SASHIY エイガニッキ

メモ書きです、遊び心です、それでも、力です、どこにも、どちらにも、収まりつかない、思いです、可能性です、

SASHIYエイガニッキ

2014-03-04 21:21:09 | 日記
ⅩⅢ  「熱波」「ミステリーズ 運命のリスボン」を見る聴く、
  この二作品で、ポルトガルの近代、現代史が見事に描かれました、「運命のリスボン」の全ては主人公の始まりのベッドでの幻想とも言えるが、語られる世界の、語りの主体の主が次々に移り変わり、安心して理解できる主体が壊されているのだ、誰を信じればよい、神父か、怪しい、そもそもにおいて、彼は神父自体なのだろうか、立派に成ったやくざものとて、真か、誰かから聞き知って今の立場を生きているばかりではないのか、映画の中に繰り返される紙芝居、この映画自体もまた紙芝居、偶々に語られた世界、聴かされた世界、絶対の視点など有りはしない、「熱波」は現代史、始まりでジャングルに消えた男と後から語られる物語の関係は何も判らない、現在のリスボン、一人暮らしの主人公、ポーランドからの旅人はやってこない、隣の偏屈なおばあさん、黒人のメイドさん、おばあさんの瀕死の最中に求める男性、主人公が探す填めに、かくて語られるおばあさんの過去、ロマン、アフリカ、だが、おばあさんの求める男性の語るお話として聴かされる物語、此処でも、語る主体が、動くので、一体誰の物語なのか、誰が聴かされているのか、この転調の中に私たちは、何を見る、歴史の多様な視点、位置関係、この揺らぎが堪らなく面白い、さて、北欧映画祭では、スウェーデンの監督の二作品が上映されて、「ハムスン」、「マリア・ラーション 永遠の瞬間」、北欧の近現代史、こちらはまたオーソドックスな語り方、「ハムスン」はノーベル賞作家の主役を中心にして、ナチスドイツの占領と敗北の時代を捉える、今ひとつの映画はマリア・ラーションという女性写真家の娘の視点で近代から現代に至る時代が語られる、しかし二作品とも激しい葛藤にもかかわらず決して夫婦は別れることがない、そんな表面上何も壊れることのない狂気、不気味、映画自体も奇をてらった作りは無い、ユーロの北と南で、近現代の撮り方が大きく違う、いや、作家の資質の問題か、近現代を家族に絡めて捕らえる映画の多様性、まだまだ、見ることの愉しさが、そして、これらの映画を見ながら、もちろん日本にあって、現代史と家族を絡めて捕らえた映画が何かと、問えば、もちろんに、大島の「儀式」が、迫ってくる、映画という、この広がり、同居、それぞれの作品がそこに収まるのではなく、互いに重なり合って、交わり有って、現れ出てくる思い浮かんでくる映像の世界、そんな、収まり着かない揺らめき、蠢きの中の私、いや、私ならぬ、変容するワタシ、ワタシタチ、これが映画、

ⅩⅣ ソチ、ウクライナ、ティモシェンコ、マオ、ミドリ、
  ソチオリンピックが終わり、これからパラリンピックが、始まる、しかし、この地は元々ロシアの地だったろうか、先住民の姿は何処に、どんなセレモニーにも現れないままに、過去の歴史はロシアの強権の中に隠されて、しかも、ホモセクシャルを一切認めないというあまりに愚かなプーチン、そんなオリンピックの地にのこのこ出かける日本の首相、中国の主席、彼らに人権の感覚は無い、政治駆け引きばかり、しかし、駆け引きと云うが、日本の首相に国際感覚はない、あのプーチンの傲慢と共に写ってしまう時、世界は笑っている、日本の首相の愚かしさを、そして、こんな首相に、災害被災者の人権など見えるはずもない、先の大戦の加害、被害の人権の在処も、有るのは駆け引きとしての靖国参拝、が、ロシアの強権もウクライナを治めきることは出来ずに、さあ大変、あの子は肝心なときにいつも転ぶ、この言葉は、ティモシェンコの事ではないのか、だが、転んだと云うよりも、転ばされた、ユーロとロシアの狭間で、転ばざるを得なかった、今また飛び出して、転ぶことを覚悟で、何度でも挑戦するしかない、彼女自体が、単純に希望とは想わないが、可能性のひとつとして、頑張って貰わないと、ロシアでもないユーロでもないアメリカでもない民主主義の始まりとして、日本がアメリカの覇権でもない中国の覇権でもない、もちろん、日本という覇権でも無い可能性として有ってくれれば、こんな時に役に立つのだよ、真っ先にウクライナに駆けつけて仲介役を勝手出れば良いのだから、武器を持たないことが武器になる駆け引きの可能性、だが、それには政治の天才が必要、天才の不毛の時に、だからこそ平和憲法という20世紀の痛みの後の希望の縛りが、世界の可能性の縛りが、ティモシェンコはともかくにウクライナを転ばさないために、元首相のいつも転ぶという視線の先にはティモシェンコは当然に見えずに、マオチャンが、しかし、競技の最前線を見るのならば、転んではやはり駄目なのだ、こんな彼女をドラマに仕立て、フリーでは見事な演技と慰める世界の視線、これこそはオリエンタリズムではないのか、世界がマオに注ぐアジアの可愛そうなやさしい可愛い少女のおとぎ話、競技なのだから、失敗は負け、それだけのこと、何もマオという皆に都合の良いドラマを仕立てることはない、競技には負けてもよい子でしたと、競技では単なるよい子では駄目だろうに、全ては強権力の抑圧の祭典に終始したオリンピックに、ノンを突きつけるのは、やはりウクライナの闘い、未だどんな闘いかは判らない、可能性として、有るばかりだが、そして、今ひとつ、思い出さずに居れない、フィギアスケートでのミドリのジャンプ、四半世紀も前に、日本の少女が、飛びまくった、そして、演技の振りをもものともせずにガッツポーズ、フィギアスケートの世界を変えた、彼女のジャンプは、成功しようが仕舞いが、まずは飛ぶこと、きっと、失敗しても、また次なるジャンプを平気で飛んだろう、狼狽えはしない、飛ぶしかないのだから、今こそ、ミドリを召還しよう、なぜか、解説者としても外されているミドリ、彼女のジャンプこそを、そして、ティモシェンコに、また飛べと、車いすから飛び立て、ロシアやユーロやアメリカのドラマに組み込まれることなく、ミドリに習って、ウクラナイよ、飛べ、