SASHIY エイガニッキ

メモ書きです、遊び心です、それでも、力です、どこにも、どちらにも、収まりつかない、思いです、可能性です、

エイガニッキ SASHIY

2014-05-18 08:44:59 | 日記

ⅩⅦ  「四方田犬彦 ルイス・ブニュエル」を読む
  ブニュエル映画を久しぶりに、ゆっくり復習できて、ブニュエル映画の間が蘇る、愉しさ、しかも、此処に書かれているのは、単にブニュエルばかりではない、60年代からの日本での世界の前衛映画に対する批評の在処も、ブニュエル映画を通して書かれている、故に、花田清輝が、松本俊夫が蘇る、花田の批評が、松本の批評が、そして、松本の映像が、偶々、最近にあらためて見ることの出来た、「薔薇の葬列」のモノクロの世界までもが、重なり合ってくる、60年代の終わりの新宿の空気も共に、読みながら、ブニュエル映画の見られた、町が、映画館が、蘇る、「アンダルシアの犬」の新宿御苑、「糧なき土地」の神保町、「忘れられた人々」の中野、メキシコ時代の映画たちの渋谷、「昼顔」はテレビのブラウン管で出会ったはず、四方田と共に、戦後映画批評史を辿り、私のブニュエル映画の体験の過去をさかのぼり、ながらも、今もって、突き刺さってやまない、ブニュエルの映像の力、終わったと想うなよ、過去の映画作家と決めつけるなよ、全くもって新しいのだから、漸くに、始まったばかりなのかも知れない、DVDも在るから、自由に、見ることが可能に成ったのだから、そんな、大きな始まりの為の素晴らしい誘いの書で在るのではないかしら、どんどん乗り越えるべく招かれて在る、私たち、それに答えるべく在る私たち、「昼顔」の鈴の音が知らず、頭の中に、響き渡る、そんな思いこみに填るなよ、いや、知らず填り込むしかないのだと、響き、ながら、馬車が行く、震災後の日本を、アベノミックスの日本を、

 
ⅩⅧ  ジャック・スミス アンディー・ウォーホール を 見る聴く
  暫く振りの再会でしたが、以前には、何も見ていなかったように思えて、「燃え上がる生物」のあの始まり、靄の掛かった世界から、現れ出る者たち、衣装、化粧、踊っているのか、もがいているのか、彷徨っているのか、表情、腕、足、音楽、彼らの叫び、輝き、ひたすら感動して見入るしかない、裸の彼ら、誰と誰が関わり合っているのかも判らない、そんな混沌、擦れ違い、求め、離れ、ポップスが流れ、真上から撮られたカメラが踊り巡る者たちを追いかける、彼らの回転、動き、カメラの外に飛び出さんばかりに、ストーリーでもない、ドラマでもない、蠢きの輝き、そして、ウォーホール、何時、変容が、起こり出すか判らない、間、人物たちの関係の中、変化を誘われる間、「イート」「キス」などの初期の反復される映像、変化らしきものは何もないが、何時、何処に、展開しないとも限らない、危うさ、「ビューティー♯2」「チェルシー・ガールズ」「ブロウ・ジョプ」「ヴィニール」「マイ・ハスラー」「ファニータ・カストロの生涯」「ヌード・レストラン」「ロンサム・カウボーイ」、招かれた者が、関わりの中で、何処に蠢き出すか、変容するか、いや、既に、変わってしまった、見ている、私も、いつの間にか、知らず、連れ出された、ウォーホール展の中の、「ルペ」「ヘアカット」「キャンプ」、まだまだ、60年代のニューヨークの映画たちも、消化しきれない、いや、全く、違う見方も、若い人々から、出てくるのかも知れない、安易な、なぞりに終わらないように、ネットを介してもっともっと自由に見られるようになれば、これも又、大きな始まりだね、 

 
ⅩⅨ  「なみのおと」「なみのこえ」「うたうひと」を見る、聴く
  東日本の被災の後、様々な映画が撮られ、上映されているが、唯一、被災者を撮ること、彼らの声を聴くこと、語らせること、見ること、編集すること、映画にしてしまうことの自覚に基づいているのは、この三部作ばかり、紙芝居に始まり、昔話にまでも、東北の見えない過去の歴史にまでも、踏み込んで、今、被災が、いかにして、語られていくのか、受け継がれていくのか、でも、受け継がれなくては、終わってしまう、フクシマもまた、受け継がれうるのだろうか、いや、きっと、生き延びる、生き延びてみせる、そのためには、いかに、映画の中には、具体的な処方はない、政治もない、だが、圧倒的に、この語る口こそがが、聞き入る耳こそが、向かって座っている、視線こそが、車座になって座っている、姿こそが、私たちなのだ、偉大なる、語りの歴史の中に、中から、私たちを救い出せ、


