「仏教の思想」による仏教思想の勉強、その11「道元」の続き(その3)です。
(その1)でさわり、(その2)で道元の生涯を整理してみました。少しは道元の思想が垣間見えた気もしますがいかがでしょうか。(その3)では、さらに道元の思想に近づきたいと思います。
十五歳で叡山に登った道元は「悟っているのになぜ修行をするのか?」という疑問をもち、叡山を下り栄西の門をたたき、やがて宋にわたり禅宗を学びます。そして疑問のその答えとしての「正伝」(=坐禅)を得て帰国します。
ということで、(その3)では、道元が学んだ「正伝」の内容について、整理したいと思います。
2.「正伝」の意義
2.1.仏道=仏法
(1)仏道の意義
①まなぶはまねる
「仏教の思想11」のタイトルは「古仏のまねび<道元>」となっています。ここで「古仏」とは釈迦をはじめとする先師のことです。「まねび」は学ぶ、まねるということで、タイトルの意味は「先師をまねる」ということになり、つまりはこれが端的には「正伝」ということになります。
すこし長くなりますが、「まなぶはまねる」についての本文をそのまま抜き書きしてみます。
「人類の歴史は<まね>の歴史である。人はすべて、先人-親・兄弟・師・仲間・隣人・異邦人・旅人のいずれであれ、先人のなしわざを見・聞きして、そのまねを通して、<ならい>、覚えて、これを後人に伝えるということを繰り返してきた。<学ぶ>とは<まねぶ>(<まねる>)である。<ならう>ことは<なれ>によって<ならわし><ならい>となる面をもつと同時に、「右にならえ」で、やはり<まね>を出発点とする。 イミテーションと聞くと<まがいもの>を思いうかべるが、<イミテート>の原義は「古人、先人を手本としてまねる」ことである。その意味から少し違った意味を出すには<まねび>という日本語がぴったりした語威をもっているようだ」
②仏道をならう
そこで、ならうものは何か?といえば、ここでは「仏道」ということになります。では、仏道とは、ということになりますが、仏道とは<仏になる道>であるとともに<仏の歩む道>となります。つまり、ならうのはほとけのまねということになります。
さらに、仏道とは具体的に何か?何をなすべきか?といえば、これに対する道元の答えは明快です。いわく、「坐禅」「只管打坐」。「なんとなれば、それはかっての諸仏が行で、それによって証悟した行為、行であるから」、と。
(2)道元のいう<正伝>とは
釈迦の生涯ー修行し菩提(さとり)を得、涅槃に入る仏の行-を今日我々が学ぶことができるのは何故か?それは釈迦より弟子にそのまた弟子に、そしてインドから中国へ、さらに中国の僧(禅宗では達磨)から弟子にやがて道元にと伝来されたからです。道元はこの伝わり方を「ほとけ仏にさずけてよこしまなし」と言っています。受ける方から言えば、それが仏に学ぶ、仏のまねをすることで、そこに<正伝>が実現するわけです。
<まなぶ>のには時代を隔てて古人のまねをすることも可能ですが、道元にとって<ほとけ仏にさずく>のくりかえしによる相続以外には<正伝>は認めらなかったわけです。(このくりかえしの相続を<単伝>と呼びます)そこにはまた、誰から学ぶかという<正師(しょうし)>の問題も出てくるわけです。
(「1.道元の生涯」でも、入宋後如浄に会うまでの間、諸方遍歴の旅をしますが、これこそ<正師>を求めての旅であり、これは禅宗の伝統でもあったわけです)
(3)仏道=仏法
仏道をならうことによって、仏の体験(つまりはさとり)が<正伝>することになります。つまり仏の体験以外に伝えるものは何もないということです。一方で、この仏の体験を<妙法>また<正法>と呼びます。<正法>とは真実の教え、仏の教えで、仏のさとりを内容とし、真実の表現であるから、こう呼ばれます。つまりは<仏法>と同意義でもあります。
(本文はかなり複雑で正確に理解出来ているか疑問ですが、肝心かなめの部分で、私なりに理解して要約しています)
以上をさらに要約すると、仏道とは仏の体験そのもので、それだけが<正伝>されるものであり、それは、<妙法>または<正法>つまりは<仏法>であるわけです。
この仏道=仏法という構造が実は道元の宗教のかなめであり奥義です。さらに道元に限らず、禅のめざすものであり、仏教の根本的構造にほかならないのです。
<仏法を説く>ことではなく、<仏道>をならうことに全身全霊をかたむけたのが道元の特色であったというべきでしょう。<ならう>ことによって、そこに<仏法>がおのずからあらわれるのです。
2.2.正伝の方法
(1)<正法眼蔵>の由来、正伝のはじまり
