SASHIY エイガニッキ

メモ書きです、遊び心です、それでも、力です、どこにも、どちらにも、収まりつかない、思いです、可能性です、

SASHIY エイガニッキ

2015-03-31 18:00:09 | 日記

ⅩⅩⅦ『「明治の表象空間」松浦寿輝』を読む聞く見る  基本に在るのはフーコーなのだろうし、蓮実なり柄谷の影響下にもあるのだろう、が、でも読んでいて非常に楽しいのです、壊すのは、反抗するのは、私ではなくて、エクリチュールなのだから、しかも著者は斯く書物を書き上げてしまった己、私に自覚的、自覚的な私の私壊しなのだ、映画を見ながらいつも思ってきた、壊れた私とはこのこと、壊れながらも取りあえず有るしかないワタシを抱えながらも、見るという行為が、見ながら思考することが、そして、これをニッキとして言葉にすることこそが、苛立ちが、闘争とまでは成らなかろうが、孤独に生き延びる、少しでも世間の裏かいて、いや、裏表などと確かなものなど何もないのだが、世間自体を変容させる、力足りうるのではないか、このニッキの始まりのメカスの映像を映し出しながらのハッハッハそのものに連なっていく、見る、聞く、書く、最近に見た、神代の「濡れた唇」「悶絶!! どんでん返し」「快楽学園 禁じられた遊び」「濡れた欲情 特出し21人」「嗚呼!おんなたち 猥歌」たち、筋の通った物語ではなく、多様な人々の絡まり、空回り、男も女もホモセクシャルもレズビアンも、行きつ戻りつ、収まりつかない彷徨い、歌が、曲が、謡が、ご詠歌が、民謡が、歌謡曲が、ロックが、ジャズが、クラシックが、映像に重なる、物語の展開とは素直に一致などしない、いや、身勝手に流れているのだとも、盛り上げるためにドラマに奉仕などしない、人物たちも、他との関係で動いているわけでもない、個々に、自由に、恋し、求め、抱き、走り、逃げ、裸にし、裸になり、殴り、独り言を呟く、主人公らしき者は、こんな不可思議な、これぞ現実か、欲望に振り回されて堕ちていく、堕ちきらずに躓いて、しがみ付いている、まさに、壊れた私として、「濡れた唇」の板金工の青年は、風俗の女に惹かれ、とらわれ、ついには彼女の幼友達とその恋人とともに逃げるのだが、愚かしくもこの場に至っても仕事を探す滑稽、「悶絶!! どんでん返し」のエリートサラリーマンは、やくざものに犯され、いつの間にか、お姉さんとして夜の仕事に、しかしやくざものはヤバくなると、平気で裏切って去っていくばかり、こんな私を捨てられずに追いかけるオネエサンの滑稽、「快楽学園 禁じられた遊び」では、主人公の娘に、何も知らずに何でも受け入れる娘の自由に、逆に巡りが、こだわりの人々が滑稽に暴かれる、学校の教師たちが、同級生たちが、家族である父が、母が、自由な娘は何物でもない、快楽そのもと成り、キモチイイ、キモチイイと、叫ぶのだ、「濡れた欲情 特出し21人」では、もはや、世間並の人などいない、確かに今は昔、古い堅気の踊り子さん達は仕事熱心でビジネスマンの様だが、今や、仕事のためか、家族のためか、売られたのか、助こましに誑し込まれたか、恋してしまったか、子供が欲しいのか、女同士の関係に目覚めたか、やくざの組員に成ったのか、語ってみせただけの芝居か、旅の役者も通りで演じているがどんな芝居か何も分からない、演技で殺されて、血が流れて真っ赤に染まっているが通り掛りの人は何の反応も見せはしない、ラストに役者も助こましも監獄に囚われた、二人の始まりは海辺のラーメン屋、次には路地の居酒屋、今監獄では在るのだが、この二人は知らず、抱き合って、求めあって、欲望を満たし始めるのではないか、あるいは監視人を招き入れるかもしれない、二人の関係の中に、関係を変容させる、永回しの中に、いつ何時、招かれるか、いや既に招かれて在るのではないか、明治の表象空間を読みながら、神代映画を見ながら、安藤礼二の「折口信夫」、絓 秀実の「天皇制の隠語」も読みながら、招かれて仕舞っていないか、現代を問うとは、近代を問うこと、原発を、ISを、イエメンを、チュニジアを、沖縄を、韓国を、これには、「帝国の慰安婦」を読みながら、中国を、これには、「罪の手ざわり」ジャ・ジャンクーを見ながら、問うとは、近代を変容させること、そんなわけで、高崎映画祭にでも出かけますか、原田正純の「水俣が映す世界」を手にしながら、