食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ハプスブルク家の興隆と食-戦争と宗教改革と食の革命(1)

2021-06-01 22:16:04 | 第四章 近世の食の革命
4・5 戦争と宗教改革と食の革命
ハプスブルク家の興隆と食-戦争と宗教改革と食の革命(1)
北イタリアを中心にルネサンスが花開いていたちょうどその頃、ヨーロッパでは2つの大きな戦いが始まりました。1つ目はハプスブルク家フランス王家の戦いで、2つ目はカトリックプロテスタントの戦いです。

戦いの当事者たちは気づいていなかったと思いますが、この2つの戦いはヨーロッパ社会を大きく変えるきっかけになりました。

今回からのシリーズでは、この2つの戦いの経緯をたどりながら当時のヨーロッパの食について見て行きます。

今回は、ヨーロッパの超名門一族であるハプスブルク家の始まりの歴史についてです。

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16世紀後半にフランスとイギリスを除くヨーロッパのほとんどを支配していたのがハプスブルク家だ。その支配地の大部分は戦いによって獲得したものではなく、他の王族との婚姻によって得たものだった。そこから次の有名な言辞が生まれた。

戦争は他家にさせておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ。

このようにハプスブルク家の本拠地はオーストリアとされるのが普通だ。しかし、元はスイス北東部のライン川上流域を支配した小貴族で、後にオーストリアへ本拠地を移したのだ。

ハプスブルク家の躍進の始まりは、家長のルードルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれたことだ。

神聖ローマ帝国内には200以上の公国や騎士領、司教領、自由都市などがあり、それぞれが独立国のような存在だった。その代表としてローマ教皇を守護するのがローマ皇帝だ。領地が増えるなどの実利的なメリットは大して無かったが、キリスト教が絶対とされてきた時代では大変名誉ある地位であり、誰もがローマ皇帝になりたがった。

ローマ皇帝は、選帝侯という3人の聖職者と4人の世俗君主による選挙によって選ばれる。実際には選帝侯によって選ばれた時点ではローマ王と呼ばれ、さらにローマ教皇から帝冠を授けられて真のローマ皇帝となる。

選帝侯が皇帝を選ぶ基準はその時々の状況によって異なるが、選帝侯にとって何らかのメリットがある者を選ぶのが通常で、時には金が物を言うこともあった。ルードルフ1世が選ばれたのは、彼の野心もない凡庸さが選帝侯には都合が良かったからだと言われている。

しかし、ルードルフ1世は決して無能ではなかった。選挙の結果に納得できなかった有力貴族のオットカルが反乱を起こしたのだが、それを速やかに鎮圧し、彼の領地だったオーストリアなどを自分のものにしたのだ。その結果、ハプスブルク家は旧領を離れてオーストリアに定住する。

ルードルフ1世の息子もローマ帝国皇帝となるが、ハプスブルク家の野心が恐れられたのか、その後しばらくは皇帝に選ばれず、地方の一領主に甘んじるしかなかった。

ところが1440年になると、ハプスブルク家のフリードリヒ3世が再びローマ帝国皇帝に選ばれる。この時も彼の無能さが選帝侯に気に入られたのだ。実際にフリードリヒ3世は小心者で、戦争が始まるといち早く逃げ出し、敵が去るまで出てこなかったと言われている。

そんな彼が率いるハプスブルク家に幸運が舞い降りた。息子のマクシミリアン(1459~1519年)にブルゴーニュ公国の姫との結婚話が持ち上がったのだ。


マクシミリアン

その頃のヨーロッパで、イタリア以外に経済面や文化面でもっとも進んでいたのがブルゴーニュ公国だった。ブルゴーニュ公国は現在のフランス東部のブルゴーニュ地方に加えて、ネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク)を含んでおり、ブルゴーニュ公によって治められていた。その娘マリアの婿としてマクシミリアンに白羽の矢が立ったのである。

ブルゴーニュ公は自らが次の皇帝になりたいがためにハプスブルク家に近づいたと言われている。しかし、公は1477年の二人の結婚式の直前に戦没してしまい、ブルゴーニュ公国は若い二人が治めることとなった。

マクシミリアンは愚鈍な父と違って聡明・勇敢で、混乱に乗じて侵入してきたフランス軍をさんざんに蹴散らしている。また、マクシミリアンとマリアの仲はむつまじく、結婚後相次いでフィリップという男の子とマルガレーテという女の子に恵まれた。

しかし不幸は突然やって来る。常に夫のそばにいたいマリアは身重ながらも狩に同行したのだが、運悪く落馬してしまい、それが元で急逝してしまったのだ。これを機に、王子のフィリップだけを残して、マクシミリアンをブルゴーニュ公国から追い出そうとする動きが強まる。この裏にはブルゴーニュを我が物にしようとするフランス国王の暗躍があった。これに対してマクシミリアンは持ち前の優秀さを存分に発揮した。反対勢力を一つずつ屈服させて行き、最終的にはブルゴーニュ公国全域を完全に掌握したのだ。こうしてブルゴーニュの状況は落ち着いた。

