たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

後藤健二のイドリブ取材  2012年3月

2018-03-10 13:30:21 | シリア内戦

後藤健二さんが2012年3月半ばから4月にかけて、イドリブを取材している。シリアには入らず、トルコに避難した人々を取材している。シリア政府は外国メディアの取材を規制しており、自由に取材したいならば、反対派に案内されて非合法的にシリアに潜入しなければならない。この時の後藤健二さんは慎重だった。後藤さんのイドリブ取材の1か月前(2月22日)、米国のベテラン女性記者メリー・コルビンがホムスで死亡している。

メリー・コルビンの死の半年後(8月20日)、山本美香さんがアレッポで死亡している。

後藤健二さんが訪れた難民キャンプが地図に示されている。

後藤さんは最近トルコに避難したばかりの男性とともにキャンプを出て、男性が住んでいた町が見える場所に向った。

シリアが見渡せるその場所から目と鼻の先ほどの近くにあるジャヌディーヤという名前の町が、彼の故郷だという。

 

 

地図を見ればわかるように、ジャヌディーヤの少し南にジスル・アッシュグールがある。9か月前(2011年6月4日)、ジスル・アッシュグールで武力衝突があった。このころはまだデモが中心であり、激しい戦闘は珍しかった。シリアでは抗議デモが比較的長く続き、その後ようやく武装反乱が始まった。2011年3月ー11月は平和なデモの期間であるが、ときおり武力衝突が起きた。ジスル・アッシュグールの事件はこうした武力衝突の最初の例である。これが最初の武装反乱武装反乱とされている。ただし、6月-11月の武装反乱は鎮圧されて終了し、支配地を獲得するに至らなかった。この点で2012年以後の反乱と異なり、2011年3月ー11月は武装反乱への助走の時期である。

後藤さんをシリアが見渡せる場所に連れて行った男性は、故郷ジャヌディーヤでのデモの様子を携帯電話で撮影していた。彼は2011年4月から2012年3月までのジャヌディーヤを撮影しており、貴重な資料となっている。後藤さんがNHKで紹介したのは、その一部である。

ジスル・アッシュグールで起きた6月4日の武力衝突についての映像・写真はなく、衝突前のデモの様子もネットでは見つからない。ジャヌディーヤはジスル・アッシュグールに非常に近く、ジャヌディーヤの抗議運動はジスル・アッ・シュグールと連動していたに違いない。ジャヌディーヤについてのドキュメントはジスル・アッ・シュグールとの関連で興味深い。

後藤さんが最初にインタビューしたのは難民キャンプの女性たちである。彼女たちの出身地は明らかでない。おそらくイドリブ県北部だろう。続いてジャヌディーヤ出身の男性が話す。これが後藤さんの取材の大半を占める。

 

====《混迷のシリア市民が記録した弾圧の実態》=====

          <https://www.youtube.com/watch?v=YK4HUZX8Wd8>

            YouTube :LunaticEclipseArab3  NHK     2012年4月

            【後藤さんの語り】

戦闘を避け国境を越えてくる難民が急速に増え初めています。すでに1万3千人がキャンプで暮らしています。さらに毎日250人のペースで増え続けており、キャンプはすでに満杯です。

 

シリアから逃れてきたばかりの男性に出会いました。ベヘル・ハジ・ユセフさんです。ベヘルさんが暮らしていたのは、難民キャンプから目と鼻の近さにあるジャヌディーヤという小さな町です。15000人の人口の半数がすでにトルコなどに逃げ出したそうです。ベヘルさんは反政府勢力の自由シリア軍に加わり、政府軍と戦ってきました。しかし武器が底をついた上に、けが人が続出し、10日前遂に町を脱出。大勢の市民を連れてこの難民キャンプにやってきたのです。

     

           

              【ベヘルさんの話】

政府軍は村の入り口をすべてふさぎ、攻撃してきました。がれきの下には子供たちの遺体が埋もれていました。住民を攻撃から守るために、彼らを連れてトルコに避難してきたのです。

 

              【後藤さんの語り】

ベヘルさんは携帯電話の販売店を営んでいました。彼はこの一年町で起きたことを克明に記録してきました。シリアの主要都市で始まり、あっという間にシリア全土に広まった反政府デモ。ベヘルさんの町でも去年4月アサド政権の独裁に反対する住民数百人が抗議デモをしました。

大都市から離れた小さな町での抗議行動でしたが、政府は見逃しませんでした。すぐに戦車などの強大な武器を送り込み、住民で組織された反体制派を徹底的に抑え込んだのです。

         【ベヘルさんの話】

治安部隊は銃で発砲し、逃げ場を失った大勢の人が拘束されました。私もそのうちの一人で、拘留所では地面に押さえつけられ、暴行されました。虐待されている人たちの叫び声が四方から聞こえてきました。暴行に耐えきれず気絶し、病院に運ばれたり、亡くなった人もいます。

 

         【後藤さんの語り】

ベヘルさんは、捕まった市民が実際に虐待されている映像を入手していました。市民が弾圧されていることの決定的な証拠だ、と彼はその映像を私に見せてくれました。

 反政府デモに参加していて、政府軍に拘束された若い男性。数人の兵士が男性を囲み、むちを使って尋問を行っています。

許しを請う男性に対し容赦なく暴力をふるい続ける兵士たち。驚いたことに、この映像は虐待をおこなっている兵士辰が撮影したものです。一般市民に対しこうした暴力行為をおこなっても、政府軍の兵士は罰せられません。

ベヘルさんは驚くべき凄惨な場面を撮影していました。地面に横たわっているのは、一般市民25人の遺体です。仕事に行く途中で、政府軍によって逮捕され虐殺されました。両手を後ろに縛られ、自由を奪われたまま虐殺されました。遺体は町の空き地に投げ捨てられました。

武器など持たない一般市民、さらに女性や子供たちにですら、政府軍は弾圧を加えていました。拷問や虐殺を見せしめに使い、暴力と恐怖によって政府に逆らう行為を抑え込むのです。

 アサド政権による残虐な弾圧を経験してきたシリアの人々。私が滞在している間も、難民キャンプではアサド大統領の退陣を求めるデモがますます激しさを増していました。

 

しかしベヘルさんは「国際社会の軍事的支援がなければ、市民の力だけでは政権に対抗できない」と限界を感じています。

ベヘルさんは政府軍の攻撃により重傷を負った幼なじみの友人を見舞い、励ましあい、希望をつないでいます。「必ず、自由なシリアで一緒に暮らすんだ」

 

           

              【ベヘルさんの話】

シリア国民は皆、国際社会が力を貸してくれることを望んでいます。この悪夢から目覚めることを、みなが夢見ているのです。

 

最初の頃、デモの要求は改革とか、自由な社会とかだった。これに対し政権はこれまで通り暴力と弾圧で対抗してしまった。友人が殺され、家族が殺されたことにより、アサド大統領への憎しみが増大していった。これは政権にとって大きな誤算だった。

===============================(NHK終了)

後藤さんは1年後、イドリブの激戦地(マーラット・アンヌマーン)に潜入している。イドリブ市の南方に反政府勢力の支配地が広がっている。マーラット・アンヌマーンはその拠点都市のひとつである。イドリブの戦闘については、まとめて書くつもりなので、その時2013年の後藤さんの報告を紹介したい。

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最初の武装反乱③  2011年6月4日

2018-02-24 22:35:19 | シリア内戦

ジスル・アッ・シュグールの北に山地があることは知っていたが、この町自体が山の傾斜面にあることを知った。

2011年6月4日ジスル・アッ・シュグールの警察署が占領され、治安本部が攻撃された。翌日軍隊が派遣されたが、暴徒の待ち伏せ攻撃にあい、治安本部への救援が遅れた。この間に、暴徒は治安本部を陥落させてしまった。軍隊は治安本部の救援に遅れただけでなく、その後暴徒に対し無力だった。暴徒によるジスル・アッ・シュグールの占領が続いた。事件の4日目(6月7日)になり、シリア軍最強の第4機甲師団がジスル・アッ・シュグールに到着した。200台の戦車などによって町は完全に包囲され、絶え間ない砲撃にさらされている、と住民の一人がアルジャジーラに語った。

4日目の夜に始まった攻撃ついて、ガーディアンが書いている。

貼り付けられている画像はYouTube動画(アルジャジーラ)から拝借した。

(Syrian from Jisr al-Shughur talks to Al Jazeera  https://www.youtube.com/watch?v=knXAGTFfgwk

 

========《小さな町を戦車がとり囲む》======

 Syrian town empties as government tanks mass outside

https://www.theguardian.com/world/2011/jun/07/government-tanks-mass-outside-syrian-town

                                          the Guardian  2011年6月7日

6月7日の夜、多数の戦車がジスル・アッ・シュグールの町を取り囲んだ。軍隊が集結し、町に対する全面的な攻撃が始まろうとしている。6月4日と5日、暴徒が警察署・治安本部を攻撃し、120名の警察官・治安部隊員が死亡した。大部分の町民はすでにトルコに避難した。3か月続いている反政府運動は武力衝突へ向かって劇的にエスカレートしようとしている。これまで政権は平和な抗議運動を武力を用いて弾圧してきた。政権は40年前の反乱の再来と考え、危機感を抱いている。

41000人の住民が住むジスル・アッ・シュグールから人の姿が消えた。危険が迫っているにもかかわらず、残留している町民もおり、そのひとりが町の様子を伝えてきた。

「病院には誰もおらず、暴徒によって攻撃された情報機関の本部は何もかも略奪され、建物の中には何も残っていない」。

ダマスカスの人権活動家によれば、4日と5日の衝突で58人の市民の死亡が確認されている。調査が進めば、市民の死者数は100人を超えるかもしれない。

ジスル・アッ・シュグールは29年前ハマで起きたことの繰り返しになるかもしれない。ハマの市民はハフェズ・アサド前大統領に挑戦したが、その結果数万人の市民が虐殺された。ハフェズ・アサドの息子であるバシャールは、現在もっと深刻な脅威に直面している。多くの都市や町で3か月近くデモが続いており、アサド王朝の鉄壁の支配を徐々に掘り崩し始めている。軍隊によるジスル・アッ・シュグールの包囲は、全国的な抗議デモの転換点になるだろう。チュニジアで始まった革命はエジプト・リビアに波及し、ついにシリアでも革命が始まった。シリアの場合、チュニジア・エジプトのような平和的な政権移行ではなく、リビアのような流血革命になるかもしれない。

ジスル・アッ・シュグールの反乱の2日目(6月5日)シリアの情報大臣ムハンマド・シャーは次のように述べた。

「住民が武器を取り、治安部隊を攻撃し始めた。何が起きたのか、正確にはわからないが、武力衝突があったことは確かだ」。

事件を目撃した一人が電話でガーディアンに次のように語った。

「治安部隊員の中に立場を変える者たちがいて、政権に忠実な隊員たちが彼らに向かって射撃した。それを見た人々が、離反した隊員の応援に来た。すると政権に忠実な隊員たちは彼らに対しても撃ち始めた。そして両者の間で戦闘が始まった」。

シリア政府は治安部隊から離反者が出たことを認めようとしないが、町内の部隊が主導権を失ったことを認めている。また政府関係者の話によれば、暴徒は治安部隊の武器を奪った。「5トンのダイナマイトが奪われた」と情報省の広報官レーム・ハッダドがBBCに語った。

情報大臣ムハンマド・シャーは次のように述べた。

「このようなことは断じて許されない。軍隊が任務を遂行し、夜が明ける前にジスル・アッ・シュグールの秩序が回復されるだろう」。

トルコ政府によれば、国境を越えて避難した数百人の住民が保護された。彼らの多くが負傷していた。さらに数千人の農民がアレッポ方面や東方の農村に向かって避難した。

 

