tamagoのドイツ滞在記

ドイツ、キールに住んで、体験したことや思ったことを書きとめていくブログです。

通い路

2016年06月11日 | 小話






湾沿いを歩くとこんなものが目に入ります。
丸い形が連なり、水が渦を巻いていますね。

これ、なんだか分かりますか?








湾と河川を区切る堤に設けてある、魚のための通路なのですって!
自然に水流が発生して、その流れで行き来ができるみたい。

ボードに描かれているのはトラウトサーモン(マス)です。
付近では釣り人をよく見かけますが、釣れるのかな。。




愛しいもの

2015年02月15日 | 小話


2月14日によせて。







ほんとに寒いときにすれ違うのは、犬の散歩中の人だけです。

ニクキュウ、可愛いですね。


最近は雪も降らず、空気がちょびっと春っぽくなったような気がします。
光が眩しいという感覚が戻ってきたような。。




さて、可愛いものといえば、、という話題です。



こちらのお友達がほんとにほんとにカワイイ。






二次元のお話じゃないですよ。
(画像お借りしました。)





はにかんだような笑顔が印象的な女の子。

風邪をひいて、ホームシックになって、、という話を聞いていたら、
私のほうも、うるうるっときてしまいました。







クラスメイトのひとり、アンナちゃん。
18歳!


日本語を勉強したことがあるのだそうですよ。
クリスマスにカードを書いてくれました。


彼女たちと話していると、娘でも見ているような気持に…はならず、
18歳に戻ったような気分になってしまいます。

(…あくまで気持ちだけね;)


10代って、なんでこんなにキラキラしているのでしょうかね。
いつもそわそわ落ち着かなくて、心がやわらかで、クールにしてて、、
彼らの言動に、つられて笑ったり、もらい泣きしたり、、

はー、愛しくて楽しくて。。





空が落ちてきそうな で心が一杯だった日、
気分にまかせて料理してみました。






パエリア。
あまり具材に凝れないので、魚介のスープをしっかりと効かせます。


    …からの、、






ビフカツ!

火入れが結構うまくいったのですが、写真だといまいちで残念。
綺麗なロゼ色に仕上がったのにな~


他にも、サラダやらパテやら、いろいろ並べて。。




ちょっと気合いを入れすぎたかな、、
バレンタインデーだし、まあいいか。






カーニバルの季節 

2014年03月03日 | 小話





デュッセルドルフ市街地、カーニバルのパレード。



今日はひな祭りでしたね

今の時期は、キリスト教、とくにカトリック圏ではカーニバルの季節です。


カーニバルのもともとの意味は、
ラテン語の“carne vale”、“carne levale”(=肉よ、さらば)。

ドイツ語では“Karneval”(カーネヴァル)や“Fastnacht”(ファストナハト)といわれます。

ついでに「ファスト」の“Fasten”は断食という意味です。
「ナハト」は夜のことですが、ここでは「前夜」くらいの意味合いでしょうか。



カーニバルは宗教的な意味を離れて、単にお祭りや大騒ぎという意味になることもありますが、
成立を考えてみると、なかなか面白いのですよ


キリスト教世界では、3月末~4月後半にイースター(復活祭)が盛大に祝われます。

イエスは十字架にかけられ、ここで人間としての死を迎えますが、その3日後に復活したとされています。
この復活により、イエスは死を超越した存在となり、キリスト教とその教義がはじめて成立することとなります。
この復活を祝うのが復活祭、イースターです

(復活祭は「春分後の最初の満月の次の日曜日」とされているため、日にちはその年によって異なります。)


捕らえられ、十字架にかけられる前には、イエスは荒野で断食の修行をしていたとされています。
そのため、キリスト教では復活祭前の40日間を四旬節といい、イエスの苦しみを思い、禁欲的な生活を送ることが奨励されています。

この四旬節の最初の日は「灰色の水曜日」といわれ、午前中、ないしは一日断食をする人もいます。


「禁欲的な生活」をよく表しているのが毎日の食事です。
具体的には、四旬節中、特にイエスが十字架にかけられたとされる金曜日には肉を食べることが慎まれます。
肉はご馳走で贅沢なものであり、快楽のイメージとも結びついてきました。


