SASHIY エイガニッキ

メモ書きです、遊び心です、それでも、力です、どこにも、どちらにも、収まりつかない、思いです、可能性です、

エイガニッキ sashiy

2014-08-04 09:18:12 | 日記

ⅩⅩ  「笑い」「持続と同時性」を読む、
  哲学書は、不思議で、判らないのだが、読んでいる間は、何か高揚感が在って、どきどきして、1頁が、なかなか読み進みもしないけれども、楽しいのだ、相対性理論の数式が並んでも、何か、絵画でも見ているような遊び心で見てしまう、読んでいるとは、理解しているとは思えない、読み続けている持続の時間と、書物に成ってしまっている文字、数式の擦れ違い、読むと云うことは、厄介だが、面白い、これを安易な、解釈で解決しては何も成らない、賛成も、反対も、同じ、読みの中に、捕らえられていては、共に敗北、灰野敬二が、原発反対という人たちが、奏でる音楽、聴いている音楽は、ちっとも、原発反対に成っていないと云うのはこのこと、しかし、政治は力だから、時にはなりふり構わずひっぱたく必要もあるが、まずは、個々に、読むこと、聴くこと、見ること、その在処を問うこと、で、だから、ベルクゾンは元気が出るのだ、ポドロフスキーの特集があり、ダニエル・シュミットの特集があり、ベロッキオの特集があり、少し前には、ファスビンダーの特集があり、今、パラジャーノフの特集があり、カンボジアのリティ・パニュの特集があり、ベルイマンの作品のデジタル上映、ジャック・タチの特集、そして、ワン・ピンの新作が、増村の特集が、鈴木則文の特集が、駅に走り、駅から映画館に走り、見て、また走り、違った劇場に、自動機械のごとくに、反復される、毎日、こんな仕草、生活、日常を笑いと称されるのだろうが、笑いの力で、問いかける、問い返す、何か真理に近づくのではない、蠢き、そんな最中に、蓮見の「『ボズァリー夫人』論」が本屋に並んでしまう、文学ばかりではなく、映画も語られているとしか思えない、七百頁の本は、直ぐには読み尽くせない、いや、此処に現れた、多様な、批評家の一人一人に当たることなど不可能で、読み終えることなど無く、解釈し尽くすなど有り得ず、頁の文字の連なりに何処までも絡まっていれば力が湧いて出るから、でも、その力を安易に振り回すなよ、力は、やはり、権力なのだから、根気よく、あらゆる権力を引きずり降ろす作業、「怪人マプゼ博士」の、ボスの、マブゼの、言葉を発するカーテンの向こうには、レコードと黒い人影の板が在るばかり、その操作を行っていたのは精神病院の医師、精神病院には捕らわれたマブゼ博士が、彼が書き続ける犯罪記録、博士の文字が、博士の姿が、医師を動かしてしまっていた、博士が死した後にまでも、医師の見てしまう博士の幻想、文字、音声、カーテン、映画そのもの、部下たちは、映画によって動かされる、今、見ている、私は、私たちは、この映画の後に、映画の自覚の後に、「『ボヴァリー夫人』論」と共に、「ホーリー・マウンテン」のラストの、これは映画だの言葉の後に、カンボジアの「アンコールの人々」の主役の少年が思い描いていた母、母ではないかと想っていた美しい夫人の写真、写真の人物の死を聴かされて、あらためて母を失ってしまった少年の寄り添う、石の天女、この天女だって危うい、何時また破壊されるか、映画も、写真も、書かれた文字も、全てが危ういままに、この危うさ故の可能性の中に、反原発テントの横を通り過ぎて仕事に向かう毎日です、大笑いです、
    

 


ⅩⅩⅠ「温泉みみず芸者」を観る、聴く、  
  海の尼さん、老舗の女将とその姉娘の尼さんと女子高生の妹、母親は色狂いで全てを失ってしまう、家のつぼに蓄えて来た金を全て持ち逃げされてしまうのだ、主人公は金のために東京の風俗に、店の長の客扱いの説明もそっちのけ生まれながらのテクニシャンの主人公、店長も求めて、主人公を抱いたままに死してしまう、かくてまた伊豆の温泉場に戻る、その列車の中で知りあう飲んだくれの板前、遣ってきた母親の働く旅館、またしても借金、払う気のない娘に困惑の母、そこに列車の板前が現れて、彼もこの宿で仕事に有り付いた、私が払いましょうと、主人公に惹かれてもいるのだから、しかし、主人公は金になるのならばと芸者に、評判の、温泉場一番の芸者に、現れる役人たち、だらしなく遊ぶ彼ら、そして、温泉に遣ってくる会社社長と一行、社長は不能なのだ、主人公は社長を見て、どこかで見た人、東京の風俗店の店長にそっくり、社長は店長の弟だったのだ、美貌と名器故に、見事に社長は復活、かくて、役人も、ビジネスマンも温泉場の癒しの中に、一方板前は主人公に惹かれながらも、旨く誘えない、訳ありなのだ、友人の自称芸術家、娘の股間を彫塑にと、彼もまた主人公を求めるが、淫乱の母は娘に成り代わって誘うばかり、結局、母に抱かれてしまう芸術家、板前に渡される彼の作品、実は板前は、海軍に所属した、敗戦後に、巨大化した股間は如何ともしがたく、娘たちを壊してしまうのだ、芸術家の作った巨大化を防ぐ器具、ホットドッグの様に挟んで動かせば収まっていくのだと、今、一人挟んで動かす、仰角で捕らえる板前の表情、汗、涙、この間は、どう見ても、ドライヤーのジャンヌ・ダルクの表情にしか見えない、つまりは、ゴダールのアンナ・カリーナとも、素晴らしいショット、軍歌、海軍の写真、部屋にぶら下がる戦闘機の模型、戦中派の充たされない欲望、幻想、その肥大化の股間、一人の太平洋と呼ばれる芸者が遣ってきたが、彼女の太平洋もまた病院送りに、果たして、この温泉場に現れる、3人組、絶倫自慢、道場破りのごとく、あちこちで芸者らを潰して、温泉場を窮地に、彼らの長は板前と同僚だった、故に、二人して軍歌、彼らもまた戦中派の肉体の暴走、3人の男と、母と姉妹の勝負に、今町から戻った妹も、清楚な女子高生から、立派なあそび人に成長している、三番勝負、母は、前に二人に襲われて、筆で弄ばれていたから、弱いところを握られて、またしても筆でいかされてしまう、妹の勝利、かくて、主人公と絶倫大将との対決、滑稽なばかりの男と女の絡み合い、もちろん主人公の勝利、かくて、温泉場は救われ、板前も主人公に癒される、彼も、主人公ならば、問題なくセックスが出来るのだ、主人公の見事な生まれながらの股間に依って、日本が救われるのだ、役人が、ビジネスマンが、戦中派の者たちが、主人公に癒される、生まれながらの達人に依って、「温泉スッポン芸者」では、主人公が、バイクに跨り、更にいっそうスーパースター振りを発揮して、町中を疾走するのだ、画面に歌が被さって、着物から足を曝して、走る、走る、突っ走る、何処までも、斯くした、プログラムピクチャーの愉しさは、今、何処にも見いだされない、ならば、何度でも、再上映しよう、レンタルしよう、何処までも、温泉芸者を走らせよう、