 

 

ジスル・アッ・シュグールに残留した住民の数はわからない。これについてロンドン在住の亡命者が語った。

{残留者は軍隊を迎え撃つ覚悟だ。今日彼らと話をしたが、彼らは戦うつもりだ」。

まだ断定できないが、この事件は最初の武装反乱となりそうだ。多数の住民が武器を持って戦ったのは今回が初めてである。シリアの多くの都市で毎週デモが起きている。人権団体によれば、現在までの死者数は1000人を超えている。軍や警察からも死者が出ているが、大部分は民主化を求めて抗議する市民である。特に最近2週間死者の数が急増している。これは政権にとってプレッシャーとなっている。政権は抗議運動を次のように説明している。「外国に支援されたスパイと武装したならず者が政権を転覆しようとしている」。

=================-=(ガーディアン終了)

前回まで、4つの記事紹介したが、暴徒の死者について何も書いていなかった。治安部隊と警察から120人の死者が出た戦闘で、暴徒側に死者がいないはずはない。今回のガーディアンの記事により、ようやく暴徒側の死者数が判明した。最初の3日間の市民の死者数は58人以上ということである。確認が遅れており、最終的に100人を超えそうである。

ガーディアンの記事でも、治安本部の攻防については何も書かれていない。戦闘終了後の様子について書かれてるだけであり、戦闘場面については書かれていない。。

「情報機関の本部は何もかも略奪され、建物の中には何も残っていない」。

5つの記事を読んでも、治安本部の攻防の様子は何もわからない。例えば、今回のガーディアンは次のように書いている。「治安部隊員の中に立場を変える者たちがいて、政権に忠実な隊員たちが彼らに向かって射撃した。それを見た人々が、離反した隊員の応援に来た」。離反した隊員が撃ちかえしていたのか、逃げるだけだったのかわからない。応援に来た住民が素手だったはずがなく、武器を持っていたはずであるが、武器の種類について語っていない。暴徒に協力的だった住民は、暴徒が持っていた武器について巧妙に沈黙しているとしか思えない。その場にいた第三者なら戦闘の様子を話すはずだ。

政権が治安本部の占領について発表したくない理由は理解できる。治安部隊の弱さが知られれば、治安部隊に対する襲撃が多発する恐れがある。ただし政権は暴徒が所有した武器について発表している。機関銃とRPG(ロケット推進手りゅう弾)、それにガス・ボンベ爆弾である。ガス・ボンベ爆弾は自家製であり、容器に入ったガスに点火するのである。点火方法は銃で撃ったり、火薬を張り付け、導火線を引き、離れた所で点火する。容器の中にくぎなどの金属片を入れれば、手りゅう弾や砲弾に匹敵する威力があるかもしれない。容器が大きければガスだけでも手りゅう弾に匹敵する殺傷力があるかもしれない。

ガーディアンによれば、暴徒によって5トンのダイナマイトが奪われた、と政府が発表している。暴徒が治安本部占領後に奪取したもののようであるが、ガーディアンはダイナマイトが奪われた場所と時間について書いていない。

市民や反対派からの報告にも、治安本部の戦闘について何も語られていない。治安本部の攻撃に参加した者たちは重大犯罪人なので、事件直後は身を隠しており、戦闘について知る手段がないのかもしれない。治安部隊と警官から120名の死者が出た事件にもかかわらず、肝心な戦闘場面について何もわからない。

 上の記事の3日後(6月10日)のガーディアン・中東がジスル・アッ・シュグールについて触れているが、まとまった記事ではなく、中東各地の事件についてあれこれ並べて書いている。従って、ここでは取り上げないが、その中で、ひとつだけ重要なことが書かれている。ジスル・アッ・シュグールから避難民した住民の話によれば、治安部隊の半数が離反したという。

*Syria, Libya and Middle East unrest - Friday 10 June2011

<https://www.theguardian.com/world/middle-east-live/2011/jun/10/syria-libya-middle-east-unrest-live

この記事に最初に出会っていれば、このことを前提に話を進めることができたのに、と思う。治安部隊の半数が離反したとすれば、彼らは武器を持ったまま反逆した可能性が高く、これに少数の応援部隊が加われば、治安本部を攻め落とすことは可能である。これで謎がだいぶ解けた。治安部隊が2つに割れたのなら、両者は互角である。離反兵側を暴徒が応援したという構図なら、納得できる。離反兵グループは警察署で拳銃とライフルを手に入れている。

暴徒が最初から武器を持っていたか、という問題が決着したわけではないが、その可能性が出てきた。これまで私は暴徒は最初から武器を持っていたと考えてきたが、最後の最後で考えを買えざるを得ない。

新しいシナリオはこうである。

暴徒はガスボンベ爆弾を爆発させて、警察署を襲撃し、最初に2・3人の警官を襲い、彼らから武器を奪った。手に入れた拳銃とガスボンベ爆弾を用いて警察署の占領に成功した。警察署にはピストルのほかにライフルがあった可能性が高い。暴徒はこれらを手に入れた。

第2段階の治安本部の攻撃では暴徒はわき役であり、この事件は治安部隊内の反乱と見るべきである。

すでに述べたように、この事件は戦闘についての証言が皆無に近く、シナリオを推定するしかない、謎の事件である。

 

 

 

 

 

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最初の武装反乱②  2011年6月4日

2018-02-18 15:13:35 | シリア内戦

 

シリア最初の武装反乱について、ISWは次のように書いている。

「シリアで最初となる武装反乱が起きた。地元の武装グループが、おそらく離脱兵とともに、多数の治安部隊員を殺害した。2011年6月4日ジスル・アッ・シュグール(イドリブ県)でデモがあり、一部の参加者が暴徒化し、治安部隊が彼らに発砲した。死者が出たことに怒った市民が警察所を襲撃した。警察所の武器を手に入れた暴徒は治安部隊に発砲し、治安部隊から多くの死者が出た」。

治安部隊は劣勢で、治安本部に立てこもり、防戦を続ける。翌日軍隊が反乱の鎮圧に向かったが撃退されてしまう。この間に治安本部は暴徒によって占領されてしまう。

 

ISWは警察署襲撃について、詳しく書いていない。一般市民が警察署を占領するのは容易ではない。1970年頃日本の過激派が、ピストルを得ようと交番を襲ったが、警官に撃たれて死んでいる。ジスル・アッ・シュグールを襲撃したグループの人数は多く、政府発表によれば、数百人だったようだ。人数の多さが成功につながったのかもしれない。さらに襲撃したグループには離脱兵士が含まれていた。また彼らのジスル・アッ・シュグールは人口5万の小さな町なので、警察官の人数も少なく、デモが暴徒化していたのでそれの対応に出払っており、警察署には留守番しか残っていなかった。さらに暴徒は襲撃の前に警察署に火をつけており、警官たちは火事への対応に追われていた。もっとも火事を知れば、デモの対応に出ていた署員が戻ってきたかもしれない。またシリアの警官はピストルのほかにライフルも所有している。

警察署を襲撃した暴徒は武器を持っていなかったという説明は可能かもしれないが、かなり難しい。また襲撃したグループには離脱兵士が含まれていたとすれば、彼らは武器を持っていた可能性が高い。

警察署の武器手に入れた襲撃グループは翌日治安本部を占領することに成功した。治安本部は情報機関(政治警察)の部隊が同居している。情報機関は警官より優れたライフルを所有している。治安部隊は軍隊の兵士と同等、またはそれ以上の武器(  AK-103 または AK-104 assault rifles)を持っている。襲撃グループが警察署でマカロフ・ピストル武器とライフル( AKM assault rifle)手に入れていたとしても、治安部部隊に勝利すること容易ではない。なぜ、襲撃グループは治安本部を占領できたか、これが2つ目の疑問である。

もっと疑問なのは、暴徒の3つ目の勝利である。暴徒を鎮圧するため軍隊が送られたが、暴徒たちが軍隊を追い払ってしまう。これはちょっと信じられない事件である。軍隊から離脱者が出たとはいえ、ありえない話である。警察署を襲撃した市民が最後には軍隊を持追い払ってしまう。それで今度はシリア軍最強の第4機甲師団が彼らの鎮圧に向かう。さすがに彼らは鎮圧したとはいえ、数百人の暴徒の鎮圧に戦闘ヘリと戦車師団が向かうというのは滑稽である。翌年の武装反乱が成功した理由がわかる。シリア各地(1000か所以上)で数百人から数千人が武器を持って蜂起したなら、第4機甲師団だけでは対応できない。

この事件はシリア内戦を予告している。武器さえあれば勝てる、と反対派に教えたからである。事件の真相を知るため、私はもう一度調べてみた。暴徒が最初武器をもっていたかについては、結局結論が出なかったが、新たな事実がいくつかわかったので、書いておきたい。

 

=======《ジスル・アッ・シュグールで武力衝突》=====

      Syria unrest: 'Deadly clashes' in Jisr al-Shughour

       http://www.bbc.com/news/world-middle-east-13662296

                                   BBC  2011年6月5日

軍隊と戦車が治安の回復を試みる過程で、少なくとも35人が死亡した。シリア国営テレビはジスル・アッ・シュグールの反乱を伝えた。その中に、公共の建物や警察署が焼かれた映像があり、それについて政府関係者が説明した。「武装したならず者の集団が警察官と治安部隊を襲撃した」。

アナウンサーは現地の状況を説明した。「武装集団による襲撃は昨日(4日)始まった。彼らは道路に検問所を設け、住民に恐怖を与えている」。

ロンドンを拠点とするシリア人権監視団のラミ・アブドゥル・ラフマンによれば、35人の死者のうち6人は警察官であるという。外国のメディアはシリアでの取材を禁止されており、正確な死者数はわからない。

反対派の活動家は次のように述べている。

「政府軍は重機関銃とRPG(ロケット推進手りゅう弾)を用いて秩序を回復しようとしている」

====================(BBC終了)

 

6月4日警察署が襲撃され、5日に軍隊が戦車と共に到着した。警察官6名が死亡している。治安本部への攻撃が4日に始まっているが、5日になっても治安本部は陥落していない。暴徒たちは警察署で奪った武器は持っているが、治安本部の部隊にに比べ武器の点で劣っている。到着した軍隊は町内に入ったようだが、治安本部まで到達していない。この間暴徒たちは遂に治安本部を陥落させた。国営放送は「この時82人の隊員が死亡した」と伝えている。兵士に劣らない隊員82名を殺害できる集団は、単なる暴徒の域を超えている。彼らは紛れもなく、戦闘集団であり、この事件は最初の武装反乱と位置付けられている。

治安本部に立てこもっている部隊は高性能なライフルを持っているだけでなく、治安本部には各種の武器・弾薬があるはずだ。また短期決戦では籠城した方が有利である。暴徒たちが最初は武器を持っておらず、警察署で手に入れた武器しか持っていないとしたら、彼らはいくつかの点で不利である。やはり政府関係者が言うとおり、「ならず者たちは最初から機関銃とRPGを持っていた」と考えざるを得ない。政府発表では「機関銃」となっており、重機関銃か、それとも軽機関銃(AK-47など)のどちらかわからない。ただし、治安部隊から離反者が出たという情報があり、もし離反者の数が多く、しかも彼らが武器を持ったまま反乱したとするなら、暴徒が治安部隊に勝利したことは自然な流れだ。ただし離反者の人数は分からず、何とも言えない。

