SASHIY エイガニッキ

メモ書きです、遊び心です、それでも、力です、どこにも、どちらにも、収まりつかない、思いです、可能性です、

SASHIY エイガニッキ

2018-06-17 13:05:53 | 日記
tⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅣ「水俣-患者さんとその世界-」を観る聴く、
  湾の中、海の上、靄の中、小舟が浮かんでいる、漁、漁師、ものくろの世界、現実か,幻か,夢か、錯覚か、過去か,未来か,既に水銀に侵された海、いや、これは過去の未だ自然のままの海、だが,いつの事だ,戦後、戦前、既に,近代の最中に、汚染は始まっていないか、私たちは,知らなかった、誰もが,近代の中に在る現実を、それは帝国主義でも,ファシズムでも、戦争、原爆、ばかりでも無く,私たちの生活として,日常として,有る、公害、経済生活、資本主義、此処を生きるとは、此処で生きるとは、この公の害を生きることなのだ、水俣病を、水俣を、患者たちは、肉体を持って、受け入れた、魂をも含めて、受け入れさせられた、いや,加害者のチッソばかりでは無い、社員ばかりでは無い、幹部ばかりでは無い、市民も、日本も、世界も、それ以前に生まれた近代人も,それ以後に生きる私たちも、共に背負わされてあるのだ、背負ってあることの事実を,しっかり,ゆっくり,見つめ直そう、映画の始まりだ、映画と云う近代、近代と云う映画もくみ込んで、問い直そう、カメラの視線と共に、遠く離れて居ようとも,この視線の外はあり得ないのだから、石牟礼道子の言葉の外には日本は、世界は、無いのだから、だから,始まりの靄の中、淡い光りの中、過去で在り、未来で在り、漁師の生活の中に,中から、獲られる魚、湾の奥に見える山、空、光、雲、波間、船、家々、路地、人々、大人、子ども、患者、患者さんたちの,映像、家、小屋、部屋、家族、映画は、闘争に向かっての、いや、この時点での最高のイベントである本社での闘争に向かっての、時間軸と,現実の患者さんたちの日常と云う横軸と、交錯して、集会所で語らう人々、集まり、お茶飲み話の如く、御詠歌、認定患者の申請をと未だ認められない患者家族に勧めて歩く男、話は聞き入れるが不安で、差別が有るから、この映画ばかりでは、その当たりは良く判らない、細かい説明が無いから,文字として現れた部分に語られているのか,画像が悪くて判明しなかったが、本を読んでいれば判ると云うことか、提出された案に,補償金に納得する者たちと,反対する者たち、これらの不和もまた映画の中では判らない,弁護士の説得、聴き入るばかりの患者たち、これらの,収まりの付かない思いが,支援者たちの思いが、東京に向かわせる、患者たちを、お遍路、御詠歌、鈴の音、響き、一株主、株主となって,株主総会にと、出席しようと、語る男、笑みで聴き入る患者たち、株主になれば,社長にも会える,話せる、会社の重役にもなれる、夢物語ではあるが,そんな気楽な幻想は抱いては居なかろうが、これまで家族が,仲間が死してきた、まさに戦争なのだから、水俣戦争なのだから、街の俯瞰撮影、工場、廃液、この廃液の中に,生きてきた街、日本、世界、恥ずかしい私たち、それが判ったのならば,解決しなくては、にもかかわらず,認めない,会社は満足に謝らない,当たり前、これを遣ってしまっては,近代日本、戦後日本が崩壊してしまうから、だから、チッソの社長も、謝れない、彼もまた財界に依って配置された社長、業界、経済界、政府、反対する側の筈の野党もまた、根本的な解決、解体、から遠く離れて、和解に、まさに、此処に在るものは、60年安保で在り、三池闘争であり、水俣なのだ、そして、それは、この撮影当時、沖縄で在り、朝鮮半島で在り、台湾で在り、ベトナムでもあるのだ、今日的には、原子力で在り、フクシマなのだ、その始まりの、天皇でもあり、敗戦を作り出した、日本とアメリカにとってのヒロシマでもナガサキでもあるのだ、斯くて、お遍路は、大阪に、街中に、殺到する人々、アジ演説の若者、支援者、怨の文字の、黒字に怨の幟、連なって、御詠歌が、行進が、デモが、列車の中、斯くてやって来た、東京、チッソ本社、本社前、騒然、社の者たち、支援者、マスコミ、そして、御詠歌の患者たち、狭く仕切られた入り口、株主総会、舞台の席、会場に入った患者たち、あつまった株主たち、いや、支援者、総会屋、黙祷、舞台に社長たちが、幹部たちが、社長の挨拶、まずは患者に謝れ、発言させろとのヤジ、押し切ろうとする、淡々と読み上げるばかりの社長、なだれ込んで舞台に上がる者たち、入り乱れて、アジ、怒り、罵り、殴り合い、警護、誰が、誰を、社員が、社長を幹部を、支援者が仲間たちを、患者たちの御詠歌、鈴の音、素晴らしい、これこそが、日本、まさに交響曲、日本近代と云う和音、映像として、音として、患者たちも舞台に、何も語らず、表情を表さない社長、患者の叫び、嘆き、訴え、カメラは、客観、主観、患者と共に招かれて、会場の中、何を捕らえる、何を見る、何を聴く、それでいて、ビルの外では、淡々と東京が在ったに違いない、斯くて、また始まりの海に、浜に、小屋に、生活に、漁に、漁師に、全ては、一時の幻覚、見間違い、聞き違い、いや、いや、今もって患者が、見ている、現実の先に、聴いている、現実の奥に、触れている、現実の手前にある、私たちそのものに、私たち、わたしの、振る舞いそのものに、あらためて、わたしにその外はないのだ、患者さんたちに招かれて、皆が水俣病に認定されているのだ、舞台の社長や幹部の顔こそが、水俣病そのものでは無いか、交響曲を解き放て、断ち切れ、