今でも読んでいただいている過去の記事に
2012年8月15日に書いた 警戒解除された楢葉町に行って来ました があります。
私が福島通いをして3か月後の事でした。
全住民が避難してから1年5か月が過ぎて、やっと誰でもが当たり前に立ち入ることができるようになった。
それまでは一握りの人が犬猫に餌やりを続けてくれた場所。
「にゃんこはうす」を頼らずに一人で野良猫の給餌をする下見も兼ねていた。
それよりも人が住めない警戒区域の中はどうなっているのかを自分の目で見たかったし
何を根拠に警戒解除されたのかも知りたかったのです。
原発が水蒸気爆発を起こして危険だからと一時的に避難をさせられて
やがて二度と戻れないと知らされてペットの犬猫だけでなく家畜の命も諦めざるを得ない決断までしたのに
翌年には自宅に戻る準備をするように言われたのです。
「にゃんこはうす」のある南相馬市で地元支援者に聞いた話では
3日~1週間の避難生活はあったけどすぐに日常に戻れたそう。
だけど長期にわたる避難生活では町役場も一緒にいわき市に避難しているから
元に戻すには数年が掛かると見込まれる。
今年の春、避難先のいわき市からバスで楢葉町で再開した中学に通う生徒がおります。
町役場も戻り(住民の多くがいわき市で暮らすので二重行政になってます)
現在進行形で復興へ向かってます。
福島第一原発事故の影響で住民が避難して人が居ない町になった警戒区域内に
多くの犬猫が取り残されてしまい、食べるものが無く餓死するのを待つだけだった猫を
給餌から保護、全国に里親募集まで奮闘してたボランティアさんたちが声を掛け合って
警戒区域の隣にある南相馬市に被災猫シェルター「にゃんこはうす」を開設した。
私は震災後、宮城県の南三陸町を支援していたが
その時期に一緒に仕事をしてる父を亡くして事業継承に戸惑いつつ
死亡から10か月の期限ギリギリで相続手続きも終わらせて
震災の翌年の5月から「にゃんこはうす」を支援するようになりました。
もう、何度も書いた事だが多くの猫が置き去りになっている警戒区域内に入るには
警察による検問を通過しなくてはならず通行許可が無いと餌やりすら出来ません。
国道には検問が県道にはバリケードがあり、かなり細かい道まで封鎖されてました。
原発から半径20km圏内を警戒区域に指定されているからみなさん圏内と呼んでいた。
猫を救う目的では通行許可が下りませんので先頭に立って活動する方は
福井県から福島県(圏内)に住民票を移し、自宅の片づけの為許可を受けたり。
でも色々と制約も多く、年齢制限や1か月に1度しか認めないなんて守っていたら猫は死んでしまいます。
民主党政権(菅首相)が原発反対の方針で圏内は二度と人が住めないと決めつけたのが原因です。
圏内はパトカーが巡回していて見つかれば6時間を超える取り調べを受けるらしい。
レスキュー班(ボランティアさん)は秘密の潜入口から圏内に入るのでパトカーに見つからないよう
あの手この手で乗り切ってました。
私も通算で20回ほど福島に通いましたが給餌やレスキュー活動をしなかったのはそんな事情から。
賢い方ならここまで読んで気が付くでしょうが
圏内で生き延びた動物たちに被ばくの影響は見られませんし、原発の間近まで接近してるボランティアさんも
これといった健康被害はありません。
これが福島の真実だと私は確信してたから何度も通っていたのですね。
私からのお願いは例え他の地域で原発事故が発生しても動物を見殺しにしないで欲しいのです!