BBCは6月7日に再び、ジスル・アッ・シュグールの反乱について書いている。最初の記事は反乱の2日目に書かれたが、2回目の記事は3日目に書かれており、新たな事実が明らかになっている。

 

====《ジスル・アッ・シュグールに軍隊が迫る》===

    Syria town of Jisr al-Shughour braces for army assaul

                 <http://www.bbc.com/news/world-middle-east-13678105>

                           BBC   6月7日

治安部隊から120名の死者が出た、と政府は発表した。「このような所業は許されるものでなく、我々は武装集団に対し断固たる措置を取る」。最初に送られた軍隊が暴徒の鎮圧に失敗したので、今度はエリート師団である第4機甲師団がジスル・アッ・シュグールに向かった。それを知った住民は町から逃げ出した。精鋭師団が近づいているにもかかわらず、町に残留した者もおり、彼らは検問所を設立し、第4機甲師団の動きを偵察した。

今度は強力な部隊が送られることがわかった時、ジスル・アッ・シュグールの住民がネットのフェイスブックに次のように書いた。

「大量虐殺が起きるだろう。車輪のタイヤを燃やし、木やコンクリート・ブロックを積み上げて、道路を封鎖しよう」。

戦闘ヘリに伴われ、戦車と装甲車の車列が出発した、と伝えられた。ラタキアとアレッポの間を移動している人々がBBCに言った。「ジスル・アッ・シュグールの住民は軍の動きを偵察するため、検問所を設けた」。

BBCアラビア語放送は次のように伝えた。「目撃者の話によると、今日(反乱開始から4日目)、政府軍は4地点からジスル・アッ・シュグールへ向けて出発した。4地点とは、まず最も重要な軍事施設が集まっているホムス、残りの3地点はイドリブ県アリハにある3つの基地である。恐ろしい虐殺が起きるだろう、とジスル・アッ・シュグールの住民は恐れ、彼らの大部分はトルコ方面へ逃げている。トルコ国境までの距離は約20kmである。他県へ逃げている人々もいる」。

活動家は次のように言う。

「最初の2日間に死者が出た原因はわからない。抗議デモは平和的だったし、市民が暴力的になったのではなく、軍隊が分裂したのかもしれない」。

トルコの役人は次のように言っている。

「国境を越えてトルコに逃れた住民のうち、数十人が負傷しており、治療を受けている。彼らは治安部隊との衝突で負傷した」。

 

6日(反乱3日目)にはジスル・アッ・シュグールの電話は切断されており、軍事衝突の正確な状況を知ることはできない。シリア政府は外国のメディアが取材することを許可しない。

シリア国営テレビは次のように放送した。

「武装した数百人のギャングがジスル・アッ・シュグールを占領した。彼らは警官隊を待ち伏せし、20人の警察官を殺害した。その後治安本部が陥落した時、82人の隊員が死亡した。また郵便局が爆破され、8人死亡した。他に10人死亡し、合計120人が死亡した」。

 

   

シリア国営テレビは路上に横たわっている制服を着た死体を映し、彼らはギャングの襲撃による犠牲者だと説明した。

しかし現場にいた目撃者がBBCアラビア語放送に次のように語った。

「ジスル・アッ・シュグールに武装した人間はいなかった。死亡した治安部隊の隊員は離反したために殺害されたのだ」。もう一人の目撃者は次のように語った。

「反乱を鎮圧に来た軍隊の中に、町民の側に回った兵士もいる。すると軍隊は彼らを銃殺した。神に誓って言う。我々は普通の市民だ、テロリストではない」。

3人目のジスル・アッ・シュグール町民が言った。

「YouTubeに数人の死体の映像が投稿されていて、彼らは町民に発砲するのを拒否した兵士であり、そのために銃殺されたと説明されている。また市民の服装をした遺体や負傷者を映したビデオもある。頭を負傷した年老いた女性やシートに包まれた多数の遺体の映像もある」。

======================(BBC中断)

ジスル・アッ・シュグールの町民は「武器を持った暴徒が警察署と治安本部を制圧した」という説明を真っ向から否定している。

+「ジスル・アッ・シュグールに武装した人間はいなかった。死亡した治安部隊の隊員は離反したために殺害されたのだ」

+「神に誓って言う。我々は普通の市民だ、テロリストではない」。

「治安部隊の隊員は離反したために殺害されたのだ」という証言は重要である。治安部隊が敗北した理由の説明になるからである。しかしこの証言は舌足らずであり、忠実な治安部隊員が離反者何人を殺害したか、その後忠実な治安部隊員が何人死亡したかわからない。国営テレビは82人の治安部隊員が死亡したと伝えている。「治安部隊が2つに割れて、互いに撃ちあいとなり、多くが死亡した」いうなら、理解できる。よく考えてみると、「治安部隊の隊員は離反したために殺害されたのだ」という証言は、隊員の死を治安部隊の責任にしようという意図が先に立ち、事件を事実に基づいて説明していない。

反対派の話を基にしていると思われるISWの記事の冒頭に次のように書かれている。

「地元の武装グループが、おそらく離脱兵とともに、多数の治安部隊員を殺害した」。

「怒れる市民」と書いておらず、「武装グループ」・「民兵」・「ゲリラ」を意味するmilitiaという言葉を使っている。「治安部隊の隊員が離反しただけだ」とか、「武装した人間はいなかった」という説明は無理がある。「ガスボンベ爆弾で警察署を爆破した」という政府発表のほうがわかりやすい。

2011年3月半ばのデモ開始以来、シリアで起きたことには2種類の、正反対な説明がある。

私は警察署と治安本部を制圧した暴徒の武器について知りたかった。優秀な狙撃者が何人いたか、何人が自動小銃(AK-47)を持っていたか、RPGが約何発発射されたかを知りたかった。ところが「武装した人間はいなかった」という証言に出会ってしまった。しかしこの主張は多くの市民が平和なデモを行っていた事実だけを強調し、武装反乱の事実をごまかしているようである。

上記BBCの記事に書かれていることで、もう2点確認しておきたい。

①シリア国営テレビによれば、武装反乱を起こしたグループの人数は数百人である。これまでも軍隊が狙撃されたり、襲撃されとこはあるが、襲撃グループは少人数だった。

②政権は120人の死者の内訳を発表している。

「彼らは警官隊を待ち伏せし、20人の警察官を殺害した。その後治安本部が陥落した時、82人の隊員が死亡した。また郵便局が爆破され、8人死亡した。他に10人死亡し、合計120人が死亡した」。

2日めに送られた軍隊の兵士20人が死亡しているが、これをなかったことにしている。20人の死者は警察官となっている。兵士を警察官に置き換えたのか、警察官も20人死んだのか、わからない。

ISWは次のように書いている。

「軍隊は市内に入っていったが、待ち伏せされ、兵士20人が死亡した」。

政権は2日目に軍隊を送ったことを、なかったことにしている。この軍隊は離反者がでたり、待ち伏せ攻撃にであったりして、なす術がなかった。これは政権にとって極めて不都合な事実である。軍隊の弱さが証明されてしまった。軍隊が小さな反乱を鎮圧できなかったという事実は、反対派を勇気づける。アサドの軍隊は恐れるに足りことが分かった。反対派はこう考え始めたと思う。「武器さえあれば政権を倒せる。武装反乱はデモをやるより近道だ」と。

実際7か月後、反対派が本格的な軍事反乱を開始すると、予想どおりアサドの軍隊は弱かった。反乱ぐるーぷは、アサドの弟が率いる機甲師団といくつかの精強な部隊だけを恐れればよかった。

反対派の指導部はこの反乱を勝利と考えているに違いない。

 

以上BBCを中断し、私が最も関心ある部分について解説した。BBCの記事に戻る。

反アサド政権の町ジスル・アッ・シュグールの住民の大部分は政権に批判的であるが、政権を支持する住民もいる。BBCは政権を支持する住民について伝えている。彼らは精鋭師団を恐れて逃げたのではなく、町を制圧した暴徒を恐れて逃げた。彼らはラタキアに向かった。

「シリア国営放送はラタキアに避難する住民について伝えている。「住民は町に居座ったギャングを恐れており、軍隊がギャングを追い払うことを願っている」。

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最初の武装反乱 2011年6月4日

2018-02-11 00:23:57 | シリア内戦

イドリブ県のジスル・アッ・シュグール出身のイブラヒム・マジブール(Ibrahim Majbour)大尉は、故郷の町が破壊され、自分の家族が難民となるのを見て、軍を去り、反乱を決意した。

     

故郷の町が破壊されたというが、ジスル・アッ・シュグールは最初に武装反乱が起きた町であり、シリア軍がこれを鎮圧するする過程で町を破壊したものである。

シリアのデモはチュニジア、エジプト、リビアより少し遅れ、2011年3月半ばに始まった。それから3か月後の6月4日、イドリブ県の小都市で最初の武装反乱が起きた。しかしこれは単発的な事件であり、連鎖反応を起こすことなく終わった。これ以後2011年の末まで8カ所で武力反乱が起きるが、どれも鎮圧されて終わる。シリアの武装反乱は、線香花火で終わり、なかなか燃え上がらなかった。8か所のうち大都市はホムスだけであり、中規模都市のイドリブを除けば、すべて町程度の小都市だった。2011年に武装反乱が起きた唯一の大都市ホムスは、革命の聖地と呼ばれるようになった。

2011年6月4日、武装集団がジスル・アッ・シュグールの治安部隊の基地を襲撃し、町を占領した。軍と治安部隊の兵士120人が死亡した。治安部隊というのは警察と政治警察に付属する軍隊の総称である。市民の多くが北西に向かい、トルコとの国境に避難した。ISW(戦争研究所)がこの事件について書いている。

 =====《最初の武装反乱》==========

   Syria's Armed Oposition

http://www.understandingwar.org/sites/default/files/Syrias_Armed_Opposition.pdf

                                      2011年6月 ジスル・アッ・シュグール、イドリブ

シリアで最初となる武装反乱が起きた。地元の武装グループが、おそらく離脱兵とともに、多数の治安部隊員を殺害した。2011年6月4日ジスル・アッ・シュグールでデモがあり、一部の参加者が暴徒化し、治安部隊が彼らに発砲した。死者が出たことに怒った市民が警察所を襲撃した。警察所の武器を手に入れた暴徒は治安部隊に発砲し、治安部隊から多くの死者が出た。

翌日政治警察と情報将校が軍隊と共に到着した。兵士の一部は町を攻撃すること拒否し、脱走した。暴徒が支配する市内で孤立している治安部隊を救援すため、軍隊は市内に入っていったが、待ち伏せされ、兵士20人が死亡した。救援は間に合わず、治安本部は暴徒によって占領された。正確な死者数は分かっていない。しかし最初の武装反乱が起きたことは明らかである。

政権はジスル・アッ・シュグールの反乱に断固とした対応をした。数百台の装甲車が3方向から町に迫った。暴徒たちは恐れをなして町から逃亡した。彼らはトルコとの国境の山地に向かった。約1万人の住民も同じ方向に避難した。治安部隊は彼らを逮捕するため山地をくまなく捜索した。反乱グループと町民は国境を越え、トルコに避難した。トルコ政府は難民のための施設をつくった。

   

======================(ISW終了)

暴徒は警察署を武器を持たずに襲ったのだろうか。またその後、警察署で手に入れた武器だけで治安本部を占領できたのだろうか。治安本部には政治警察付属の兵士がいたはずである。警察署で手に入れた武器だけで、兵士たちに勝利したのだろうか。さらには暴徒を制圧に来た軍隊を追い払ってしまった。ISWは警察署を襲った暴徒が武器を所有していたか、について書いていない。しかしこの事件が起きる数週間前から反対派に武器が渡っており、警察署を襲った連中は機関銃やRPG(ロケット推進手りゅう弾)を所有していた、と政府は発表している。常識的にはこちらのほうが理解しやすい。