エイガニッキ SASHIY

2014-05-01 09:23:35 | 日記

ⅩⅤ「遺言 原発さえなければ」を見る、聴く、 
 震災を扱った映画もいろいろ在りますが、良く被災者の人々を、酪農の人々を捕らえていると想います、此処まで、踏み込んで撮ることが出来たのも、そこに至るまでの時間と、関係を作り上げる力の故、大変なことだったでしょう、監督自らも映像の中に入り込んで居るのも、語っているのも、カメラに語りかけられ、涙を流してくれていると、理解されているのも、この関係の成せるわざ、そして、監督が二人であることのメリット、一人の監督を客観出来るから、被災者の夫婦の語り、被災者とカメラとの語り、被災者たちの語らい、これらが安易な編集で成り立っていないから、カメラがあることが既に彼らにとっても日常の中に溶け込んでいるから、素晴らしい、そして、カメラと木々、緑、空、月、風景、牛との生活、牛との別れ、涙、休憩前の前半と呼ぶのか、此処までで充分映画は成立して、完成して、見事に作品に成っている、被災という痛みを背負って、仕事を失って、先も見えずに、生きなくては成らない人々、家族も今まで通りには居れない、斯くある人々の姿が、言葉が、日常が、収まっている、訴えかける、ならば、なぜに、後半が、在る、確かに、酪農家の自殺という、ショッキングな事件が出来してしまった、これは、見ている私たちも含めて、此処までの作品にどこか安心してしまっている、強く生きている人々に安らいでしまった、この視線を撃つべく、何も、全く、解決していない、政治も、経済も、しかも、原発をしっかり始末出来ていないままにある私たちを撃つべく、出来した、後半は映画が全く壊れている、時間が余りに早く動いて、自殺現場、残された文字、小屋、棺、弔い、語る姉、そして、他の人の葬儀、一周忌、故郷を離れて仕事する人々、仮設の人々、確かに、現実が、故郷に皆を置いておかない、仕事を求めて離れる者たち、横浜に、山形に、仮設に、家族は別れて他の町に、前半はほぼ人々の生活の拠点はこの故郷に在った、あたりまえに、そこから、壊れていく、離れていく、故に、映画自体も、前半の人々を皆追いかけきれない、あたりまえの現実、自殺した酪農家の家族は見えない、語られるばかり、未だ幼い子供、フィリピン、出掛けて戻ったばかりでの自殺と語られる、だが、映画のみを見ていては、奥さんのことが良くわからない、子供たちも、カメラは、追いかけたのだが、撮影は拒まれたのか、撮影されたのだが、編集で削ったのか、自殺と云うサスペンスに捕らわれて、見てしまう、私たち、謎解き、自殺した酪農家と奥さんの関係、彼女自体も故郷を離れて一人、孤独、何を求めて日本に、福島に、これは、フィリピンの貧しさ、福島の酪農家に嫁いでくる人が少ないのだろうか、これは私の勝手な憶測、でも、多様に推理を働かせてしまうドラマが出来してしまったのだ、全て追いかければ、震災前の福島の酪農家の暮らしとは、豊かさ、貧しさとは、原発を呼び込んだ福島の実体とは、日本に花嫁に来たフィリピンの娘さんの故郷での生活とは、まさに、日本で生産が成り立たない原発は、海外に輸出されようとしている、全ては、日本ばかりの問題では無いのだ、既に、含めて後半の映画の壊れを、こそ、しっかりと見ること、聴くこと、問うこと、久しぶりに集まった家族、子供たち、彼らが故郷の学校に戻ることは無い、映画の壊れは、テレビニュースとしても利用され、此処では、映画は、ニュースとして扱われたのか、映画の一齣としてなのか、彼らの語りは、怒りは、叫びは、監督との関係の上に成り立った世界なのだから、テレビニュースには成らない、だが、利用できるものは、なんでも、有効に使うのは壊れのひとつとも言えるのだが、しかし、何に利用する、こんなひとつひとつ、個々の壊れと連なって、私の壊れでも在るのだ、とりあえずに、バッハの音楽で、終えた、だが、あくまで、とりあえずの映画の終わりに過ぎない、監督自身も、まだまだ、撮り続けるのだろうが、壊れた個々の場で、違った者たちが、繋いで、撮り続けられるであろう、可能性の映画として、とりあえずの終わりが、バッハが、放射能の測定器のひび割れた音が、聞こえる、見える、