犬小屋の中で鎖に繋がれたまま餓死してた飼い犬、
家の外に出たくて障子をビリビリに破きながらも命が尽きてしまった飼い猫
こんな地獄絵図は福島で終わりにしよう。
原発に代わる発電方法が見つからないのに原発を止めてしまえば日本経済は破綻します。
原発反対運動の目的は実はそれが狙いです。
情けないのが日本の左翼思想は反日運動と一緒に行動してしまう事なのです。
原発反対は左翼活動の入り口となってます。
大きなブログで「いわき市では被ばくの影響で失明する住民が多い」と
実在する医師の証言を元に多くのアクセスがあった記事を検証してみたところ
この医師は「いわき市では警戒区域から避難してる住民で人口が急激に増えて
極端な医師不足の状態になっている。特に眼科医の不足が顕著であり
高齢者の方が治療が遅れて最悪の場合失明することもある」と書いてあったのです。
放射能の影響で失明するというのは作り話だったことを突き止めました。
なんでこんなことを私が調べなくてはならないのか疑問はあるけど。
事実とは異なる情報を発信するサイトは今も多いです。
他にも「福島で生まれる子供の15人中12人は奇形児だった!」
もうこれは検証する必要はないデタラメだと気付いて下さいね。
「真田丸」にちなんで私もひとこと
「私は復興させるためにここに来たのだ!」
被災地に立つ度に、心の中で叫んでいた。
2012年8月15日に書いた 警戒解除された楢葉町に行って来ました があります。
私が福島通いをして3か月後の事でした。
全住民が避難してから1年5か月が過ぎて、やっと誰でもが当たり前に立ち入ることができるようになった。
それまでは一握りの人が犬猫に餌やりを続けてくれた場所。
「にゃんこはうす」を頼らずに一人で野良猫の給餌をする下見も兼ねていた。
それよりも人が住めない警戒区域の中はどうなっているのかを自分の目で見たかったし
何を根拠に警戒解除されたのかも知りたかったのです。
原発が水蒸気爆発を起こして危険だからと一時的に避難をさせられて
やがて二度と戻れないと知らされてペットの犬猫だけでなく家畜の命も諦めざるを得ない決断までしたのに
翌年には自宅に戻る準備をするように言われたのです。
「にゃんこはうす」のある南相馬市で地元支援者に聞いた話では
3日~1週間の避難生活はあったけどすぐに日常に戻れたそう。
だけど長期にわたる避難生活では町役場も一緒にいわき市に避難しているから
元に戻すには数年が掛かると見込まれる。
今年の春、避難先のいわき市からバスで楢葉町で再開した中学に通う生徒がおります。
町役場も戻り(住民の多くがいわき市で暮らすので二重行政になってます)
現在進行形で復興へ向かってます。
福島第一原発事故の影響で住民が避難して人が居ない町になった警戒区域内に
多くの犬猫が取り残されてしまい、食べるものが無く餓死するのを待つだけだった猫を
給餌から保護、全国に里親募集まで奮闘してたボランティアさんたちが声を掛け合って
警戒区域の隣にある南相馬市に被災猫シェルター「にゃんこはうす」を開設した。
私は震災後、宮城県の南三陸町を支援していたが
その時期に一緒に仕事をしてる父を亡くして事業継承に戸惑いつつ
死亡から10か月の期限ギリギリで相続手続きも終わらせて
震災の翌年の5月から「にゃんこはうす」を支援するようになりました。
もう、何度も書いた事だが多くの猫が置き去りになっている警戒区域内に入るには
警察による検問を通過しなくてはならず通行許可が無いと餌やりすら出来ません。
国道には検問が県道にはバリケードがあり、かなり細かい道まで封鎖されてました。
原発から半径20km圏内を警戒区域に指定されているからみなさん圏内と呼んでいた。
猫を救う目的では通行許可が下りませんので先頭に立って活動する方は
福井県から福島県(圏内)に住民票を移し、自宅の片づけの為許可を受けたり。
でも色々と制約も多く、年齢制限や1か月に1度しか認めないなんて守っていたら猫は死んでしまいます。
民主党政権(菅首相)が原発反対の方針で圏内は二度と人が住めないと決めつけたのが原因です。
圏内はパトカーが巡回していて見つかれば6時間を超える取り調べを受けるらしい。
レスキュー班(ボランティアさん)は秘密の潜入口から圏内に入るのでパトカーに見つからないよう
あの手この手で乗り切ってました。
私も通算で20回ほど福島に通いましたが給餌やレスキュー活動をしなかったのはそんな事情から。
賢い方ならここまで読んで気が付くでしょうが
圏内で生き延びた動物たちに被ばくの影響は見られませんし、原発の間近まで接近してるボランティアさんも
これといった健康被害はありません。
これが福島の真実だと私は確信してたから何度も通っていたのですね。
私からのお願いは例え他の地域で原発事故が発生しても動物を見殺しにしないで欲しいのです!
犬小屋の中で鎖に繋がれたまま餓死してた飼い犬、
家の外に出たくて障子をビリビリに破きながらも命が尽きてしまった飼い猫
こんな地獄絵図は福島で終わりにしよう。
原発に代わる発電方法が見つからないのに原発を止めてしまえば日本経済は破綻します。
原発反対運動の目的は実はそれが狙いです。
情けないのが日本の左翼思想は反日運動と一緒に行動してしまう事なのです。
原発反対は左翼活動の入り口となってます。
大きなブログで「いわき市では被ばくの影響で失明する住民が多い」と
実在する医師の証言を元に多くのアクセスがあった記事を検証してみたところ
この医師は「いわき市では警戒区域から避難してる住民で人口が急激に増えて
極端な医師不足の状態になっている。特に眼科医の不足が顕著であり
高齢者の方が治療が遅れて最悪の場合失明することもある」と書いてあったのです。
放射能の影響で失明するというのは作り話だったことを突き止めました。
なんでこんなことを私が調べなくてはならないのか疑問はあるけど。
事実とは異なる情報を発信するサイトは今も多いです。
他にも「福島で生まれる子供の15人中12人は奇形児だった!」
もうこれは検証する必要はないデタラメだと気付いて下さいね。
「真田丸」にちなんで私もひとこと
「私は復興させるためにここに来たのだ!」
被災地に立つ度に、心の中で叫んでいた。