ⅩⅩⅩⅥ 「バードマン」「セッション」を観る聴く
名画座の二本立てです、これほどだめな作品を二本並べるとは、早稲田松竹もなかなかです、これほど愚かしい映画を最後まで編集する監督もなかなかです、二本ともしっかり見てしまう私もなかなかです、監督もよほどの覚悟が在ったのでしょう、これを最後に映画界から去る気持ちなのでしょうか、ご苦労なことでした、最後まで行かずに、止めてしまえばそれで良かったのに、時間の無駄です、そんな時間に付き合ったわたしはなにもの、偶々酷い映画二本に当たったのでしょうか、何がだめって深刻そうにドラマを仕立てようと必死、そのためのカメラワーク、編集、これこそ、今、シリアでのニュースで使われている映像なのではないか、パリの、アメリカのテロのニュースとして、テロリストはテロリストらしく無ければいけないのか、まさか、そこらの一般の人たちが、アラブ諸国で、ヨーロッパで、アメリカでテロに加わっているのだ、大戦時だって、日本のそこらの若者が最前線に、大学生のインテリが神風と成っていたのだ、今日の不気味さは、隣の平凡な暮らしの人々がテロリストとばかり、元々そんなものだ、私はテロリストと見せかける馬鹿がどこに居る、空爆している兵士だって、国ではそれこそ普通のフランス人、ロシア人、イギリス人、アメリカ人だろうに、パリでは弔いの映像たちが、悲しみの人々の映像たちが、シリアの映像は、空爆する戦闘機からの映像たちばかり、こうして、被害者としての国々としてのヨーロッパ、アメリカ、というドラマが仕立てられていく、敵はテロリスト、見えない怖いテロリスト、狂信者、注意しろ、しっかり始末しておかないと危ない、今のうちだ、徹底的に攻撃し始末しろ、だが、テロリストとは何、どこからやってきた、どうして生まれた、隠されて、一方、シリアの地上の映像は、あり得ないか、しかし、山形映画祭には在った、「銀の水-シリア・セルフポートレート」は確かに、空爆前の映画だから、空爆を受けた現実ではないが、シリアの今日の現実に迫ろうとする、その不可能と可能の狭間の痛ましさを見事に捉えた、斯くした映画が在るのだ、他にまだ在るかもしれない、この可能性を求めて観ていかなくては、隠されて、作られて仕舞って在る世界の現実は、何も判りはしないのだ、だからこそ、山形にも足を運ばせなくてはいけないのだ、動かなくては、見えてこない、シリアが見えてこなくては、空爆も判らない、今日の世界を知らなくては安倍さんの評価も出来ない、こんなことをふらふら考えながら帰宅する私ならば、かくも考えさせるこの二本の映画はただものではないかもしれない、彼らの次期作品にも足を運ぼう、
ⅩⅩⅩⅣ「「ワルシャワ蜂起」を観る聴く
遺された過去の映像に、監督がカメラの撮影者で在ったろう人々の言葉を重ねた、監督の一つの遺されたフィルムに対する解釈だ、捕らえ方だ、しかし、そんなドラマなど作り出さなくても、ここに遺されたフィルムばかりで充分見る者を撃つ、そもそも私たちは言葉では、歴史としてワルシャワ蜂起を知っているが、その現実は何も知らなかったとしか思えなく成る映像たち、ドラマとしてポーランドでは、背景にある蜂起は取り上げられて居るのだが、ドラマに魅せられて、その実際の戦いは、知らない、蜂起直後の人々の姿、通り、建物、若者、老人、女性、子供たち、その笑み、希望、だが、どこからも助けがなくて、ドイツ軍に虐殺される、難民と化して逃げ出していく人々、彼らを捕らえた映像、廃墟と化したビル、通り、街、誰も居ない破壊連れた街、ドイツ兵が僅かに歩く街、最前線での戦闘シーンも撮られたかもしれないが、そのカメラマンは死して、フィルムも消えて仕舞ったか、ソ連の、イギリスの、アメリカの大戦後処理の思惑の直中に放置されたワルシャワ、しかし、これは沖縄も同じではないか、そんな沖縄戦とその後の映像も、「沖縄 