ここまでくると話が見えてきますね

禁欲的に過ごさなくてはならない四旬節前の数日間が肉を食べることに感謝するお祭り、つまりカーニバルというわけです。

ドイツ語での「断食前夜」というのも、頷けるのではないでしょうか
カーニバル期間はおおいに食べること、飲むことを楽しみます。



イベントが太陽暦に即しているところもミソ。

日が長くなったり、短くなったりという現象は原初的な祭事と結びつきやすく、
自然のサイクルに則ることは、宣教にあたって人々に受け入れられ易いという利点があったことと思われます。

カーニバルというと、華やかな扮装やにぎやかなパレード等、多彩なイメージがありますが、
ここには春の到来を祝う祭りや農耕祭といった各地の風習が同化、吸収されて
その土地土地で独特のカーニバルを形成していったことがうかがえます。

数世紀前には、カーニバルは民衆の不満をガス抜きする目的でも行われたなんていう話もあり、
あまりの乱痴気騒ぎぶりに若い娘は家に隠れなければならないこともあったそう。



さて、ドイツではケルンやデュッセルドルフのカーニバルが有名です

この辺りでは、四旬節直前の月曜は「薔薇の月曜日」と呼ばれ、
趣向を凝らした山車がパレードを行ない、お菓子がたくさん撒かれます。

人々はおもいおもいに仮装して街に繰り出します。






市庁舎前の様子。
建物がデコレーションされて、人が集まってきます。





色々なコスチュームがありますね。





パレードが始まりますよ~







多くの組合、企業、団体が山車をだしています。
お祭りの主体がこうした出し物なのは、商業都市デュッセルドルフならではなのかもしれません。





お菓子がまかれます!





手を伸ばしてキャッチできるか!?の図。





本日の戦利品





パレードの後は、飲みに繰り出す人が多いよう。

至る所で音楽が流され、もう大騒ぎです。






祭のあと。
送風機での掃除が始まります。

いつの時代も民衆の力は押さえ難いものであります。。


ザラートキルメスについて 

2013年06月06日 | 小話





シュバルムシュタット、ツィーゲンハインで開催された
ザラートキルメス(サラダキルメス)の様子。


シュバルムシュタット(Schwalmstadt)は12の村の総称で、
この一帯をシュバルム地方といいます。

キルメスが開催されるツィーゲンハイン(Ziegenhain)には村々から伝統衣装を身に着けた人たちが集まり、パレードを行います。



    


このお祭り、「赤ずきんちゃんのお祭り」というキャッチコピーで紹介されることもあるのですが、
赤ずきんちゃんそのものや狼がでてくるものではありません。

以前の記事、「キルメス 移動遊園地?」で紹介したように、
キルメスは教会(キルヒェ)の建立を記念して、市(メッセ)で催されていた祝祭に由来するものです。

ザラートキルメスのザラート(Salate)は、
ドイツ語でサラダ菜、レタスを意味しており(英語のサラダに該当)、
この言葉が示すように、このお祭りは初夏の収穫祭の性格が強いものです。

サラダ菜と並んで、この時期に収穫されるじゃがいもも、
このお祭りの大事な主役のひとつです。



ではなぜ、赤ずきんちゃん??

上の写真の女の子をご覧ください。
シュバルム地方の民族衣装では、女性は頭にコップ状の飾りをつけます。

女の子、未婚の女性は赤、結婚したら緑、中年になると紫、
夫を亡くした女性は黒、と色が決まっています。

シュバルム地方はグリム兄弟が活動した地域だったので、
女の子がつける赤い頭飾りと赤ずきんちゃんが結びつけられたようです。


赤ずきんちゃんの話の出所には諸説あるのですが、
グリム童話よりも120年ほど古いシャルル・ペローの童話集に同じ話が収録されており、
どうもフランスにルーツがあるという説が有力なようです。


ただ、若い女性の教訓譚である赤ずきんのお話は各地に散見されるので、
シュバルム地方が発祥という可能性も捨て去れるものではありません。



今年はグリム・イヤーということもあり、観光PRとして
このキャッチコピーがかなり宣伝されているようです。

ただ、シュバルムシュタットのザラートキルメスは女の子が主役という訳ではなく、老若男女がそれぞれの美しい民族衣装を見せてくれますし、
何より大地に根ざした本来の祭りの姿が隠れてしまうのは残念な気がします。


    