もう一点付け加えると、ジスル・アッ・シュグールはイドリブ県の中でも、最もトルコ国境に近い。この事件は自然発生的に起きたのではなく、武器を持った連中がトルコから侵入したのであり、計画された反乱だった可能性が高い。

 

ISWはジスル・アッ・シュグールの反乱について基本的な事実を書いているが、反対派の話に基づいているようだ。次に紹介するクリスチャン・サイエンス・モニターというサイトは政府側の説明を引用している。違う角度から事件を見ることができる。また同サイトは31年前のジスル・アッ・シュグールの反乱について書いており、シリアは反乱の火種を持った国であると改めて認識させられる。

 

========《武装反乱の開始?》=======

  Has Syria's peaceful uprising turned into an insurrection?

https://www.csmonitor.com/World/Middle-East/2011/0609/Has-Syria-s-peaceful-uprising-turned-into-an-insurrection/(page)/2

                          By Nicholas Blanford, Correspondent

                                                   Christian Science Monitor   2011年6月9日

イドリブ県の町で、兵士と治安部隊120名が殺害されたと政府が発表した。暴力事件が徐々に過激になり、背後に誰がいるのかという議論がますます活発になるだろう。

6月8日大統領の弟マヘル・アサドが率いる数千人のエリ-ト部隊がジスル・アッ・シュグールに集結した。近隣の村々が戦車の長い列が近づいていることを、ジスル・アッ・シュグールにつたえた。街から人の姿が消えた。

 

政権は市民の抗議デモの弾圧を強化し、実弾、戦車さらには戦闘ヘリを用いるようになった。こうなると市民の側が武力で反撃するようになるのは、避けられない。シリア軍に対する武装抵抗が増えている。ジスル・アッ・シュグールでのシリア軍の損失はこれまでで最大となった。

この事件により、シリア軍に銃を向けているのは誰か、という疑問が生まれる。市民が武器を持って抵抗を始めたのか、それとも軍隊の一部が反乱し始めたのか。いずれにしろ、1982年に起きたハマの反乱が再現しつつあるようだ。しかも今回は全国的な規模であり、40年続いたアサド政権最大の危機となっている。

政権によれば、シリアに混乱を起こしているのは犯罪集団とイスラム過激派である。この見解は部分的に正しく、ムスリム同胞団がシリアの他宗派・多民族社会の対立をあおっている点は見逃せない。30年前もムスリム同胞団は同じことをしている。最近数週間シリアへの武器の流入が増えている、という事実もムスリム同胞団の暗躍を思わせる。

一方、反対派は次のように主張している。「抗議運動は現在も平和的だ。現在起きている武力衝突は、政権に忠実な部隊と召集兵の間で起きている。召集兵は抗議する市民に同情して反乱している」。

地方連絡委員会( Local Coordination Committees)に所属する女性活動家は次のように言う。

「市民に発砲することを拒否した兵士たちは住民にかくまわれており、住民の家に住んでいる」。

女性活動家はベイルートを拠点としており、彼が所属する連絡委員会はシリア各地で起きていることの情報センターとなっている。彼女は匿名を条件に付け加えた。

「市民に対する発砲を拒否した兵士が治安部隊によって射殺されたという、多くの目撃証言がある。7日にも、カブル(Kabir)川を超えて逃げようとした兵士3人が撃たれ、負傷した。カブル(Kabir)川はレバノン北部の国境を流れている川です。これはレバノンの住民が話したことです。この時撃たれた4人目はレバノン人のディーゼル油密輸人で、彼は死亡しました。彼の死体は川底で発見されました」。

                  〈政権による報復〉

外国のメディアはシリアに入国できないため、非難合戦を繰り返すどちらが正しいのかを見極めるのは不可能に近い。しかしジスル・アッ・シュグールの事件はデモ開始以来の2カ月半で最大の出来事であること認めている点で、両者は一致している。

この事件についてシリア政府は次のように発表した。

「機関銃(複数)とロケット推進手りゅう弾(複数)を持った数百人のゲリラが治安部隊を待ち伏せし、政府の建物を攻撃した。ガスボンベ爆弾で警察署を爆破し、死体を町を流れるオロンテス川に投げ捨てた」。

モハンマド・シャー内務大臣は次のように述べた。

「政府は毅然とした対応をする。武装反乱に対しては、武器の使用を躊躇(ちゅうちょ)しない」。

装甲車の長い列がジスル・アッ・シュグールに向かっているといるということを知り、数千人の市民が一斉に町から逃げ出した。彼らは19km西方のトルコとの国境に向かった。

ワシントン・インスティチュートのアンドリュー・タブラーは言う。「シリアの状況がますます悪くなっている。政権が抗議運動の弾圧を強化しているので、反対派の暴力的な反撃が増えるのは避けられない」。

反対派は言う。「自分たちの抗議運動は現在も平和的だ。武力闘争は政権に忠実な部隊と離反兵士の間で起きている」。

               〈31年前の反乱〉

ジスル・アッ・シュグールはスンニ派の牙城ともいえる町で、シーアは政権に対する反乱の歴史を持っている。1980年3月の抗議運動際には、民衆の一部がバース党の建物と軍の兵舎を焼き討ちし、武器と弾薬を奪った。武装反乱を鎮圧すため、特殊部隊がジスル・アッ・シュグールに送られた。彼らはロケットや迫撃砲で暴徒たちの占領地区を攻撃した。反乱は鎮圧されたが、民家や商店が破壊され、数十人が死傷した。

翌日軍事裁判により反乱容疑者が裁かれ、100人以上が処刑された。鎮圧の過程で150-200人の住民が死亡した。

以上は政府発表による、31年前の反乱の経過であるが、今回の事件とよく似たことが過去にあったことがわかる。

 

離反兵士や怒れる民衆のほかにも、現在の状況は良い機会だと考えて武器を取る人々がいる。2003年のイラク戦争の際、シリアのイスラム主義者が米軍とのゲリラ闘争に参加している。米軍に憎まれたヨルダン人のザルカウィは有名であるが、シリア人ゲリラも米軍を攻撃している。シリアは自国民をイラクに送るだけでなく、外国のゲリラ兵が自国を通過することを許可した。対米ゲリラがシリア経由でイラクに流入していることについて、ブッシュ大統領は繰り返しシリアを批判した。

イラクでのゲリラ闘争は終了しており、イラクから帰ったシリア人ゲリラは新しいターゲットを探している。彼らはアサド政権に矛先を向けるのは間違いない。

イラクで米軍と戦ったシリア人ゲリラはスンニ派の熱心なイスラム教信者であり、世俗的なアラウィ派政権を倒すチャンスをうかかがっている。戦闘経験のある彼らは現在の混乱を利用して武装反乱を企てるだろう。イスラム主義者全員がイラクに行ったわけではない。シリアには多数のイスラム主義者がいる。彼らも武器を取るだろう。

シリアでは最近の数年間、イスラム過激派が犯人と思われるテロ事件がおきている。2008年には情報機関が入っているビルのそばで車に仕掛けれた爆弾が破裂し、17人が死亡した。

 

              〈闇市場での武器の取引が増加〉

シリアで武装反乱が始まりつつあるのは、隣国レバノンの闇市場で武器の売買が増えていることと関係があるようだ。内戦終了後もレバノンニシンを経験の平和は戻っておらず、内戦の構造は残っている。闇市場で武器の売買は日常化しているが、現在のような取引の多さは前例がない。南ベイルートで自宅のガレージを見せにしている武器商人アブ・リダが言う。

「武器の需要が急増していて、市場にはほとんど出回らない。私は武器を仕入れることができず商売にならない。特に良質なロシア製のカラシニコフは手に入らない」。

最上の品質のカラシニコフのAK-47は金属部分に円の中に11という数字が掘られているため、武器市場では「ーサークル11と呼ばれている。

「シリアでデモが始まる前、サークル11は1200ドルで売られていたが、現在は2000ドルに値上がりしている。中東の反乱兵の間で人気があるRPG(ロケット推進手りゅう弾)は900ドルから1000ドルに値上がりした。弾頭一発の値段は50%値上がりし、150ドルになった。

レバノン人の仲買人はアブ・リダのような武器商人から武器を買い、国境を越えてシリアに入り、シリア人に売る。

「武器はほとんどレバノン北部の国境を越えてシリアに行き、レバノンで売られるのはわずかである」。

レバノン北部の国境とは、アッカ(Akkar)地方である。この辺の国境は昔から武器に限らず様々な物資の密輸ルートになっている。最近3か月のシリアの反乱の中で、レバノンの北部国境に近いスンニ派の町や都市が多いのは偶然ではない。また北部レバノンに限らず、レバノンの他の国境そしてトルコやヨルダンとの国境に近い地域でも、同じ理由で反乱が起きている。

 ===========================(クリスチャン・サイエンス・モニター終了)

 

政権はデモの中には最初から武装した者が紛れ込んだと主張し、デモが始まる前に国境で大量の武器を押収したことを根拠として挙げていた。これはあくまで政権の言い分なので、客観的な裏付けが必要であるが、レバノンの闇市場で急に武器の取引量増えたという事実は、シリアに武器が流入したことを物語っている。平和なデモだった最初の3か月に多くの兵士・警官が死亡している原因は命令拒否兵士が射殺された場合が多いかもしれないが、武器を持たない民衆の中に、武器を持った暴徒が紛れ込んでいた場合もあったようである。

 

ジスル・アッ・シュグールの反乱についての政府の説明は反徒たちの武器を明らかにしており、反対派のストーリーにかけていたことを補っている。しかし2日目に反乱の鎮圧に派遣された軍隊が撃退された事実は消えている。同一事件についての記述は、どちらも不完全である。

ジスル・アッ・シュグールの反乱は全国的な武装反乱の起爆剤となることはなかった。鎮圧されて終わり、この後7カ月間平和な抗議運動が続く。外国からの本格的な武器援助は7カ月後に開始されるからである。ではこの7カ月間に単発的に7回起きた武装反乱の武器はどのようにして手に入れたか、私は気になっていた。この時期米政府はシリアに深くかかわるつもりはなく、大規模な軍事援助をするつもりがなかった。米国はイラクとアフガニスタンという未解決の問題を抱えており、米国の威信にダメージのない形で決着することに精力を奪われ、シリアに手を出す余裕がなかった。米国はリビア攻撃に参加したが、仏・英が主導であり、後始末は彼らが大部分するはずだった。

米政府はシリアへの軍事干渉に及び腰だったが、CIAは活発に動いており、本格的な武装反乱は無理なので、デモを拡大することに勤めていた。2011年に8回起きた武装反乱は失敗に終わったが、デモを拡大するのに役立った。武装反乱の鎮圧において、住民が巻き添えになり、犠牲者が出た。また多くの住民が難民となった。住民の怒りは地縁・血縁・反対派の情報ネットワークを通じて拡散した。一つの町をゴースト・タウンにすれば、政権に対する反感が他地域に生まれた。デモが下火にならず、徐々に広がっていたので、CIAにとって成功だった。

2011年の数少ない武装反乱にも武器は必要だったのであり、その入手方法についてクリスチャン・サイエンス・モニターは重要な指摘をしている。レバノンの闇市場で武器の取引量が増えたことである。わずかな資金援助があれば、2011年程度の反乱は可能だった。

 

 

