食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ルターの宗教改革と食の変化-戦争と宗教改革と食の革命(3)

2021-06-09 17:01:06 | 第四章 近世の食の革命
ルターの宗教改革と食の変化-戦争と宗教改革と食の革命(3)
宗教では特定の食べ物を食べることが禁じられていることがあります。例えば、日本の仏教では葬式などで肉食をひかえるなど、動物性の食べ物を口にすることが禁じられており、昔のお坊さんは日常生活でも肉を食べることはできませんでした。

また、イスラム教やユダヤ教では豚肉など特定の食品を食べることが禁じられています。

現代のキリスト教では聖職者を除いて食の制限はほとんどありませんが、中世には断食日に肉を食べることが禁じられていました。この断食日は1年間に93日もあり、特に復活祭の前の46日間は四旬節と言って、肉に加えて乳製品や卵なども禁止されていました。

このようなキリスト教の食の戒律を大きく変えるきっかけとなったのが、ルターが始めたとされる「宗教改革」です。

今回は宗教改革とそれにともなう食の変化を見て行きます。


                 ルター
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宗教改革は、ドイツにおいてローマ教皇の名の下で贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符ともいう)が発売されていることに疑問を持ったマルティン・ルター(1483~1546年)が、1517年に『95か条の論題』という質問状をドイツ・ザクセン地方の教会の扉に貼り付けたことをきっかけに始まったとされている。

ルターは修道士であると同時に大学の神学教授で、キリスト教の専門家だった。質問状は贖宥状を販売していたドミニコ修道会に対してキリスト教の教義について論争をもちかけたものだった。

実は贖宥状は十字軍遠征の時から何度も出されてきた。十字軍の時は、戦争で人を殺しても贖宥状を手に入れればその罪が赦されるとされた。しかし今回は、贖宥状によって「あらゆる罪」が赦されて誰でも天国に行けるという点がキリスト教の教義と異なっているとルターは考えたのだ。

ルターは純粋に神学論争をしたかっただけのようだが、ラテン語で書かれた質問状は知らないうちにドイツ語に翻訳され、印刷されて瞬く間に世の中に広まってしまう。

この背景にはローマ教皇やカトリック教会に対する民衆や領主の不満があった。当時のドイツ(神聖ローマ帝国)はたくさんの領邦の寄せ集めであり、各領主の力は小さく、また司教が治める領地も多かった。このためドイツは「ローマの牝牛(めうし)」と呼ばれたように、乳を搾り取られるようにローマ教皇らによって金を吸い上げられていたのだ。ルターの質問状はくすぶっていた人々の反発心に火をつけたのである。

なお、この時贖宥状を出したのはフィレンツェのメディチ家出身の教皇レオ10世(在位:1513~1521年)だ。彼は豪奢な生活を送るため、そしてサン・ピエトロ大聖堂の大改修を行うために莫大な借金をしており、贖宥状はその返済のためだった。

『95か条の論題』によって一躍有名人となったルターは、もともとローマ教皇やカトリック教会などの権威に対して批判的であり、「神」と「聖書」を中心とした信仰に生きるべきだと考えていた。

騒ぎが大きくなりつつあることを見てローマ教皇側はルターを説得しようとしたが、彼は一切妥協せず、1520年にはカトリック教会の権威や慣習を否定する文書を次々と発表し始めた。それに対してローマ教皇はルターを破門処分とする。さらに神聖ローマ帝国皇帝のカール5世によって帝国からの追放処分が言い渡された。

それでもルターには多くの賛同者がいた。その内の一人、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世によってルターは保護される。フリードリヒ3世は帝国の有力者の一人であり、その頃の帝国はフランスとの戦争を続けていたことから、この件については深く追及されなかったようだ。そしてその結果、ルターの宗教改革はさらに勢いを増して行くことになる。

ルターは、聖書中心の信仰を広めるためには母国語で書かれた聖書が必要不可欠と考え、それまでのラテン語の聖書をドイツ語に翻訳した。こうして1532年頃に出版された『ルター聖書』によって、人々が聖書の内容をよく理解するようになった。

ちなみに、聖書がドイツ語に翻訳されたのはこれが初めてではない。隣国のスイスにもルターの始めた宗教改革の波が到来したのだが、その改革に賛同した人々によって1529年頃に『チューリッヒ聖書』と呼ばれるドイツ語の聖書が出版されている。

なお、この出版に関わった人たちは1522年のカトリックの断食日に集まり、大勢の人々の前で「肉を食べる」パフォーマンスを繰り広げたという逸話が残っている。断食は聖書に記載が無く、教会によって定められた慣習であったため、これを破ることが宗教改革の格好のデモンストレーションだったのである。

ちょうどこの頃にヨーロッパでよく利用されるようになったものに「バター」がある。古代ローマではバターは貧しい人が食べるものとされていたが、ゲルマン民族はバターを食べていたことから徐々にヨーロッパに定着してきていた。しかし、カトリックでは四旬節にバターなどの乳製品を食べることが禁じられていたため、広く食べられるまでには至っていなかった(ただし、贖宥状を買うことができた金持ちは、一年中バターを食べていたという)。

宗教改革によって食のタブーから解放された人々は、バターを好んで食べるようになった。特にオリーブを生産できない北部の地域でバターは急速に広まって行った。また、カトリックでも人々の要望を受けて四旬節にバターを食べても良いことになった。こうして17世紀には、肉や魚料理にバターがよく使用されるようになるのだ。

カトリックでも宗教改革の影響を受けて、断食日の食の制限もバターのように次第に緩やかになって行った。

食のタブー以外にも、宗教改革によって聖職者の婚姻の禁止も解消された。カトリックの聖職者には婚姻は認められていなかったが(愛人を持つ聖職者も少なからずいたらしいが)、宗教改革によって妻帯も可能になったのだ。1525年にはルター自身も元修道女のカタリーナ・フォン・ボラと結婚し、彼女との間に3男3女をもうけている。

さらにルターは、独自の宗派である「ルター派(ルーテル派)」を立ち上げた。すると、多くのドイツ人がルター派に属するようになったが、依然としてカトリックに属する人たちも多かった。つまり、ドイツがカトリックとルター派によって二分されたのだ。

これに対して皇帝カール5世は、ルター派をいったん認めた後にこれを撤回したため紛争が起こってしまう。この時にルター派の諸侯がカール5世に抗議したことから、新しい宗派のことを、抗議する人の意味の「プロテスタント」と呼ぶようになった。

やがて1555年に、カール5世が諸侯の信仰の自由を認めたため、プロテスタントは公認されることとなった。ただし、民衆は領主の宗派に従う必要があったため、民間レベルの争いは続くことになった。民衆も含めて信仰の自由が認められるまでには1648年まで待たなければならなかったのである。


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