ちょうどその頃、ヨーロッパ東部ではオスマン帝国やオスマン帝国の後ろ盾を得たハンガリーの侵入が相次いでおり、ハプスブルク家のウィーンはハンガリー軍によって占拠されていた。1453年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がオスマン帝国によって滅ぼされており、ヨーロッパも東ローマ帝国の二の舞になる可能性があった。

この危機的状況を打破するために選帝侯は1486年にマクシミリアンをローマ王の座にすえる。「中世最後の騎士」との呼び名が高いマクシミリアンをハンガリーやオスマン帝国を撃退するための切り札としたのだ。

マクシミリアンには幸運の女神がついていた。オーストリアを広く占拠していたハンガリー王マーチャーシュ1世が1490年に急死するとハンガリー軍は急速に弱体化したため、マクシミリアン率いる帝国軍はハンガリー軍を簡単に追い払うことができたのだ。こうしてマクシミリアンはハプスブルク家の旧領だけでなく、オーストリア全土の支配権を獲得するに至る。

マクシミリアンとハプスブルク家の幸運はさらに続く。1496年にはハプスブルク家とスペイン王家との婚姻が執り行われたのだが、結果的にこれがスペインの領土をハプスブルク家が獲得することにつながるのだ。

この時にはマクシミリアンの子フィリップとマルガレーテがそれぞれ、スペインの王女ファナ、王子ファンと結婚した。ところが、この結婚から10数年以内にスペイン国王夫妻と王子ファンが亡くなってしまい、スペイン王は王女ファンとフィリップの子供に引き継がれることになったのだ。

ファンとフィリップの間には2人の男子と4人の女子が生まれていた。このうち長男のカルロス(1500~1558年)が1516年にスペイン国王カルロス1世(在位:1516~1556年)として即位したのだ。彼はイベリア半島のスペイン本国だけでなく、南ローマとシチリア、そして新大陸の広大な領土を治める王となった。


カルロス1世(カール5世)

カルロスはブルゴーニュで生まれ育ち、1506年にはブルゴーニュ公となっていたが、1516年の即位に合わせて大勢のブルゴーニュ人を伴ってスペインに乗り込んだ。こうしてスペインでは、ブルゴーニュの優雅な文化とスペイン本来の厳格なカトリック文化が融合した独自の文化が生まれることになる。

さらにハプスブルク家はハンガリーの王位も獲得することになった。1515年に次男のフェルディナント(1503~1564年)はハンガリー王女のアンナとの、また三女のマリアもハンガリー王子のラヨショとの婚約が成立したのだが、1526年にラヨショが戦死したため、フェルディナントがハンガリーとそれに帰属するボヘミア(現在のチェコスロヴァキア)の王となったのである。こうしてハプスブルク家は、オーストリアとブルゴーニュに加えて、スペイン領とハンガリー・ボヘミアと言う広大な領土を手中に収めた。

1519年に祖父のマクシミリアンが死去すると、スペイン王カルロス1世はオーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承した。さらにカルロス1世は、1519年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世(在位:1519~1556年)となる。その後カール5世(カルロス1世)はフランスとの間で激しい戦いを続けるが、その話は次回に回したいと思う。

カール5世は1556年にすべての地位から退いた。長年の戦争で蓄積した疲労や10年ほど前から患っている痛風によるものと考えられている。スペインとネーデルラントの領土は息子のフェリペ2世が受け継ぎ、オーストリアの領土と神聖ローマ帝国皇帝位は弟のフェルディナント1世が継承した。これ以降、神聖ローマ帝国皇帝位はオーストリア系ハプスブルク家の世襲となる。

最後に、カール5世の食生活について少しお話しておこう。

カール5世はかなりの大食漢であったと言われている。好物はイベリコブタのソーセージやハム、カタクチイワシのオムレツ、ウナギのパイ、イノシシ・ウシ・去勢オスドリ・ウズラの焼肉、マルメロ(カリンに似た果物)の砂糖漬け、そしてよく冷えたビールとライン産ワインだった。特にビールは朝から飲むことも多く、これが痛風の一因となったと考えられている。

カール5世のビールに関する逸話に「4つの取っ手が付いたビールジョッキ」がある。

ある村の酒屋に入ったカール5世がビールを注文すると、女主人がジョッキの取っ手を持ってカール5世に手渡したので、冷たいジョッキを両手で受け取らなくてはいけなかった。そこで取っ手が2つあるジョッキを作らせて女主人に渡したのだが、今度は両手で両方の取っ手を持ってカール5世に手渡した。カール5世がさらに取っ手3つのジョッキを渡したところ、次は3つ目の取っ手を顔で支えて手渡されてしまった。それで最後に4つの取っ手が付いたビールジョッキが出来あがったというわけだ。現在はこの逸話にちなんだビールジョッキも売られているようである。




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