食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

イギリスの酒場「パブ」の誕生-イギリスの産業革命と食(5)

2022-03-23 22:41:39 | 第五章 近代の食の革命
イギリスの酒場「パブ」の誕生-イギリスの産業革命と食(5)
イギリスの酒場と言えば「パブ(pub)」が有名です。どんな小さな村にもパブがあり、それぞれの地域の社交場として重要な役割を果たしています。

そもそもパブは「パブリック・ハウス(public house)」の略で、産業革命期に労働者などの公衆のための場所として始まりました。18世紀のパブリック・ハウスでは、結婚式などの祭事や集会、パーティーなどが開催され、時には裁判も行われることがあったと言われています。また、仕事のあっせんなどを行うパブリック・ハウスも存在したそうです。

今回は、ヨーロッパにおける酒場の歴史から始めて、産業革命期のパブリック・ハウスの誕生とその後の変遷について見て行きます。


(Luis Wilker WilkerNetによるPixabayからの画像)

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ヨーロッパでは酒場宿屋と一体化している時代が長かった。酒を飲めば酔いつぶれてしまうこともあるし、一眠りしてから帰宅したいと思う人も多かったからだろう。また、旅行者にとっても、宿での食事と酒の提供は無くてはならないものだった。

このような酒場兼宿屋の中には売春行為が行われるところもあった。古代ギリシア時代の記録には、悪質な酒場兼売春宿に泊まって身ぐるみをはがされてしまった男のことが書かれているという。

酒場と宿屋が一体化した店舗はローマ帝国でも一般的だった。ローマ帝国の飲食店であった「タベルナ」の中には宿泊可能な店も多くあったと言われている。

また、古代ローマにはタベルナ以外に「ポピーナ」と呼ばれる泊り部屋付きのワインバーがあった。ここの利用者は主に奴隷や外国人など下層階級層であり、売春に加えて賭博が日常的に行われていてトラブルの巣窟になっていた。このように飲酒・売春・賭博の三つが結びついたのは古代ローマが最初とされている。

ローマ帝国の最盛期には、石畳で舗装された街道が約8万㎞に達したと言われている。そして、旅行者のためにタベルナが併設された宿屋がたくさん営業していた。また、いかがわしいポピーナも旅行者によく利用されていたという。

4世紀末に始まった民族の大移動によってローマ帝国が崩壊すると、社会情勢が不安定になるとともにローマ街道も維持できなくなって、旅行をすることが困難になった。その結果、酒場(宿屋)はしばらくの間衰退する。

9世紀になると、西ヨーロッパを統一したカール大帝(在位:768〜814年)は、各地に教会や修道院を建てることによってキリスト教を基盤とした統治を行った。修道院ではワインビールが醸造され、祭祀に利用されるとともに、貴族や一般庶民にもふるまわれた。修道院は貴族たちの宴会場にもなったし、貧民たちの避難場所でもあったのだ。

再び酒場兼宿屋が盛んになるのが11世紀だ。11世紀になると農業技術が発展し、食糧生産量が増えたことによって人々の生活に余裕が生まれてきたのだ。その結果、地域内や地域間の交流が活発になり、酒場や宿屋が増えたのである。

さらに、11世紀の終わりに始まった十字軍の遠征によって聖地エルサレムの存在が広く知られるようになると、たくさんの人々が聖地巡礼の旅に出かけるようになる。エルサレム以外には、イタリア半島のローマやスペインのサンチャゴ=デ=コンポステラ(キリスト十二使徒の一人ヤコブの遺骨が発見された地)への巡礼が盛んに行われたという。

このような巡礼者に対する宿として、修道院とともに民間の宿屋が利用されたのだ。教会や修道院が宿屋を経営することも多かったらしい。もちろん、修道院や宿屋では食事と酒が提供されていたし、場末の宿屋では売春や賭博も行われていた。また、その頃には修道院だけでなく、民間や一般家庭でも酒の醸造が行われるようになり、酒場(宿屋)で販売された。

教会や修道院と関係が深かった酒場(宿屋)では、教区の会議や日曜学校が開催されたらしい。また、礼拝の前後に酒場(宿屋)で酒を飲むことも推奨されていた。このように、キリスト教と酒場の関係はかなり深かった。

イギリスでは「タバーン(tavern)」と呼ばれる酒場や、「イン(inn)」と呼ばれる宿屋が営業されていたが、両者は同じ店で営まれることが多くなったため、次第に区別はなくなったと言われている。1539年にイギリスの宗教改革によって修道院が解散させられると、その穴を埋めるようにタバーンとインがたくさん作られた。

さらにイギリスでは、エールを飲ませる「エールハウス(alehouse)」という酒場があった。昔のエールは上面発酵させたホップなしのビールで、ゲルマン系のアングロ・サクソン人がブリテン島に持ち込んだものだ。エールは長い間、各家庭で醸造されたものが日常食の一つとして飲まれていたが、家庭内で飲みきれなかったり、とても美味しいと評判になったりしたエールはエールハウスで売られたのである。

16世紀になるとエールの醸造場所は家庭から酒造所に移動して大規模化し、イギリスのエールハウスの数も顕著に増加した(この頃にはエールにホップが使用されるようになった)。1577年の調査では、イングランドとウェールズには14202軒のエールハウス、1631軒のイン、329軒のタバーンが課税対象として記録されているという。当時の人口を考慮すると、約200人に1軒の割合で酒場があったことになる。エールハウスも次第にタバーンやインと融合し、大きな違いは見られなくなったと言われている。

タバーン・イン・エールハウスは、各地域で仲間との親睦を深めるという重要な役割を果たしていた。16世紀から17世紀にかけての酒場は、上は王侯貴族から下は盗人まで集まる場所であり、さまざまな話題が飛び交っていた。

ところが、17世紀の半ば以降からは貧富の差が拡大して行ったため、異なる身分の者同士が酒を酌み交わすことは無くなって行った。すなわち、17世紀半ばには植民地からの収益で富を蓄えた人が上流階級に加わるようになり、18世紀からは産業革命によって新しい金持ちが誕生した。また、大都市には農村から大勢の人々が労働者として押し寄せ、彼らが居住する地域はスラム化することになる。このように貧富の差が拡大した結果、イギリスの酒場は身分や社会的な立場に応じて細分化されるようになったのである。例えば、その頃の酒場は、上流・中流・下流の席は壁で仕切られていたという。

やがて、上流階級の人々はコーヒーハウスから派生した「クラブ(club)」などで仲間と酒を楽しむようになる。こうして19世紀にはイギリスの従来の酒場は労働者のためのものに変化し、「パブ」と呼ばれるようになった。実際に、ロンドンのスラム街やマンチェスターなどの工業都市には多数のパブがあった。パブは労働者のための社交の中心となり、通夜、結婚式、洗礼式、祝日の祝宴が催されたという。

しかし19世紀半ばになると、新しい法律によってビール製造が容易になったため、パブの建設が盛んになる。また、既存のパブの多くも建て直され、今日のような一目でパブとわかる形態に変化して行った。このような外観の変化と同時に、それまで行われていた冠婚葬祭などの様々な催し物は開催されなくなり、パブは酒と世間話を楽しむ居酒屋へと変貌して行ったのである。


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