説明はこのくらいにして、ツィーゲンハインに向かいましょう

後の記事に続きます。

ドイツの学習補助犬

2012年11月26日 | 小話





【9月22日 AFP】ドイツ各地の学校に、
クラス全体の成績を上げる試みとして「学習補助犬」が導入されている。

(詳しくは、AFP記事のリンクをご覧下さい。)


ドイツでは、1990年代末から、一部の学校が学習補助犬を導入してきた。
その数は、小学校から高校まで約120校。



小学校の教室でグッピーを飼っていた記憶があります。
ハムスターを連れて来ていた同級生もいた覚えがあります。
犬好きの子どもは、嬉しいだろうな。。
アレルギーもちの子には、ちょっと辛いかもしれない。。


犬による学習効果について博士論文を執筆している
スザンヌ・ヴィレ(Susanne Wille)さんは、
「これまでのところ、犬が生徒の学習の進歩に影響を及ぼすことを示す
明確な証拠は見つかっていない」と話している。



どうも、学習補助犬を導入する狙いは、
教室内でのコミュニケーションの円滑化にある模様。
たしかに犬が隣に座っていたら和みそう。。



ドイツの幼稚園、小学校は基本的に午前中授業で、
13時に学校が終わるのだそうです。

小さい子どもを持つお父さん、お母さんたちはこの時間にお迎えに行かねばならず、
働き方も、午前中のみ出社、主夫の容認等、フレキシブルな勤務が可能ということです。

語学学校の先生の体験談なのですが、
仕事をもっている親にとって、13時に間に合うように駆けつけるのはたいへんで、
結構苦労されたということです。
育児中のクラスメイトもいて、
彼女は授業が終わると、お迎えのためやはり急いで帰ります。


授業が終わるのが13時ということは、
それから家に帰ってお昼ごはんになると考えると、
子どもたちは、すごくお腹が空きそう


授業で各国の小学校のお昼事情について聞いたところ、
比較的充実した給食が出るのは稀みたいです。

カフェテリアでのランチは正直散々だった…、という話や、
子どもたちは昼食としてチョコレート等のスナックをもっていくという話を聞いて、
軽いカルチャーショックを受けました。

かつて通っていた小学校では、
栄養士さんが常駐していて、給食は基本的に学校内で調理されていました。
当時は、給食の甘いミートソースが苦手、、と思ったりしたものですが、
バランスの考えられた温かい給食が食べられたのはレアなことなのだな、
と考えを改めた次第。。


ハロウィンのウィンドウに思う

2012年10月29日 | 小話




お菓子屋さんのショーウィンドウ、可愛いですね。
ハロウィンも直前になりました。

こうしたイベントや、街路樹の紅葉と、
どこにいても季節は実感できるものです


…。

先日ふと、どうも私は季節感を
かなり懸命に探し求めてしまうのかなと思いました。


理由は2つあって、

うまく説明するのが難しいのですが、、つまり、、、


1つめは、

日本には四季がある。四季がある。四季がある。

という刷り込みによって、というところがあるかもしれないということ。
もしかすると四季には“美しい”という形容がされるかもしれません。

刷り込みという言葉はちょっとキツいかな…;
うむむ、悪く思っている訳では決してないのです。



そして2つめは、

季節感を鋭敏に感じら取れない奴は野暮である。

と、どこかで思っていて、
誰かに悟られるのはもちろん、自覚するのにも
少し恐怖に似た感情をもっているのではないか、ということです。



夏季と冬季で気温の差がある地域ならば、
当然その間の季節としての春や秋もあり得ます。

四季がない国のほうが、もしかすると少ないのではないでしょうか。


それにもかかわらず、他国に比べて
日本人は季節の移り変わりにとても敏感のように思います。


実際の季節感という点でもそうですが、
例えば、お嬢さんたちのネイルを考えてみてください

あまり華やかなのは評判がよろしくない、ということも耳にしますが、
季節に応じた色、柄、パーツなど、他に類を見ない充実っぷりに目を見張ります。
爪のあんなにちっちゃな面積に、小宇宙といっても良いくらいの世界観。


他の国でもネイルは流行っているものの、

季節を少し先取りするところや、
小さきものに神経を行き渡らせるところ、
洒落や遊びを取り入れる感覚、
同じモティーフでも他の人とは少し違えて個性を出すことが好まれるところ等、

