ⅩⅩⅤ 田中泯・高橋悠治 即興 を観る聴く
舞踏です、ダンスです、高橋悠治のピアノです、観客から見て、左手手前にピアノが、高橋悠治自身のピアノを持ち込んだとのこと、ほぼ中央の奧のスチールの板の影から、泯が現れます、スチールの板が上から吊されている、左手奥には同じ板が壁に掛かっている、二枚の板、ライト、舞台中央、客席側に吊されたライトから、このスチールの板に灯りが当たります、闇の中に、灯りが反射します、夜でしょうか、ネオンでしょうか、着物姿の泯です、ピアノの音が、ゆっくり響きます、男は、灯りと音と戯れている、視線はどこに、足は、手は、どこに向かうのでしょうか、存在は、始まりです、ひと踊りの後には、板の影に隠れます、そして、板を揺らします、灯りが揺らぎます、影も漂います、月夜の、闇夜のひと踊りなのでしょうか、酔っぱらった男の遊び、夢見た男の、果たして、真に男ですか、判りません、私の思いこみでは、見る側の、ならば、彷徨う、男女とは判明しない、人のダンス、夢遊病者、あなたです、私です、舞っているのは、誰も居ません、いや、居るのでしょうか、居るのだ、私たちが見て居るでは、聞いて居るではないですか、確かに、舞台としてのドラマ設定は自由に成り立ちますが、解釈は可能でしょう、たとえ筋書きが在ろうとも、観客との関係の中で、舞っているのです、それも、平然と、自由に、でも決して傲慢では在りません、音と灯りと影と、そして、揺れる板、たわむ板の音も響きます、私たちの視線、聴覚を自覚しながら、動き、止まり、戻り、進み、決して、一所に収まりなどしません、ひとつの舞いの後に、壁に、もたれます、休憩です、汗を拭きます、咳き込みます、演奏家も咳き込みます、この音も、空間に、しっかり、響きます、私たちの呼吸も聞こえるでしょうか,狭い客席での腰の動きの音も、人は横になり、舞踏のいつもの赤ん坊の格好です、私たちに足の裏を見せます、足の裏のダンスです、余りに凄いです、素晴らしいです、顔では在りません、足の裏です、今まで、私たちが、拒んできた、見せてこなかった、足の裏で、表情を構築するのです、涙が出ます、肉体に表も裏もありません、足の裏、指、輝き、陰影の中、舞うのです、全てがダンスなのです、壁も、板も、灯りも、影も、ピアノも、演奏者も、観客も、カメラを構えるスタッフのお姉さんも、舞踏家も、後れて入ってきたお客さんも、上から、此処は地階ですから、地上のバイク屋さんからの仕事の音も僅かに漏れ聞こえます、含めてダンスなのです、演奏者は、ピアノの上に置かれた腕時計を見ながら、演奏を続けます、ダンサーは、また立ち上がり、飛び、振り返り、求め、彷徨い、強調し、収まり、静止し、突出し、肉体は叫び、安らぎ、壁に向かい、汗を拭く、もたれます、そして、また、次なる始まりを、模索します、そんな矢先に、時間ですかと、演奏者と目を合わせます、笑みの演奏者です、ダンサーは時計を見、もうこんなですか、楽しんじゃいましたと語ります、終わりです、何が、何も、終わりません、相変わらずの、始まりです、ダンスとして、存在が、空間が、時間が、始まるのです、時間ですとは、日常の時間のこと、が、ダンスの時間は、何も終わりはしません、常に、始まりなのです、始めなくては、成らないのです、覚悟して、
ⅩⅩⅥ 彈眞空を観る聴く
尺八の演奏会です、暫く演奏会を聞いていなかったので、とても、新鮮です、邦楽の世界を余りに何も知らないので、この演奏会の音を言葉にするのは、少しばかり、いや全くもって身勝手とも想いますが、ニッキという気ままな語りならば、演奏を聴いた者の、自由な言葉遊びならば、そんな遊び事に付き合う者は誰も居ないでしょうが、それでも、私には、この遊びが、理解の、音に対面しての、可能性の始まりなのですから、演者は虚無僧の姿で現れます、演奏の最中に歩きます、歩きながら演奏をするのです、虚無僧ですから、元々、祈りの世界とも言えるのでしょう、演奏の合間には、言葉を発します、お経とも、哲学とも、祈りとも、判りません、そうした言葉は此処では、私には、関心が在りません、一途に、音の在処です、発せられた、音が、どこに、部屋の空調の音も止めもして居ません、此処は、カフェですから、注文の料理も、飲み物も運ばれ続けています、こうした場で、間で、音が、揺らめきます、演者は前向きに近づき、背を向け離れ、音の動き、決して、高鳴りはしません、が、とぎれることなく、もちろん息づかいが在るのだから、間は在りますが、曲が終わるまでは、持続する音、中空を彷徨い歩く音、どんな、解釈も拒んで、あなたの、理解は、まだまだですよと、問いつめます、しかし、私は、愚か者ですから、俗ですから、あらぬ事に気を取られます、この演奏会に来るまでの列車事故のこと、前に座っている女性のこと、お茶を運ぶ店の人の姿、見てきた映画のこと、馬鹿な、下らぬ仕事のこと、いけない、気持ちを集中しなくては、音について行かなくては、斯く、音とイメージと解釈と散漫との行きつ戻りつの中に、逆に、私が露わに、この私とは、演者に問いかけられて、私とは、日常の中で、とりあえず、生活故に、在ってしまうに過ぎない、私、日本という世界に捕らえられてしまった私、今ある日本語たちに押さえ込まれた私、喧噪の響きの間に聴覚を錯乱されている私、かくて、この私が、また、彈眞空の音に向かいます、向き合えと勧める力のある音が在るのですから、私など振り捨てろ、心地よいメロディーが現れても、直ぐに次に展開してしまいます、響きの度合いも、全てに同じではないのです、リズミカルに乗ろうとても突き放されます、己の息づかいまでもが見えてきます、テーブルのワインを口にします、旨いです、最高に、心地よい、間があるのです、此処には、次なる曲が始まります、さて、何が、見えますかしら、現れますかしら、