ⅩⅦ 「四方田犬彦 ルイス・ブニュエル」を読む
ブニュエル映画を久しぶりに、ゆっくり復習できて、ブニュエル映画の間が蘇る、愉しさ、しかも、此処に書かれているのは、単にブニュエルばかりではない、60年代からの日本での世界の前衛映画に対する批評の在処も、ブニュエル映画を通して書かれている、故に、花田清輝が、松本俊夫が蘇る、花田の批評が、松本の批評が、そして、松本の映像が、偶々、最近にあらためて見ることの出来た、「薔薇の葬列」のモノクロの世界までもが、重なり合ってくる、60年代の終わりの新宿の空気も共に、読みながら、ブニュエル映画の見られた、町が、映画館が、蘇る、「アンダルシアの犬」の新宿御苑、「糧なき土地」の神保町、「忘れられた人々」の中野、メキシコ時代の映画たちの渋谷、「昼顔」はテレビのブラウン管で出会ったはず、四方田と共に、戦後映画批評史を辿り、私のブニュエル映画の体験の過去をさかのぼり、ながらも、今もって、突き刺さってやまない、ブニュエルの映像の力、終わったと想うなよ、過去の映画作家と決めつけるなよ、全くもって新しいのだから、漸くに、始まったばかりなのかも知れない、DVDも在るから、自由に、見ることが可能に成ったのだから、そんな、大きな始まりの為の素晴らしい誘いの書で在るのではないかしら、どんどん乗り越えるべく招かれて在る、私たち、それに答えるべく在る私たち、「昼顔」の鈴の音が知らず、頭の中に、響き渡る、そんな思いこみに填るなよ、いや、知らず填り込むしかないのだと、響き、ながら、馬車が行く、震災後の日本を、アベノミックスの日本を、
ⅩⅧ ジャック・スミス アンディー・ウォーホール を 見る聴く
暫く振りの再会でしたが、以前には、何も見ていなかったように思えて、「燃え上がる生物」のあの始まり、靄の掛かった世界から、現れ出る者たち、衣装、化粧、踊っているのか、もがいているのか、彷徨っているのか、表情、腕、足、音楽、彼らの叫び、輝き、ひたすら感動して見入るしかない、裸の彼ら、誰と誰が関わり合っているのかも判らない、そんな混沌、擦れ違い、求め、離れ、ポップスが流れ、真上から撮られたカメラが踊り巡る者たちを追いかける、彼らの回転、動き、カメラの外に飛び出さんばかりに、ストーリーでもない、ドラマでもない、蠢きの輝き、そして、ウォーホール、何時、変容が、起こり出すか判らない、間、人物たちの関係の中、変化を誘われる間、「イート」「キス」などの初期の反復される映像、変化らしきものは何もないが、何時、何処に、展開しないとも限らない、危うさ、「ビューティー♯2」「チェルシー・ガールズ」「ブロウ・ジョプ」「ヴィニール」「マイ・ハスラー」「ファニータ・カストロの生涯」「ヌード・レストラン」「ロンサム・カウボーイ」、招かれた者が、関わりの中で、何処に蠢き出すか、変容するか、いや、既に、変わってしまった、見ている、私も、いつの間にか、知らず、連れ出された、ウォーホール展の中の、「ルペ」「ヘアカット」「キャンプ」、まだまだ、60年代のニューヨークの映画たちも、消化しきれない、いや、全く、違う見方も、若い人々から、出てくるのかも知れない、安易な、なぞりに終わらないように、ネットを介してもっともっと自由に見られるようになれば、これも又、大きな始まりだね、
ⅩⅨ 「なみのおと」「なみのこえ」「うたうひと」を見る、聴く
東日本の被災の後、様々な映画が撮られ、上映されているが、唯一、被災者を撮ること、彼らの声を聴くこと、語らせること、見ること、編集すること、映画にしてしまうことの自覚に基づいているのは、この三部作ばかり、紙芝居に始まり、昔話にまでも、東北の見えない過去の歴史にまでも、踏み込んで、今、被災が、いかにして、語られていくのか、受け継がれていくのか、でも、受け継がれなくては、終わってしまう、フクシマもまた、受け継がれうるのだろうか、いや、きっと、生き延びる、生き延びてみせる、そのためには、いかに、映画の中には、具体的な処方はない、政治もない、だが、圧倒的に、この語る口こそがが、聞き入る耳こそが、向かって座っている、視線こそが、車座になって座っている、姿こそが、私たちなのだ、偉大なる、語りの歴史の中に、中から、私たちを救い出せ、