グスターボ・ドゥダメル(指揮)+シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ(演奏)
グスタフ・マーラー「交響曲 第5番 嬰ハ短調」(DG, 2006)
その音楽を「どう聴くか(解釈するか)」というのは、聴き手個々人に許された自由である。で、僕の場合は、絶対音楽というものにあえて視覚的イメージや特定の状況を重ねてみたりするのだが、マラ5にはどんなイメージがピッタリ来るか。これがじつに難しい。気づけば、音楽そのものに引き込まれていて、イメージを想起する余裕が与えられない。別な言い方をすれば、絶対音楽は「聴く場所」を選ばない。その点、マラ4などは視覚的にイメージしやすいほうで、結構聴く場所を選ぶ音楽である。
ところで、こういう「萌え」な聴き方が許されるのは、あくまで「個人のレベル」においてである。ブログのような公共空間で、このような「個人的な聴き方」についてああだこうだ言うのは、内面を吐露する以上の生産的な意味をもたないに相違ない。(←じゃ、書くなよ)一方で、音楽批評と称して、たいそう感覚的、個人的、萌えな言説が巷に流布していることもまた事実である。「萌え」こそが日本文化の本質であるなどという言説はその最たるものだ。個人レベルで萌えるのは大いに結構、当人の自由だ。僕だって萌えまくっている。しかし、それを恥ずかし気もなく一般化するとなると話は別だ。以前にも書いたように、僕はそういう言説には与することはできない。なぜ「オタク的言説」がダメなのか、「萌え的言説」がダメなのか、その理由については先の引用元を参照。じつに平易にわかりやすく説明してくれている。
グスタフ・マーラー「交響曲 第5番 嬰ハ短調」(DG, 2006)
音楽についての議論の存在意義が、「その対象の美的価値」に依存する、というのはあまり健全ではないと思う。
音楽をめぐる言説では、自分の美的な価値判断が無媒介に主張の意義と接続されてしまいがちで、それが当然と思われてしまう。言説が対象にべったりで、自律していないんですね。音楽についての言説が、その音楽を称揚するためにしか用いられていない。それは息苦しい。(以上、増田聡/サイトー商会)
その音楽を「どう聴くか(解釈するか)」というのは、聴き手個々人に許された自由である。で、僕の場合は、絶対音楽というものにあえて視覚的イメージや特定の状況を重ねてみたりするのだが、マラ5にはどんなイメージがピッタリ来るか。これがじつに難しい。気づけば、音楽そのものに引き込まれていて、イメージを想起する余裕が与えられない。別な言い方をすれば、絶対音楽は「聴く場所」を選ばない。その点、マラ4などは視覚的にイメージしやすいほうで、結構聴く場所を選ぶ音楽である。
ところで、こういう「萌え」な聴き方が許されるのは、あくまで「個人のレベル」においてである。ブログのような公共空間で、このような「個人的な聴き方」についてああだこうだ言うのは、内面を吐露する以上の生産的な意味をもたないに相違ない。(←じゃ、書くなよ)一方で、音楽批評と称して、たいそう感覚的、個人的、萌えな言説が巷に流布していることもまた事実である。「萌え」こそが日本文化の本質であるなどという言説はその最たるものだ。個人レベルで萌えるのは大いに結構、当人の自由だ。僕だって萌えまくっている。しかし、それを恥ずかし気もなく一般化するとなると話は別だ。以前にも書いたように、僕はそういう言説には与することはできない。なぜ「オタク的言説」がダメなのか、「萌え的言説」がダメなのか、その理由については先の引用元を参照。じつに平易にわかりやすく説明してくれている。