昔のおしゃれを感じさせるというか、、
着物の柄や色合わせの文化を受け継いでいるように思えてならないのです。


季節に応じた細やかな意匠が好まれるというのは、
今日の日本人に共通する感性なのでしょうか。

   



おそらく、このような感性は比較的新しいものなのでしょう。
明治、江戸、それより以前、、一概に論じるのは難しいですが、

農耕において古くから季節は重要ではあったものの、
季節を風流さや遊びと結び付けて取り入れられるのは、
ごく僅かな時間的、経済的に余裕のある人々であったでしょうから。

前出の着物を考えても、
意匠を凝らした晴着や小間物を用意できた人は果たしてどのくらいいたのか。


そう考えると、
かつては特権的であった美意識を隅々まで行き渡らせ、
日本はいわば「内なる文化政策」(なんだそりゃ)に
非常に成功したといえるのかもしれません。

四季の変化や良さが分からなければ、
なんとなく日本人失格の烙印が押されてしまうように思えるまで。


それなら、
一体いつこうした感性は共有されるようになったのか、
媒体は何だったのか、
政治や経済、宗教は関係してくるのか、、、
様々な???が浮かびます。


…。

あらら、
思索にふけるなんて、なんてドイツっぽいんでしょ


そうそう、こちらでは今でも帽子が根付いていて、
(それだけ寒いということもありそう…。)
帽子屋さんのディスプレイも素敵なんですよ!




紳士帽、ダンディです。




オータムカラーの婦人帽


うーん、やっぱり季節感を求めてしまいます。。

あんまり可愛くて

2012年10月23日 | 小話




こちら、少女時代のマリア・テレジアの肖像。
あんまり可愛く描かれていたもので掲載。。
(絵は部分図です。)

軽いミーハー心も手伝って、ファンだということを認めなければなりますまい。


マリア・テレジアは女帝といわれますが、
神聖ローマ帝国は女子が皇帝となることを認めていなかったため、
正確な立場は、ハプスブルク世襲領の女主ということになります。

彼女の父君、カール6世は神聖ローマ皇帝として帝国の最大版図を築きましたが、
嫡男に恵まれず、長女マリア・テレジアを相続人とすると順位法を発布しました。

しかし、いざカール6世が倒れると、
女性が帝冠するのを認めず、ハプスブルクは断絶したとして、
プロイセン、フランス、スペイン、バイエルン、ザクセンらが戦争を仕掛けてきます

ヨーロッパ各国のみならず、新世界をも巻き込んだ一連の動きは、
オーストリア継承戦争として語られます。
(世界史の授業を思い出しますね…。)


当時のプロイセン王は、こちらの記事のフリードリヒ大王です。
本当かどうかはさておいて、大王には「女嫌い」のイメージがつきまとい、
ロシアのエリザヴェータ女帝やフランスのポンパドゥール夫人とも敵対することになるも、
現在では、ゲイ・カルチャーにおいて、おおいにリスペクトされています。




フランス国王、ルイ15世(1710-1774)。
1744年にオーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー)に侵攻しますが、
マリア・テレジアの親仏政策により、オーストリアの強力な同盟国となります。




スペイン王フェリペ5世(1683-1746)。
フランス、ブルボン家出身。
スペイン継承戦争をくぐり抜け、スペイン・ブルボン朝を開いた人物です。
北イタリア、ミラノ領をめぐってオーストリアと対立しました。




バイエルン選帝侯、カール・アルブレヒト(1697-1745)。
秘密同盟を盾にフランスとともにオーストリアへ侵攻し、
1742~48年の間、神聖ローマ皇帝カール7世を名乗ります。




ザクセン選帝侯、フリードリヒ・アウグスト2世(1696-1763)。
ハプスブルク家領であったベーメン(ボヘミア)の継承を主張してベーメンに侵攻。
しかし、後年はマリア・テレジアとともに、対プロイセンの立場をとります。




マリア・テレジアは、ハンガリーとの同盟を取り付け憤然と戦いぬき、
夫をフランツ1世として神聖ローマ皇帝に即位させます。


その後、実質的な女帝として国を安定させ、近代化を推し進め、
またロレーヌ公子息であったフランツ1世とのあいだに16人の子どもをもうけ、
婚姻によって隣国との同盟を強化していきます。