うりずんの雨」の中に現れて、カラーで、私たちは、沖縄戦もまた満足に知らない、同様に、広島も、長崎も、全国の空襲も、余りに知らない、想像力がまだまだ掛けている、見ることの力が足りていない、聞くことの力が、「硫黄島 地獄の36日間」のアメリカで撮られたドキュメントを見ても、これまた知らなすぎるのだ、全て終わったかのごとくに語られて、始末されて、最前線の生死ばかりで無く、政治として、今日現在の国の在り方として、ワルシャワの現実も、沖縄も、生き続けてある、硫黄島の上陸前の爆撃も艦砲射撃も、派手なばかりで、日本軍の塹壕は何も破壊できなかった、ならば、そのままに今日、シリアでの爆撃では何がなされているのか、何も、派手なばかりで、ソ連もアメリカもフランスもイギリスも在庫整理ばかりで、せいぜい民間人が死していくのみではないのか、イメージの効果ばかり、テロリストもこの映像の騒ぎに同調している、互いに勇ましく雄叫びを上げているのだ、近い歴史に限っても沢山の参考出来る戦闘が戦争があるのだから、根気良くそんな愚かしい戦いの姿を見直そうではないか、己の家族がそこに居た居ないではない、己の国が参加して居る居ないでは無い、ワルシャワは、朝鮮半島は、ベトナムは、パレスチナは、イラクは、その他多くの、その戦争は何であったのか、しかし、ボーランド映画祭で上映されたこの「ワルシャワ蜂起」は公開はされるのかしら、
ⅩⅩⅩⅤ「花芯の刺青 熟れた壺」を観る聴く
路地を歩く娘、美しい娘、実家に戻ってきた、未だ若い夫人、だが、姉では無い、義理の母なのだ、夫人の夫は既に死して、夫の家業の人形作りを継いでいる主人公、久しぶりの実家の娘、食事、まずは風呂、だが、二人して入るのだ、このエロス、素晴らしい、スタイルの良い二人の体、母はなんとか大学生にまで育て上げたのだから、後はお嫁に出すばかりと、溜まらずに母の胸を抓る娘、一生二人で暮らすつもりの娘、二人の関係は、どこかロマンが、母はあくまで受け身、見つめるばかり、そんな母のビジネス相手の人形卸の社長、会社でも事務員の娘のスカートをまくって尻を舐めている、主人公を誘って、料亭、薬を盛って眠らせて犯してしまう、その帰りのいたたまれない雨の中、主人公を見つめる一人の男、社長も、この男も、主人公を見つめる、求める、この視線たちに対して何も出来ない主人公、雨宿り、濡れた足袋を脱ぐ主人公、しゃがんでいる主人公、白いかかと、首筋、社長はその後、主人公の屋敷にまでも、求める社長、拒む主人公、そこに娘、見てしまう、母の姿、怒り、主人公に連絡が、娘が事故で病院に、走る走る、あの社長とのことを見て飛び出して車とぶつかったのだ、足を怪我した娘、娘は駆けつけた母を詰る、大した怪我では無いと、謝る事故を起こした車の青年、互いに見つめ合って、この間、娘はこの青年に連れられて屋敷に戻ってくる、語られる名、過去に知って居た死した役者の息子なのだ、人形を一目見て道成寺と理解する青年、娘は誘って青年に抱かれるままに、二階と下の主人公の部屋、階段で繋がるが同一空間の間、二階の窓から下の部屋が空間として繋がっているのだ、仕切られていない、だから、覗けるとも、聞こえるとも、上下の互い違いでは在るが同居する空間、美術の勝利、居たたまれない主人公、娘はあの社長とのことの反抗なのか、主人公は友人の営むバーに、その女将は昔なじみ、思い出の歌舞伎役者の話、舞い、事故の青年の父なのだ、だが、この過去を思い出してのシーンで舞っているのは女将では無いか、ならば、主人公に取っての舞いの主体とは女将では無いのか、憧れ求めているのは女将では、友情よりも、恋なのでは無いか、お披露目の時に橋で主人公の見つめる歌舞伎役者、小舟に乗り込む役者、見とれる彼方の役者、主人公はまたしても役者