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シリア軍から離脱した将兵

2018-02-04 18:09:47 | シリア内戦

 

2012年5月19日シリア軍・情報機関の最高位者6人を殺害する試みがあった。サハバ大隊が「高官6名を殺害した」と発表したが、6人全員が生きていることがわかった。サハバ大隊の作戦は失敗だった。

その2か月後の7月18日ダマスカスの保安本部で爆発が起き、シリア軍最高幹部4人が死亡した。今回は成功だった。イスラム大隊が犯行声明を出した。

7月18日のダマスカスの保安本部爆破事件は大統領暗殺に劣らぬ重大事件だった。2000年のハフェズ・アサド大統領の死後、シリアの政権を支えてきたのは彼らだった。バシャール・アサドはこの期間、見習い中の大統領だった。

高官暗殺未遂と成功のどちらの場合も、イスラム主義グループが関っており、これまで8回シリアのイスラム主義グループについて書いてきた。2012年夏のシリアの状況に戻りたい。

 

武装反乱は20116月以後見られたが、極めて散発的で、継続性がなかった。本格的な武装反乱が開始されたのは、2011年末である。その後反乱軍は着実に支配地を広げ、2012年の夏にはアサド政権の崩壊が現実問題となってきた。長いシリア内戦の中で、流れが大きく変わった時期が何度かあるが、2012年の夏は最初の山場だった。アサド政権が崖淵に追い詰められた状態は翌年の春まで続く。政権の粘り腰もあるが、国家の軍隊と反乱軍の間には武器の格差があり、また正規軍と素人のゲリラ軍という相違があり、反乱軍は最後の詰めをするだけの力量を欠いていた。この時期のチャンスを失って以後、反乱軍の勝利は遠のいた。

2012年の夏は反乱軍の勝利とアサド政権の崩壊が近いと思われた時期であるが、反乱軍の優勢に寄与した要因を2つあげたい。2011年の初夏に武装反乱の考えは生まれていた。しかし反対派には武器がなかった。2011年末以後、反対派は武器を手に入れた。反対派を支援する国が武器の供給を開始したのである。武器の供給がなければ、シリア内戦は始まらなかった。

2012年反乱が広がりを見せたもう一つの原因は、軍隊からの離脱者が増え、離脱者の多くが反乱軍に加わったからである。革命の際には、体制内からの離反者が必ず生まれる。これまで選択がなかったのに、社会が突然2つに割れる。各個人はどちらの陣営につくべきか、選択を迫られる。それぞれの心情とイデオロギーにより選ぶことになる。また敗者の側についてしまえば、多くを失い、生命の保証もない。勝つ側につきたいという判断も重要になる。自分が生きている社会に突然革命が起きるなら、それは非常に恐ろしいことである。

 

            《体制内からの離反者》

シリア軍、政府、国会からの離脱者は20122月から急増し、これが20136月まで続き、それ以後離脱者は出なくなる。離脱者が出た時期は、反乱軍の勝利が予想された時期と一致している。アルジャジーラがこれをグラフで示している。

 

 

 

 

 

政権からの離脱者数を示すグラフを見てわかることは、政治家と官僚からの離脱者は非常に少なく、軍と情報機関から離脱者が多いことである。

内戦時においては、政治家と官僚の役割は限りなく小さくなり、軍人の重要性は増す。勝敗のカギを握る軍部から半数近い離脱者が出たことは、政権にとって深刻な問題である。

しかしながら残留した半数以下軍の高級将校の忠誠は揺るがず、困難な時期にも戦闘を指揮し続けた。2015年以後兵の不足が深刻になるが、上級将校の士気は衰えず、シリア軍は縮小しながらも存在感を示し続けた。2015年春次のように言われた。「シリア軍はほぼ消滅し、わずかな残留部隊はイランの革命防衛隊の将校たちに指揮されている」。イラン人将校が指揮する部隊の重要性が増したことは事実であるが、シリア軍が消滅したわけではない。

シリア軍を指揮して最後まで戦い続けた司令官や指揮官は必ずしもアラウィ派というわけではなく、スンニ派やドゥルーズ派である場合も多く、シリア内戦をアラウィ派政権に対するスンニ派の反乱と単純化することはできない。

ロイター通信がシリア軍からの最初の離脱者について書いている。デモが始まって4か月経た20116月のことである。離脱の理由は軍隊がデモをする市民に発砲することに反発したからである。日本でも昭和恐慌の際米騒動が起き、これを取り締まる警官たちが打ちこわしをする主婦たちの側に回った例がある。当時の政府は警官が暴動の側に回ったことに恐怖を覚えた。

 

======《将兵の離反は軍の分裂の前兆か》========

   Military defections expose cracks in Syrian army

<https://www.reuters.com/article/us-syria-defections/military-defections-expose-cracks-in-syrian-army-idUSTRE75S5E620110629            

                  Reuters  630

 

ますます多くの兵士が離反している。アサド政権の打倒を叫び多くの市民がデモをしている。兵士たちは彼らを武力で弾圧する任務を嫌い、軍を去っている。

市民に発砲することを拒否し、兵士たちは軍を脱走し、トルコなどの外国に逃げている。彼らは脱走を公言せず、外国のメディアがシリアで取材することが制限されているため、脱走兵の数を知ることは難しい。

しかし最近数週間、軍の徽章(バッジ)をつけた人物がネットに登場し、名前を明かすことが増えている。彼らは次のように発言している。「自由を求めてデモをする市民を戦車と銃で抑圧する軍に留まることはできない」。

軍の司令官の多くはアラウィ派であり、政権は彼らに頼っている。弾圧される側の市民はスンニ派である。シリア国民の6割がスンニ派である。残り4割はいくつかの少数民族であり、その中ではアラウィ派とキリスト教徒が比較的人数が多い。デモを抑圧するのは正規の部隊だけではない。シャビーハと呼ばれる民兵組織が市民を狙撃している。黒い服装をしたシャビーハはデモ参加者を容赦なく殺傷している。こうした2種類の部隊の発砲により、これまで1300人が死亡した。

軍隊は瓦解の兆候を見せている。トルコのアナトリア・ニュースによれば、シリア北西部で大規模なデモが武力鎮圧され、12千人の住民がトルコに避難した。避難民の一部は兵士であり、軍と警察の高官も含まれている、という。

政権はデモを武力弾圧したことについて、デモ隊の側に責任があると説明している。「彼らは武器を持ったギャングであり、テロリストである。こうした連中の銃撃により、これまで500人の兵士と警官が死亡している。」。

 

         〈ダラアで起きたこと〉

ロイター通信はトルコに逃走した2人の兵士と電話で話をした。一人はシリア北部のハサカ県のクルド人で、21歳の召集兵である。彼は次のように述べた。

「将校たちは兵士たちにシリア国営放送に映っているダラアのデモの様子を見せた。テレビに映っている人々について、将校は『連中は破壊工作者だ』と説明した。『外国からシリアに潜入した外国人武装兵や外国に支援され、祖国を裏切るシリア人だ』。将校の説明を聞いた我々は、ダラアに行って潜入外国人や裏切り者のシリア人と戦うつもりになった。しかし実際にダラアに行ってみると、将校の話したことが嘘であるとわかった。我々はダラアで起きていることを見た。発砲する破壊工作者たちは政権の手先だった。将校がデモの人々を銃撃せよとシャビーハに命じていた。私は実際にそれを見た。デモに発砲していたのは破壊工作者ではなく、政府の手先だった」。

こう話すクルドの青年は去年12月召集され、第14旅団に配属され、今年(2011年)425日ダラアに送られた。一か月後彼は部隊を抜け出し、民間人の服に着替え、ダマスカス、ハサカを経てトルコに入った。家族に危害が及ぶので匿名という条件で、彼はロイターのインタビューに応じた。彼の話を続ける。

「デモ隊に向けて発砲せよ、と我々は命令された。発砲しないわけにはいかなかったので、私は空に向けて、または壁や地面に向けて撃った。戦場の兵士は敵に向けて発砲する。自国の人間や兄弟・家族に向かって撃つことはできない。軍から離脱したことを後悔していない。もう同胞に向かって射撃しなくて済むので、私は悩みから解放された」。

市民に発砲することを拒否した兵士についての証言や報告が数多くある。発砲を拒否したため、殺された兵士についても報告されている。

大統領の弟マヘル・アサドが指揮する第4機甲師団や共和国防衛隊の忠誠心は揺るがない。どちらも1万の兵力を持ち、戦車部隊を備えている。この2つのエリート部隊は残余の部隊より訓練されており、給料も高い。残余の部隊は合計で20万人を超える。20万人の中に召集兵も含まれる。地域によっては、これらの部隊に少人数の精鋭部隊やシャビーハ(民兵)が付属する。

今月(6月)の初め、ダマスカスの陸軍病院の医師がロイターに語った。

「銃撃により負傷した17名の兵士がダラアから運ばれてきた。

私は緊急治療室で彼らを治療した。デモ隊に発砲することを拒否したために、シャビーハによって撃たれた、と彼らは言っていた」。

アラブの衛星放送やネットに登場する脱走兵のほとんどがスンニ派である。地元の住民が殺害されていることに怒りを表明する脱走兵もいる。

流血の弾圧が続けば、将校たちも離脱するだろう、と専門家は見ている。

ロイター通信はトルコに逃走した2人の兵士と電話で話をした。ダラアのデモの鎮圧に送られたハサカ県出身のクルド人兵士の証言については、すでに書いた。もう一人はイドリブ県のジスル・アッ・シュグールの出身で、軍から脱走した大尉である。

彼は現在トルコからジスル・アッ・シュグールに戻っており、潜伏している。「私は部隊にデモを武力で弾圧させる任務を拒否した」と大尉は電話で言った。「5月私は勤務時間外にホムスへ行ってみた。軍の部隊やシャビーハ(政権に忠実な民兵)が住民の家を襲撃していた。私は弾圧の実態を知ったので、任務を拒否した。身の危険を感じたのでトルコに亡命した。彼はYouTubeで声明を発表した。

 

  

(www.youtube.com/watch?v=bMEsc5eGW9M&feature=youtu.be).

