食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

カルヴァンの宗教改革と質素な食事-戦争と宗教改革と食の革命(4)

2021-06-11 22:37:45 | 第四章 近世の食の革命
カルヴァンの宗教改革と質素な食事-戦争と宗教改革と食の革命(4)
宗教改革の指導者としてルターと並び称されるのがカルヴァンです。カルヴァンの教えはルターの教えよりも厳格と言われています。

ルターの教えは主にドイツ北部とデンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどの北欧諸国に広まりました。一方のカルヴァンの教えは主にオランダ(ネーデルラント)とイギリス(イングランドとスコットランド)、そしてフランスに広まりました。なお、フランスではその後カトリックが再び主流になります。

また、スペインやポルトガル、イタリアなどのそれ以外の西ヨーロッパの国々はカトリックのままであり、東ヨーロッパではギリシア正教が信仰されました。

このようなキリスト教の宗派の違いは人々の日々の食事にも影響を与え、それは現代でも残っています。

今回はカルヴァンの宗教改革によって変化した社会と日々の食事について見て行きます。


カルヴァン
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ジャン・カルヴァン(1509~1564年)は北フランスに生まれ、大学で神学、哲学、法律を学んだ。そして1533年頃に神秘的な体験をし、プロテスタントとして活動するようになったと言われている。

しかし、フランスでは次第にプロテスタントに対する弾圧が厳しくなったため、カルヴァンはスイスのバーゼルに亡命した。そして1536年にバーゼルで聖書の手引書である『キリスト教の綱要』を出版し、広く世にその名が知られるようになる。

カルヴァンもルターと同じように聖書を中心とした信仰を説いた。それに加えてカルヴァンの教えの特徴とされているのが「予定説」と言われるものだ。これは、「神によって誰が救われるかはあらかじめ(予)決まっている(定)」という考え方だ。そして聖書は救われる人のためのものと教えた。

つまり、予定説では善行を積んでも悪行三昧でも、その人の運命は変わらないとされる。これは一見救いの無い教えにも思えるが、当時の人々の受け取り方は違ったようだ。「救われる人は正しい行いをするように定められており、そのような行いをしている自分こそが救済される選ばれた人なのだ」と考えたのだ。そして、「自分の仕事は神に与えられたものであり、一生懸命働けば必ず成功するはずだ」と強く信じたのである。

カルヴァンが蓄財をすすめたこともあり、人々は仕事に励み貯蓄を増やすことで自身の信仰を証明しようと考えるようになった。こうした考えは金儲けをなりわいとする商工業者に喜んで受け入れられ、広まって行った。

ドイツのマックス・ヴェーバー(1864~1920年)は20世紀の初めに、カルヴァンの予定説が資本主義を発展させたという説を唱えた。実際に、カルヴァンの教えが広まったイギリスやオランダでは商工業が発展し、両国は世界経済の中心となって行った。一方、最終的にカルヴァンの教えを排除したフランスでは商工業が停滞し、経済面で両国に水をあけられることになる。

さて、貯蓄を増やすには稼ぎを多くして消費を抑えるのが一番だ。カルヴァンが清貧な生活を送ることを教義としたことからも、カルヴァンの教えを信仰した人々の食事は質素なものになった。

この影響は現代のイギリスやオランダでも残っており、例えばイギリスでは誕生パーティーなどに招待されても、いわゆる「ごちそう」のようなものはあまり出てこない。また、オランダでは朝食と昼食はサンドウィッチで、夕食は肉や魚の料理が一品にジャガイモやパスタなどの炭水化物の料理が一品というのがスタンダードらしい。

日本は1641年から1859年まで長崎の出島を通してオランダと交易を行っており、両国の関係はかなり深いと言える。しかし、オランダから日本に入ってきた食べ物と言われても、何も思いつかないのではないだろうか。これは、カステラや金平糖、てんぷらなどがポルトガルから日本に持ち込まれて定着したのとは好対照だ。オランダの食べ物が質素だったため、日本人の食指を動かすことが無かったのだろう。

カルヴァンは1541年にジュネーブに招かれ、やがて宗教組織と統治組織が一体化した「神権政治」を行うようになった。カルヴァンは非常に厳格で、住民に清貧な生活を強要し、飲酒や賭博などは厳禁だった。違反者がいないか常に取り締まりを行っていて、もし見つかれば処刑されることもあったという。

また、自分の考えと異なる者には容赦せず、徹底的な弾圧を加えたと伝えられている。もっとも有名な例が、神学者ミゲル・セルヴェが生きながらに火刑に処された話だ。彼は三位一体説を否定するなど独自の考えを持った異端者とされていた。セルヴェはカルヴァンとも書簡のやり取りをしていたが、その中でカルヴァンの『キリスト教綱要』を批判したことからカルヴァンの憎悪の対象となった。そしてセルヴェはジュネーブに立ち寄った際に捕まえられ、できるだけ苦しませるために弱い火で長い時間かけて火あぶりにされたと言われている。ちなみに、当時のジュネーブの法律では旅行者を死刑にすることはできなかったらしい。何とも恐ろしい話である。

なお、カルヴァンの信者はフランスではユグノー、オランダではヘーゼン(ゴイセン)、イングランドではピューリタン(清教徒)、コットランドではプレスビテリアン(長老派)と呼ばれた。


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