を求めている、だから、死した役者とこの見ている役者とは、同じなのだろうか、違うのか、判らない、しかもそこに何故かすれ違い見つめる男が居る、だから、過去では無いらしい、いや、既に過去のある時点から男は見つめてきたのだとも言えるのだが、観られる主人公はまた、彼方に憧れ観る主体としてある、青年と娘のデイト、ビルの谷間の川での足踏みボートでのデート、帽子をわざと飛ばす娘、音楽、歌、つれない娘に困惑する主人公、バーの女将の元、酒、主人公は酔って、渡る橋の俯瞰、いつも見つめていた男が、時期を待っていたか、主人公を誘い己の部屋に、彫り物師なのだ男は、客が現れて、見ていなさいと、一目見て走り去る主人公、しかし、ここに何を見た、己の欲望、どんな、彫られる、彫り上げて見せつける、判らないままに、青年は一目見たときから、母の方に惹かれて、主人公を訪う、そして連れだって役者の屋敷の中に、青年の父親の残した衣装、見とれる主人公、素晴らしい衣装、この衣装が主人公に着せられて、過去、幼い少女、不気味な面の男が襲いかかる、主人公は過去に、弄ばれた、誰に、役者に、いや、これは夢かもしれない、幻想かもしれない、見られたい、見つめられたい、襲われたい、ならば、襲った役者と、あの彼方に小舟の中に見いだした役者とは、同一、判らない、主人公の欲望が分裂している、幻想の舞いの人物も女将なのだから、そして今、あこがれの衣装と共に青年に抱かれて、そこに娘が現れる、ここに居たのねと、影に隠れるしか無い主人公、娘は求めて青年に抱かれるのだ、二人のセックス、怯えて、涙で見つめるばかり、襲われたときの悲しみを反復しているのだろうか、いや、求めてやまない己の欲望に困惑しているのだろうか、でも、誰に対する欲望、青年か、死した役者か、娘か、女将か、彼方の役者か、分裂している、ついには耐えられずに一人股間に手を這わせるばかり、求めるのか、押さえているのか、この分裂の叫びが、外を走る、求める、彫り物師の元に、道成寺を彫ってと、かくて二人の格闘が始まる、白い肌、苦痛に歪む主人公の顔、血、色彩、彫り上がっていく、出来上がり、風呂に、悲痛、そんな主人公を後ろから抱く彫り物師、反り返る主人公、そして、化けるのだ、体の蛇に成り代わる、映像の色彩の変化、主人公の姿、表情の変化、彫り物師を押さえ込み、飛び出していく、既に獣だ、狂気だ、青白く陰った色彩、不気味だ、しかし、これは現実か、彫られている女の幻か、娘と青年が抱き合っている、そこに襲い掛かる、青年を抱きとめて、背を、刺青を見せつけて、その蛇が舞うごとく、鏡に映し出される主人公、彼女の、欲望は収まりはしない、今までの抑圧から、舞い上がり、過去の少女の時から、いつも、押さえつけられてきた、見られ、己では彼方に憧れるばかり、今、己から、成り代わった、化け物に、収まりつかず、鏡は割れて、散り散りに、主人公の欲望の分裂、どこに、娘に、青年に、女将に、役者に、過去に、彫師に、この分列が叫ぶ、もはや、生き延びられない、千切れ飛ぶばかりの己、割れて鏡の破片を胸に突き立てて、彫られた竜の目から血の涙が流れる、こんな欲望の、分列した、怒りの、悲しみの、苦悩の、叫びを生きるとは、血まみれの肉体でしかない、その生には、先が無い、悶えるばかりの主人公、彫られることで、その一鑿ごとに、欲望が破裂した、舞い散った、結構です、この主人公を誰も止められない、夫との関係は、社長との関係は、欲望は、これもまた、捨て去ることも出来ないのだう、何所かで知って求めていたのだとも言えるから、夫との作り事の中で培ってきた欲望とも、部屋の中の高見からのカメラ、主人公と他の人物とを同時に同じ空間に捕らえる、間、狭い日本家屋だから、縦から見つめるしか収まらない関係、位置、下に、奥に、上に、空間を斜に過ぎって、欲望と共に、