 

ビデオの中で、彼は自分の身分証をカメラに向けている。彼はイブラヒム・マジブール(Ibrahim Majbour)大尉であるとわかる。

彼の電話での話を続ける。「私はジスル・アッ・シュグールで育ち、軍に入り、現在将校である。私の故郷の町が破壊され、家族がホームレスにされた。亡命した将校たちはシリアに戻り、勝利するだろう。デモをする市民は守られるだろう」。

武装反乱について、彼は具体的なことは話さなかった。しかしその後間もなく、自由将校運動と名乗るグループがシリア軍の将兵に向けてメッセージを発表した。

「一週間以内に決心してほしい。政権の側に立つのか、それとも抗議する市民の側に立つのかを」。

シリア人ジャーナリストがトルコとの国境近くで自由将校運動の声明を読み上げた。グループの目標がいくつか明らかにされたが、注目すべき項目は、暫定議会の選挙だった。またグループの代表はフセイン・ハームーシュ(Hussein Harmoush)中佐だった。ハームーシュ中佐が軍を離脱した経緯はビデオになっている。

ジャーナリストの読み上げた内容によると、グループのメンバーはトルコの難民キャンプにいる16人の将校とシリア国内にいる約35人である。

離反将校団の実力は未知だが、3か月の抗議運動の末に武装闘争が生まれつつあることは確かであり、政権にとって重大な脅威となるだろう。

前出のハサカ出身の召集兵は次のように言う。

「力のバランスは武器を持つ側に有利だ。市民が武器を持たず、政権が武力を独占している状態では、政権は変わろうとしない」。

======================(ロイター終了)

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シリア・イスラム戦線が米国の軍事介入に反対

2018-01-28 00:40:37 | シリア内戦

2013年8月21日の未明ダマスカスのグータ地区にサリン攻撃がおこなわれた。米国のオバマ政権はアサド政権を非難し、米国の軍事行動を示唆した。「数百人の市民が毒ガスという存酷な手段により殺害された。再びこのような悲劇が起こることがないよう、断固たる行動が必要である」。

米国の決意は固まっているように見えた。米国のベイルート大使館が特に重要な任務を持たない人と大使館員の家族に対し、レバノンから去るよう勧告した。

シリアの反対派の多くが米国の直接介入を望んでいた。米国の介入を引き起こすため、彼らがグータ地区にサリン弾を撃ち込んだのかもしれない。

こうした中でイスラム主義グループの中の最大勢力であるシリア・イスラム戦線が米国の攻撃に反対であるあることを表明した。ヌスラ戦線とISILは一貫して米国の軍事介入に反対している。反対派の中でサリンを扱う能力を扱う持っているグループが、米国の軍事介入に反対しており、「グータ地区に対するサリン攻撃は反対派による謀略だ」という説は根拠を失う。

この時期の反対派が何を考えていたかについて、ワシントンポストが伝えている。

 

===《イスラム主義グループが米国の軍事介入に反対》==

Syrian Islamists protest U.S. strikes; Americans exit embassy in BeirutSyrian Islamists protest U.S. strikes; Americans exit embassy in Beirut

  <https://www.washingtonpost.com/world/middle_east/us-orders-partial-evacuation-of-embassy-in-beirut-as-tensions-rise-over-syria-strike/2013/09/06/6af006a8-16f5-11e3-804b-d3a1a3a18f2c_story.html?tid=pm_world_pop&utm_term=.1a4bdae45dc3>

              By Liz Sly

            ワシントンポスト 2013年9月6日

イスラム主義グループは米軍によるシリア攻撃に反対しているが、自由シリア軍の指導部は米軍の介入を願っている。イスラム主義グループと自由シリア軍は対立を深め、こうした反対派内の分裂により、内戦を終結させる努力は混迷している。

シリア北部で指導的な位置にあり、厳格なイスラム主義グループが米国の軍事介入を支持してはならない、と構成員たちに警告した。ネットのフェイスブックに、次のように書かれている。

「米国の軍事介入は米国の利益になるだけであり、アサド大統領を倒そうとしている人々の利益にはならない」。

米軍の介入に対するシリア・イスラム戦線の反対は断固としたものではないが、反対派の多くは米軍の介入によってアサド政権の終末が早まること期待しているなかで、、これに疑問をなげかけた。

米国の真の目的は裏切り者の利益を増すことだから、警戒するように」。

シリア・イスラム戦線は、原理主義グループであるアフラール・シャムによって指導されている。

別のイスラム主義グループは米国の軍事介入を断罪するビデオを投稿した。このビデオは反対の立場が明確だ。

「我々は西側諸国による軍事介入を拒否する。これはイスラム世界への新しい侵略だ」。

このビデオを投稿したのは、8つの原理主義グループの代表である。* a video posted on YouTube.

反対派の多くは米軍の介入によってアサド政権の終末が早まることを期待している。

反対派は米国の軍事介入を歓迎するグループと反対するグループに分かれている。シリアの反対派は一様ではなく、方針がまとまっていない。数百の小さなグループが乱立しており、彼らは互いに同盟したと思うと分裂し、再び新たな同盟を結成する

というようなことを繰り返している。

穏健な自由シリア軍を統括している最高軍事評議会はこれまで何度も西側の支援を要請し、米国の軍事介入に賛成してきた。

自由シリア軍はSILやヌスラの対極にある穏健なグループの集まりである。自由シリア軍は反乱軍全体の中で圧倒的に多数であったが、アサドの正規軍とまともに戦う力はなく、西側の武力介入を求めていた。西側はこれに応じることなく、放置した。この間SILやヌスラなどの過激派が優勢になった。

自由シリア軍とは反対に、過激な原理主義グループは米国の軍事介入に反対した。米国の真の攻撃目標は自分たちである、と過激派は考えていたからである。アルカイダ系のISILとヌスラ戦線は米軍の攻撃に備え本部を撤収し、武器や資金を他所へ移している。彼らは本気で自分たちが攻撃されると考えている。これは反対派の支配地に住む住民の報告である。

米国にテロリストと規定されているISILとヌスラの他に、やや穏健なグループが多数存在する。アフラール・シャムが率いるシリア・イスラム戦線は自分たちをイスラム原理主義者と公言しており、実際過激な小グループが複数含まれる。しかしシリア・イスラム戦線はSILやヌスラとは異なり、やや穏健であるとみなされている。アフラール・シャムはシリアの広い範囲に支配地を有している。彼らは特に北部に基盤があり、SILとヌスラより普通の市民から信頼されている。

アフラール・シャムのようなグループにとって、予想される米軍の攻撃はジレンマになっている。2年前から米軍の介入を望んでいるグループと異なり、彼らは米国の軍事介入に反対してきた。そし、てこの姿勢はシリア国民に支持されてきた。今になって米軍の介入を歓迎するするなら、彼らを支持してきた国民の信頼を裏切ることになる。

しかし「米軍のシリア攻撃により、アフラール・シャムのようなグループは軍事的に利益を得るだろう」と、英国の軍事情報誌 IHS ジェーンのチャールズ・リスターが述べている。

「現実問題として、SILとヌスラよりやや穏健なイスラム主義グループにとって米軍の攻撃は有益である。しかし彼らは西側の軍事介入を公に承認することはできない。そこに彼らの矛盾がある」。

もう一つ重要な点がある。反乱軍の支配下にある地域の住民は日々空爆を受けている。彼らの多くはともかく内戦が終了することを願っており、たとえ外国の介入であっても戦争終結を早めるならよいと考えている。イスラム主義グループはこうした住民の願いを無視することができない。

イドリブ県の活動家たちは外国の軍事介入を望んでいることを国会議員に伝えるビデオを発表した。ビデオには死亡した子供たちが散乱している場面があり、生き残った子供たちが軍事介入を願っていた。

私はイドリブのアフラール・シャムの報道官に問い合わせた。彼は次のように強調した。「先日の我々の発表の真意は、我々は米国の攻撃に賛成も反対もしない、ということだ。米国の攻撃が何を意味するか国民に説明しているだけだ」。

 

米国のベイルート大使館が特に重要な任務を持たない人と大使館員の家族に対し、レバノンから去るよう勧告した。アメリカはシリアを攻撃するかもしれない、という緊張が高まっている時に出された退去勧告は、米国の攻撃が近いことを教えた。

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シリア・イスラム戦線

2018-01-23 23:19:05 | シリア内戦

 

今回のテーマ「シリア・イスラム戦線}は2013年11月に成立したイスラム戦線の前身であり、約一年前に成立した統一戦線である。

 

20129月シリア・イスラム解放戦線が成立した。3か月遅れて、1221日シリア・イスラム戦線が成立した。両者の名前は似ている。イスラム諸派の統合に失敗したため、一字違いの名前を持つ2つの統一戦線が生まれたためである。最初にできたシリア・イスラム解放戦線についてはこれまで書いてきた。イスラム解放戦線の中心敵なグループであるスクール・シャムはアフラール・シャムと並ぶ有力なグループだった。しかし2014年以後、ヌスラ戦線やISIS強大になり、スクール・シャムは競争に敗れて弱体化した。

イスラム解放戦線のナンバー2であるファルーク旅団もスクール・シャムに劣らず有力なグループであり、シリア各地のグループを従え、広域ネットワークを築いていた。彼らはトルコ・シリア国境の検問所のうち最も重要な2か所を支配していた。ファルーク旅団の本拠はホムスにあり、革命の聖地ホムスの支配者であることが彼らの威光を高めていた。20137月ホムスの反対派は一掃され、ファルーク旅団は急速に勢力を失った。

今回はイスラム解放戦線に3か月遅れて成立したシリア・イスラム戦線について、ウイキペディア(英語版)を訳す。シリア・イスラム戦線の中心的なグループはアフラール・シャムである。彼らは優勢なヌスラ戦線やISISにも対抗し、自らの存在を維持し続けた。

 

======《The Syrian Islamic Front》========

                 wikipedia

20121221日、11のイスラム主義グループが連合し、シリア・イスラム戦線が成立した。それぞれの組織は独立を維持したまま、協力を緊密にすることを約束したものであり、連合が一体性を強めるか、ばらばらになるかは予断を許さない。

シリア・イスラム戦線の中心的なグループはアフラール・シャムであり、残りは以下のぐるープである。

①ハク旅団(Al-Haqq Brigade);ホムス

②ファジル・イスラム運動( Al-Fajr Islamic Movement);アレッポ

③アンサール・シャム(Ansar al-Sham);ラタキア

④ジャイシュ・タウヒド(Jaysh Al-Tawhid);デリゾール

⑤ハムザ・ムッタリブ旅団(Hamza ibn ‘Abd al-Muttalib Brigade);ダマスカス

参加メンバーは対等という条件に、アフラール・シャムは不満だったようである。彼らは統一戦線を指導するのはと自分たちだと考えていた。

結成間もない翌20131月、いくつかのメンバーが改名を宣言した。新しい名前はアフラール・シャム・イスラム運動(The Islamic Movement of Ahrar al-Sham)である。他のメンバーは怒ったが、解散には至らなかった。そしてシリア・イスラム戦線という元の名前が使われ続け、定着した。

20134月新メンバーが加わった。ハマ県のハク旅団集合(Haqq Battalions Gathering)である。
ハク旅団集合は20138月ハマのいくつかの原理主義グループによって結成された。中心メンバーはリワ・ムジャヒディ・シャム( Liwa Mujahidi al-Sham)である。彼らはシリア・イスラム戦線の重要なメンバーになった。

201389日アフラール・シャムの指導者ハッサン・アブードがイドリブ県のラム・ハムダンで死んだ、とシリア人権団体が伝えた。

シリア・イスラム戦線はシリアの広い地域において影響力を確立した。シリア・イスラム戦線とその中心的なグループであるアフラール・シャムは資金の多くを支配地における人道的・社会的な活動に費やした。例えばイスラム的な教育活動や食料・水・燃料の支給である。これらの人道的活動の経費の一部は、IHH人道的救援基金(トルコのNGO)やカタール慈善団体によって支給されている。

2013年シリア・イスラム戦線の指導者ハッサン・アブードはアルジャジーラに出演しインタビューに答えた。彼は初めてメディアに登場し、本名を明かした。
「新規参入者に軍事訓練とイスラム教育をほどこすため、我々はシリア全土に訓練所を持っている。このほかに、有望な人材が指揮官になるための訓練所もある。数十のグループがシリア・イスラム戦線に参加したいという要望を述べている」。
シリア・イスラム戦線の設立宣言には、次のように書かれている。「イスラムの教えを厳格に守り、アサド政権を倒し、全シリア人のための国家を樹立する。新国家はイスラム法によって統治されるイスラム教国となる」。

