食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

カカオ・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(3)

2021-10-19 20:22:35 | 第四章 近世の食の革命
カカオ・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(3)
日本人は1年間に約2.1㎏のチョコレートを食べているそうです。かなり多く見えますが、消費量1位のスイスでは8.8 kgだそうで、日本人の4倍も食べています。

消費量2位以下には、オーストリア・ドイツ・アイルランド・イギリス・スウェーデンといずれもヨーロッパの国々が続きます。ちなみに、日本は25位となっています。

歴史を眺めてみると、ヨーロッパの国々は17世紀頃からチョコレート(カカオ)の虜になったことが分かります。そして、その需要を支えていたのが、ラテンアメリカでのカカオの大農園だったのです。

今回は、このようなラテンアメリカにおけるカカオ・プランテーションの展開について見て行きます。


カカオ(Stana54によるPixabayからの画像)

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1502年に第4回目のアメリカへの航海で、コロンブスは現在のニカラグアに上陸した。そして、カカオ豆が通貨として使われていることをヨーロッパ人として初めて発見した。また、1513年にアメリカに渡った探検隊は、カカオ豆100粒で奴隷を買ったと報告している。さらに、カカオ豆10粒で売春婦を、カカオ豆4粒でディナーためのウサギを買ったらしい。

1519年に現在のメキシコの一部を征服したエルナン・コルテスは、カカオ豆の通貨としての価値に将来性を見出し、最初のカカオ・プランテーションを設立した。なお、1528年にコルテスはスペイン国王にカカオ豆を贈ったという話があるが、これについては確かな根拠はないそうだ。

メキシコなどのラテンアメリカでは、スペインからの移住者たちも次第にカカオ飲料を飲むようになった。ただし、スペイン人たちの好みに合わせて、アステカの原住民が入れていたトウガラシの代わりに、シナモンやコショウ、アニスなどが入れられるようになった(バニラはそのまま使われた)。また、アステカのカカオ飲料は冷たかったのに対して、スペイン人たちは温かいカカオ飲料を好んで飲んだという。

ヨーロッパの記録にカカオが最初に登場するのは1544年のことだ。キリスト教修道士にともなわれてスペインにやって来たマヤ族の貴族が、スペイン皇太子のフェリペに泡立てたカカオ飲料を献上したとされている。そして17世紀なると、スペイン宮廷を中心に上流社会でカカオ飲料が大流行するとともに、一般国民も大きな催事でカカオ飲料を楽しむようになった。また、カカオ飲料は、スペインが支配していたポルトガルやイタリア南部に遅くとも17世紀の初めには伝わったと考えられている。

一方、フランスには17世紀の半ばまでにカカオ飲料が伝わったと考えられているが、本格的に広まるきっかけとなったのは、1660年のスペインのマリア・テレジア王女とフランスのルイ14世との結婚だ。彼女が王宮にカカオ飲料を持ちこみ、それ以降、上流階級の女性に好んで飲まれるようになった。そして宮廷の公的行事では、常にカカオ飲料がふるまわれるようになったという。

イギリスでは、1657年にフランス人がロンドン初のチョコレートショップをオープンしたという記録がある。そして1674年には、ロンドンのとある先進的なコーヒーショップで、カカオの入ったケーキが作られた。

また、ドイツやオーストリアには1700年代の前半にカカオ飲料が伝えられ、広く飲まれるようになった。

このように、カカオ飲料はヨーロッパの各地で広く飲まれるようになり、カカオの消費量が増大して行った。それを供給していたのが、ラテンアメリカのカカオ農園だったのだ。

メキシコ南端のソコヌスコ地方はアステカの王家にカカオ豆を献上していた歴史を有するが、スペインが占領してからは1820年までスペイン王室のための最高級のカカオ豆の生産地となった。この地域では、伝統的なカカオ農園が現在でも続いている。

ソコヌスコに加えて、その南に位置する現在のグアテマラは、16世紀中はカカオの中心的な生産地となっていた。ところが17世紀に入ると、両地方でのカカオの生産量が減少するとともに、ヨーロッパでの消費量が増えて来た。その結果、カカオの価格が高騰したのである。

うまい儲け話には人が群がるのは今も昔も同じで、この状況を受けて他の地域での大規模なカカオ・プランテーションが始まったのだ。その最初となったのがエクアドルのグアヤキルベネズエラだった。



グアヤキルには野生のカカオ(フォラステロ種)が生えていて、それ以外の木や草を刈るだけで大きな農園を作ることができた。なお、フォラステロ種はメキシコ原産のクリオロ種に比べて味は落ちるが、育てやすくて多くの実をつける。これを黒人奴隷を用いて大規模栽培したため、価格を低く抑えることができたのだ。

一方のベネズエラではクリオロ種が育てられており、そのカカオは「カラカス」と呼ばれて質の良さで高く評価されたという。ここでもアフリカの黒人奴隷が用いたプランテーションが営まれた。

こうしてグアヤキルとベネズエラは、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ向けのカカオの主要な輸出国となった。

ベネズエラの北側60㎞の位置にするキュラソー島は1620年代にオランダ人が征服し、海軍基地を作った島だ。また、海外貿易の拠点としても重用された。オランダはカカオをベネズエラからキュラソー島に集め、主要な貿易品として船で運び出した。日本には18世紀末の江戸時代にオランダ商人の手を通じてチョコレートが伝わったと言われているが、そのチョコレートもキュラソー島から運ばれたものと考えられている。

フランスは1635年にマルティニーク島を植民地化した。そして1660年頃に黒人奴隷を使ってクリオロ種のプランテーションを始めた。その栽培はグアドループ島やフランス領ギアナにも広がり、18世紀の間、これらの植民地で採れるカカオだけでフランス本国の需要をまかなうことができたと言われている。

ブラジルではイエズス会の修道士が初期のカカオ産業に関わった。修道士たちはアマゾン川流域にフォラステロ種の群生地を見つけたので、布教を行うという名目で原住民を集めて村を作り、野生のカカオを集めさせたのだ。こうして17世紀から18世紀にかけて、カカオはアマゾン川流域の主要な輸出品となった。

ところが、1740年代と1750年代に感染症が流行して多くの原住民が亡くなったため、この事業は中断を余儀なくされた。さらに、1759年にイエズス会はポルトガルの指導者との不仲から、ブラジルから追放される。また、1767年にはスペインからも追放され、1773年にはローマ教皇によって事実上の解散に追い込まれた。

最後に、カカオ第3の品種である「トリニタリオ種」が誕生したいきさつを見ておこう。

トリニタリオ種が生まれたのはコロンブスが1498年に発見したトリニダード島だ。この島には1525年頃にスペイン人によってクリオロ種が持ち込まれ、カカオがこの島の主要な生産品の一つとなった。ところが1727年までに、何らかの理由によってそのほとんどが枯れてしまったという。

島を復興するために、30年後の1757年に、今度はフォラステロ種の苗木が持ち込まれた。そして、この木と、残っていたクリオロ種の木が交雑することで、トリニタリオ種が誕生したのだ。トリニタリオ種はクリオロ種のように味が良く、フォラステロ種のように丈夫で、たくさんの実をつけたという。

トリニダード島はその後、フランス・オランダ・イギリスによる争奪戦に巻き込まれ、1802年にイギリスの領土となったが、トリニタリオ種は今でもトリニダード島の名産品として栽培されている。


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