イギリス(イングランド)の宗教改革と食-戦争と宗教改革と食の革命(5)
今回はイギリスの宗教改革と食について見て行きます。
イギリスでは他の国とは異なった原因で宗教改革が起こりました。その原因を作り出したのはヘンリ8世です。彼は歴代のイギリス国王の中ではかなり有名で、これまでに何冊もの本になっています。
今回はまず簡単にイギリスの歴史を振り返ってから、ヘンリ8世が始めた宗教改革と彼の時代の食について見て行きます。
ヘンリ8世
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イングランド王国は1066年にヴァイキングで知られるノルマン人によって建国された。これをノルマン朝と呼ぶ。国王はフランス北部のノルマンディーにも所領を持つノルマンディー公であり、イギリス王であると同時にフランス国王の家臣だった。このため宮廷ではフランス語が主に使用されていた。
1154年に男系の後継者が絶えてノルマン朝は断絶したため、血縁のフランス・アンジュー伯が王位を継承し、ヘンリ2世となった。プランタジネット朝の始まりである。
プランタジネット朝では貴族と教会の力が次第に強くなった。1215年に貴族たちは国王に「大憲章(マグナ・カルタ)」を認めさせ、貴族の権限を保障させるとともに、国王も法に従うことが決められた。1265年には初めて議会の開設が認められ、さらに1295年にはエドワード1世が貴族・聖職者・騎士・市民から構成される議会を招集した。彼の時代には宮廷で英語が話されるようになり、イギリスの国家としての独自性が生まれたとされる。
1339年にプランタジネット朝のエドワード3世はフランス王位継承権を主張してフランスに出兵し、百年戦争が始まった。戦いはイギリス側優勢で進行したが、ジャンヌ・ダルクの出現によってフランス側が盛り返し、イギリス側の敗戦で幕を閉じた。この敗戦で、フランスにおけるイングランド王の領地は湾口都市のカレーを除いてすべてが失われた。
なお、百年戦争の間にプランタジネット朝が途絶えて、ランカスター朝となった。ランカスターは侯爵家で、エドワード3世の息子の一人が建てたものだ。また、別の息子が建てた侯爵家にヨーク家があり、1455年から王位をめぐってランカスター家とヨーク家の間でバラ戦争(1455~1485年)が始まる。バラ戦争と呼ばれるのは両家の紋章がバラだったからだ。
バラ戦争は最終的にランカスター家が勝利し、ヘンリ7世が1485年にテューダー朝を開いた。この戦争でイギリス諸侯は疲弊して没落するとともに王に権力が集中し、絶対王政が形成されて行ったとされている。
イギリスの宗教改革はテューダー朝のヘンリ8世(1491~1547年、在位:1541~1547年)によって行われた。彼は王妃と離婚して新しい女性と結婚がしたいがために新しい宗教を始めたのだ。
ヘンリ8世の妃はスペイン王女のキャサリンで、政略目的で二人は結婚したが、二人の間に女の子しか生まれなかったため二人の関係は悪化していた。また、ヘンリ8世は女好きで、キャサリンの侍女のメアリー・ブーリンと関係を持っていた。さらに彼はメアリーの姉妹のアン・プーリンを好きになり、キャサリンと離婚してアンと結婚することに決めたのだ。
しかし、カトリックでは離婚は通常認められない。そこでヘンリ8世は自身を最高指導者とするイングランド国教会を新たに設立したのである。新しい宗教の教義はカルヴァンのものに近かった。
宗教改革によってヘンリ8世は望み通りアン・プーリンと結婚できたのだが、授かった子はまた女の子だった。彼は次の女性と結婚するためにアンをロンドン塔に幽閉し、ついには処刑してしまう。結局、ヘンリ8世は合計6人の女性と結婚し、そのうちの2人を処刑した。
ヘンリ8世の死後、後を継いだのは3番目の妻との間に生まれた唯一の息子である9歳のエドワード6世だったが、16歳で若死にしてしまう。次に即位したのはヘンリ8世と最初の王妃キャサリンとの間に生まれた女王メアリー1世(在位:1553~1558年)だった。
彼女の母はスペイン王族出身で、さらにメアリー1世も国王フェリペ2世と結婚する。スペインはカトリック国であり、メアリー1世もカトリックを信仰していたことから、イギリスの宗教を再びカトリックに戻そうとした。そして反対するプロテスタントを次々と処刑して行ったことから、彼女は「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」と呼ばれた。
しかし、腫瘍を患ったメアリー1世は1558年に死去し、代わってヘンリ8世と2番目の王妃のアン・プーリンとの間に生まれた女王エリザベス1世(在位:1558~1603年)が即位した。彼女はイギリス国教会を復活させ、それをイギリスに根付かせることに成功する。(なお、エリザベス1世の代にイギリスはスペインの無敵艦隊を打ち破るなど、強国への礎を築いて行くのだが、その話はまた改めてします。)
さて、好色で残忍な性格で悪評が高いヘンリ8世だが、学術や文学、音楽に秀でた文化人としても知られている。また、たいへんな美食家であったとも伝えられている。
ヘンリ8世は大の肉好きで、肉なら何でも食べたと言われている。基本的に毎日豚肉を食べ、その他にヒツジやニワトリ、ウシ、ウサギ、シカ、そしてクジャクやハクチョウなどの野鳥が好きだったようだ。
甘いものも大好きで、砂糖がたくさん入った菓子に目が無かったらしい。中でも、後世になって「メイズ・オブ・オナー (Maids of Honour、侍女)」と名付けられたタルトはヘンリ8世一番のお気に入りで、レシピを宮殿内の金庫にしまって王族だけのものにしたと伝えられている。なお、このレシピを受け継いだロンドンの菓子店が今もメイズ・オブ・オナーを作り続けているらしい。
また、ヘンリ8世はスペインからサツマイモを取り寄せ、砂糖とスパイスをきかせたパイを作らせてよく食べていたと言われている。さらにヘンリ8世は酒も大好きで、酸っぱいワインには砂糖をたくさん入れて飲んでいたらしい。
残された記録からヘンリ8世の1日の摂取カロリーを見積もると、およそ5000キロカロリーになるそうで、これは平均的な成人男性の2倍に相当する。このため、ヘンリ8世は次第に高度の肥状態となり、そのために死亡したと考えられている。
ところで、以前にもお話ししたが、修道院はワインやビールの主要な生産所であり、北国のイギリスではブドウが育たないので、修道院ではビール(エール)が造られていた。ところが、ヘンリ8世の宗教改革の一環として、1530年にカトリックの修道院がすべて廃止されてしまい、修道院のビール造りはストップする。
代わりに人々は自宅でビールを造るようになった。このビール造りを取り仕切ったのは女性で、ビールをうまく造れない娘は嫁のもらい手がなかったらしい。また、お嫁に行くときにはビール造りの鍋を持たせるのが慣わしになったという。
さらに、ビール造りがとてもうまい女性は酒場の女主人に抜擢されることがあったそうで、ヘンリ8世の宗教改革は女性の自立を促したという面もあったのかもしれない。