イスラム戦線は湾岸の厳格なイスラム・スンニ派から資金と援助を得ている。有名な資金提供者は次の3名である。

①クェートの説教師Hajjaj al-Ajami

②サウジ在住のシリア人説教師Adnan al-Aroor

③クェートの政治家 Hakim al-Mutayri

イスラム戦線は厳格なイスラムを信奉しているが、ヌスラ戦線より穏健であり、シリア国民の間で広い支持を集めている。

2013821+を受けた時、米国はシリア攻撃を攻撃を考えた。この時イスラム戦線は米国の軍事介入に反対し、95日インターネット上で声明を出した。

「欧米によるシリアへの軍事干渉を、我々は拒否する。これはムスリムに対する新しい侵略であり、米国に利益をもたらすだけである。アサド政権を倒そうとしている人々の利益にはならない」。


2013
11 22 日シリア・イスラム戦線に所属するグループのリーダーたちは新しい統一戦線「イスラム戦線」の結成宣言に参加した。これまでイスラム諸派は2大グループに分かれていたが、両者が歩み寄りひとつにまとまった。

2大グループの一つはこの記事のテーマであるシリア・イスラム戦線であり、もうひとつはシリア・イスラム解放戦線である。
新しい統一戦線の誕生にともない、シリア・イスラム戦線はネット上で解散を表明した。
====================(wikipedia終了)

2013821日シリア軍がダマスカスのグータ地区にサリン弾が撃ち込まれた。これを理由に米国はシリア攻撃を準備していた。これに対し、シリア・イスラム戦線が米国の軍事介入に反対の意を表明したことを知り、私は驚いた。反対派は米国の軍事介入を望んでおり、そのきっかけが欲しかった。反対派はそのきっかけをつくるため、ダマスカスでサリン弾を使用した、という説は根強かった。

反対の最大勢力であるシリア・イスラム戦線が米国の軍事介入に反対していたとすれば、反対派による陰謀説は根拠を失う。

20138月の時点でイスラム諸派は一つにまとまってはいないが、少なくとも2つの統一戦線が出来上がっている。自由シリア軍の時代は終わり、反対派とはイスラム諸派を意味するようになっている。統一戦線のひとつであるシリア・イスラム戦線が米国の軍事介入に反対の意を表明した意味は大きい。「反対派は米国の軍事介入を望んでおり、そのきっかけを作るためにダマスカスの郊外でサリン攻撃を行った」という主張が否定されるからである。

 

シリア・イスラム戦線が米国の軍事介入に反対したことは事実であるが、必ずしも本心ではなく、建前に過ぎず、本心では米国の軍事介入を望んでいたようだ。現実問題と必要と建前との矛盾がある。シリア・イスラム戦線のイデオロギーは反欧米・反近代・イスラムへの回帰である。

米国に頼ることはイスラムとアラブへの裏切りである。アサド政権は欧米からの自立を貫き、その結果国際的に孤立した。このことはアラブ世界では高く評価されてきた。シリア・イスラム戦線が米国に頼るなら、アサド政権以下になってしまう。

20138月のダマスカスのサリン事件について、米国はシリア軍の犯行と断定したが、反対派の陰謀という主張もそれなりに説得力がある。私は検証を試みたが、結論に至らなかった。現地の状況を提示するだけで終わった。

ただ一つだけわかったことがある。これは戦争中に起きたことである。オバマ政権は人道的な理由を前面に出しているが、これはまやかしに過ぎない。米国にとって大事なのは国益であり、シリア攻撃の真の理由は国益であり、人道的な理由は口実に過ぎない。米国が人道的な立場で行動しているなら、内戦の終結を第一に考えるはずである。しかしアラブ世界における米国の信用失墜という形の戦争終結を、米国は絶対に受け入れられない。米国は自国の威信を損なわない形での戦争終結に固執する。

一方アサド政権は生き残ること以外、考える余裕がなく、そのためには何でもする。政権が倒れれば、政権の重要人物は死刑である。万一亡命できたとしても、オサマ・ビン・ラディンのように家に閉じこもる生活であり、最後に暗殺されるかもしれない。

アサド政権としては、米国の介入の口実となる化学兵器の使用は避けたいが、現地の戦況によりやむを得ず使用したかもしれない。

シリア軍は航空攻撃に加え、ミサイル・戦車・重砲などの攻撃手段を有しており、圧倒的に優勢である。ただし最後は歩兵が進出しなければならない。地下に隠れていた反対派に狙撃される危険がある。空爆や砲撃は地下を破壊することはできない。1年半の戦いにより、シリア軍の歩兵の数は目に見えて減っている。シリア軍の歩兵部隊は徐々に消滅に向かっている。クサイル・ホムスで戦った歩兵部隊はレバノンのヒズボラである。ダマスカスのグータ地区の反対派の支配地に進出する際、歩兵の犠牲を出さない目的で、シリア軍はサリン攻撃をしたのかもしれない。

米国にとっても、アサド政権にとっても人道的な問題は2次的な重要性しか持たない。両者の一次的な重要性とは勝利することである。

サリン攻撃をしたのは誰かという問題に、私が興味を失ったわけではなく、犯人についての決定的証拠が世に出る日を待っている。

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ファルーク旅団(ホムス)②

2018-01-22 23:30:06 | シリア内戦

 

2013519日反対派はクサイルで完敗し、続いて712日ホムスから一掃された。クサイルとホムスの反対派のその後が気になっていたが、湯川陽菜さんが2014年の春クサイルからシリアに入っており、クサイルの反対派ルートはまだ健在なようだった。

また2015730日ホムスを拠点とするファルーク旅団について書かれた記事がある。この記事は前々回紹介した。以上の2点から、ホムスの反対派はまだ健在なのかもしれないという疑問が生まれた。ウイキペディア(英語版)にファルーク旅団の項目があり、それによればファルーク旅団は2014年に消滅している、という。

 

========《The Farouq Brigades》========

                 wikipedia

ファルーク旅団は内戦の初期ホムスを拠点とする自由シリア軍のメンバーによって結成された。2012年急速に規模が大きくなり、名声が高まった。その後内部分裂と戦場での敗北により、2013年にはかつての影響力を失った。

2014年、残存構成員が他のグループに流れ、ファルーク旅団はほぼ消滅した。

                〈旅団成立から2012年9月まで〉

旅団の名前は第2代カリフ、ウマルに由来している。ウマルはムハンマドの側近であり、アブ・バクルを継いでカリフとなった。彼は信仰心が篤くイスラムの教えに忠実であり、ファルーク(善悪を区別する人)と呼ばれていた。

デモの開始(20113月)から数か月後、ファルーク旅団が組織された。最初は独立したグループではなく、シリア軍からの離脱兵からなる旅団(ハリド・イブン・ワリド)に従属していた。

ハリド・イブン・ワリド旅団(Khalid ibn al-Walid Brigade)は20116月に成立していた。ほとんど平和なデモの段階であった時期に、ハリド・イブン・ワリド旅団はホムスとラスタンでシリア軍と衝突し、有名になった。

 

 

2011年の後半ファルーク旅団はホムスのババ・アムル地区を中心に活動していた。旅団の構成メンバーは約3000名だった。

 

 

ファルーク旅団の指導者はシリア軍から離脱した中尉アブドル・ラザク・タラスである。彼の叔父ムスタファ・アブドゥル・カディール・タラス(Mustafa Abdul Qadir Tlass) 30年間(1972 年ー 2004年)国防大臣を務めた。

 

  

 

ファルーク旅団がホムス市の一画を支配していることは、政権にとって我慢できないことだった。2012年の早い時期にシリア軍はババ・アムルへの攻撃を強めた。反乱軍は多くの犠牲を出し、ホムスの田園地帯やラスタン・クサイルなどの都市に撤退した。

ババ・アムルから撤退を余儀なくされたものの、その後数か月ファルーク旅団は組織の拡大に努めた。シリア各地で新たに反乱グループが誕生しており、彼らを自分たちの仲間にした。また以前から存在しているグループも引き込んだ。こうしてファルーク旅団はヨルダンとの国境地帯とトルコとの国境地帯まで、広い地域に仲間を持つことになった。トルコとの国境地帯で活動するファルーク・シェマル旅団はグループはいくつかの国境検問所を支配していた。ファルーク・シェマル(Farouq al-Shemal)旅団は北のファルークと呼ばれている。

20129月・ファルーク旅団やスクール・シャムなど、多数のイスラム主義グループが集まり、シリア・イスラム解放戦線を創設した。イスラム解放戦線の指導者によれば、構成員は4万人を超えており、彼らはイスラムの教えに沿った国家建設を目ざしているという。20135BBCはイスラム解放戦線の人数を2万人と推定している。

201311月イスラム解放戦線に代わり、新たに「イスラム戦線」が成立した。しかしファルーク旅団はこれに参加しなかった。

ワシントン・インスティチュートのジェフリー・ホワイトと戦争研究所(ISW)のジョセフ・ホリデイによれば、ファルーク旅団は穏健なイスラム主義グループであり、世俗主義とイスラム原理主義の中間に位置している。戦闘員の多くがジハードのスタイルをし、黒のはち巻をしてひげを生やしているが、彼らの信仰心はそれほどでもなく、湾岸の信仰心厚い支援者からの資金目当てであるようだ。

ファルーク旅団には宣伝部門があり、彼らの戦闘場面を撮影し、YouTubeFacebookに投稿している。それらの写真や映像には旅団のロゴが張られており、映っているのが彼らであることが識別できる。これは資金集めのためである。資金提供者は多様であり、シリア人、湾岸の富裕層、西側諸国、イスラム主義団体などである。

20124月ファルーク旅団はホムスのキリスト教住民の地区でジズヤを徴収した、と批判された。ジズヤとはイスラム支配下の非イスラム教徒に課される税金である。キリスト教徒やユダヤ教徒はそれほど高くない税金を払えば、イスラム教に改宗しなくてもよかった。

ジズヤ徴収を批判されたファルーク旅団は「そんなことはしていない」と否定した。ISW(戦争研究所)は「この批判をしているのはアサド政権だ」と書いている。

ファルーク旅団による他宗派迫害問題はこれで終わらず、ホムス市のキリスト教住民の90%を追放したという報告がなされた。これに対しホムスのイエズス派は反論している。

「彼らは追放されたのではなく、戦闘を避けて避難したのだ」。

マクラッチ新聞(McClatchy Newspapers)はレバノンに避難したキリスト教徒に聞き取りをしたが、彼らは「キリスト教徒であるという理由での迫害はなかった」と答えている。「ただしファルーク旅団が政権と結びつきのあるキリスト教徒を多数逮捕したため、同じ地区に住むキリスト教徒たちが逃げた例はある」。

20129月シリア北部のファルーク旅団が外人部隊を率いるイスラム原理主義者Abu Mohamad al-Absiを誘拐した。北部旅団の司令官は誘拐の理由を述べた。「彼ら(外国人グループ)はバブ・ハワの検問所を明け渡すよう要求したが、応じなかった。アブシはアルカイダの旗を掲げた。我々はアルカイダを歓迎しない」。

====================(wikipedia中断)

 

 

トルコとシリアの長い国境線には、いくつもの検問所があるが、バブ・ハワの検問所は最も重要なもののひとつである。バブ・ハワの越境地点がシリア内戦に果たした役割は大きい。資金と武器がトルコからバブ・ハワに入り、シリアの反対派に配布された。自由シリア軍を統括する最高軍事評議会の現地本部はバブ・ハワにある、武器庫もある。バブ・ハワ経由の供給はアレッポ西方とイドリブ北部の反対派を支えた。アレッポ西方からイドリブにかけて強力な反政府軍が存在するため、シリア軍のアレッポ作戦は困難になった。ホムスから北上するシリア軍に対し、この地域が防波堤となったため、アレッポの北方は反対派の天国になった。

