づこうと、神想観をし、聖典を読みしてきた。

 

だがこれがそもそもの間違いだったということに気がついた。

 

そうではない。

「今、すでに神の子」だったのだ。精進して、これから神の子になるんじゃない。もう、今すでに神の子であり、既に悟りを開いている仏であるというのが生長の家の教えだったのだ。

 

自分はこれから素晴らしくなるんじゃない。今すでに素晴らしいのだ!

これが出発点だったのだ。

自分はまだ素晴らしくない、だから素晴らしくなるよう精進しようでは、いつまでも目的地につけなかったのだ。

 

そんなことに気がついて、もう自分は神の子だ、既に悟りを開いている仏だ。これから素晴らしくなるんじゃない。今すでに素晴らしいのだ、とこう思うことにしました。そして仏が神想観をし、仏が聖典を読むのだと思うことにしました。

今までは、いたらない自分を見ては、そこから抜け出そう、抜け出そうと思ってきましたが、これからはそんな現象の性格的欠点には一切構わず、ただひたすら、「自分はすでに素晴らしいのだ!」の一点ばりで行くことにしました。

 

自分はすでに悟りを開いている仏である。こう思うだけでも、嬉しくなってきます。

なんで今までこんなことに気が付かなかったんだろうねえ。あっははは。

 

      うれしい!

      自分が一個の生命であることが

      うれしい!

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