ⅩⅩⅩⅧ 「キョート・マイ・マザーズ・プレイス」を観る聴く
監督の母の娘時代の写真、女学生たち、着物姿、京都、過去と現在、碁盤の目の通り、俯瞰で捕らえられる街、続く古き家々、日本の都、古都、中国の文化を真似て作られた街、仏教、天皇、武士の台頭、歴史、中世に都は東に、権力の二重構造、幕府と天皇と、しかし、その故に京都は商都として栄える、商人の力、母の実家、商人の屋敷、間口の狭い、奥行きのある屋敷、その屋敷の内なる、光と影、官僚の父、父は母と結婚し仕事で瀬戸内海に、青い海の中に、その地で生まれる監督、渚という名もこの地から、さて、監督が、母が生まれ、育った、京都を歩く、彷徨う、監督自身が、着物姿で、画面の中に、語り手の監督自身が、母の写真に残された通りを、公園を、母の死の後に、今日の京都を、写真に写っている同級生を訪ね話を聞く、京都の生活、嵐山、咲き誇る花々、花びらの落ちて浮かぶ美しい小川、賑わう人々、花見の人々、橋、山、流れる音楽、愛のコリーダ、で流れた音楽では無かったか、父は病で若くして死してしまう、斯くて、妹と共に母の実家の京都に戻ることに、暗い、屋敷の中、母はこの屋敷の中で、女として、生きた、京都の女は、日本の女は、あくまで、家の中で、父親の絶対の権限の中に、学問を修め、教師としての資格まで在りながらも、これが現実、母の現実、そして、父の死と共に、監督もこの暗い、溜まらない、京都の街に、あの光り輝く瀬戸内海の青さから遠く離れて、学校、大学、芝居、学生運動、全てが失敗に終わる、満足な芝居も出来なかった、運動は共産党との軋轢の中に、決して勝利は納められなかった、織田信長が今少し生き延びたならば、この京都を焼き払ったかもしれない、高台から街を見下ろす監督、私もまた、この京都を始末したかった、母の生活を支配した京都、世界大戦の最中、アメリカも、京都を焼き払うことはしなかった、戦時中も豊かに生活していたのだと、母の同級生の夫人が語る、これもまた不気味だ、そんな生活が戦争中にあっのだから、それが京都、生き延びてきた、今もって、戦後、母は子供たちの為に働きに、役所勤めに、そうして主人公は映画会社に就職、女優と結婚、子供が生まれる、すると、二人は仕事故に己らの子供たちの育児を母に託すことに、京都から鎌倉に移った母、母は、一人、京都で、自由に生きられたかもしれない、その母の自由を奪ったのは、監督では無かったか、監督の妻では、孫たちの育児に専念した母、監督は果たして、京都での母を見てきて、その女の在り方に、批判的で在りながら、その母に、また、育児を、女の生活を押しつけたのでは無かったか、監督もまた、京都を批判しながら、日本を批判しながら、知らず、京都の男を生きていないか、祭りの盛んな京都、多様な祭りのある京都の中に、友人に誘われて祭りに参加する監督、神輿、担ぎ、河を神輿が渡り、クライマックス、そして、散会してそれぞれに、家族とともに酒を飲む、そのときには既に母の事は頭から離れて、忘れ去って、酔いしれる、さて、この監督の存在、母を語り、その知り合いに会い話を聞き、過去の写真を鏤め、今日の京都を行く、そして、この伝統の京都の祭りに入り込んでいく監督、カメラは、その監督を捉える、語り手の監督は映画の中に入り込んである、それで居ながら、カメラは撮影として、編集として、このドラマの外にもある、監督を含めての京都は、今、この映画を見る、私たちに託されている、京都をどうする、やはり、しっかり焼き払うのか、監督同様に、京都の町に、祭りに、酒に、浸かっていくか、託された映画、託されたカメラ、託されたわたし、花が、音楽が、山が、通りが、屋敷が、川が、橋が、母が、監督自身が、歴史が、時が、漂う、彷徨う、散りゆく花のごとくに、ふらふらと、舞うごとくに、光り輝きながら、終わりか、始まりか、