まさに国の母というべき人物です。。





マルティン・ファン・マイテンス《フリードリヒ1世の肖像》ウィーン美術史美術館、1745年。

夫君フランツ1世は妻の影に隠れがちですが、
財務関連に手腕を発揮し、戦争で疲弊した国庫を立て直した他、
自然科学や古代研究に大変興味をもち、貴重なコレクションを遺しました。
これらのコレクションについては、こちらの記事をご覧ください。



さて、マリア・テレジアの表象という観点からみると、
幼少期~少女時代にみる肖像画が可憐で愛らしい、ほっそりした姿なのに対して、
政治に携わるようになってからは、非常に恰幅の良い、堂々とした姿に変わっています。

これは、もちろん実際の容姿の変化ということもあるのでしょうが、
押しも押されぬ君主の姿を示す必要があったということも十分に考えられるでしょう。
また、女帝の肖像画が出まわることによって、それを見た人々が、
貴婦人を敬愛し守るという、騎士道精神を揺さぶられたのやもしれませぬ。。


その後のマリア・テレジアの肖像については、後の記事でアップしますね


…華々しい戦果や功績も、被支配地や被植民地を考えると、
うむむ、少し複雑ではあります。

つんとした鼻と受け口 1

2012年10月22日 | 小話



(画像お借りしました。)


「ハプスブルク家の際立った特色であるつんとした鼻と受け口はマリーにも受け継がれ…」
というのは、確かベルサイユのばらで読んだ文句だったと思います。


この血筋には、ずっと尖った鼻と受け口が受け継がれているのか?
身内で嫁がせ合ったりして、いわゆる血が濃いということがあるのかな…??


君主の公的肖像においては、
活き活きとした個性が描出されるというよりは、
統治者としての威厳や徳、功績を演出することが重要となります。

絵をみた者が「(一般人とは違う、)選ばれた御仁である」と
思うようにしたい、という訳です。

しかしながら、もし際立った特徴を統治者の一族がもっているのだとすれば、
それはどのように肖像画に作用してくるのでしょうか。


という訳で、現存している肖像画、彫刻等から、
ハプスブルク家における「ツンとした鼻と受け口」を検証してみたいと思います。


※君主の表象に関しては、必ずしも実際の見た目=作品となるわけではないため、
注意が必要となることを重ねて申し添えておきます。
しょうがないなぁと思ってお付き合いいただければ、これ幸い



****************************************************


まずは「ハプスブルク家飛翔の舞台を整えた神君」、ルドルフ1世(1218-1291)。
ハプスブルク伯アルブレヒト4世の長男として生まれ、
神聖ローマ皇帝の君主にのぼりつめた人物です。




ドイツ中南部、シュパイアー大聖堂にあるルドルフ1世像。

顔部分のアップがこちら。




鼻はツンとしていますね。鷲鼻か鉤鼻といっても良いくらいです。
口は…どうでしょう。
しかし、聖堂で諸聖人と並んで像が設置されるのであれば、
そもそも個人的な面相はあまり問題にならないのかもしれません。




絵ではどうでしょうか。
受け口に描かれているような…?
実はこの絵自体のデータが不詳なもので、後世に描かれたという可能性も捨てきれません。
彫像も絵画もドイツ王に相応しく、立派な王冠をかぶった姿で表現されています。




続いては、ルドルフ4世(1339-1365)。
オーストリア公アルプレヒト2世の長男で、神聖ローマ皇帝の娘と結婚します。
彼は26歳で夭逝していますが、「建設公」とも言われ、シュテファン大聖堂等を建立しました。
ハプスブルク家が神聖ローマ帝国内で特別な権威を持つという
選良意識を誕生させた人物といわれています。



ウィーン、シュテファン大聖堂蔵。
鼻は高そうですね。
口は何となくそうかな…?という感じです。

文献にあたっていたところ、このルドルフ4世の母君が
「ツンとした鼻と受け口」を家系に持ち込んだという記述も見受けられました。

ただ、ルドルフ4世には子供がいなかったので、
この説を取るとすると、後の面々はどこから繋がってくるのか?
ということになってしまい、うーん、どうでしょうか。。



ハプスブルク家最初の神聖ローマ皇帝となったフリードリヒ三世(1415-1493)。
ちょうど横顔の肖像画が。
1500年頃のハンス・ブルクマイアー作。
(ウィーン美術史美術館蔵、1468年の下絵をもとに制作。)




