食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

肉を運ぶ鉄道-アメリカの産業革命と食(2)

2022-04-13 08:28:44 | 第五章 近代の食の革命
肉を運ぶ鉄道-アメリカの産業革命と食(2)
アメリカ人ステーキハンバーガーなど、牛肉をたくさん食べるというイメージがあります。実際に牛肉の年間消費量はアメリカ人1人当たり約37㎏となっており、約10㎏の日本人の4倍に近い量を食べている計算になります。

アメリカ人が牛肉をよく食べるようになったのは19世紀の終わり頃のことで、それほど古い話ではありません。そこには鉄道の発達が深く関係しているのですが、今回は鉄道の発展とアメリカの肉食文化の関係について見て行きます。



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現代の私たちが食べている食品の中には、海外からはるばる運ばれてきたものがたくさんある。例えば、コーヒー豆や、チョコレートの原料のカカオ豆のほぼすべては外国産だし、食肉、穀物、果物、油、酒類などでも海外から運ばれて来るものが多い。最近では、野菜類もたくさん輸入されている。

また、国産のものでも住んでいる地域内で収穫されたものは少なく、他県から運ばれて来るものが多い。

このように生産地と消費地が離れている場合には、安全・迅速で安価な輸送手段が重要になって来る。食品が腐ってしまう前に運ぶ必要があるし、輸送費が高すぎると、それが食品の販売価格に上乗せされて高くなりすぎるからだ。

近代の工業化にともなって輸送手段が発達すると、さまざまな食品が遠くから運ばれてくるようになった。そして、それにともなって、食生活も大きく変化する。その代表的な例がアメリカの牛肉だ。

もともとアメリカ大陸ウシはいなかった。新大陸を発見したコロンブス一行が新大陸にウシを持ち込んだのが始まりだ。新大陸の環境はウシには最適だったようで、その後大繁殖し、多くが野生化した。

前回の「西部開拓時代」では、19世紀の後半に、カウボーイが野生化したウシをテキサスから鉄道の駅まで運んだという話をした。

1830年頃から合衆国の東海岸部では北部を中心に蒸気機関車が走る鉄道の開通が相次ぎ、1840年には総延長が4000㎞に達した。そして1860年頃までには、合衆国東海岸からミシシッピー川に至る鉄道網が整備された。

その結果、物流のスピードが飛躍的に高まった。例えば、中西部のシンシナティとニューヨーク間の輸送は、エリー運河などの水上交通を利用した場合には約3週間かかっていたが、鉄道を使うと約1週間に短縮された。こうして、西部の農地で生産された作物は、人口が集中する東海岸の都市に鉄道に乗せられて運ばれるようになった。

さらに19世紀後半には、ミシシッピー川から西側の地域にも鉄道が伸びた。また、大陸横断鉄道が次々と開通して行った。

まず、1869年にネブラスカ州オマハとカリフォルニア州サクラメントの路線が開通した。オマハにはすでに東部からの鉄道網が延伸しており、これで東海岸と西海岸が鉄道でつながったのだ。



その後も、新しい大陸横断鉄道が開通して行った。例えば、1883年にはノーザン・パシフィック鉄道がシカゴとシアトルをつないだ。また、同じ年に、サザン・パシフィック鉄道がニューオリンズとロスアンゼルスの間で開通した。このような鉄道を使って、カウボーイがテキサスから移動させたウシや、グレートプレーンズで育てられたウシが東海岸や西海岸に運ばれたのである。

さて、鉄道網を見ると、いくつもの路線がシカゴに集まっているのが分かる。シカゴは五大湖の1つミシガン湖のほとりにある町で、古くはアメリカ原住民の交易地だったと言われている。

1836年にミシガン湖とイリノイ川を結ぶ運河の建設が始まるとシカゴに人が集まり始めた。そして、1838年に鉄道が開通するとシカゴは交通の要衝となり、人口が急増する。さらに、1856年にメキシコ湾岸のニューオリンズとシカゴを結ぶイリノイ・セントラル鉄道が開通するなど、1865年までにシカゴは10以上の鉄道の起点となり、大発展を見せるようになった。

シカゴには西部の各地で育てられたコムギやトウモロコシなどの穀物家畜酪農品などが鉄道によって大量に運ばれてきたことから、食品の集積所として重要な役割を果たした。集まった食品は、そのまま、あるいは加工されて東部に出荷された。

なお、1848年には世界有数の先物商品取引所であるシカゴ商品取引所が作られた。また、1865 年にはユニオン・ストックヤード(巨大な家畜置き場)が開設されている。

ところで、食肉については1890年頃まで豚肉が最も多く食べられていた。例えば、1871 年にユニオン・ストックヤードに集められた家畜を見ると、ウシ50 万頭に対してブタは 240 万頭となっている。ブタの方がウシよりも飼育が簡単で、また、肉も長期保存が可能なソーセージやベーコン、ハムなどに加工しやすかったからだ。

もともと1頭の家畜からとれる肉や内臓の量はそれほど多くない。ウシでは体重の40%くらい、ブタで50%くらいだ。残りは食べられない骨や皮、頭などで、もし家畜を消費地まで丸ごと1頭運ぶと、解体された後にこれらは捨てられることになり、その分だけ運送費が高くなってしまうのだ。そのため、シカゴなどの家畜の集積地で食肉に加工することが望まれたのである。しかし、牛肉については保存がきく加工法が少なかったため、生きたウシを消費地まで輸送するしか方法がなかった。

この問題を解決したのが肉屋のグスタバス・スウィフトだ。彼は生肉を冷却して新鮮な状態で輸送する方法があれば、牛肉販売で大きな利益を上げられると考えたのだ。そこで彼は、技術者に冷蔵貨物列車を作らせたのである。完成した冷蔵車の天井部分には氷が置かれ、空気が通過するときに冷却される仕組みだった。こうして完成した冷蔵車は1877年に最初の生肉輸送を成功させる。

この成功を受けて、1885年にスウィフトは弟とスウィフト商会を設立し、初代社長となった。また、同じように冷蔵貨物列車によって生肉の輸送を行う会社が次々と現れ、やがて5大精肉業者と呼ばれる5つの会社が冷蔵生肉の市場を独占するようになった。

なお、当初は冷蔵保存した生肉を食べると病気になるなどと言う噂が広がり、売り上げが思わしくなかったが、大規模な広告によって安全性を訴えるとともに、大量生産によって牛肉の価格を下げることによって、次第に社会に広く受け入れられるようになる。そして1900年には牛肉の消費量が豚肉を追い越すまで拡大した。牛肉をよく食べるアメリカ人の始まりである。


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