『正法眼蔵』とすれば書名としてのそれでですが、<正法眼蔵>の意味は正法眼の蔵と区切って解釈され、<蔵>は宝物をしまっておく蔵を意味します。
<正法眼蔵>のことばは禅宗の「*正法伝持の次第」の中で、その伝灯のはじまりとして大事にされている次のことにもとづいています。(*ろうそくの火をつぎつぎと新しいものに移して絶やさず伝えていく(<伝灯>)のこと。『景徳伝灯録』(1004年宋の道原著)などにみられることば)
「ある時、世尊は、霊山で百万の大衆(だいじゅ)の集まった法会において、優曇華(うどんげ、三千年に一度花が咲くといわれ、その花は瑞兆とされる)を拈(ねん)じて(手でひねる)瞬目(しゅんもく)した。その時、〔百万の会衆のなかのただひとり〕摩訶迦葉(まかかしよう)尊者が破顔微笑(みしょう)した。そこで世尊は『吾に正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん)あり、これを汝摩訶迦葉に付属する』といわれた」(『正法眼蔵』「仏道」参照)
この釈尊と迦葉のあいだの以心伝心のやりとり、釈尊の<拈華(ねんげ)>と迦葉の間髪入れね<微笑>という対応を。禅宗では<拈華微笑(ねんげみしょう)>(wikipedia)と称して、仏々祖々、仏法が正伝して今日にいたる出発点としていいます。
(2)正伝のながれ
①法と律の伝承
拈華微笑の逸話にあるように、釈尊の死後、その教えは摩訶迦葉に伝えられましたが、仏教の基礎知識として参考になる内容のため、このことについてもう少し詳しくみてみます。
釈尊の入滅後、弟子たちは教団の根拠地であるマダカ国の王舎城に集まって、将来の教団のあり方を相談しました。釈尊は仏の教えを基準にして真偽善悪を判断し、自己の判断に従って行為せよとの遺言を残したため、最長老であった摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が音頭をとり、各人の記憶を整理し、この会合で以下を決定しました。ここに釈尊一代の教訓は<律>と<法>とにまとめられました。
後代の仏教徒は、この結集の事実を認め、信ずるかぎり<律>は優波離を通して弟子から弟子に伝えられたもの、<法>については、阿難から弟子から弟子に伝えられたものを身につけていることになります。
②『付法蔵因縁伝(ふほうぞういんねんでん)』
釈尊の入滅後100年以上たつと、教団は保守派と改革派に分裂、それらはさらに分裂し十八の部派になったといいます。そしてそれぞれの部派は、我こそ釈尊よりの正統の部派であると主張しだします。
それらの主張の中で作られた一つに『付法蔵因縁伝』があり、釈尊入滅後の付法相伝した二十三祖師の因縁が記述されったものです。禅宗ではさらに二十四代から二十七代までを架空して第二十八祖菩提達磨につながっているとしています。
本著の<付法蔵>とは、<法>を弟子に付属(依嘱)することを意味しており、この考えを土台として<拈華微笑>の話のおこり(『吾に正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん)あり、これを汝摩訶迦葉に付属する』)の話も付属している(師から弟子に依嘱されている)と禅宗ではしています。
以上のことから、一般的な<法>を禅宗では<正法眼蔵涅槃妙心>だとしているといえます。
③禅の法<涅槃妙心>の背景
大乗経典の一つに『楞伽経(りょうがきょう)』という経があり、そこには「さとりをひらいた日から、涅槃に入った夜まで、四九年間仏陀は一語一句たりとも説かなかった」という説があります。つまり、さとりは「自内証」(みずから体得すべきこと)であって、「言語道断・言詮不及(ごんせんふぎょう)」(ことばで表わす方法はない)ということを意味しています。
となると、何が後世に伝えわったかということになると、つまりは<拈華微笑><以心伝心>というわけです。これを禅宗では<教外別伝(きゅげべつでん)>・<不立文字(ふりゅうもんじ)>などと呼びます。
④開祖達磨から第二祖慧可へ
達磨は伝説のヴェールにつつまれた人ですが、西域まはたインドからの僧で、嵩山(すうざん)で壁に向かって坐ってばかりいた。慧可は四十までの儒教の勉強を捨てて、この師から教えを受け坐禅を学んだ。こうして、『楞伽経』の{四十九年間一字不説」の仏の法そのものにふさわしく、坐禅による以心伝心の法(=正法眼)の相承が確立したわけです。
したがって、禅宗に属する人は、しばしば拈華微笑を<公案>つまり禅宗修行の際の工夫の課題とするだけでなく、みずから正法眼蔵を弟子に伝えることを確心していたのです。
まだ、「2.「正伝」の意義」の途中ですが、長くなりすぎましたので、今日はここまでとします。