この肖像画の形式は古代からの伝統的なものですが、顔はとても特徴的ですね。




「中世最後の騎士にして近代最初の皇帝」、マクシミリアン1世(1459-1519)。
彼は「神聖ローマ帝国」の国名を「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と改称して、
実質的なハプスブルク家の王朝を打ち立て、また文化政策にも熱心でした。




アルブレヒト・デューラー《マクシミリアン1世の肖像》ウィーン美術史美術館、1519年。

イタリア・ルネサンスから学んだと思われる、斜め横向きで描かれた肖像画。
堂々とした威厳と写実的な個性を兼ね備えた表現は、
さすがは北方ルネサンスの巨匠、デューラーといったところ。




ベルンハルト・シュトリーゲル《皇帝マクシミリアン1世とその家族》ウィーン美術史美術館、1516年。
この作品中では、皇帝の家族はほぼ一定のタイプに従って描かれているのに対し、
マクシミリアンは横向きということもあり、かなり個性的に描かれていますね。

マクシミリアン1世に関しては、
公式肖像画においても自身の容貌を強調し、一種の「ハプスブルク印」を与えているかのようです。
上の集団肖像画でも、画面中央の皇太子には血脈を示すようにマクシミリアンの面影が反映されています。



さて、続いてはヨーロッパから新大陸まで、日の沈まぬ帝国を樹立したカール5世(1500-1558)です。
スペイン、ハプスブルク皇帝、カルロス5世といったほうが通りが良いかもしれません。
彼はマクシミリアン1世の孫にあたります。

この時代はティツィーアーノやルーベンス等、
ルネサンス~バロックの巨匠たちが宮廷肖像画家として活躍した時代でもあり、
描かれた肖像画はまさに百花繚乱、目にも鮮やかです。




フランドルの画家、ベルナールト・ファン・オルレイの描いた
スペイン王位に就いたばかりのカール5世の肖像。
(ブール=ガン=ブレス、ブル美術館、1516年。)

皇帝の肖像画としての定型を踏まえながらも、初々しさがただよいます。
祖父であるマクシミリアンの面影が感じられますね。



*********************************************************


まとめるのに思いのほか時間がかかってしまいました
壮年期のカール5世~は、後の記事で、またアップいたします


人物の選定等は、下記に拠っています。
(参照:菊池良生『図解雑学ハプスブルク家』ナツメ社、2008年。)

ベルリンと熊 ベルリン・ベア

2012年10月08日 | 小話




ベルリンの紋章です。


熊はベルリン・ベアと呼ばれ、ベルリンのシンボルとして親しまれています。
例えば、ベルリン国際映画祭のグランプリは、金熊賞(Goldener Bär)とも呼ばれていますね。



ベルリン・ベアの成り立ちはとても古いものです。

12~13世紀頃、ドイツで多くの都市国家が形成されていたとき、
ベルリンもまたそのなかの一つとして成立します。

当時ベルリンを治めていたのは、ブランデンブルク辺境伯であったので、
伯爵が最初にベルリンに付与した紋章は、彼の紋章である赤い鷲をアレンジしたものでした。




赤鷲は、現在もドイツ、ブランデンブルク州の紋章として残っています。


その後、ベルリンの市民階級の力の高まりにより、
市民たちは彼ら自身の紋章を望むようになります。

なぜ熊が選ばれたのかは、はっきりとは断定できないようですが、
ブランデンブルク辺境伯領の創設者、アルブレヒト一世(1100年頃~1170年)のあだ名、
アルブレヒト熊公(Albrecht der Bär)にちなむという説が有力なようです。

また、紋章のベルリン熊は口を開けていますよね。
紋章を決める過程では、熊は武器を持っていたり、ポーズも様々であったらしいのですが、、
ベルリン(Berlin)の最初の音節「バー("Bär")」が、「ベアー("Bear")」に通じることから、
このことを示すために、口を開けて話している熊の図像となったそうです。


