食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

アメリカ西部の農業の発展-アメリカの産業革命と食(3)

2022-04-16 23:16:52 | 第五章 近代の食の革命
アメリカ西部の農業の発展-アメリカの産業革命と食(3)
産業革命によって工業化が進展する以前は、人口の大部分が農業を営んでいました。その頃までの農業は生産性が低かったため、社会全体が必要とする食糧を生産するために多くの人手が必要だったからです。

アメリカ合衆国では19世紀に入って西部の開拓が進みますが、入植者のほとんどは農業や畜産業を営みました。西部で農業が始まった頃の生産性は極めて低いものでしたが、徐々に生産性が高まり、やがて合衆国全体だけでなく、世界を支える食糧生産地として大発展します。

今回は、このような発展の要因となった農耕技術の進歩を中心に、アメリカ西部の農業の歴史について見て行きます。

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初期の西部開拓者は農業に未熟で、土地をしっかりと耕さずに作物を育てていたため、生産性が低かった。また、農地に肥料をほどこさずに同じ作物を作り続けたため、数年で地力が落ちて収穫できなくなった。さらに、牧草の管理が下手だったため、家畜のエサを継続して確保することもできなかった。

こうして最初の農場で生活できなくなると、開拓者は土地を売り払い、さらに西に移動して新たな農場で生活を始めるしかなかったのだ。このような理由で、初期の開拓者は一つの場所にとどまらずに、常に西への移動を続けていたという。

しかし、次第に農業に慣れてくると、プラウ(犂(すき))を使って農地を耕し、肥料を施すことで持続可能な農業を実践するようになった。

初期のプラウは棒の先を尖らせただけの簡単なものだったが、次第にソリのように地面の上を動かすものが使用されるようになった。しかし、当時のプラウは木製で、土壌の表面を少しだけしか掘ることができなかった。

プラウの改良に大きな貢献をしたのが、第3代大統領のトーマス・ジェファーソン(1743~1826年、大統領:1801~1809年)だ。彼は、先端に鉄製の刃をつけるとともに、土の抵抗の少ない形状をした新しいプラウを開発したのだ。このプラウを使うと、15cmほどの深さまで耕すことができた。すると、作物は深く根を張ることができて生産性が向上した。ジェファーソンのプラウは1830年代には標準的な農機具となった。

ジェファーソンが開発したプラウでは、炭素量の多い鋳鉄(ちゅうてつ)製の刃が使われていた。鋳鉄製の製品は作りやすいが、強度に劣るという欠点があった。西部の土壌は粘り気があったため、当時の鋳鉄製の刃ではすぐに泥がたまって使えなくなるし、またあっという間に折れてしまったという。

この問題を解決したのが鍛冶屋のジョン・ディア(1804~1886年)だ。彼は炭素量の少ない鋼鉄製の刃を使用することで、非常に高性能のプラウを開発したのだ。

ディアは東海岸で鍛冶屋をしていたが、生活に行き詰ったため1836年に西部のイリノイ州に移住してきた。彼はそこで鋳鉄製の刃の欠陥を知ると、泥がたまらないように非常になめらかで絶妙の角度を持った鋼鉄製の刃を開発したのだ。

この刃を付けたプラウは一度動かし始めると止まらずに土壌をどこまでも耕し続けたので、ウマやラバなどにひかせることで人の労力は著しく軽減することとなった。こうして1837年に開発されたディアのプラウは大好評を得て、1855年までに10000台が販売されたという(ディアが創業した会社は現在でも世界で最大の農機具メーカーである)。

ジョン・ディアのプラウのように、人力の代わりに動物の力で動かすプラウの出現は農業の生産性を大きく向上させたため、「アメリカ最初の農業革命」と呼ばれることが多い。

次の重要な進歩の一つは、機械を用いた深い井戸の普及だ。機械を用いて深い井戸を掘ると、グレートプレーンズように乾燥した地域でも安定して農業を行うことができるようになったのだ。

もう一つの進歩が「カントリーエレベーター(穀物エレベーター)」の開発である。カントリーエレベーターは、搬入した穀物を乾燥させ、計量・選別などの調製を行ったのち貯蔵し、搬出するための複合施設である。大きなエレベーターで穀物を搬入したことから「エレベーター」の名が付いている。カントリーエレベーターによって穀物流通の効率化が大きく進んだと言われている。


カントリーエレベーター(Bernard Spraggによるflickrからの画像)

最初のカントリーエレベーターは、1842年に五大湖の一つエリー湖の東岸のバッファローに作られた。ここに西部などから穀物が集められ、東海岸やカナダなどの各地に届けられた。

さらに1847年には、エリー湖の西岸のトリードとニューヨークのブルックリンにカントリーエレベーターが作られた。この2つは連携して穀物の海外輸出を担った。トリードに集められた西部の穀物がブルックリンに輸送され、さらにイギリス、オランダ、ドイツなどに輸出されたのである。

このアメリカからヨーロッパへの穀物の流れに呼応するように、人がヨーロッパからアメリカに流入するようになった。つまり、アメリカに行けばたくさんの穀物を生産できて、大儲けができると考えた人がたくさん出てきたのである。

このヨーロッパからの移住にアメリカの鉄道会社が大きな役割を果たした。鉄道会社はヨーロッパから家族を呼び寄せ、良質な土壌を有する土地と家具付きの家屋を低価格で提供したのだ。西部を横断する鉄道を建設していた鉄道会社は、鉄道の利用客や運搬する荷物を必要としていたからである。

こうしてカントリーエレベーターの発明によって輸出が増え、それによって農業従事者が増え、さらに輸出が増えるというループによって、1860年から1910年にかけてアメリカは世界有数の穀物生産国に成長して行ったのである。

農場の数は1860年の200万戸から1906年の600万戸へと3倍になった。また、農場に住む人の数は、1860年に約1000万人だったものが1880年に2200万人になり、1905年には3100万人へと増加した。

また、同じ量のコムギを生産するのに、1890年には1830年に比べて6分の1の労働量ですむようになった。

このように、19世紀アメリカの農業の躍進の世紀だったのである。


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