続きは(その4)で、しばらくお待ちください。
(その1)でさわり、(その2)で道元の生涯を整理してみました。少しは道元の思想が垣間見えた気もしますがいかがでしょうか。(その3)では、さらに道元の思想に近づきたいと思います。
十五歳で叡山に登った道元は「悟っているのになぜ修行をするのか?」という疑問をもち、叡山を下り栄西の門をたたき、やがて宋にわたり禅宗を学びます。そして疑問のその答えとしての「正伝」(=坐禅)を得て帰国します。
ということで、(その3)では、道元が学んだ「正伝」の内容について、整理したいと思います。
2.「正伝」の意義
2.1.仏道=仏法
(1)仏道の意義
①まなぶはまねる
「仏教の思想11」のタイトルは「古仏のまねび<道元>」となっています。ここで「古仏」とは釈迦をはじめとする先師のことです。「まねび」は学ぶ、まねるということで、タイトルの意味は「先師をまねる」ということになり、つまりはこれが端的には「正伝」ということになります。
すこし長くなりますが、「まなぶはまねる」についての本文をそのまま抜き書きしてみます。
「人類の歴史は<まね>の歴史である。人はすべて、先人-親・兄弟・師・仲間・隣人・異邦人・旅人のいずれであれ、先人のなしわざを見・聞きして、そのまねを通して、<ならい>、覚えて、これを後人に伝えるということを繰り返してきた。<学ぶ>とは<まねぶ>(<まねる>)である。<ならう>ことは<なれ>によって<ならわし><ならい>となる面をもつと同時に、「右にならえ」で、やはり<まね>を出発点とする。 イミテーションと聞くと<まがいもの>を思いうかべるが、<イミテート>の原義は「古人、先人を手本としてまねる」ことである。その意味から少し違った意味を出すには<まねび>という日本語がぴったりした語威をもっているようだ」
②仏道をならう
そこで、ならうものは何か?といえば、ここでは「仏道」ということになります。では、仏道とは、ということになりますが、仏道とは<仏になる道>であるとともに<仏の歩む道>となります。つまり、ならうのはほとけのまねということになります。
さらに、仏道とは具体的に何か?何をなすべきか?といえば、これに対する道元の答えは明快です。いわく、「坐禅」「只管打坐」。「なんとなれば、それはかっての諸仏が行で、それによって証悟した行為、行であるから」、と。
(2)道元のいう<正伝>とは
釈迦の生涯ー修行し菩提(さとり)を得、涅槃に入る仏の行-を今日我々が学ぶことができるのは何故か?それは釈迦より弟子にそのまた弟子に、そしてインドから中国へ、さらに中国の僧(禅宗では達磨)から弟子にやがて道元にと伝来されたからです。道元はこの伝わり方を「ほとけ仏にさずけてよこしまなし」と言っています。受ける方から言えば、それが仏に学ぶ、仏のまねをすることで、そこに<正伝>が実現するわけです。
<まなぶ>のには時代を隔てて古人のまねをすることも可能ですが、道元にとって<ほとけ仏にさずく>のくりかえしによる相続以外には<正伝>は認めらなかったわけです。(このくりかえしの相続を<単伝>と呼びます)そこにはまた、誰から学ぶかという<正師(しょうし)>の問題も出てくるわけです。
(「1.道元の生涯」でも、入宋後如浄に会うまでの間、諸方遍歴の旅をしますが、これこそ<正師>を求めての旅であり、これは禅宗の伝統でもあったわけです)
(3)仏道=仏法
仏道をならうことによって、仏の体験(つまりはさとり)が<正伝>することになります。つまり仏の体験以外に伝えるものは何もないということです。一方で、この仏の体験を<妙法>また<正法>と呼びます。<正法>とは真実の教え、仏の教えで、仏のさとりを内容とし、真実の表現であるから、こう呼ばれます。つまりは<仏法>と同意義でもあります。
(本文はかなり複雑で正確に理解出来ているか疑問ですが、肝心かなめの部分で、私なりに理解して要約しています)
以上をさらに要約すると、仏道とは仏の体験そのもので、それだけが<正伝>されるものであり、それは、<妙法>または<正法>つまりは<仏法>であるわけです。
この仏道=仏法という構造が実は道元の宗教のかなめであり奥義です。さらに道元に限らず、禅のめざすものであり、仏教の根本的構造にほかならないのです。
<仏法を説く>ことではなく、<仏道>をならうことに全身全霊をかたむけたのが道元の特色であったというべきでしょう。<ならう>ことによって、そこに<仏法>がおのずからあらわれるのです。
2.2.正伝の方法
(1)<正法眼蔵>の由来、正伝のはじまり
『正法眼蔵』とすれば書名としてのそれでですが、<正法眼蔵>の意味は正法眼の蔵と区切って解釈され、<蔵>は宝物をしまっておく蔵を意味します。