これらの説に従うなら、
この紋章がベルリンを示しているということが分かるように、
判じ絵になっているのですね。





旧東ベルリンの交通キャラクター、アンペルマンもこの熊と一緒のポーズをしています


縫ぐるみや人形のベアも良く見かけますが、
ベルリン市内には、バディ・ベアと呼ばれる大きなベアがあちこちに置かれています。
2001年から始った試みで、有名人やアーティストたちがベアを装飾して販売し、
それらが買い取られた収益はチャリティにあてられているそうですよ。


詳しくは、こちらのサイトをご覧くださいませ。(→ http://www.buddy-baer.com/


目にしたベアたち。




カラフルですね~
下のプレートに制作者の情報が書かれています。




お洒落にスリーピースでおめかし。
レインボーカラーのタイで決めています。




ベルリン博物館の看板熊です。
お腹にブランデンブルク門が描かれています。




もはや熊ではありません。




目つきも鋭くなっちゃって。




***********************************************


さてさて、ベルリン旅行の記事もこれにて終了です。

気候が思いのほか寒く、
秋口の旅行の服装は、薄いダウンが便利ということを学びました。

シャルロッテンブルク宮など、まわりきれなかった観光地も多いので、
今後の課題としたいと思います。


今週末は、ウィーン小旅行に行ってきますよー


ベルリンと熊 テディ・ベア

2012年10月07日 | 小話





シュタイフ(Steiff)の秋のコレクションの紹介ビデオです。


ベルリンでは熊がマスコットとして大変親しまれていますが、
ドイツの縫ぐるみといえば、
シュタイフ社のテディ・ベアですね。
(ベルリン熊については、後の記事で書こうと思います。)

愛くるしい容姿だけでなく、
1989年のロンドン、クリスティーズのオークションでは、
ロシア皇室に所縁のあったアルフォンゾというベアが
12100ポンド(1ポンド=200円として、約240万円)で競り落とされて話題となり、
以後、高値をつけるものが続々と現れたことから、
いわゆる「お宝」としても有名になりました。

上のビデオのなかで、ベアたち耳にタグが付いているのが分かったでしょうか?
(ウサギやパンダや、不思議なものも混ざっていましたが。。)

黄色が通常のもの、
白地に黒文字が復刻版、
白地に赤文字が地域限定版だそうですよ。





"One Million Pounds Worth of Teddy Bears for Sale"
NTDTVのニュースで取り上げられた、オークションの花形ベアたち。

50000~80000ポンド(上記の通り、約1000~1600万円)の落札予想価格をつけたベアは、
1925年のシュタイフ社製で、赤と青のモヘアの毛並みのものだとか。



テディ・ベアの成り立ちについては諸説あるようですが、
こちらの説が有力なようです。



 1902年、セオドア・ルーズベルト大統領一行が狩りに出かけたところ、
 同行したハンターがアメリカグマを追いつめてとどめを大統領に頼んだが、
 大統領は「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神にもとる」として熊を助けた。
 このことは美談として挿絵(上)入りで新聞に掲載された。

 熊の挿絵が可愛らしかったこともあり、
 このエピソードは非常に好感を持って支持された。

 このことにちなんで、翌年アメリカの玩具メーカーが熊のぬいぐるみに
 ルーズベルト大統領の通称である「テディ」と名付けて発売したのだが、
 この頃、ドイツのマルガレーテ・シュタイフの熊の縫いぐるみが
 大量にアメリカに輸入され、シュタイフのものがテディ・ベアとして定着した。
  ※セオドア(Theodore)→「テディ」。
   彼は往年の男らしさの象徴とみなされ、狩猟家、探検家でもありました。


うーん、結構つっこみどころの多い話しかもしれませんね。。

挿絵の熊は、まあ可愛いか。。
ルーズベルトの似顔絵は酷い気もしますが…。




マルガレーテ・シュタイフ女史です。
工場の様子や、当時の広告でしょうか?
お気に入りのベアを抱く幼子の写真も見ることができます。

 何だかんだいっても、うちのコが一番可愛いのよ。。




さて、世界中にファンを持つテディ・ベアですが、
ベルリン、カー・デー・ヴェーのシュタイフ詣でへ行って参りました。





巨大なリアル熊の縫ぐるみがどーんと売り場に立っています。
グリズリーかヒグマ、どう見ても愛玩用ではないような。。



可愛いベアたちに混ざって、



え…。
セールになっているのも分かる気がする。。