ホムスを拠点とするファルーク旅団がバブ・ハワの検問所を支配しようとしたことは、彼らの勢力の伸長を示している。

後半は201210月以後のウイキペディアを続ける。201210月以後のファルーク旅団についてであるが、2012年の最後の3か月についての記述は少なく、2013年の最初の話題は、元ファルーク旅団の指揮官がシリア軍兵士の心臓を切り取った事件である。この事件についてはすでに書いたが、並はずれて野蛮な行為をした指揮官がいた、という単純な話ではないようだ。シリア内戦の残酷さの一片にすぎない、とウイキペディアは教えてくれる。内戦の本質をかいま見る思いである。

 

====《The Farouq Brigades(続き)》======

    〈2012年9月ー2013年5月〉

201210月ファルーク旅団の指導者の一人であるアブドゥル・ラザク・タラス元中尉が更迭された。彼に代わったのはAbu Sayeh Juneidiである。

10135月、反対派の司令官アブ・サッカルがシリア軍兵士の内臓を切り取り、それを口に入れようとする動画が公開された。彼は彼を見習うことを反対派にすすめ、アラウィ派に恐怖を与えるよう誘った。シリア人権監視団によれば、アブ・サッカルはファルーク旅団に所属しておらず、独立のオマル・ファルーク旅団の司令官である。

しかしBBCはオマル・ファルーク旅団はファルーク旅団の下位グループである、としている。ファルーク旅団は多数に枝分かれした家系図のように互いにつながっている諸グループの集合である、という。

自由シリア軍の参謀長はアブ・サッカルの行為を非難した。アブ・サッカルのグループが自由シリア軍に所属するかどうか、不明である。自由シリア軍は命令系統がないも同然であり、どのグループが所属しているのか否かについても、あいまいである。

アブ・サッカルは裁判にかけられるべきだ、とシリア国民連合は表明した。自由シリア軍の最高軍事評議会は彼の逮捕を命令した。一方アブ・サッカルは次のように弁明している。

「あれは復讐だった。あのシリア軍兵士の携帯電話にビデオが収録してあった。あの兵士母親と2人の娘を凌辱していた。別のビデオでは、アサドの兵士が女性を辱め、人々を拷問し、身体を切断し、殺していた。子供たちまでもそのようにされた」。

201646日アブ・サッカルはラタキア県でシリア軍によって殺された。その時彼はヌスラ戦線と共に戦っていた。

01311月までに、ファルーク旅団は衰退し、多くの小さなグループに分裂した。その結果勢力圏を著しく縮小した。ファルーク旅団はラッカから追い出され、トルコからラッカへの入り口の町であるテル・アビヤドを失った。その後も旅団の分裂は止まらず、ファルーク旅団はほぼ消滅した。

=================(wikipedia終了)

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クロアチアからシリアへの武器輸送は終わっていない

2018-01-20 01:07:30 | シリア内戦

2012年11月から2013年2月の間に、75の民間輸送機がクロアチアのザグレブ空港から離陸した。武器や弾薬の一部3000トンがトルコとヨルダンを経由してシリアの反政府勢力へ送られた。

大量の武器がシリアへ送られた事実が明らかにになり、改めてシリア内戦が外国の代理戦争であることを印象づけられた。

クロアチアからシリアへの武器輸送はこれで終わったのではなく、その後むしろ増加した。その後の輸送量の多さに比較すると、2012年11月ー2013年2月の武器輸送はわずかなもであった。特に2016年の増加は著しい。

OCCRP(組織犯罪と腐敗報告プロジェクト)がクロアチアの武器輸出を、グラフを用いて解説しており、一目でその実態がわかる。このグラフはサウジアラビアによる反対派への支援の急増を物語っている。

 

====《クロアチアの武器がシリア内戦を激化》====                       -Croatian Arms Sales to Saudi Arabia Fuel Syrian War

                by Lawrence Marzouk, Ivan Angelovski and Jelena Svircic

 <https://www.occrp.org/en/makingakilling/croatia-sells-record-number-of-arms-to-saudi-arabia-in-2016/                      

                                      OCCRP     2017 年2月21日

 2016年クロアチアは前代未聞の量の中古の武器をサウジアラビアに売却した。これらの武器がシリアに流れるのは歴然としており、多数の証拠がある。これはEUの法律と国際法に違反している。

3016年4月自由シリア軍に所属するヌール・ディン・ゼンキ(Nour al-Din al-Zenki Movement)がクロアチア製の多連装ロケットRAK-12 を使用している動画がある。YouTube

 

サウジ軍は中東で最良の、最も高価な武器をすでに保有しているにもかかわらず、2016年新たに8170万ドルの中古の武器を購入した。それらは、ロケット砲、迫撃砲、手りゅう弾発射機、弾薬などである。

サウジのクロアチアからの武器購入は4年前から続いているが、2016年に急増した。8170万ドルという額は2016年の9月までのものであり、年の終わりには、これまでの4年間の合計金額を超え、その2倍になりそうだ。

クロアチアの軍事評論家Igor Tabakによれば、クロアチアは現在武器を生産しておらず、サウジに売却しているのは中古品であり、旧ユーゴや東欧諸国で生産されたものである。

クロアチアの不要な在庫品を売却して利益を得ていること、それがシリアで使われていることを、クロアチア政府は頑固に否定しているが、クロアチア国防相の文書を見れば、明らかだ。

2012年以来クロアチアの武器売却が急増していることを、組織犯罪と腐敗報告プロジェクト( Organization Crime and Corruption Reporting Project )が明らかにした。2012年はシリア内戦が始まった年である。

2012年と2013年の2年間に、クロアチア国防省はそれ以前の10年間に等しい量の武器を売却した。2011年クロアチアは18,000 トンの武器を保有していたが、その後の2年間で その4分の1以上(5,000トン)を売却した。

我々はクロアチア国防省に売却先を質問したが、返事はなかった。2015年と2016年の売却についても、説明がなかった。

クロアチア国防省の文書はネットに公開されている。

2012 Report by the Croatian Ministry of Defense

2013 Report by the Croatian Ministry of Defense

2014 Report by the Croatian Ministry of Defense

2012 Report by the Croatian Ministry of Defense

2013 Report by the Croatian Ministry of Defense

2014 Report by the Croatian Ministry of Defense

 

上の写真は「シャムの剣」というグループが投稿したビデオの場面である。日付は2016年5月18日。これはクロアチア製のロケット RAK-12 である。下の写真はクロアチア兵士であるが、同一のロケットを持っている。

              【武器売却は国家機密】

クロアチアは2012年の冬シリアの反乱軍に最初に武器を供与した国の一つである。これはCIAの作戦であり、サウジアラビアが資金を出し、ヨルダンを経由してシリアに持ち込まれた。の調査によってわかった。

これについてニューヨーク・タイムズなどにより、多くの報道がなされた結果、恐れをなしたクロアチア政府は売却武器が最終的に誰の手に渡ったかという情報を公式記録からすぐに抹消した。

国連の貿易統計によれば、2012年と2013年の2年間に、クロアチアは3600万ドルの武器をヨルダンに売却した。クロアチアの役割が世界的なニュースになると、ヨルダンに代わりサウジアラビアが武器購入を引き受け、2014年以後1億2400万ドルの武器をクロアチアから購入した。

2012年以前クロアチアのヨルダンとサウジアラビアへの武器輸出額は数十万ドルに過ぎなかった。2015年以後クロアチアからサウジへの武器輸出枠は3億200万ドルだった。

 

 

       

写真の男が手にしているのはクロアチア製の手りゅう弾発射機

RBG-6である。彼はコーカサスを拠点にしているイスラム主義グループImarat Kavkazのメンバーである。

手りゅう弾発射機RBG-6と多連装ロケットRAK-12 はシリアで大量に出回っている。これらはユーゴ解体後の1990年代クロアチアで生産されたものである。

===================(OCCRP終了)

 

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ファルーク旅団(ホムス)

2018-01-19 01:14:40 | シリア内戦

ヌスラ戦線を除くイスラム諸派が大同団結しようという試みは2012年秋に始まった。最初に統一戦線を組織したのはスクール・シャムであり、2012年9月「シリア・イスラム解放戦線」が成立した。シリア・イスラム解放戦線は8個のグループで構成されたが、その中で4つのグループが有力である。

①スクール・シャム(イドリブ、アレッポ)

②ファルーク旅団(ホムス)

③リワ・イスラム(ダマスカス)

④タウヒド旅団(アレッポ)

イスラム解放戦線内の主要グループのひとつであるファルーク旅団には話題が多く、ファルーク旅団の元指揮官がシリア軍兵士の心臓を切り取ったことは前々回書いた。

今回はファルーク旅団のメンバーであるクロアチア人医師について書く。ファルーク旅団はホムスを拠点としている。2013年7月12日反対派はホムス市内から一掃され、ファルーク旅団も勢力を縮小したが2014年になっても活動を続けている。

2012年末クロアチアの武器が大量にシリアの反対派に流れた。ファルーク旅団はこれに関っているようである。 

 

=======《クロアチア人医師の役割》=======

Dr Jamal Assad, a gynecologist from Zagreb Croatia, must think drawing blood in Syria is much more important than treating patients in Croatia.         <https://syrianfreepress.wordpress.com/2015/07/30/jihadist-jamal-assad/    

                    the real Syrian Free Press

                                                 2015年7月30日

 

クロアチアのザグレブの産婦人科医はザグレブで治療するより、シリアで人を殺すほうが重要だと考えているようだ。

彼、ジャマル・アサドはファルーク旅団と一緒に写真に写っている。医療器具とは、おさらばしたようです。

 

ジャマル・アサドはアル·ファルーク旅団とともに戦い、ジハードと同じ服を着ています。

彼は何度も旅行し、多くの人々や政府と会っています。これは、シリアの人々を殺害しているテロリスト・グループへの援助を増やすためです。

     

彼はシリア国民を代表していない。彼は反対派であるシリア国民連合のために活動している。反対派はサウジアラビアと米国の産物です。これらのグループの戦闘員はシリア人ではない。

 

2013年のアル・アラビア紙に次のように書かれている。

「クロアチアの首都ザグレブは数か月前から、反政府勢力に送られる武器の中継点となっている。武器の資金は、サウジが出している。この報告はザグレブの地元紙に掲載されたものであり、執筆者は著名なJutarnji List氏である。クロアチア政府はこの話を否定した。

Jutarnji Listの報告は以下のようなものである。

『クロアチアの外交筋によれば、シリアの反乱軍に武器を運ぶため、昨年(2012年)11月から今年2月の間に75の民間輸送機がザグレブ空港から離陸した。これは米国主導のもとに、武器や弾薬の一部3000トンの輸送がトルコとヨルダンの航空貨物会社を利用しておこなわれた。銃、ロケットやグレネードランチャーなどの武器はクロアチアのものである。また英国を含むいくつかの他の欧州諸国出自のものもある。これらの武器はトルコとヨルダンを経由してシリアに入った』」。

クロアチア外務省のバリシック報道官はこの話を否定し、AFPに語った。

「我が国がシリアの反乱軍に武器を売ったり、与えたりすことはない」。

2013年2月末、ニューヨーク・タイムズが次のように書いた。

「サウジアラビアはクロアチアから購入した武器をシリアの反乱軍に送っている。

米国とヨーローッパの政府筋によれば、サウジが資金を出した歩兵用の武器は1990年代のユーゴ内戦時の遺産であり、内戦終了後国連に申告されなかったものである。12月これらの武器がヨルダン経由でシリアの反乱軍に流れ始めた。それ以来武器を積んだ輸送機が何度もクロアチアから飛び立った。積荷は数千のライフル銃や数百の機関銃、などだった。

 

============(real Syrian Free Press終了)

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