<正法眼蔵>のことばは禅宗の「*正法伝持の次第」の中で、その伝灯のはじまりとして大事にされている次のことにもとづいています。(*ろうそくの火をつぎつぎと新しいものに移して絶やさず伝えていく(<伝灯>)のこと。『景徳伝灯録』(1004年宋の道原著)などにみられることば)
「ある時、世尊は、霊山で百万の大衆(だいじゅ)の集まった法会において、優曇華(うどんげ、三千年に一度花が咲くといわれ、その花は瑞兆とされる)を拈(ねん)じて(手でひねる)瞬目(しゅんもく)した。その時、〔百万の会衆のなかのただひとり〕摩訶迦葉(まかかしよう)尊者が破顔微笑(みしょう)した。そこで世尊は『吾に正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん)あり、これを汝摩訶迦葉に付属する』といわれた」(『正法眼蔵』「仏道」参照)
この釈尊と迦葉のあいだの以心伝心のやりとり、釈尊の<拈華(ねんげ)>と迦葉の間髪入れね<微笑>という対応を。禅宗では<拈華微笑(ねんげみしょう)>(wikipedia)と称して、仏々祖々、仏法が正伝して今日にいたる出発点としていいます。
(2)正伝のながれ
①法と律の伝承
拈華微笑の逸話にあるように、釈尊の死後、その教えは摩訶迦葉に伝えられましたが、仏教の基礎知識として参考になる内容のため、このことについてもう少し詳しくみてみます。
釈尊の入滅後、弟子たちは教団の根拠地であるマダカ国の王舎城に集まって、将来の教団のあり方を相談しました。釈尊は仏の教えを基準にして真偽善悪を判断し、自己の判断に従って行為せよとの遺言を残したため、最長老であった摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が音頭をとり、各人の記憶を整理し、この会合で以下を決定しました。ここに釈尊一代の教訓は<律>と<法>とにまとめられました。
後代の仏教徒は、この結集の事実を認め、信ずるかぎり<律>は優波離を通して弟子から弟子に伝えられたもの、<法>については、阿難から弟子から弟子に伝えられたものを身につけていることになります。
②『付法蔵因縁伝(ふほうぞういんねんでん)』
釈尊の入滅後100年以上たつと、教団は保守派と改革派に分裂、それらはさらに分裂し十八の部派になったといいます。そしてそれぞれの部派は、我こそ釈尊よりの正統の部派であると主張しだします。
それらの主張の中で作られた一つに『付法蔵因縁伝』があり、釈尊入滅後の付法相伝した二十三祖師の因縁が記述されったものです。禅宗ではさらに二十四代から二十七代までを架空して第二十八祖菩提達磨につながっているとしています。
本著の<付法蔵>とは、<法>を弟子に付属(依嘱)することを意味しており、この考えを土台として<拈華微笑>の話のおこり(『吾に正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん)あり、これを汝摩訶迦葉に付属する』)の話も付属している(師から弟子に依嘱されている)と禅宗ではしています。
以上のことから、一般的な<法>を禅宗では<正法眼蔵涅槃妙心>だとしているといえます。
③禅の法<涅槃妙心>の背景
大乗経典の一つに『楞伽経(りょうがきょう)』という経があり、そこには「さとりをひらいた日から、涅槃に入った夜まで、四九年間仏陀は一語一句たりとも説かなかった」という説があります。つまり、さとりは「自内証」(みずから体得すべきこと)であって、「言語道断・言詮不及(ごんせんふぎょう)」(ことばで表わす方法はない)ということを意味しています。
となると、何が後世に伝えわったかということになると、つまりは<拈華微笑><以心伝心>というわけです。これを禅宗では<教外別伝(きゅげべつでん)>・<不立文字(ふりゅうもんじ)>などと呼びます。
④開祖達磨から第二祖慧可へ
達磨は伝説のヴェールにつつまれた人ですが、西域まはたインドからの僧で、嵩山(すうざん)で壁に向かって坐ってばかりいた。慧可は四十までの儒教の勉強を捨てて、この師から教えを受け坐禅を学んだ。こうして、『楞伽経』の{四十九年間一字不説」の仏の法そのものにふさわしく、坐禅による以心伝心の法(=正法眼)の相承が確立したわけです。
したがって、禅宗に属する人は、しばしば拈華微笑を<公案>つまり禅宗修行の際の工夫の課題とするだけでなく、みずから正法眼蔵を弟子に伝えることを確心していたのです。
まだ、「2.「正伝」の意義」の途中ですが、長くなりすぎましたので、今日はここまでとします。
続きは(その4)で、しばらくお待ちください。