 ⅩⅥ「インポート・エキスポート」を見る、聴く、
  日本人よ、この映画を是非に見よう、何も知らない、ウクライナに少しでも、近づく為にも、あまりに私たちは、ウクライナを知らないから、何処にあるか知っているかしら、隣の国は、国境は、もちろん、ウィーンだって何も知らないかもしれないが、つまりは、世界を知らないのだが、ヨーロッパの大都会と、かつて東と云われた、スロバキア、そして、ウクライナ、確かに、あくまで、映画、此処に描かれた世界が、現実そのままで在るまいが、セットで撮られて居ない、個々の間、空気、人々、存在は、重い、二人の主人公、まずは、ウクライナの車両区が、雪の道、アパート、病院、機器の何も無い、点滴ばかりのベッド、ベッドの赤ん坊、看護士の主人公、給料の滞り、列を作る看護士たち、主人公の母、部屋には、寝ている男が、父か、夫か、兄弟か、廃屋の中の風俗の撮影所、廃屋前の警備の、見張りの男、裏世界、いや、これこそが表世界のビジネス、これらの映像が、激しく迫り来る、存在感、肉体として、文字通り女たちの裸として、声として、ファッションとして、主人公の、衣装、靴、どこかミスマッチ、派手々々、彼女の在処を語って居るとも、手紙が彼女に、仕事を求めてウィーンに、赤ん坊は母に預けて、清掃婦の仕事、屋敷に、しかし、ブルジョア奥さんは嫉妬、子供らと仲良しと成った主人公を理由もなく追い立てるのだ、次には、仲間の紹介で、老人介護の施設に、やはり清掃員として、煩い規律、ウクライナでは看護士だから、老人を労ると、嫉妬女看護士が決まりだと叱りつける、疲れた老人たち、孤独、家族から遠く離れて、ベッドに寝かされて、合理化された施設の不気味、豊かな都会の不吉な空間、美しい主人公は男の看護士に見初められる、介護されている老人にも恋されて、結婚しようと、そうすれば永住権が取れると、老人も判っている、こうして、娘らを手にする者たちが在るのだ、慰めに、他に何も無いのだとも、笑って聞き入れない、結婚してどうするのよと、しかし、これから、宛など在るか、困り果てれば、受け入れなくては、が、この老人は死してしまう、涙、赤ん坊に電話するしかない、故郷の母の元に、悲しみ、施設のパーティー、踊る主人公と男看護士、嫉妬の女看護士が襲いかかる、負けない元気、逆に殴り倒して、彼女たち清掃婦らの笑い、語らい、素晴らしい、力強さ、逞しさ、危ういながらも、一方のウィーンの主人公、この現実も、なかなか、日常では、見えてこない、場、間、警備員の激しい鍛錬、岩場、緑のウィーンから見えてこない、場所、何処なのだろうか、警備員として働き始めて、ビルの駐車場で襲われてのリンチ、取り巻くどこから遣って来た男たちだろうか、ウィーンの主人公自身も、襲う男たちも、余所から遣ってきた移民なのだろうか、金を奪うように求める男たち、主人公の父らしいが、金を返せと、通りかかった男も、迫る、逃れる主人公、今度は、主人公が通りがかりの男にたかる、この冷たい関わりたち、そして、得たいの知れない女、ダンス、見つめる父と主人公、女は誰、娼婦、主人公の母、父の女、父の仕事、壊れ掛けのコイン仕掛けのマシーンをスロバキアとウクライナに運び設置するのだ、貧しい地域の路地に、そんな狭間に見える、アパート群、住まう人々、暮らし、娘を売る家族、男たち、主人公らの車を追いかける子供たち、逃れるように去る主人公と父、スロバキアの貧しさ、遣ってきたウクライナ、バー、女を求める、娘を部屋に連れ込んで尻をまじまじと見つめる父、お前が抱けと、二人の抱き合っているところを見たいのだと、己では抱けない駄目父、酔っぱらいすぎたか、堪らない主人公は飛び出していく、僅かの金を手にして、かくて、一人、仕事を求め、彷徨う主人公、宛もなく、幹線道路を歩く、何処に、さて、二人の主人公の、移動、が、これで終わった訳でもなく、生活の為には、何度でも、何処にでも、行き来するしかないのだ、放浪の民、何処までも、彼らと共に、今のウクライナを、ウクライナの政治情勢を、ロシアとアメリカとユーロの狭間に在る、彼らを、映画と共に、改めて、見よう、聴こう、世界に近づくためにも、日本の在処を問うためにも、